寝取られ希望の男

 最近、この九龍城砦に流れ者が一人、舞い込んできた。
 名前は陳洛軍。坊主頭に無精ひげ、肌は浅黒く服は薄汚れている。
 見た目からして分かりやすい、いかにもな流れ者。肌の日焼け具合やこの辺りのことに不慣れな様子からして、他国からの移民であろうことは想像に難くない。さらにいえば密航してきた可能性が大きい。ここに住み着くメリットは、身分証無しでも仕事があって生活できる部分ところだ。なんせ管理しているのが黒社会なのだから。警察だって黙認している。彼らもわざわざここに入り込んできて、横暴な振る舞いを見せにはこない。表の通りを歩くより、ずっとここの中の方が治安もいいし安全だ。欠点と言えばゴミや汚水から放たれる悪臭か。でもこれも慣れてしまえばどうということはない。否、ゴミ捨て場周辺なんかは臭すぎて流石に住民だって鼻をつまむ。
 ともかく、こんな場所であるからこそ、訳ありの流れ者の一人や二人増えたところで驚きなんか全くない。よくいる流れ者の一人だ。いつの間にか居着いて気付いた頃にはいなくなっている。それがいつものことであるから、この男もそのうちいなくなる。住民たちにとってはよくある日常の一コマでしかなく、彼はきっと誰の記憶にも残りはしないだろう。

 と、思っていた自分はなんとも人を見る目がなさ過ぎた。

「灯油とそれから弁当だ」
「ありがとう。二つ一緒に持ってきてもらって申し訳ない」
 戸を開けると、陳洛軍が立っていた。
 彼は灯油缶を横に置き、弁当を手渡してくれた。温かい。できてすぐに持ってきてくれたのだろう。礼を言えば彼は控えめに微笑むと首を振った。洛軍はあまり言葉を口にしないが、無愛想なのではなくただ口下手なだけであるということは、住人たちの間でちゃんと認識されるようになっていた。
 一時的な存在だろうと思っていた闖入者の陳洛軍は、その予想に反してすっかり城砦に馴染み、住民たちから信頼されるようになっていた。
 当初の騒動から、気が短く粗野で暴力的な男だろうと思っていたが、洛軍はあの騒動以来揉め事は一切起こしていなかった。むしろ仕事に対しては真面目で勤勉、丁寧だという評判だ。気難しさに定評がある叉焼ダレのオヤジさんですら「覚えは遅いが根性はある」と褒めていたと聞いた。
 ここ九龍城砦は龍捲風率いる黒社会が管理している、とはいっても住民の大半はごく普通の一般人で、むしろ暴力の類など忌み嫌っているものがほとんどだ。オヤジさんに怒鳴られても悪態をついたり手が出ることなく、誠実に仕事に取り組む姿に好感を覚えるのは自然な流れかもしれない。
 かくいう自分も彼が配達してくれるようになってからというもの、はじめこそ警戒していたものの今ではすっかり顔なじみとなり、実は以前よりも弁当の配達依頼を増やしていたりするのだ。その分当然ながら出費が増えたため仕事を増やして馬車馬の如く働かざるを得なくなったが、後悔はしていないし、今のところ弁当代を節約するつもりはない。
 なぜなら、城砦の一住民でしかない自分にとって、洛軍と接触できる機会はこの弁当や灯油の配達時しかないのだから。
 厳つく暴力的で薄汚れた密航者の陳洛軍。それが伝え聞いた騒動と顔を見たときに抱いた第一印象。
 しかし顔を合わせるようになり声を交わしその表情を見ていくうちに、その印象は変わっていった。
 よく見れば顔のラインは曲線的で瞳は大きく、笑うと目尻が下がりとても柔らかく穏やかな顔つきであることが分かる。
 身体も二の腕こそ筋肉が付いてはいるものの、あまり食べていないからか(食事を光酥餅だけですませているところを多数の住民が目撃しているし、自分も見たことがある)全身において筋肉的な厚みをあまり感じない。医者なのに下手な黒社会よりもはるかに屈強な林先生(なぜか診療所には大量のアダルトビデオが置いてあり、四仔と呼ばれている変わり者だ)と比べると、いっそ細いのではと思ってしまうほどだ。
 可憐な顔立ちに華奢な体躯の陳洛軍。その身でどれほど過酷な体験を生き抜いてきたことか。
 自分はいつしか彼のことを考えずにはいられないようになっていた。
「あ、今回の代金を払うよ」
 洛軍が次の配達先に向かおうとしていたので、自分は慌てて財布から金を取り出した。
 差し出された手のひらに紙幣と硬貨を乗せる。この瞬間、いつも自分は緊張する。
 金を渡すという口実で、自分は彼のあたたかな肌に触れるのだ。一瞬だけ。指先で、マメができ厚くなっている指尖球にそっと触れた。この間は母指球だった。働く彼の手は酷使されて傷だらけでどこも皮が硬くなっている。彼の柔らかな部分はどこにあるのだろうか。
「ではまた」
 何事もなかったように彼の手が離れていく。意識はもう次の配達先に向けられて、彼は自分に背を向け去っていった。
 今日も触れられた。次はどこに触れようか。思い切って今度は手の甲にでも触れてみようか。浮き出た血管に触れてみるのもいいかもしれない。
 想像が膨らんで、次なる期待に体の芯が熱を帯び、自身の中心が昂ぶりの兆しを見せ始めた。
 ああ、これは食事の前に処理をしなくては。
 せっかく洛軍があたたかな弁当を届けてくれたというのに申し訳ないとは思うけれど、体は欲望に忠実だ。指先に彼の感触が残っているうちに、と急かし始めてどんどんと大きくなる。
 仕方がないのだ。我慢しすぎてもいいことはない。早く部屋に戻って自身を鎮めなくては。彼を思いながら彼に触れたこの手で。

「なあ、アイツはお触り厳禁なの知ってた?」
 部屋に戻ろうとした自分の背後から不意にかけられた言葉。
 そんなの知らない。初耳だ。
 でも、そんなことはとてもじゃないけど言えやしない。体が固まり振り向けない。まともに言葉を交わしたことはない相手。でも、声だけでこれが誰なのかは嫌でも分かる。ここの住民でこの人を知らないやつなどいやしない。
「そ、そうだったんですか」
 振り絞って声を出す。無視などできない。それが許される相手じゃない。
「あとさ、あんま頻繁に配達頼むのも感心しねえな。ほら、アイツは仕事をいくつも掛け持ちしてるだろ? 負担が増えてるっていうかさ、働かせすぎるのもどうかと思うんだよ。仕事の時間が延びるとそのぶん息抜きの時間も減るんだよ。アイツの自由時間がよ。アンタもずいぶん仕事詰め込んでるみたいだから、その大変さが分かると思うんだけどな」
「あ、そ、その通りですね……はい、今後はちょっと控えようと思い……」
「思い?」
「いいい、いえ、控えます。次からは自分で店まで取りに行きます」
「そうしてくれ。呼び止めて悪かったな。あったかいうちに食えよ」
 その弁当。という言葉と共に肩に手が置かれ、すぐに離れていった。
 遠ざかる足音に遅れて振り向く。路地を曲がる際にパーマのかかった髪が揺れるのが見えた。

 その夜、自分は緩やかなウェーブの髪を持つ男に蹂躙される彼の姿を想像し、己の手の中で果てた。

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