春に



「今日は草餅だ。」と言ってイシさんが調理場から持って来たお盆の上には、手作りの丸餅が行儀よく並んでいる皿と、人数分のお茶が入った茶碗があった。
診療所の、いつものおやつの風景だ。
先生の机にいくつかの領収書を並べて、メモ書きや収支の計算をしていた麻上さんがぱっと顔を上げた。
「わあ、これを食べると五月が来たって感じがするんですよね!」
いつもの笑顔を浮かべ、手にしているシャープペンシルを放り出さん勢いだ。さっそく水屋で手を洗って来ます、と彼女は席を立った。
「ほれ、おめぇも休憩だ、譲。」
こう何度も呼ばれると、いちいち譲介です、と訂正するのも面倒になってきた。
「はい。」と返事をして、譲介は差し出された茶碗に手を伸ばす。
豚肉の下味に付ける塩のように、料理の手数には惜しみなく力を注ぐイシさんは、手術室と調理場という仕事の場からちょっと離れた途端に、ふつうのおばあちゃんのような顔をする。まあ、呼び間違いというよりは愛称のようなものなのかもしれないし、これまでに、イシさんの知ってる別の「譲介」がいた可能性もある。そもそも、先生も麻上さんも村井さんも、ちゃんと僕の名前を憶えて呼んでくれているのだな、と改めて有難いような気持ちになったし、イシさんに名前を呼んでもらえるようになったこと自体は、譲介にとっては一歩前進だった。
目の前の草餅。
ほうじ茶は、冬と同じように暖かいけれど、その湯気は、薄く見えづらくなっている。
春か、と譲介は思い、顔を上げ、草木の芽吹く診療所の窓の外を眺める。



N県の山懐にあるT村では、春が来た、と言葉にはいくつかの段階がある。
二月の明るく晴れた日には、雪解けの水がちょろちょろと山道の脇の傾斜を流れるところを眺め、三月には名残の雪が降る。四月の入学式の頃に掛けて、やっと桜が三分咲きを迎えるような土地だった。
花開く前のふきのとう味噌、タラの芽の天ぷらにこごみの胡麻和えといった山菜の料理。イシさんの食卓には、春が来ることを待ち望みながら人が暮らしていた頃の習慣が息づいている。
二月に梅が咲き、三月半ばに桜が咲くことがニュースになるような関東で長く暮らして来た譲介には、三月に入れば春到来、というイメージが頭の中にある。
けれど、この村の中で水ぬるむ春を実感するのは、四、五月になっての話だ。
蓬が道端に生えるような季節には、巷ではゴールデンウイークと呼ばれる農繫期がやってくる。皆せっせと働き、せっせと怪我をするので、診療所は、冬とはまた別の賑やかさになってくるのが困りものだ。
イシさんがご近所に生えている蓬を取って来て、餡子の入った草餅を作るのもこの時期だ。手作りの草餅には、和菓子の店に並んでいるものとは違って焼き印もなく、初めて見たときには宇宙人の食べ物に見えた。見栄えは良くないし、日持ちを考えられて作ったものでもないので甘さは控えめ。中に入っている餡子は、イシさんがその朝に小豆を炊いて作ったものだ。
麻上さんが「いただきます。」と言って食べ始めたので、譲介も明るい翠色をした、丸い餅を頬張る。
蓬の味も、甘すぎない餡子も、美味しいとは思わない。
それでも。
うつろっていくばかりの季節とは別に、イシさんが連れて来る診療所の春だった。
譲介は暖かいほうじ茶で、今年の春を飲み込む。
麻上さんは、もうひとついいですか、と言いながら、二つ目を手に取っている。
「譲介君、そろそろ髪が伸びて来たわね。次の散髪はいつ行くの。」
「そろそろ切った方がいいのは分かってるんですが、」と譲介は言葉を濁す。
冬の間はずっと、道の状況が悪いのもあって、ほとんど切りに行くことを諦めている。そんな言い訳が通用しなくなるのは、春になってからのことだ。
目が隠れるほどの前髪のひとふさを持ち上げると、視界はクリアになる。
麻上さんに、ふさふさとしてきた前髪を合わせてくるりと後ろでまとめて貰うと、ちょうどすっきりするというような具合だったが、箸を使っているということもあって、診療所の部屋で勉強をしているときはともかく、食事のときなど、一人先生に妙な顔をされてしまう。
どうしても伸ばしておきたいという訳ではなかった。
切ってもいいような気がする。でも切らなくてもいいような気がするとも思ってしまうのだ。自分でも、どうしてこんな風なのか。ずっとわだかまる気持ちを心の底で持て余している。
「そういえば、相沢の家の匠から葉書が来てただと?」
「そうなんですよ、K先生に助けていただいたのがご縁で、わざわざ結婚式の招待状が届いて。先生はほとんどお断りされてますけど、年に何度かこういう話が舞い込んで来ますよね。皆さん義理堅いわぁ。北海道とか、湘南とかそこまで遠くに行かなくてもとは思いますけど、先生もたまにはどこかに出かけてもいいと思うんですけどね。」
茶飲み話のネタは、新聞やニュースで報じられる時事問題のほかに、ほとんどイシさんが持って来る村の中の話が多い。
特にゴシップの類ではなく、誰それの家の子が高校進学するので、両親共に駅前の辺りに引っ越して行ってしまったとか、息子が就職した先の同僚と結婚式を挙げたから、そのお宅から東京土産を貰って来たとか、どこそこの畑で新しい作物を植えることになったとか、そういう話が多い。
「譲介君は、どうするの、週末のお出かけ。」
「そうですね、本を買いにいくついでに散髪にも行ってきます。」
「もう春だもの。何かのついででも良いわよ。往診の時は難しいものね。こういう時くらいは、寄り道上等。」と言って麻上さんは譲介の茶碗に、新しいほうじ茶をついだ。
イシさんも、んだ、と言って頷いている。
「イシさんの好きなお煎餅を買って来ますね。」と譲介は言う。
ここで暮らして暫く経つので、もう泉平駅前の周辺は、どこに何があるのか大体分かるようになっている。カレーまんは、この間行った頃にはコンビニではほとんど見かけなくなっていたけれど、今はどうだろう。
「わしならいつでも好きに出かけるわい。」
自分の好きなもんを買ってくりゃいい、と言って、イシさんはからからと笑った。





Fuki Kirisawa 2024.02.23 out

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