形見
襟首に巻き付く分厚い布を喉元から弛める。繊細な刺繍が施された布地の結び目を解くと、シャツ越しに一気に引き抜いた。衣擦れる音がことさら耳に響くのは常騒がしいはずの砦に静寂が落ちているからだ。
空が白むにはまだ早い未明のことだった。それとて、喧騒に飲み込まれる日も少なくはないと王九はもう知っている。
荒い足取りで脇にあるリクライニングチェアに近付き乱雑に体を預ければ、どっと疲労が落ちてくる。離反し手に入れた九龍城砦統治の座は愉悦を過ぎて倦厭が勝っていた。
照明の眩しさに手をかざすと先ほど引き抜き握りしめたままのネクタイが光を遮り王九の視界を占拠する。それを王九に贈った男はもういない。
「見てくれだけはどんな時も整えろ」との命令を、守った気になり随分経った。
***
果欄の法は大老闆。遵守を誓う若き日の王九が「整えろ」の先、捻る頭で身につけてきた色鮮やかな総柄シャツにこれまた若き日の大老闆は寄せた眉でしばし沈黙、次いで「それがお前の整えるか」と渋面を崩さず口にした。
否と言われなければそれはつまり是であると総柄シャツを揚々と着崩す王九に、後日大老闆はシャツの柄にも負けない派手なネクタイをあつらえた。滑らかな布地は王九の持つどんな衣類よりも上質で、柄に柄がぶつかり合ってもいっそ洒落て見えたのは嘘ではなかった。それでも、口をついて出たのは礼ではなく惑いだった。
「これ、どうやって結ぶんすか」
その途方のないような表情に、大老闆は呆れ混じりに息を吐く。
「お前は本当に……」
そうしてタイを手渡したそばからふんだくる。
「寄越せ。巻いてやる」
無機質なコンクリート壁で覆われた薄暗い根城にいて、ネクタイひとつ手に余らせる王九に大老闆が手ずから結び方を仕込む。女ならばいざ知らず、強面の上司の武骨な指が、高くに据えられた窓から薄く差す陽光に照らされながら喉をすれすれを器用に動く。その様を王九は直立不動、生唾ひとつ飲み込めずにいた。
シュルリシュルリと淀みなく結われていくきらびやかな布が仕上げに王九の首を締め上げる。そのまま息の根すら止められそうで喉がきゅっと狭まった。しかし畏怖に反して指先はさほど執着も見せずに離れていくから、ようやく呼吸を許された心地で王九は控えめに息を吐く。安心ついでに不満も。
「苦し……」
「文句言うんじゃねえ。そよれり、まあまあ見られるじゃねえか」
己の所業に満足げな大老闆を前に、王九は垂れ下がる布を摘んで持ち上げてみる。微かに鼻腔を掠めた香りはいつも隣から漂う紫煙と同じだ。
「なんか首輪みてえすね」
「阿呆か。犬の方が扱い易いわ」
戯れのつもりの言葉は渋面ですげなく返される。
「普段はいい。でもここ一番ではそいつを締めとけ。俺の下にいてみっともねえのは許さねえ」
ぱしんとタイごと王九の胸板を叩いた大老闆は、そうして「次からはてめえで結べよ」と口端をゆっくりと持ち上げた。
結われたタイはその直後の乱闘で乱れ跳ねていっそ邪魔ですらあった。それでも後にも先にも一度きり、大老闆が選び与え自ら結び整えてやったそのネクタイを、王九は身に付け続けた。
***
九龍城砦の新たな頭首はドアの向こう、部下の呼ぶ声に意識が浮上させる。開いた目蓋で横目に見た窓の外の空は白み始めていた。階下から聞こえる喧騒は砦でのいざこざを察して余りある。
依然、手の中で強く握りしめるものがあった。項垂れ落ちる右腕を持ち上げる。手の中に握ったままのネクタイは改めて見ると色褪せていて、古いものから新しいものまで落としきれない赤い染みが所々に落ちている。王九は立ち上がり、手にしたそれを結ぶか迷い、けれど捨て置き新調しておいた白地に金の刺繍を手に取る。
「あんたのいないその先を選んだしな」
美しい刺繍が施されたネクタイを巻く指はあの日の大老闆と同じく淀みなく、シュルリと音を鳴らして首もとを飾り立てる。苦しくはない程度に緩く結ぶも、目にはまだ少し馴染まない。けれどそれもきっと束の間だ。
ドアの向こうでもう一度王九を呼ぶ声がする。声には焦りが含まれている。気怠い色を滲ませながら一声返すと、王九は歩みを進める。さして重たくもない扉を蹴り開かせる。
部屋に残した褪せるネクタイを振り返ることはもうなかった。
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