ホームシック


「おはよう、和久井君。」
朝八時。
朝倉先生はいつものように家を出る支度を整えている。
ネクタイを締めたシャツはぴしりとアイロンが掛けられていて、このまま上着を羽織ればいつでも外に出て行ける。
譲介が今朝一番の飛行機でバルセロナに発って、彼と顔を合わせる度に険悪な雰囲気になっている某研究者のコーヒーの中に下剤を入れて来るというミッションは、このコーヒーの湯気と共に消えてしまったと思っていいだろう。おそらく。
胸の中で安心の吐息を吐きながら「おはようございます。」と譲介は挨拶を返す。
こちらは、昨日寝る前に着た部屋着のままの姿だ。和久井譲介の第一形態。
「顔を洗って来たらどうだい。」
爽やかな面持ちで苦笑するその姿には、イシさんが作る大学芋の飴の部分のようにしつこく絡んで来た昨日の彼の姿を思い出させるものは何もない。
「とりあえずコーヒーを淹れてしまいます。」
欠伸をしながら返事をする。
三杯掬った粉に湯を注ぐと、抽出されるのはいつもどおりの黒。
朝倉先生がこのところ気に入っているのは、クレオパトラという大層な名の付いた粉で、他とどう違うかと言われたら譲介に言えることは何もないが、香りは良い。
三番目の師匠は、コーヒーを淹れるならなるべく濃くして欲しい、と希望を言うので、同居を始めた頃にあれだけあった袋の中身は、今では大分軽い。底を尽くまでそれほど時間は掛からないだろう。
ストックが切れる前に買い足してから出て行こう、と思いながら、譲介は抽出されたばかりのコーヒーをカップに注ぐ。
朝倉先生が普段好んで使うのは、この白無地の下半分が青と黄色のストライプになったカップだ。内側も白。コーヒーの色が付いたらすぐ分かるから、と彼は言う。
「朝倉先生、どうぞ。」とカップを差し出す。
「ありがとう。和久井君がいなくなると寂しくなるなあ。」
「僕もです。」というと、譲介の三番目の師匠はくすっと笑った。
「君が名残惜しいのは、私じゃなくて、この部屋のコーヒーメーカーと大きな冷蔵庫といつでも食べられるカレーだろう?」
最近はカレーよりピザを食べる方が多いじゃないですか、と譲介は苦笑する。それに、コーヒーメーカーなら大学寮の譲介の部屋にもある。とはいえ。
「先生と週末に飲めなくなるのはちょっと寂しいですね。」
先生が、昨日のように箍の外れた酔い方をすることは殆どない。普段はむしろ明るい酒で、譲介が切りよく腰を上げられるよう、タイミングを見計らっている様子だ。その上――譲介としても、願ったりかなったりなことに――これまでの師匠とまるで違う人柄にも関わらず、相手の自尊心をくすぐる小芝居を嫌がるところは共通していた。
大学の寮は、同じように酒を持ち込んだところで、自分のペースで飲みながら親しい相手と話し込むには向かない場所だ。名前も知らない誰彼が乱入して、どんちゃん騒ぎになるに違いない。
「確かに、出戻った早々に、あの場に酒を持ち込んだらどうなるかは私も分かるよ。……ここは、静かだろう。」
「ええ。」
そして、今の譲介には少し静かすぎるように感じられる。
これがきっと復調のサインなのだ。


譲介が身体に変調を感じたのは、一か月前のことだった。

身体を身綺麗に整えておくのが億劫になった。
いつまで経っても眠くならない。
授業に集中できない。
人の声が五月蠅い。
食欲不振。

唐突に始まったいくつかの事象は、単なる不調、で片付けてしまうには多すぎた。
譲介にとって最悪だったのは、睡眠不足で、全く授業に集中出来ないことだった。相手の言葉を聞き取ろうという気持ちがしぼんでいくと、意思疎通が難しくなってくる。
その時点でK先生にも相談しようと思ったけれど、ここアメリカで自分が頼るべきは誰か、ということは譲介にも分かっている。
この不調がこのまま続いたとしても、今自分が座っている椅子には――これがK先生の人脈上に設けられた特別枠である以上――別の人間が座る可能性は殆どない。そうは言っても、大学で、求められている以上の結果を出さなければ、譲介を推薦してくれたK先生、そして、譲介の渡米を是とした朝倉先生の顔にも泥を塗ることにもなる。
譲介は、とりあえずの体で自分の状況を朝倉先生に相談した。休学すべきでしょうか、という一言を言い出しかねて暗い顔をしている譲介の前で、君はきっとホームシックになってるんだよ、と言われ、目を見開いた。
ホームシック。
そういう言葉が当てはまるのは、つまり十代や二十代前半の留学生であって、家らしい家に生まれて来た人間の特権じゃないかと譲介は思っていた。生まれてこの方、家と言うものがあった試しがない自分がどうしてホームシックだなどと。
動揺する譲介の心情には気づいていただろうけれど、朝倉先生は、何も言わずにこのアパートメントに譲介を連れて来て、広い家族向けフロアの一角を占有する小部屋を、新しい弟子に宛がった。
明らかに子ども部屋になることを想定された大きさの板張りの部屋には、施設に引き取られていた頃と似た畳敷きの一角があった。
青畳の上には、身体に見合った布団。
布団は暖かく柔らかく軽い羽毛布団で、清潔な匂いがした。
そして、譲介一人のものだった。
その事実は、診療所での暮らしよりは、あの人に与えられたマンションでの生活のことを思い出させた。
彼と出会ってから三年と少し。その間、何度か家移りを繰り返してはいたが、譲介がこれまでの記憶にある中では、家と言う概念に最も近い場所だった。
あれらの場所が家だと思えた理由は、個室を宛がわれた場所だったから、という以上に、譲介自身がいつもキリキリと張り詰めていたあの時代に、あの人が帰って来る場所でもあった、という理由が大きい。姿を消してはまた戻って来るような、いつも仕事を優先する忙しい人ではあったけれど。
HouseとHOMEは違う、と誰もが言う。
日本では、それはひとつの言葉で表されるとしても。

エアコンは常に一定にして、灯りは消さないようにと朝倉先生に言われて、譲介は小さな巣の中で毎晩、日本語のポッドキャストを聞きながら眠りに就いた。
食事は、夕食が間に合えば二人でピザを取って済ませた。カレーでなくても構わないと言った途端にピザ一色の食卓である。
ピザは野菜だよ、と朝倉先生は譲介に微笑みかける。学会で症例を説明しているときの穏やかな笑みを顔に浮かべながら。
心の中で百のツッコミを相手に投げかけつつも、口から出るのは「そうなんですね。」というただ一言。そんな体験は、高校時代に卒業してしまった。
「そんなわけないでしょう!」と譲介は叫びながら、忸怩たる思いでギグワーカーであるところの出前業者の電話番号を呼び出し、カレー味に揚げたシュリンプの乗った海鮮サラダを頼み、配達人にはチップを弾んだ。朝倉先生の懐から出る金なので胸の痛みもない。サラダの他には付け合わせのフライドポテトも食べた。
同居開始から二週間経過の後、譲介は、ペパロニピザが好物になっていた。
食欲は戻った。


朝の朝倉先生は、果物とヨーグルトで済ませることが多い。譲介はそれに卵料理とハード系のパンを付け加えた。
同居して、食事を共にすると言うのは、本来、こういう風になるのが自然なのだろう。対等な人間同士の、互いのすり合わせ。
譲介は、自分に合わせてカレーばかりを食べていた人のことを思い出した。
あの頃、一緒に暮らしていた人は、あの人なりの不器用な情を譲介に渡していたのだと思う。それが愛から出たものか、哀れみから出たのかは、もう分からないけれど。
もし、再会できるのなら、いつか聞いてみたい。


ずるずると同居の期間を伸ばしてしまったのは、譲介の手助けを朝倉先生が必要としていたからだった。
丁度バルセロナで予定されていた学会には、朝倉先生が学生時代からの天敵と目している相手が参加することが決まっていて、譲介は、大学とこのアパートメントとの往復を余儀なくされた。
水面下での争い、とでもいうべき朝倉先生の念入りな下準備を手伝わされているうちに、あっという間の半月が過ぎ去っていた。

――助かるよ、和久井君がいると。

毎晩、寝しなに朝倉先生から聞く言葉は、かつて、T村で何度も聞いた言葉だった。
『譲介君がいると助かるよ。』
『やっぱり譲介君でなくては、K先生には電球の付け替えまでは頼めないもの。』
遠く連なる山々のふもとに暮らす人々の口から聞くそれらの言葉は、朝焼けのように明るく光り、譲介の背に翼を生やす。懐かしい顔が思い浮かぶと、もっと頑張らなければ、と譲介は思う。けれど、その思いは、朝倉先生の家に転がり込む前の張り詰めた気持ちとは少し違っていた。



朝倉先生が近くのマーケットで買って来たナッツとレーズン入りのカンパーニュを切ると、譲介はいつも、その断面図の美しさにため息が出そうになる。
この家にあるナイフは、柄の色が赤い小さなナイフだ。それでも、スイス製なだけあって、こちらが驚くほどの切れ味を示す。
譲介は、パンを切ったナイフをそのままバターナイフとして使って、小さなパンにバターとジャムとを塗っていく。
目の前には、タブレット端末を片手にニュースを眺め、譲介の淹れたコーヒーを啜る朝倉先生の姿がある。
暫くの懸念だった睡眠不足も、日に日に解消されていっている。この家に厄介になるのも、今週末までの予定だ。
朝倉先生は優しい人だ、と譲介は思う。
環境の違いに戸惑うこちらに気遣いしてくれるその心に、譲介は助けられた。
譲介は素晴らしい仮住まいをいつものように見渡しながら、自分の部屋が持てるようになったら、こんな部屋にしよう、と思う。
白が基調になった明るい部屋に、葉の大きな観葉植物を配置して、革張りになっているよりもずっと寛げるソファを置く。
物が少なくて、風通しが良くて気持ちがいい部屋。

――本当に物が少なくていいのか、譲介。どれだけあの部屋と違う場所にしたところで、あの人なら夜逃げがしやすくなったな、って言うだけだぞ。

高校生の頃の自分の顔をした悪魔が唐突に、そんな風に耳元に囁きかけて来た。
クソっ。
渡米前に手紙を上げた恩人は、いまや、譲介にとっては、名前を言ってはならないあの人、とか、そういう存在になりかけていた。今回の、朝倉先生との同居がトリガーとなったのか、考えないようにしようとすればするほど、考えずにはいられないのだ。
自分でも、そんな都合のいい話があるわけがないと思いながらも、短かったこの二週間が、もっと難物な、手の掛かる人との同居の前準備となりそうな、そんな気がしていた。
もし一緒に暮らすのなら、絶対に朝倉先生のような人を選ぶ方が楽だ。互いにぶつかることなく暮らしていけるだろう。そのことは譲介も分かっている。それでも、譲介が心の中に思い描く新しい「家」に一番先に住まわせたのは、あの人だった。
譲介がバリバリとカンパーニュを齧ると「難しい顔をして、どうかした?」と先生は首を傾げた。
「あ、いえ、締め切りが近い論文のことを思い出してしまって。」
「すまないね、こっちの仕事も手伝って貰ってるのに。」
とっさの嘘に、朝倉先生が困った顔をしている。
朝倉先生の学会の準備には、講義外の仕事でも、学校指定、あるいは生徒自身の申告によって認められたボランティア活動であればおのずから付いてくるはずの単位として代替される加点もない。大学の運営については、クエイド氏の方針で財団本部からは締め切りや成績について嘴を挟めないようになっているからだ。
つまり、譲介の労働は、有体に言えばただ働きだ。
それでも、この人を自らの三番目の師として付いていくことを決めたのだから、苦には感じない。むしろ、やりがいを感じている。
「和久井君がいなくなったら、このコーヒーが飲めなくなるのか。」
さして残念そうでもなく、朝倉先生が言った。
この人と僕とは、またいつでも会える。それこそ、今日のランチにでも。
「もし先生さえ良ければ、またコーヒーを淹れに来ます。……それから、先生、僕のことは譲介で構いませんよ。村にいた頃はずっとそうでしたし、下の名前で呼ばれる方が、耳馴染みが良いので。」
「譲介くんか。そういえば、村にいた頃、君のことは皆名前で呼んでいたな。」
「先生、」
「君はいつか、ドクター和久井になる人だ。学生だからって、呼び捨てにはしないよ。」といつもの顔で微笑んでいる。
「いえ、そろそろ出かける時間ではないかと。」
大丈夫なんですか、と言って譲介は壁掛けの時計を指さした。
「あれ、もうそんな時間かい?」
朝倉先生は、驚いた様子で手首にある自分の手元の時計を見る。スマートウォッチにして、自分からビックデータを収集されるモルモットになるなんてまっぴらだ、必要なら、クエイドの内部で完結するように開発させるから、と言って、彼は昔ながらのオメガを使っているが、今日はそれが裏目に出た形だ。
「財布と車の鍵を忘れないようにしてくださいね。」
「分かったよ。」
そう言って、朝倉先生は風のように部屋を出て行った。
その背中を、譲介は見つめる。
そろそろ大学に行かなくては。
さァて、と寮に戻る準備のつもりで大きく伸びをする。
ホームシックの時間は、もう終わりだ。
譲介は、食べ終わった皿を片付けると、出しっぱなしにしていた赤い柄のナイフを、在るべき場所に仕舞い直した。

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