師匠


――それでは、今年最高の山場を迎えた若狭師匠にお伺いします、今のお気持ちは?

「疲れた……。」
日暮亭の確定申告は、毎年、税理士の先生にお願いしている。
提出する書類の体裁を整えるだけの仕事、と言っても、領収書やレシートを分別して見やすいように紙に貼り付けて、また分別して見やすいように紙に貼り付けて、を延々と繰り返していると、段々と、果てのなさに疲れて来るぅ、言うか。
もうちょっと、もうちょっとしたら休憩しよ、と思っているうちにどんどん時間が経って、目の前にあるおまんじゅうに手を付けられないままでここまで来てしまった。
独りでやっているとこんな風に休憩時間のタイミングを逃してしまう。
誰かと一緒にしたらええんちゃうか、そんくらいの予算は出せるやろ、と草原兄さんや草々兄さんに言われて、これまではずっと草原兄さんところの草太くんに短期バイトに来て貰ってたけど、今年度はもう、草太くんも秋口から天狗芸能に就職してしまって(正社員で採用出来んでごめんな……)希望した天狗座で、忙しく立ち働いているようで。時々、延陽伯で草原兄さんとお昼を食べることもあるようで、それはええんやけど……。
この草太くんの代わりを見つけるのが至難の業。暫くは初心者歓迎の経理事務アルバイトで雇った別の子ぉに来て貰ってたけど、私が教えるのが下手なのと、その子の仕事がなんというか雑なところとがなかなか噛み合わずに、しかも草太くんと全然違って相談もしてくれへんから、全然思ったようにならない。(どうして同じように出来んのやろ)と、そうやって比べてしまうのもあってか、結局は雇って一か月で教えることに音を上げてしまって、こうして三月の忙しい時期に一人でやることになってしまった。
そやけど、私にお蕎麦教えてたおかあちゃんって、ずっとこんな気持ちやったんやろか。
エクセルに入力した落語家の皆ぁの報酬の一覧を書類を印刷して、今日はやっとひと段落。
もう明日にしよ、と机の上でへばっていると「お疲れさん、茶でも入れるか?」と草々兄さんがやって来た。
驚いて、ちゃぶ台から起き上がった。
「草々兄さん、今日、昼席やなかったんですか?」
「おい、若狭、今何時やと思ってんねん。外見てみぃ。」
「え!」と窓の外を見ると驚いたことにとっぷり日がくれている。
「まぁた、気付いてへんかったか。お前、新婚早々の頃もそうやって家計簿付けるのにごちゃごちゃやってて、夕飯作り損ねてたな。」と呆れたような声。
夕飯?
「あーーーー!」
学童のお迎えと夕飯、忘れてた……。昨日は草々兄さんも彦根で公演やったから、弟子の子ぉらも出払ってて、昨日のご飯の残りがない。
「今朝、あの時間に作っておけば……。」
「泣くな、相変わらず大袈裟やな。学童には、オレと小草々で迎えに行ってきた。下でふたり待たせてあるし、夕飯は、もう寝床に行けばええやろ。若狭、今年は草太もいてへんし、大変だったな。お前はよう頑張っとる。」と頭を撫でられた。
「草々兄さ~~~~ん!」とちゃぶ台から立ち上がって身体に腕を回すと、「抱き着くな、おい。」と草々兄さんは、照れて引き剥がそうとしてくる。
「税理士のせんせに出すやつ、今年はいつまでや。」
「あ、いつもの先生のところの若い税理士さんが取りに来てくれるのは、来週なんですけど、来週の夜席は企画ものが続くでぇ、今週のうちになんとか終えてしまいたいと思って。」と言ったところで、机の上に置いておいたスマートフォンが震えた。
メールの着信を開くと、草若兄さんからのメッセージだった。
「……『明日、阪急の下のたねやで逢お?』」
「なんや、エーコちゃん、またこっち来たんか?」と草々兄さんが笑顔になっている。
わたしが外でエーコとご飯するときは、草々兄さんも、小草々くんたち連れて夜は飲んでええよ、ということになっているからだ。
先代の草若師匠が落語をやめてお酒に逃げていた頃は、酢を生のまま飲むような顔をしてたこともあった草々兄さんも、師匠の酒の好きなところが似てしまったのか、いつの間にか、酒盛りというと、立派な飲兵衛になってしまった。
『お酒はザルで、どっちかというと僕はジンジャーエールもジュースも嫌いです。』と言う筆頭弟子の小草々くんには、ホントにうちのお財布が助けられてる。
「いえ、今のメール、エーコとちゃいますけど。草々兄さん、阪急のたねやって知ってます?」
「甘味の店やないか。エーコちゃんと違うなら、明日は順子ちゃんか?」
「ちゃいますって、塗箸製作所かて、魚屋食堂かて、そんないつもいつも暇とちゃいますよ。今のは、草若兄さんからです。」
「はァ?」と草々兄さんが声を上げた。
「気にせんとってください。またいつもの相談ちゃうやろか。」
「いつもの?」と草々兄さんは眉を上げた。
「最近多いんです。寝床では話をしにくいらしゅうて。」
「相談て何や。」と今日は妙にぐいぐいくる。
「お悩み相談室ぅ、言うか。」
「お悩み相談室て、お前は普段、順子ちゃんに相談する方やろが。草若のヤツにも、もう順子ちゃんの番号教えとけ!」
「そんな訳にはいきませんて。大体、なんで順ちゃんが草若兄さんの相談にまで乗らなあかんのですか。」
「……暇な日ぃがなくても、暇な時間くらいはあるんやないか?」と草々兄さんはぶちぶち言っている。
「とにかく、相談の内容はほとんど四草兄さんとこのお子さんのことでもありますし、わたしもちょっとは力になりたい、言うか。」
「なんで四草の子どものことで、草若がお前に相談するねん。」
「それは、色々……っていうか、」
もしかして、四草兄さんと小草若兄さんがどうこうって話って、草々兄さんに、今まで言ってなかったっけ。
『ややこしいことになるから、草々兄さんには絶対言うな。』って四草兄さんに口止めされたとき、あの日に四草兄さんからあんみつを奢って貰ったのも、隣に座って真っ赤になってる草若兄さんも、なんや夢見てるみたいな気ぃして………。
そういえば、口止めされたこと自体、あれからすっかり忘れてしまってた。
ああ~……思い出すんやなかった……どうやって草々兄さんに隠しといたらええんやろ。
「下にあの子と小草々くん待たせてるんじゃないですか? わたしと草々兄さんが行くの待ってる間に、あの子、鉄砲勇助を全部覚えてしまいますよ。」と言うと、どういうことや、と草々兄さんは目を剥いた。
「あれは女の子の覚える話とちゃうやろ……。」
「ん?」
女の子の覚える話とちゃう、て。
ああ、あのしょうもなさがクライマックスになる、例のくだり……。
「それはそうやと思いますけど、一応小草々くんには、なんとかあそこのくだりは省いたショートバージョンで、って頼んであるから大丈夫ですよ。とりあえず出掛けましょう。冷えるからあの子の分の襟巻と上着持ってかんと……。」
「襟巻と上着なら、小草々が準備して持たせてた。」
「それなら、私と草々兄さんが行くだけですね。」
「おい、若狭。財布の中身も忘れるなよ、中に金入ってへんと、無銭飲食になってまう。」
「もう、草々兄さん!」
夫婦になって長い人からの意趣返しのような言葉に、わたしは声を上げた。



たねやさんというのは、思っていたより小さなお店やった。
「なあ、若狭。」
「はい、草若兄さん。」と相槌を打つのは、今日でもう十一回目だ。
もうかれこれ、一時間半は草若兄さんの話を聞いている。
途中で、いつもの枕みたいに延々と脱線してぐるっと回って、なぜか四草兄さんの話になるから、全然進まなかった。
決算書類の片付けよりも疲れた気ぃがするんやけど、なんでやろ。
子どものお迎えがあるんで今日はこの辺でお開きにしてええですか、と言って、やっと解放される手前のとこまで来た、と思ったのに……。
「あのおちび、オレらふたりの悪いとこばっか似てきよるから、なんや不安になってきたんやけど……。」
もう、さっきからぐずぐずぐずぐずと!
「なんですか今更!? そもそも四草兄さんの子ぉなんやから、図太いんか繊細なんか分からんような子ぉに育つに決まってます。草若兄さんは、いつもみたいにドォンドォンと構えとったらええんです。」
「ドォンドォンて…ぶつかり稽古かいな。」と草若兄さんは不安そうな顔をしている。
親として半人前なのに大きな口利いてしまってええんかな、とは思うけど、もう今日のクリームあんみつ分の相談は終わったはずや。
「そこまで分かっとったら免許皆伝やないですか❤ 兄さんらぁは、私よりずっと長く師匠とおかみさんのことを見て来たはずなんやから、なんとかなりますって!」
「おい、若狭。ほんま、師匠とオレはちゃうんやて。」
「子育ての場合は、それでええんです。じゃ、お先に失礼します。ごちそうさまでした!」
一礼して、斜め掛けのショルダーバッグを肩にかけてそそくさと店を後にする。
四草兄さんも子育てにあのくらい悩んでくれたら、草若兄さんももうちょっと肩の力が抜けそうな気ぃするんやけど。
「……きっと無理やろうなあ。」
「何が無理なんや。」と聞き慣れた声が聞こえて来た。振り返ったところに、なぜか今朝見た人の顔がある。
「え、草々兄さん!?」
「おかみさん、こんにちわ!」
後ろから、うちの筆頭弟子も一緒に顔を見せた。
「え、小草々くん? なんでここに?」
「師匠が僕にクリームあんみつを奢ってくれると言うので。」
「へ、へえ~。」
なんか……嫌な予感……。
「あの、草々兄さん?」
「なんや。」
声が低い~!!!
今日はなんでそんな不機嫌そうなんですか、とか怖くて聞けない!
「あの~、今日も、寝床でご飯にします?」
「先に四草のとこや。」と草々兄さんは妙に思いつめた顔をしている。
やっぱり……!
「あかんですって! 二人とも大人なんやさかい!」
草々兄さんが今更口出ししたかて、もう草若兄さんはすっかりあんな感じで、四草兄さんやって、
「子どもは大人とちゃうやろ!」
「……え?」
「四草のヤツ、仕事の少ない草若に子育て任せて、自分はあっちでふらふら、こっちでふらふらと仕事入れて。」
「いや、四草兄さんの仕事多いことはええことやないですか。うちと同じで、これからどんどんお子さんにお金掛かるんやさけ。……それに、草若兄さんは仕事少ないことないと思いますけど。」
じゃなくて!
もしかして、草々兄さんは、草若兄さんが四草兄さんと……ってことに気付いてない?
え?
あれだけ長い惚気を聞いておいて?
そんな馬鹿な、と思って小草々くんの顔をじっと見ると、こちらの顔色を読んだのか、こちらの顔を見て、肩を竦めてる。
流石、草々兄さん。
……私の恋心にも、内弟子修行が終わる寸前まで、ちょっとも気ぃ付かへんかっただけのことはあるぅ、いうか。
「おい、草々、お前、言うに事欠いてオレの仕事が少ないとか……、流石、ご立派な草々師匠は違いますなあ~!」
「小草若兄さん……!」
じゃなかった、草若兄さん!
うう……。
こんなとこ、他の一門の師匠方とかお弟子さんらぁに見つかったらどないしよ……。
また一門の変な噂になりますさけ、往来で私と草々兄さんが夫婦喧嘩してるように見えるとこで、草々兄さんにヘッドロック掛けんといてください。
……言いたいけど言えない……。
「草若兄さん、奇遇ですね! 今日は一緒に寝床でご飯行きませんか?」と苦し紛れの奇策とばかりに声を張り上げる。
「おい、奇遇なことあるか!」と草々兄さん。
やっぱり。
今日は小草々くんと一緒に私の跡、付けて来てはったんですね。
なんや、浮気を疑われてちょっと嬉しいような、相手が草若兄さんというのが哀しいような。
「草々兄さんは今日は黙っとってください。今日は久しぶりに、草原兄さんと草太くんと緑姉さんも呼んで、四草兄さんと、あの子と皆ァで食べましょう。私が今、そう決めました!」
「おかみさん、流石です!」
小草々くんが、パチパチパチパチ、と草々兄さんの隣で小さく拍手している。
「師匠、僕も賛成です。今の師匠には、美味しいご飯を食べることが必要です。」ときりっとした顔で言った。
小草々くん……それ、私が今朝も失敗した草原兄さんから習ったばかりの煮物のことを言ってる?
「……若狭、そうしたいんか?」と草々兄さんが尋ねられて、ヤケクソで「はいぃ!」と返事をする。
「四草は『呼ぶからには、子どもの分は奢ってくださいよ。』て言うかもしれへんで?」と話を聞いていた草若兄さんは、今の今まで草々兄さんに仕掛けていたヘッドロックを外して、ニヤリと笑った。
「はいぃ……。」
「冗談やって、あの子の分はオレも出すから、今日はそないしよ、な!」
三代目草若をしのぶ会や、と草若兄さんが、さっきとは打って変わって朗らかな声でそう言うと、草々兄さんは「命日でもないのに適当に会の名ァを付けるな。」と言って、不機嫌そうな顔をなんとか崩さずに、ふたりで肩を並べて歩いて行った。
うーん。
足取りが浮かれてる。
機嫌の悪そうな雰囲気を作ろうとして、完全に失敗してますなぁ……ってうっかり心の中で上沼恵美子みたいなツッコミを入れてしまった。


「しょうのない師匠やねぇ。」
わたしがそんな風に言うと「完全無欠の落語の師匠なんて、落語の中にだっていません。ああいうところも含めて、僕の嫌いな草々師匠ですから。」と爽やかに言って、うちの背の高い筆頭弟子は、にこやかに笑っている。

powered by 小説執筆ツール「notes」

24 回読まれています