コーギートーク 前半

 遅めのランチタイム。ガラが病院の休憩室で売店のホットドッグを食べていれば、スマホの通知が立て続けに鳴り響いた。頬張りながらスマホを取って送り主を見れば全てハイドからで、何の用件かと残りを口に押し込んでメッセージを開く。
 今日の夜、コーヒートークで待ち合わせする約束だったから、その件に関する事だろうか。

 ――すまない。トラブルで自宅を留守に出来なくなった。本日のコーヒートークでの待ち合わせは無理だ。家から出られないだけで暇だから、ガラが構わないなら店でゆっくり寛いだ後に私の家に来てくれないだろうか?いや待て、シャイ・アデンが飲みたくなった。あの店の味には敵わないだろうが、ついでに何処かのマーケットでミルクティー用の紅茶を買ってくれ。遅くなっても許そう。それと上等なロゼを手に入れたので、つまみとしてサラミの仕入れを希望する。粗挽きの黒胡椒が望ましい。

 最初はこちらの様子を伺っていたのに途中から決定事項になり、徐々に厚かましくなっていく内容にガラは喉を鳴らして笑った。慌てて詰まりそうになった喉にコーラを流し込む。
 勝手な奴だと思いながらも了承の返信をして、ついでに冒頭のトラブルについて尋ねてみる。すると直ぐに既読がつき、理由という単語と共にファンシーな犬のスタンプが三つ連続で送られて来た。以降、反応が無くなった画面を見詰めて首を傾げる。
「犬……?」
 ハイドの家に犬が居るのか。今の広い新居ならば可能だろうが、これまで犬を飼う話は一度も聞いていない。しかし最近は互いに仕事や身の回りの整理で忙しくて休みが合わず、今夜が二週間ぶりに会う日だった。それでもガラは合間にコーヒートークに来店していたが、ハイドの方は一度もない。
 その間に犬を拾ったか、買ったか、或いは貰ったか。ハイドなら突拍子も無い理由もあり得る。もしかしたらイヌミミ属の可能性も。様々な想像が広がるが夜になれば分かることだとスマホを置いて、ガラは二つ目のホットドックを暫し眺めた後に齧り付いた。休憩が終わる頃、念の為にスマホを開いたが結局ハイドの家に辿り着くまで返事は来なかった。



「ワンッ!ワンッ!」
「……本当に犬が居るとは思わなかったな。冗談じゃなかったのか」
「私を何だと思っていたんだ。ちゃんと説明しただろう」
「あのスタンプだけで説明したとは言わせんぞ」
 要求された案件の品を揃えて早めに部屋を訪問すれば、子犬を両手で抱えたハイドが聊か疲れた顔でガラを出迎えた。腕の中で丸くなっている子犬を見詰めれば、どうやら犬種はコーギーのようだった。毛色はアイボリーとホワイト、その淡い色合いはミルクティーのシャイ・アデンを連想させた。ちょっと毛量が多くてふわふわしているのも良い、長い尻尾がチャーミングだ。
 そんな愛くるしいコーギーは、最初は笑って癒しを振り撒いていたが、ガラを視認すると唸り始めた。盛大な顰めっ面は子犬でありながらも険しく、出合い頭に嫌われたなと苦笑する。
「ヴッウー」
「こらっあまり唸るな。この男は私の恋人で泥棒じゃないぞ。すまない、オスなのもあってか警戒心が強くて吠えやすい子なんだ」
「気にしてない。この様子なら良い番犬になれるさ」
 もう少しで吠えそうなところでハイドが叱ればちゃんとコマンドを理解しているようで、コーギーは大人しく唸るのを止めた。その代わりとしてガラに鋭い目線を送り続けている。確かに警戒心が強い犬らしい。
 ハイドの手が頭を撫でている時だけは笑顔になり、一度でも離れるとガラを威嚇してきて忙しない。その様子が妙に面白くなり、目線を低くして覗き込めば、威嚇しているのに近付いて来るのが怖かったのか、コーギーはハイドの胸元に潜り込んだ。ふさふさの尻尾が縮こまる。
 丸まると子犬特有の柔らかくて細い毛がより際立ち、まるで小さなテディベアだ。
 目配せしてハイドから了承を貰い、軽く撫でると心地よい肌触りに自然と口元が綻ぶ。優しく喉元をくすぐれば猫と同じでコーギーも気持ち良かったらしく、背筋を伸ばして喉を鳴らした。数十秒後、喉をくすぐっているのがハイドではないと気付き、驚いて騙したなとに睨んで来たので惜しみつつも手を離す。
「可愛いな」
「そうだろう?シアトルで最も可愛いコーギーだぞ」
「お前がそういうってことは、相当気に入っているな。何処から貰って来たんだ?」
「その辺の説明は後で話そう。部屋に上がってくれ」
 自慢げに笑って部屋の奥に促すハイドの背を追う。青白い首筋を見ていると揺れる肩から顔を出したコーギーが、ガラに向かって牙を剥き出し始めた。
 そんな子犬の精一杯の威嚇に何処か既視感を覚えて思い巡らせれば、病院の待合室で流れているメロドラマが浮かぶ。主人公が恋人の浮気相手に怒る顔とそっくりだ。つまりコーギーからすれば、自分は愛しき主人を奪おうとする。それは睨まれても仕方ない。
 改めて抱えられているコーギーと視線を合わせて微笑み返すと虚を突かれたように大きくつぶらな瞳が丸くなる。威嚇しても怯まないガラの言動に、牙を収めて分からないと首を傾げた。こちらの様子を伺おうとする姿勢に利発な子犬だと感心する。友好の証として慎重に短い前足を触って握手すれば、今度はガラを見上げるだけで唸ることも怯えることも無かった。
「仲良くなれそうか?」
「どうだろう。威嚇は多少落ち着いたようで嬉しいが、まだまだ警戒されている。これが子猫なら扱いには自信があるんだが」
「もしかしたらガラのことを自分より大きい犬かなんかと思っているかもしれん」
「縄張り争いってか?ま、あながち間違ってもいないが――と、かなりヤンチャな子犬みたいだな」
 新築のリビングに足を踏み入れれば、以前の状態からは想像もつかない程に酷く散らかっていた。上質な革のソファーは傷だらけ、整理整頓された棚は本や雑貨が倒れ落ち、レースのカーテンは噛み痕が付き、アンティーク絨毯は粗相の跡すらあった。極め付けは床が破かれたティッシュまみれなことだ。
 次回に派遣される家事代行が無残な光景を見て卒倒する姿を想像しつつ、ドア横に転がったままの花瓶を元の場所に戻す。綺麗好きなハイドが片付けることも諦めているという事は、相当子犬の世話で追い込まれているのだろう。
「はぁ……これが留守に出来ない理由だ。私が目を逸らした隙に悪戯するから一瞬も気を抜く暇がない。お前に連絡に連絡している間もクッションを引き摺り回していて大変だった。手のかかる子ほど可愛いと言うが、そろそろ可愛過ぎて柵が必要かもしれん」
「大変だったな。夜のティータイムの前に、掃除を手伝った方がいいか?」
「いやそれよりも私の代わりにこの犬を見てやってくれ。ゆっくりミルクティーを味わいながら酒の準備をしたい。それに実は忙しくて、まだ今日の合成血液すら飲めてないんだ」
「あぁ分かった。なら任せておけ。昔からやんちゃな暴れん坊の面倒を見るのは得意だ」
「……私のことではないよな?」
「ノーコメントだ。ほらさっさと行かないと追いかけて来るぞ」
 育児疲れの顔をしながら溜め息を吐くハイドに紅茶とサラミを渡し、引き換えに不貞腐れたコーギーを受け取る。やはりと言うべきか、ガラに抱っこされた瞬間にコーギーは腕の中で暴れ、懸命にハイドの背中に向かって呼び掛ける。しかし残念ながら愛しのご主人様は一度も振り返ることなくキッチンに入ってしまった。
「キャン!キャンッ!」
「ほら観念して、ご主人を待とうな?」
 暴れるコーギーを落とさないようにソファーに座り、甘噛みされながらも背中を撫でて落ち着かせる。それでも熱心にキッチンにいるハイドから視線を外さないコーギーに、随分と惚れ込まれたものだと感心した。モデル時代の熱狂的なファンを連想させる。
「お前も何か飲むか?コーラとコーヒーがある。あとはトニックウォーターなら作れるぞ」
「じゃあトニックウォーターの血液抜きで頼む」
「なんだ。トマトでも入れてからかうつもりだったのにつまらん。ふむ、この茶葉の味……悪くはないがコクはバリスタに負けるな」
 甘噛みを続けるコーギーに歯痒いのかとネクタイを引き抜き、ジャケットの袖口がボロボロになる前に玩具として与えた。実際に抱えてみるとコーギーの毛艶は良いが、見た目よりも軽くて長い胴にも骨が浮かんでいる感覚があり、捨てられたペット特有の細さに少しだけ面食らった。けれど直ぐにお腹がまん丸に膨れていることに安堵する。
 暫くしてガラのネクタイがコーギーの涎まみれになった頃、ソファー前のテーブルに二人分の冷えた飲み物とつまみ、そして床にたっぷりの犬用ミルクを入れたボウルが運ばれた。元気に飛び出そうとするコーギーを抑え、何とかミルクに夢中にさせた後に二人で何時もより静かにグラスを交わす。
「お疲れさん。子犬の世話は大変だろう」
「ん、まあな。引き取り手が決まれば私も楽になるんだが、この様子だと当分の間は無理そうだ。子犬の時期を過ぎると需要が減ると聞くから、どうすべきかと悩んでいる。ガラの同僚で犬を欲しがっている者はいないか?」
「別に伝手はなくはないが……確認するが飼わないんだな?」
「……どうだろうな。このまま誰も引き取らなかったら、保護した責任を取って最後まで世話をする覚悟はある」
「やっぱり保護犬か。念の為、事情を聴いてもいいか」
「そうだな……話しておこう。お前の飲むカクテルが多少苦くなる恐れがあるが……」
 このコーギーをハイドが保護したのは十二日前の朝、公園へと散歩に出ようとした際、家のポストの下で蹲っているところを見付けたようだ。随分と痩せこけており、急いで動物病院に連れて行き検査を受けさせたところ、生後三か月から四カ月の子犬だと判明した。
 犬種と色合いからして野良犬は珍しい、何処かの家から抜け出したのか。しかしワクチンを受けている形跡はなく、最終的に動物病院の情報網を駆使して調べた結果、ハイドの家から数キロ先に住んでいるブリーダーがヒットした。だがそのブリーダーは一週間前に廃業し、既に見知らぬ場所へ引っ越している。
 保護施設の人を連れてブリーダーの元家に赴けば、他にも捨てられた犬が数匹おり、その中にはハイドが拾ったコーギーの兄弟や親もいた。なおその犬たちは無事に保護施設に回収され、同じく療養しつつ飼い主を募集しているらしい。そしてハイドが保護したコーギーの子犬は懐いたのもあって、そのままこの家で保護される事となり今に至る。
「成程、そういう経緯か。大変だったな。その無責任な元ブリーダーは動物好きとして許せないが、お前が見付けてくれたのが子犬にとっての幸運だ。きっと他の犬も感謝しているだろうさ」
「ガラがそう言ってくれるのならば、犬たちの幸運と引き換えに私の家の犠牲は必要なものだったと思えるな。だからこの犬には幸運が続くように……せめてもう少し……いや、もっと力の加減を覚えて、なおかつ素直に次の飼い主へ渡って欲しいのだが……現実は厳しい」
「その含みのある言い方だと、既に何回か駄目になったのか?」
「犬を飼える知人を呼び寄せ、トライアル前の顔合わせを三回やった。全て私の手から離れた瞬間、大暴れして紹介する暇もなく破談になったが。私はイヌ科のものに随分と好かれる運命らしい」
「……俺のことじゃないよな?」
「ふっノーコメントだ。ただあえて言うなら、この子の缶詰の食べっぷりの良さはお前に似ているぞ……と、綺麗に飲めて偉いな」
「クゥン」
 然程長話をしたつもりもないのに気付けば、こちらのグラスはまだ半分残ったまま、コーギーのボウルは一滴も残すことなく空になっていた。満足げに口を舐めるコーギーの頭をハイドが撫で回して褒めると、より幸せそうに破顔して尻尾を振る。それを眺めるハイドの横顔は愛情に満ちていて、見惚れる程に透明な美しさがあった。
 あぁもうすっかり愛しているのだな。と恋人の温かな眼差しを記憶に刻みながらガラは、会話の最中に溶けた氷一粒だけ情けなく嫉妬した。胸の嫉妬を形に表す前に飲み干して、苦楽の分以上にハイドが心から気に入って深い愛着を育んだ命を同じように眺める。
 ふわふわの可愛らしい子犬。この幸運のコーギーを深く愛しているのに、何故手放そうとしているのか。自ら恩人のハイドを求めている子犬に、名前を与えて傍に置かないのか。その理由に心当たりはあった。
「幸せそうだな。お前も、子犬も」
「あぁでも、傍に置いてはいけないと思う」
「どうしてだ?」
「喪失を味わいたくない……コーギーの寿命は十二年から十五年。私のような存在にとっては、あまりにも短い……それだけのことだ。きっとこの子は、瞬く間に消えてしまう。ならば最初から傍に置かない方が寂しくならないし、もっと歩み寄ってくれる主人の方が、この子の為になる」
 だから愛し過ぎないようにしている。と手遅れな顔で呟き、撫でるのをやめたハイドをコーギーが切なそうに見上げた。瞳を潤ませてハイドの足元にまとわりつき、スキニーの裾を咥えて澄んだ声で鳴く。
 けれどそんな愛おしい存在からのおねだりを受けても、ハイドは意地になってそっぽを向いた。未練がましい視線を足元に送りながら、苦しげにロゼをあおる姿に二つの意味で胸が痛んだ。上等なロゼを安酒のように流し込み、空になったグラスが乱雑な音を立てた。どうやら今夜のティータイムは早仕舞いするようだ。
「些か悪酔いした。シャワーを浴びてくる」
「了解。片付けはこちらでしておくから、ついでにお前の胸のもやもやも洗い流しておくといい」
「……あぁ、そうしよう」
 足にまとわりついて離れないコーギーをハイドはそっとクッションに持ち上げた。耳の付け根を少しだけくすぐって甘やかし、油断したところで逃げるように去ってしまう。慌てて悲痛な鳴き声と共に追い掛けようとするコーギーを捕まえ、膝の上に抱いて向き合った。
 再び暴れられると思っていたが、愛しのご主人様に騙されたコーギーはガラを吠える気力もないようで、気の毒なほどに落ち込んでいる。こんなに好かれているのに、ハイドも中々に罪な吸血鬼だ。六十年以上の付き合いがある人狼として苦笑すれば、茶化されたと感じたらしくコーギーがガラを非難の目で見る。
「グゥー」
「あぁすまない。別にお前をからかっているわけじゃないんだ。お前もこれまで大変だったろうに、よく頑張っているさ。ちょっと頑張り過ぎているところはあるけどな……俺はお前を尊敬するよ」
 弁明しながら宥めようとガラが腕を緩めた途端、短く鼻を鳴らしてコーギーは抜け出し、先程までハイドが座っていた場所に丸まった。姿が見えなくても、せめて匂いだけは感じたいという姿は何ともいじらしくて、その真っ直ぐさに尊敬の念を抱いた。二十年前の記憶が蘇って、この子犬の願いを叶えてやりたい気持ちになる。
 勿論、ハイドの理由だって大事なことだ。自分とは異なる時間を歩む命への不安。それは長命種だけではなく、恐らく動物を飼っている者の多くが抱えている悩みだった。そしてハイドは永久の時を生きるからこそ、いずれ訪れる命の結末への不安が、きっと一段と大きくて怖いのだろう。けれど。
「なぁ――お前、ハイドの隣で生きたいのか?」
 柔らかな背中に触れて囁き、まだ名前を与えられていない命を呼ぶと愛らしい耳が主人の音を拾って跳ねた。生まれてたった数ヶ月なのに、ここにいる誰よりも輝きに満ちた瞳が突き刺さって心打たれる。どんな形であれ、この犬はかつてのガラが出来なかったことをしている。
 それだけで力を貸す理由として十分だった。
「ワンッ!」
「そうか。なら……俺と同じだな」
 小さくも鳴き声に含まれた揺るぎない意思に敵わないなと微笑む。結局のところ何処まで伝わっているのかは分からない。でも目の前のコーギーは唸らず、初めてガラに笑って起き上がり、仲間だと認めてくれるように優しく手を舐めた。だからこの誠意に応えたいと言葉を紡ぐ。
「このままお前が悪戯を続けて気を引けば、ハイドは諦めてお前を受け入れ、最後まで傍に置いてくれるはずだ。そこは間違っていない……だがその幸せは必ず影が差すものになる。俺はお前とハイドに、そんな歪で灰色の日々を過ごしてほしくない」
 どんなに愛があろうとも諦めから始まってしまっては、ハイドは喪失を恐れたまま一線を引いて接するだろう。コーギーの一生は常に寂しさが付き纏い、残されたハイドの心には手放した未来よりも大きな傷が残る。一人と一匹の本当の幸せを思うなら、ハイドが自らの意思で犬と生きることを選べるように、抱える不安と向き合わなければならない。
「……お前が許してくれるなら、ここはひとつ俺に任せてくれないか」
「ワン」
「カウンセリングの経験はないが、それでも俺なりにハイドの不安を軽くしてやれる自信はある。お前の望みが叶うように力を尽くす。その代わりに俺の頼みを一つ聞いて欲しい」
「……クゥン?」
「今夜は俺に可愛い恋人を独り占めさせてくれ。新しき友よ」
 そう告げて首元をくすぐりながら伺えば、コーギーはガラの袖を引っ張った後、少し悔しそうに頷いた。

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