タイムマシンとおばけ写真
  
  
    
     たとえばそれは銀色に光る水平線。夏の海に水中眼鏡をつけて入り、小魚を追いかけて泳ぎ回った。ときおり爪先が冷たい水流にふれて驚いた。水の中はあかるくて、底の砂に水面の紋様が落ちて光の網がゆらいでいた。濡れた足に砂をびっしりと貼り付けて砂浜で笑っている少年たち。
 たとえばそれは淡く輝く雲海。春の山に登ると空がとても近くて、遠くの湖や山が見える。真っ白な雲海を見下ろすと、雲のうえを歩いているようで、巨大で底知れない美しいものに近づいたことに畏怖と喜びが走る。雲のなかで舞うように光が砕ける中で笑いあう少女たち。
 どれもなんてことはない風景で、それでも、もし永遠を選ぶならばここでいい、と思う誰かがいてもおかしくはない。そういったささやかな一瞬を切り取った写真だった。
「――おばけ写真」
 由井正雪はテーブルにひろげられた写真を一枚一枚見ていく。撮影したのが古いフィルムカメラだったからか、写真には撮影された日の年月日が淡く印字されている。そうはいっても、月日はともかくとして今が何年かというのは少しばかり数え方が難しいのだけれども、とりあえずの数字が刻まれている。
 最後の写真には宮本伊織が写っていた。食堂の椅子に腰掛けた彼が、カメラを見つめて笑おうとしている寸前みたいな曖昧な表情をしている。よく磨かれた白いテーブルは鏡のように三脚に固定されたカメラを写している。そこに撮影者の姿はなく、この写真がタイマー機能で撮られたセルフ・ポートレートだとわかる。
 写真の中にいる伊織と目があう。
「自撮り、だねぇ」
 正雪の手の中の写真を見て、マスターの少女がつぶやく。伸びた語尾に乗せられた感情には隠しきれない困惑があった。
「ゲオルギウス先生のカメラだよね?」
 尋ねられて頷く。守護聖人ゲオルギウスはカメラがお気に入りで、冒険の旅のあちこちで写真撮影をしている。いくつか所持しているらしきカメラのうちのひとつを貸し出して、写真撮影の楽しみを教えてくれることもある。季節の祝祭や節目の宴などのイベントでは、記念撮影をしたがる者が多く、貸し出しカメラは大人気だった。
 だから、宮本伊織が自身の写真を撮ること自体はおかしくはない。構図はおもしろみがないし、表情はあいまいだし、撮影場所も食堂だけれども。
 けれども、写真の端には朝の月のような色のデジタル数字で日付が刻まれている。
「十月の末日かあ……」
「十月の末日だな……」
 マスターは首をひねる。正雪は彼女の部屋の時計を見つめる。デジタル数字で現在時刻と仮初めの年月日が表示されている。
 十月二十一日
 ということは、つまり――。
 この写真が撮られたのは、今から十日後になる。
 未来日付の写真を見下ろし、マスターは腕組みをして軽く唇を噛む。顔を上げて時計の表示を見る。それを繰り返す。
「マスター、過去にこういったことは?」
 未来からやってきたらしき写真を部屋の天井照明にかざすようにする。あいまいな微笑みの男が、淡く光っている。そもそも、これはどういった表情なのだろう。カメラを前にして微笑もうとして、照れてしまって頬がついていかなかったような半端な笑みだった。
「ちょっと記憶にないですね、デロリアンが到着したのかも」
「デロリアン?」
「そういう映画があるんですよ。タイムマシンで時間を越えるんだけど、そのマシンのベースになっているのがデロリアンっていう車で。バック・トゥ・ザ・フューチャーの二作目で、デロリアンがタイムトラベルして到着するのが十月二十一日」
 映画では未来にいくんですけどね、と言い足す少女に、正雪は軽く頷いた。なるほど今日は時間旅行の到着地点となる日なのか。でもそれ、映画の話だよね。
「おばけ写真」
 まちがって飴玉が口から零れてしまったように、マスターがつぶやく。たしかに、写るはずのないものが写る心霊写真とは違う。ここに写っているのは、不思議なものはなにひとつない。宮本伊織はいまはサーヴァントなのだから、厳密にいうならば死者が写っているともいえるが、このカルデアにおいてサーヴァントが撮影した自撮り写真としてはおかしなものではない。
「存在しないはずの写真、か……」
 たとえるならば、それは、おばけといえるのではないか。
 ゲオルギウスの貸し出し用カメラはフィルムがセットされたコンパクトカメラだった。借りてきたのはマスターで、いくつかの別れを経験した彼女は何気ない日常の風景を撮りたくなったという。その気持ちは、正雪にも少しわかる。どこにも物語を含まない、目を閉じたらもう思い描くことができないような、あたりまえの景色。瞼の裏にも残らないそれらを愛おしく思うようになった、いくつかの別離。写真は、記憶よりは少しだけ長持ちする。手のひらほどの装置でそれが消え去るのをわずかにでも遅らせることができるならば、という願い未満の思い。
 そうやってありふれた風景を撮影していたら、フィルムを使い切ってしまった。マスターはゲオルギウスに教わりながら、露光しないように慎重にフィルムを巻いて取り出した。ゲオルギウスは新しいフィルムをセットして、フィルムの現像もしてくれた。
 貸し出し用のカメラに収められているのは、複数人の撮影者による写真だった。ネガとプリントを受け取り、部屋で貸出日と撮影者の名が記載された台帳を広げる。マスターはそれぞれを撮影者に渡すために写真の端に刻まれた日付と台帳を照合していた。ときどき台帳の記載漏れがあって、撮影者がわからない写真は写っている人や物から推測していくしかない。そこに正雪が依頼されていたレポートのための参考資料をもってやって来た。それならば、分類を手伝おうと写真を一枚ずつ写真をならべていく。日付通りに。
 そこに現れたのが、宮本伊織のおばけ写真だった。貸し出し台帳には伊織の名前はあったが、貸出日がしらじらしく空欄になっている。
「マスター、こうやってフィルムに日付を印字するのは、あなたの時代では当たり前のことなのかな?」
「うーん、これはちょっとだけ古いかもです」
 カメラには詳しくないので、と言って、情報端末を操作する。あいまいな知識を補助するための情報を検索した。
「これかな、デイト機能」
「ああ、日付の印字についてのようだ」
 画面に表示されたカメラの説明を読む。正雪の瞳に青っぽい光が映った。
 フィルムに日付を印字するのは、デイト機能という。古すぎるフィルムカメラには機能がついていないし、時代が下がればカメラ自体がデジタルに取って代わられる。年若い少女であるマスターにとっては古いけれど、いまではあえてデジタル写真に日付を印字させることでクラシックな演出とすることもあるらしい。
「ゲオルギウス先生がよく使っているカメラは、なんかもっとすごいやつですよね」
「銀色の小鳥のようで美しい写真機だったはず」
 いくつか所持するカメラの中で、貸し出し用のコンパクトカメラは無骨な作りではあるが頑丈で扱いやすい。初心者でも扱いやすいし、カメラに触れてみたいだけという者にとっても安心して扱える。貸し出す側としても、少しのレクチャーで撮影を楽しんでもらえる。
「おばけ写真の日付は、なにか霊基異常みたいなものかな?」
「そんな大袈裟なことではないと思うよ、マスター」
 正雪は端末を操作して、フィルムカメラについての解説ページを開く。
「時計と一緒で、ひとの手で日付設定を操作できるようだ。日付はフィルムに焼き付けられているので後から変えることはできないけれど、あらかじめ日付設定を変更しておくことはできる」
 デジタル時計の設定を変更するのとおなじだった。カメラについているボタンを押して、かちかちと操作すればいい。
「なあんだ、おばけ写真じゃなくて、撮る前にイオリンが日付を設定したってことね」
 マスターは解決したというように安堵の息を吐くが、正雪は軽く首を傾げる。伊織がわざわざ日付をずらした意図がわからない。もしかしたら彼が借りる前にすでにずれていて、それに気づかずに写真を撮ったのかもしれないが、それでもわずかな違和感が残る。
 そもそも、セルフ・ポートレートを撮ったのはなぜだろうか。自分自身を撮影すること自体はおかしいことではないが、正雪の知る彼の行動としてはどこか不自然な気がする。
「いやでも、自撮りくらいするか……な?」
 思わず声に出してしまう。自撮りする宮本伊織。それに違和感を抱くのは自分だけだろうかと正雪は額に薄くしわをつくる。
 宮本伊織がカルデアで大きな騒動に巻き込まれたことはない。彼自身が事件の中心や原因となったこともなく、記憶の欠落のためかどちらかといえば何事にも控えめに、しかし卑屈になることなく居心地良さそうに過ごしている。というのが、正雪の印象だった。賑わいの中心に立つことはないが、度を超えない範囲ですべての人に親切な態度で接していた。他の人たちの話をよく聞き、よほどのことがない限りは自分から誰かに声をかけることはないが、誰かが声をかけてくれば気さくに明朗に応える。意味なく大袈裟に騒ぐことはないが、妙に無関心で場をしらけさせたりもなかった。
 無難、という言葉が頭をよぎり、せめてもう少し柔らかな表現はないかと正雪は、む、と唇を閉じる。伊織は穏やかで堅実で、寡黙といえば恰好良いが、正雪はどうしてもそこにうっすらと冷ややかさを透かし見てしまう。
 写真撮影はひとつの自己表現であり、芸術だと思う。いまテーブルに広がっている写真はどれもカルデアでの記録ではあるが、誰かの頭の中の空想ではなく、たしかにかつて存在して、いまもまだここに留まるひとやものの痕跡だ。美しくなくても、存在したことを示すものは表現だろうし、芸術だろう。
「伊織殿が、自撮り……」
 似合わない、としか思えない自分は薄情で見方が偏っているのだろうか。
「ちょっと子鹿! 見てちょうだい!」
 マスターの部屋の扉が開く。自動扉の開閉は定められた動きのはずなのに、どうしてか勢いよく扉が開いた気がした。傷口から吹き出す寸前の血のような、鮮やかな桃色の髪の少女が部屋に駆け込んでくる。
「エリちゃん、その恰好どうしたの?」
 一流アイドルを自称する超多芸サーヴァントであるエリザベートは、しょっちゅう衣装を変えたり分裂したり忙しいが、今日は古代ギリシャ風の髪紐と花冠、孔雀の羽で髪を結い飾っている。しかし服装はデニムの長ズボンに長袖シャツ、長靴をはき、首からタオルをかけ、手には軍手がついている。首から上と下がちぐはぐで、視界がやかましい。
「ふふふ、驚いた? 今年のアタシはエリザベート・アグリカルネサンス・バートリーよ!」
「なんか混ざってるね……」
 そっと部屋を抜け出そうとした正雪の服の裾を、マスターが掴む。ひとりにしないで、という主人の痛切な願いに項垂れる。巻き込まれたくはないのだけど。
「あぐりか、るねさんす……農業と文芸復興の合体ということかな?」
 マスターを守るつもりで正雪は相槌代わりに問う。エリザベートはぱっと表情を明るく輝かせた。
「あら、ウサ子にはわかるのね!」
「ウサ子って私のこと?」
「今年のアタシは領民と共に汗をかこうという趣向なの。秋といえば美食と芸術でしょう? どちらも同時に満たして最高なパフォーマンスを魅せるわ!」
「なるほど、つまり農芸復興をテーマとしている、と」
「そう! そうなの! ウサ子ってなかなかセンスがいいじゃない!」
 そのセンス、よくていいのかな。血の巡りが悪くなりそうな空気のなかで、マスターがひきつった笑みを浮かべているのが見える。どうかしら子鹿、と可愛らしくポーズをとるエリザベートに、とっても似合うよ、と笑いかけるマスターは立派だと思う。
「それじゃあ、ライブには絶対に来てね!」
 話したいことをほとんど一方的に話して、エリザベートは嵐のように部屋を去っていく。彼女がいなくなっても、明るく高い声がしばらく耳に残っていた。
「すごかったね、エリちゃん」
「ああ、すごかった」
 もうそれ以外の語彙がない。多趣味で常に積極的なエリザベートは時に悪気なく大きな事件を起こし、そうでなくても賑やかでいつも話題の中心にいる。正雪からすると、伊織とちょうど真逆に感じる性質だ。マスターがいうには、夜が深くなる秋のまんなかになると何故か霊基が分裂して大騒動を起こすらしい。
「今年もたぶん、すっごいことが起きると思うから準備しないと……」
 マスターが諦念を宿した瞳でまっすぐに時計に表示された日付を見つめている。歴戦のつわものが纏う独特の鋭い空気があった。それでいいのだろうか、と思っている正雪に、マスターが一枚の写真を差し出す。伊織が写っているおばけ写真だ。顔を上げると、マスターと目が合った。
「これ、正雪先生からイオリンに渡しておいてくれませんか? ちょっと私はこれからマシュと準備というか覚悟というか、そういうのがあるので」
「ああ、うん、承った」
「ありがとうございます」
 ほとんど自動的に写真を受け取って、軽く挨拶をしてから部屋を出る。廊下を歩いているうちに、なぜ伊織の写真だけ預けられたのだろうかと疑問がわいてきた。貸し出しカメラで撮影された写真はたくさんあって、複数人の撮影者に届ける必要がある。他の人への配達も申し出ればよかったなと思ったが、タイミングを逃してしまったかもしれない。
「さて、伊織殿は、どこにいるかな」
 シミュレーターで稽古に励む姿が思い浮かぶ。正雪は、手にした写真に視線を落とした。食堂で撮影されたセルフ・ポートレートでは、彼はあいまいな笑みにも見えなくはないおかしな表情をしている。日付は、十日後を刻んでいる。
 正雪の足は食堂に向かった。
 おばけ写真は、あり得ないはずの写真ではあるが、あり得ないものが写っているわけでも、あり得ない者が撮影したわけでもない。日付は設定をいじれば変えられるし、撮影者は宮本伊織で間違いないだろう。タイマー機能を使った自撮り写真は、それ自体はおかしなことはない。
 おばけ写真には、伊織しか写っていない。誰かといっしょに記念撮影をしようとか、ためしに通りかかった人を撮影しようといった雰囲気はなかった。カメラを初めてもった伊織が、自分だけを撮影した理由はなんとなく察していた。ゲオルギウスのように積極的に撮影を楽しむ者は、必ず被写体となる人に許可を得ている。軽く一声かけるだけだではあるし、そもそもカメラに収められて困る者はいない。そして、いまの一瞬を、一瞬たりとも残したくないと感じている者にゲオルギウスがカメラを向けることはない。それは彼の思慮深さや経験からくるものであるはずだ。カメラを初めて持ったであろう伊織には難しい。だから一番安全な被写体として自分自身を撮影したのだろう。
 食事時ではないからか、食堂はがらんとしていた。端の方で静かにお茶を飲む人影があり、厨房の奥からは控えめな物音がする。ときには華やかな宴の場ともなるし、大人数を集めた会議室の代わりにもなるが、基本的には食事をする場所だけあって余計なものが無く清潔だった。テーブルはきれいに磨かれて鏡面のように輝き、荷物がちらかっていることはない。日頃はあまり気にしていなかったが、行き届いた清掃もカルデア職員や掃除を引き受けているサーヴァントがいるからこそだ。写真と同じで、存在するものは、痕跡を残す。
「このあたり、かな」
 正雪はちょうど写真が撮影されたと思われる場所を見つけた。いまみたいに、食事時ではない時間帯ならば誰も映り込まずに自分だけを写せるだろう。写真に目を落とす。顔を上げて食堂を見渡す。
 ――違う。
 真実を写すはずの写真と、いま目の前にある風景は違っている。
「……時計がない」
 口に出して言った瞬間、その言葉が呼び水となったように頭の中で星がきらめく。深い夜にちいさく瞬く光を逃さないように目を伏せる。
 食堂にはデジタル時計がある。本来は食事が必要ないサーヴァントには明瞭な空腹がない。魔力の不足がそれに似た感覚ではあるが、カルデアでは電力を魔力変換させて補っているため、食堂にサーヴァントが集うのは娯楽に近い。生きていた頃の習慣をなぞることが霊基の安定に繋がるという説もあるが、誰にでも適用されるものではなさそうだ。だから、食事時であることを示すのは、時計の役割だった。マスターの部屋にあるものと同じ、デジタル数字で現在時刻と仮初めの年月日が表示されている時計が置かれている。
 もしも同じ構図ならば、写真に写る位置に時計は置かれていた。さほど大きなものではないから移動することはできるが、わざわざ動かす者はいないのか、いままで場所が変わったことはない。
「どうして気づかなかったのだろう、日付を示すものを隠していたのか」
 写真には時計が写っていないので、これがいつ撮影したものかわからない。貸し出し台帳にはいくつも記載漏れがあって、伊織がいつカメラを借りたのかはっきりしない。だから手がかりは写真に印字された日付だけとなる。
「しかし、日付は自由に設定できる。だからこれは、実際に撮影した日付と印字された日付が違うことを知ったうえで、誤魔化したのだろう。最初から日付がずれていたわけではない」
 どうしてそんなことを宮本伊織がしたのか。
「アリバイ、というやつかな。不在証明以外には考えられない。この写真をとったのは数日前で、伊織殿は偽の日付を設定して自分自身を撮影し、十月末日に食堂にいたことを証明したかった」
 単純すぎるから、推理小説のトリックにはならないだろう。だからこそれは誰かに見せるためのものではなく、万が一のためのお守りみたいなものだ。
「本来ならばしばらくしてからフィルムは使い切られ、現像されるはずだった。でも予想外にマスターがカメラを借りて、たくさんの写真を撮影した」
 夜が深くなる時期に、傷がうずくように悲しみに引かれたのかもしれない。積もる思い出を振り返ったのかもしれない。変わったものと変わらないものをその手で確かめたくなったのかもしれない。時間旅行の到着地点というのは、そういう時期だろう。タイムマシンが到着する日、予想外におばけ写真は現れた。
「それならば、不在を証明した日に、伊織殿はどこに行くつもりだったのか。……わかりきったことだな」
 エリザベートの楽しそうな声がまだ耳に残っているようだ。ハロウィンの季節にいつも大きな騒動を起こして、カルデアにいるみんながまるでお祭りみたいになる。夜の祝祭が最も獰猛に燃え上がるのは十月の最後の日だった。お祭りの最高潮、呆れながら、疲れながら、うんざりしながら、でもきっとみんな笑っていることがきっと約束されている日。
「わかりきったなぞなぞの答え合わせのようで面映ゆいけれど、どうだろうか、宮本伊織殿?」
 正雪が振り返ると、そこには伊織が立っていた。しっかりと磨かれて鏡のようになっているテーブルには彼の影が映っていた。
「……なにか、言えないような事情、もしくは秘密があったのかな?」
 正雪はおばけ写真を伊織に差し出す。彼は受け取ろうと手を伸ばし、指が触れる寸前で戸惑ったように動きをとめる。
「あー、えーと……正雪、これは……」
「不在証明をしてまでやることといえば、最初に思いつくのは不貞行為だが」
「な、ちがう、なぜそのような、いやこれは……」
「伊織殿らしくない、想像することすら失礼だったと己を恥じたよ。貴殿にはそういったことは似合わない」
 正雪がそう言うと、嫌な疑惑が晴れたからか、伊織はあからさまにほっとした表情を見せる。しかしすぐにまた視線を泳がせた。腹芸が不得手な男が、どうにかして誤魔化せないかと思案しているのが丸わかりなのだが、彼は彼なりに真剣に逃げ道を探している。
「正雪、じ、実は俺はメカイオリンで、ここここっちの写っているのは二号機のほうで、つまり別の霊基であるからして」
「ぜひ紹介していただきたいものだな、メカイオリン二号機」
「すまん、嘘だ、メカではない、だが、ええーと……」
 しどろもどろになる伊織を見上げながら、正雪は、あれ、と思った。
 おばけ写真がアリバイのためにあるのだろうというのは、食堂に来てはっきりとわかった。秋の祝祭のクライマックスの場に彼は行きたいけれども、それをどうしてかあまり知られたくない。きっとお祭りにはしゃぐ姿が恥ずかしいからだろうと、正雪は想像していた。穏やかで堅実なイメージを伊織に抱いている人はたくさんいて、彼にもそれに応えるように振る舞うちょっと融通のきかないところがある。ちょっとようすのおかしい祭りのなかで馬鹿騒ぎに混じるのは恥ずかしく、酔いがさめた後から、そんなことはしていませんと示すための写真をお守りにしたかったのだろう。
 でも、ここまで必死に隠すようなことだろうか。いつもの伊織ならば、少し照れながら「実は祭りに参加したかったのだ」と正雪にくらい教えてくれそうだし、正雪だってそれを嗤ったりはしない。なんとなく、それくらいの気持ちのやりとりはできているつもりだし、彼がちょっと格好良く振る舞いたがることは理解しているつもりだった。誰にだってよそ行きの姿があって当たり前で、そういうなかで伊織が正雪に見せるのは、どちらかというと内向きなものであったし、そのことをひそかに嬉しく思ってもいた。
「伊織殿、なにかもめごとにでも巻き込まれているのか? 闇バイトとか……」
「い、いや、ぜんぜんまったく、そんなことはにゃ(噛んだ)、ない」
「嘘検定五級不合格くらい?」
「そんなものがあるのか」
「ないよ」
「……騙したな、由井正雪」
 たのむから騙されないで欲しい。正雪は額に手をあてる。不貞行為ではないにしろ、これはもしかしてひどく恥ずべきことを企てているのではないか。そう思っただけで胸の奥がどんよりと曇って胃の辺りが重くなっていく。
 穏やかで堅実。大騒ぎはせずに、冬を耐えて、春が来て、夏が終わって、秋を過ぎれば、また冬が巡るように、その繰り返しを静かに見つめるような感覚で過ごしているのだと思っていた。陽光のような大きな情熱よりも、どこか冷ややかなほどに静かな月のような人だと。それこそ、祝祭の不在証明を写すような男だと思っていた。
「深くは尋ねるつもりがなかったが、伊織殿、なにか良からぬたくらみごとに関わっているのならば、私はカルデアのサーヴァントとして貴殿を――」
「ああ、ここにいましたか」
 低く穏やかな声に振り返ると、そこにはゲオルギウスがいた。高潔な騎士らしく背筋がきれいに伸びていて、それに相応しいよく通る楽器のような声だ。いつもの温和で優しい笑みでゲオルギウスは伊織に小さな箱を差し出す。
「調整はできていますよ、すぐにでも使えます。なにかわからないことがあったら……おや?」
 箱を受け取った伊織は頬を引きつらせて、視線をあちこちにさまよわせている。ゲオルギウスは落ち着きのない様子の伊織を見て、それから正雪を静かに見つめ、また伊織に視線を戻す。そうして、聖人というよりも悪戯な男の子のような笑みを浮かべた。
「ははははは、私のいった通りになりましたね。ですから、最初からすべて打ち明けていた方がよかったのですよ」
 いたずらっ子同士のめくばせのように、聖人は伊織に目で合図をして、それから正雪にウインクをして見せた。なんのことだろうかと戸惑う正雪と、ひたすら固い動きの伊織に手を振って食堂を出て行く。
「……伊織殿、その箱は?」
 ゲオルギウスが関わるのならば、不貞行為でもひどく悪辣な企てごとでもないだろうが、伊織が隠れてなにかしでかそうとしていたことは明らかだ。不在証明の意図がわからない。
 伊織はゆっくり瞼を閉じて、長く息を吐く。まるで腹でも切るかのように、手の中のひとかかえの箱の蓋を開けた。
「写真機を借りた」
 伊織の持つ箱の中には、眠る銀の鳥のような美しいカメラが収まっている。一目見て、古いカメラだと思った。いつもの貸し出し用のコンパクトカメラではない。ところどころに傷や擦れた跡があって、それが長く使われてきた時間を感じさせる銀のカメラ。ゲオルギウスの愛機だった。
「これは、とても良いものなのでは……?」
 正雪は写真機のことはまったくわからないが、大事にされてきた道具がもつ美しさは知っている。ゲオルギウスが何台かカメラを所持していることは知っているし、貸し出してくれることも把握しているが、それにしてもこの銀の鳥は特別なものだろう。
「格好良いよな、どうしても一度だけこの写真機で、一枚でいいから撮りたいものがあると頭を下げた」
「撮りたいもの?」
 問いかけに、伊織はしばらくなにも返さなかった。まるで自分の内側にある深い夜を見つめているかのようだった。濡れた夜色の瞳に正雪が映る。
「どうやら記憶よりは、写真は長持ちするようだから」
 まるでなじみ深い傷の形を確かめるように、伊織はつぶやく。
 カルデアでの宮本伊織は親切で穏やかで面倒見がいいが、考えがわかりにくい男だった。向き合って話していても、常にからだが半歩分だけ別の世界に沈んでいるような気がした。誰に対しても気さくで丁寧な一方で、距離をとりたがっているように思えるときもある。だからこそ、こうやって彼の中の深いところから言葉を探しているのを邪魔したくなかった。
「悪いことだとわかっていたから、祭りの日付で写真を撮っておいた。写真機を持っていたところを見られても誤魔化せると思ったし、そもそも祭りに参加していなかったと言い張れるかと」
 姑息だな、と自嘲する彼は、話し続けようとして、でも言葉に詰まった。嘘をついたり意図をぼかしたりすることが難しいようだった。言いたくない。言ってしまいたい。相反する情動が彼の中でぐるぐると混ざっている。
 悪いことなんだ、と小さな子供がお菓子を盗んだことを告白するように伊織は言った。
「伊織、伊織殿」
 正雪は箱を抱える伊織の手に、そっと自分の手を重ねた。そうしてから、こんな慈しむような仕草をしたのはいつ以来だっただろうと思う。別に、この動作が彼の心に届いているとは信じていない。ただ、たった一枚だけでいいから記憶よりも長持ちする写真を得たいと思った彼が、うまくいけばいい、と思う。それが正雪にはよくわからない悪いことであっても、うまくいって楽になるといい、と。
「教えて欲しい。私はあなたを裁かない。もしもそれが罪深いことならば、よい道をつくり進もう」
「正雪」
 慣れ親しんだ宵闇のように、虚しさが滲むのにひどく落ち着く声だった。正雪は、半歩前に進む。冷え冷えとした彼の夜のなかを掻き分けて、朽ちた階段を降りるように。
「どうか教えて欲しい、宮本伊織が撮りたい一枚はなんだったのか」
「正雪」
「うん」
「え、だから」
「は?」
「だから、正雪」
「…………は?」
 食堂の片隅で、伊織と正雪はぽかんと口をあけて向かい合っていた。彼の手には特別な写真機があって、彼女の手は彼の手に重なったままだった。罪の告白があった気がする。なんだっけ。そうだ、彼が日付を偽装してまで撮りたかった特別な一枚についてだった。
「よく、わからないのだけど」
 そういった自分の声が震えていることに正雪は気づいていた。どうしてだろう、自分を混乱させているのは目の前の男なのに、助けて欲しいと心のどこかで思っている。完全にエラーだろう。よくわからない、ともう一度言った。きちんと発声できたかは自信がなかった。
「俺は、正雪が撮りたかった」
 そういった伊織は、なぜかおかしげに笑い出した。彼の瞳が明るく透けて光る。重い荷物をおろしたように両肩を軽くあげる。気どった仕草だなと思った。
「ああ、言ってしまったな」
 伊織はそう言って、小さな花がぽつぽつと彼の内部の夜で咲くように柔らかく笑った。言葉がゆっくりと体の内側に染みこんできて、正雪は再び「はい?」と間の抜けた声を出した。
 アリバイまで用意して、撮りたかった特別で大切な一枚。
「それは、つまり、私を盗み撮りするつもりだった、という?」
「そういうことになる」
「良くないことでは?」
「そうだな、共に更生の道を歩んで欲しい」
 たとえばよく日のあたる海のように、たとえば雲海ひかるの山のように、永遠を選ぶならばこれでいいと思える一瞬がある。でもすぐに薄れて忘れて消えることがわかっているから、せめてわずかだけでも長持ちするように写真を撮る。なにもかもなくしても残って欲しいと願ったことだけは消えない。他愛なくて美しいもの。
「正雪の写真を俺が撮りたかった。どれだけ下手でも、この手で欲しかった」
 軽やかに笑う伊織を正雪は睨むようにして見上げた。いい話にしようとしてるだろう、この男。
「それならそうと言ってくれれば」
「言ったら、撮らせてくれない気がしたが」
「そうだが? だからって勝手に撮る気だったというのは、どういう」
「このとおり、反省中だ」
 伊織はカメラの箱を閉じて、ぎゅっと胸元に抱き寄せるようにする。いますぐ返却するつもりはないし、ましてや正雪にこれ以上明かすことなどないというようだった。
 間違っていたのかもしれない、と正雪は唇を強く噛む。宮本伊織はカルデアでは穏やかで堅実。無難といえるほどに人との距離を一定に保ち、大きな騒ぎは起こさない。行き届いた清潔な光のようなひと。間違っていたのかもしれない。実際の彼は、勝手に写真をとるために写真を時間旅行に送ったのだ。くわだてが暴かれたのは偶然で、今日というタイムマシンが到着する日に正雪がおばけ写真に気がつかなければ、何食わぬ顔で彼は特別な一枚をひそかに手にしていただろう。
「間違っていても、いい、と思った」
 まるで自分の内にある深い夜に告げるように、伊織が言った。間違っていてもかまわないと思うような、欲しいもの。残したい、またたきのような一瞬。
 正雪は静かに伊織を見つめた。
「好きにしていいよ」
 自分の口から出た促しに少し驚く。そうか、好きにしてほしかったのか。正しくあってもいいし、間違っていてもいい。どっちにしても、彼が残したいと思った真実の痕跡はこの世界にあるから。
 伊織は正雪を見つめ返した。
「わかった、好きにさせてもらう」
 そう、言った。正雪は頷く。笑みがこぼれた。
 急に、おなかがすいた気がした。食堂のメニュー表には本日のおすすめとして中華料理がいくつか書かれている。
「まだ少し早いが、どうだ?」
 伊織も同じ気持ちらしく、厨房のほうを指さす。五目あんかけ焼きそば、この前うまかった、と彼が呟く。松笠切りにしてふわりとひらいたイカ、肉厚のきくらげ、焦げ目のついた麺。そこにたっぷりと辛子をまぶして、あんの甘塩っぱさとの調和と刺激を楽しむ。
 彼には振り回されてしまったけれど、でも、いい。うまくいって欲しいと思ったのは本当だから、それでいい。
「おいしそう」
 と、言い終わらなかった。けたたましい警報が鳴り響き、赤色灯が焚かれた火のように輝く。警報が鳴り終わるとすぐに司令室からのアナウンスが入った。でも、言い始めるまえに何があったかはだいたい予想している。タイムマシンはないけれど、たぶん、きっと、今年も祝祭が始まった。特異点を観測、チェイテハンギングガーデンピラミッド姫路城が内部観測されている。ちょっと増えている気がする。
「ああ、始まってしまった……」
 正雪はため息をつく。伊織はカメラを抱え直した。
 いいよ、全部終わったら、文句のひとつでも言えたらいい。そしていつか特別な一枚をこちらからも撮り返してやる。そうしたら、彼はどんな顔をするだろう。
おわり
  
  
  
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