夢のほとりに愛ひとつ

 蓮が体調を崩した。この年になっても健康優良児を貫き通しているこいつは四季を問わず風邪とは無縁の人間なのだが、いかんせん接客業という職業柄ごく稀にこういったことが起こる。数年に一度くらいの頻度でだが。
 ただいま、と帰ってきた声にどうにも覇気がない。意志の強い黒い瞳の眦が、どこかとろんとしているように見える。いつも通り帰宅途中に買ってきた野菜や切れそうだった日用品が詰まったエコバックを彼の手から奪い取れば、きょとんとした顔で首を傾げていた。こいつ、自覚がない。やっぱ馬鹿なんじゃないか? と毎度思う。いや、馬鹿は風邪をひかないというし、馬鹿ではないのだろう。おそらく。いや、馬鹿に近い何かではあると思ってはいるが。
「え、なに? どうしたの明智」
 季節の変わり目、気温の乱高下で大混乱を極めているこの時期。昼間に夏日を示したと思えば朝夕は酷く冷え込み、半袖では肌寒さを感じるほどの気温差を生成する気候にはどう頑張っても体がついていかない。年々最高記録を更新し続けていく気温には辟易するばかりだ。
「手、洗ってきて。早く」
「あ、うん…」
 いつもの定位置にリュックを置いて、ソファに薄手の上着を引っかける。言われた通り洗面所に行く後姿を確認して、とりあえずエコバッグの中身を冷蔵庫に入れたり日用品のストックケースにひととおり放り込んだ。ざあ、と小さく水の流れる音がする。あいつがこちらに戻ってくる前に、ごそごそと買い置きの薬と体温計を引っ張り出しておく。
「む…」
 リビングに戻ってきた蓮が眉を顰める。ようやっと気付いたらしい。さっき自分で鏡の中の顔色を確認しなかったのだろうか。いや、していてもこいつは気付かないな、と諦める。他人の些細な変化には目ざとく気付くくせに、自分の事になるととんと鈍くなってしまうのは何故なのだろうか。
「ほら。体温計って」
「大丈夫だよ…」
「それでうつされるの誰だと思ってるの? 僕が困るんだよ」
「う、はい…」
 大丈夫だと首を振る蓮をじとりと睨みつけてやれば、黒い瞳が気まずそうにゆらりと泳ぐ。そのてのひらの中に体温計を押し付けて、僕はいったんキッチンへと引っ込んだ。コップに水をくんで、ソファに座って観念した表情を浮かべている蓮の目の前に置いてやった。数秒ののち、小さな電子音が静かなリビングに響き渡る。小さな体温計を服の中から引っ張り出した蓮は、そのディスプレイを見て眉を寄せた。まったく、わかりやすいことで。
「何度?」
「えーっと……微熱…」
「だから、何度って聞いてるんだけど」
「三十七度八分です…」
「どこが微熱だ馬鹿」
 しゅんとしている蓮の手から体温計をするりと奪い取る。小さなディスプレイを自分の目でも確認したが、そこには自己申告と変わりない数字が表示されていた。
 こうやってこいつが体調を崩すのはいつぶりだろうか。真冬の風邪が流行る時期にもぴんぴんしているようなこいつが風邪を引いたのは、もしかしたら一年以上前かもしれない。だいたい季節の変わり目で気温に振り回された挙句、自覚がないのが災いして気付けば発熱して倒れるのがお約束みたいになっている。
 渋々と市販の風邪薬を水で飲み込むのを確認する。ソファの背中越しに彼を見ると、もっふりとした猫がしょげているようにしか見えない。すらりとしたモルガナとは大違いだ。
「何か食べて帰ってきたの?」
「職場で、新商品の試食しただけ」
「まぁ空っぽの胃じゃないだけマシか」
 先に薬を飲ませておいてなんだが、自分の予想は合っていたようだ。ほら、とソファに座ったままの蓮の腕を引っ張る。のろのろと立ち上がった蓮の足取りは重い。もたもたと自分の後ろをついて歩いてくる蓮はいつもと違ってしょんぼりしている。
「食べたいものは?」
「りんご…」
 いつも使っている蓮の寝室ではなく、あまり使うことのない自分の自室の扉を開ける。隔離しないといけない時に使えるので、この家はお互いの自室を分けたうえでベッドもふたつ置いたままだ。
 いつも蓮の部屋のベッドでいい年をした大人がふたり、ぎゅうぎゅうになって寝ているのは滑稽だと自分でも思うけれど、気付けばそれが存外心地よくなってしまっている。それじゃないと深く眠れないくらいには。このあたりは、完全に蓮の押しに負けたからなのだが。
「他には?」
「……缶詰のみかん…」
「…」
 うどんとかお粥とか雑炊とか、そういうのを聞きたかったのだが仕方ない。まぁいい、こいつはなんでも食えるだろう。ぐいぐいと部屋の中に押し込めば、蓮は諦めたように項垂れてしまった。なんだその大型犬のような仕草は。
「寝てろよ」
「……わかった」
 もそもそと服を着替え布団の中に潜り込むのを確認してから、僕はそっと自室の扉を閉めた。
 携帯端末と財布と、あとエコバッグの三つを小さいトートバッグに放り込んで玄関の鍵を掴む。さっさと買い物を終わらせてしまいたい。いつもより蓮の帰りが早かったけれど、端末に表示されている時間はもう十八時を過ぎていた。
 帰宅途中の人間でにぎわう駅前のスーパーはひどく賑やかだ。まずは蓮が欲しいと言っていたものを買い物かごに入れて回る。青果コーナーで真っ赤なりんごをひとつ。少しだけ中の通路に入って、みかんの缶詰をひとつ。そのままゼリー飲料をいくつかと、スポーツドリンクのペットボトルをひとつ。ついでにプリンとゼリーとヨーグルト。ふと目に入ったバニラアイスは自分の分もいれて二つ。口当たりのいい冷たいものを選んで放り込んでいく。買い物かごが順調に重さを増していった。
 こうして買い物をしていると、酷く昔の記憶が蘇ってくる。幼い自分が熱を出した時に、まだ優しかった母親にしてもらったこと。すりおろしたりんごに氷枕、冷やしたタオルを額に置かれて、眠るまで側にいてくれた、ような気がする。もう今は薄い布を何枚も隔てた向こう側、朧げな記憶になってしまっているそれ。思い出そうとしても、細部はひどくぼんやりとしている。微かに優しく、甘い記憶の残り香だ。
 一人になってしまってからは、市販薬を飲んで水分を摂って、なんとか食べられるものを口に入れて眠って治していた記憶が大半を占めている。たらいまわしにされていた時の親戚なんかは、自分に興味がなかったので。
 こうやって世話を焼いてもらった事なんて、あの幼い頃以降はほとんどない。いや、何年か前に一度風邪をひいた時に、蓮がばたばたと大慌てで看病してくれたなと思い出す。あれは何度思い出しても面白いものだった。いつも何事もスマートにこなす姿ばかりを見せつけられていたから、自分が熱で倒れた程度であんなにもおろおろとするなんで思わなかったのだ。熱でずきずきと痛む頭を押さえながら、思わず笑ってしまったくらいには。
 あぁそうだ、とスーパーの中でくるりと方向転換。パンが陳列されている棚を一通り眺めてから、無難そうなパンをいくつかかごに追加した。これで明日の自分の食事はなんとかなるだろう。買ってこなかったと言おうものなら、あいつは熱が出ていても台所に立つ男だ。冷蔵庫の中にも蓮がなんだかんだと作り置きをしてくれている総菜がストックされているし、それを足せば文句は言われないだろう。
 帰宅ラッシュと被るこの時間、スーパーのレジの列も強烈だ。くたびれたサラリーマンや目を離せばあっという間に迷子になってしまいそうな幼子を連れた女性、お腹を空かせているのであろう大学生がかごいっぱいに惣菜の品々を買い込む姿を横目に、僕はじっと会計の列を待つ。―――あいつ、変に起きて動き回ってないといいけど。ぼんやりと携帯端末のディスプレイを操作しながら、そんなことを思った。
「ただいま」
 人の溢れる駅前からなんとか早足に撤退してきてやっと家だ。思ったより時間が掛かったなと小さく溜息を吐いて、いつもどおり家の扉の鍵をかける。静かな空間に自分の声だけが響くことが、少しだけ不思議だ。いつもなら蓮がすぐにおかえり、と出迎えてくるのに。そんな彼の挙動に慣れてしまったのだと思うと、少しだけそわそわして落ち着かなくなる。くすぐったいような、恥ずかしいような、なんだかそんな言葉にすると子供っぽく感じるような。
 とりあえずキッチンスペースに買ってきたものを置いてから、そっと蓮が寝ているであろう部屋を覗き込む。ベッドの上の布団がまるく膨らんでいたので、自分が言った通り素直に寝ていることがわかった。よかった。帰ってきたときに何かしらの作業をしていたらぶん殴ってベッドに放り投げてやろうと思っていたので。そういった行動をやりかねないのが蓮なのである。こういうところは本当に馬鹿なんじゃないかと思っている。
 とりあえずバニラアイスを冷凍庫にしまいこんでから、蓮の要望があったりんごと缶詰のみかんを取り出してしばし考え込む。みかんの缶詰は開けてしまえば保存容器が必要だし、りんごも丸々一個剥いていいものなのか? といった疑問が浮かぶ。とりあえずタッパーを引っ張り出して、みかんの描かれた缶詰をぱきりと開けた。ほんのり甘いみかんの匂い。橙色のつややかな房が甘ったるいシロップに浮かんでいる。シロップの海を泳ぐみかんをフォークで掬い上げて、小さめの器にいくつか移した。残ったものは全部タッパーに開けて、しっかりと蓋が閉まっていることを確認して冷蔵庫にしまい込む。
 次はりんごだ。まな板の上にごろりと転がるりんごはつやつやと赤くて新鮮そうだ。最近は年中りんごが店に並んでいて、季節感などとうになくなっている気がする。……自分が面倒がって外に出ていないから、りんごの並んでいない期間を見逃している可能性はあるが。
 とりあえず切るか。丁寧にりんごの表面を蛇口から流れる水で洗い流す。適当に水を払ってから、トン、と包丁で半分に切った。転がった半分を伏せておき、再び半分に切る。もう一度半分に切ってしまえばあっという間に八分の一だ。ヘタと芯の部分に切込みを入れて取り除いてから、皮の部分をすいすいと剥いていく。別に包丁の扱いが苦手なわけではないので、これくらいは朝飯前だ。何回か包丁を往復させれば、きれいに皮の剥かれた八分の一のりんごが出来上がる。
「………」
 一切れのりんごを前に、再び少しだけ考え込んでから、その一切れに更に三回ほど包丁を入れた。四分割にされたりんごを、先程みかんを入れた器にごろりと放り込んだ。それをあと三回繰り返してやれば、器の中にはりんごの小山ができあがる。これくらいあれば十分だろう。最初の方に切ったりんごがもう既にうっすらと茶色くなってきたような気がする。それに小さなフォークを突き刺して、もう一度リビングの時計に視線を向けた。その二つの針は二十時過ぎを示していて、いつもならコーヒーを飲んで一息ついているような時間だ。いつも通りでない日常は、どこかパズルのピースが足りないような違和感を覚える。そのいつも通りに慣れてしまったというか、慣らされてしまったというか。きっと、一般的に言えばいいことなのだろう。そういった穏やかな時間に慣れた、ということは。
 もう一度まな板の上の半分のりんごに目を向ける。なんとなく気が向いたから、という理由だけで、再びそのりんごに包丁を入れた。


「蓮」
「んー…」
 夜の闇に落ちてしまった部屋の中、開けた扉から差し込む一筋の光だけを頼りに枕元に近寄る。声をかければ、なんともいえない声で返事があった。
「眠いなら別にいいけど」
「んん、だいじょうぶ…」
 舌っ足らずにもごもごとした返事をしながら、布団がもそりと動いて蓮が顔を出した。買い物に行く前に見たときよりやっぱり顔は赤い気がするし、睡眠から覚醒してすぐの眠たげな表情で目は更にとろんとしている。もそもそと起き上がれるのだから、まぁまだマシなのだろう。……いや、こいつが異常に丈夫なだけという線もあるが。そういえば額に貼る冷却シートの購入を忘れたな、と今更思い出す。まあ、最悪タオルを冷やしてやろう。―――これはあの時蓮がやってくれたことを、そのまま返しているだけだ。
 いつもぴょこぴょこと跳ねている猫っ毛が更に爆発している。相変わらずだなと思いながら、ぱちんとベッドサイドのライトをつけた。ほのかなオレンジの光がぼんやりと近場だけを照らし出す。ベッドの端に腰掛ければ、ぎしりと微かに軋む音が聞こえた。
「ほら」
「ん…ありがとう、明智」
 彼のリクエスト通りにりんごと缶詰のみかんを盛った器を差し出せば、ほんのり赤い頬をへにゃりと緩ませて笑った。器を受け渡す際に触れた指先が、いつもより熱い。熱が上がったのかもしれない。
 フォークに刺さった一口大のりんごを頬張り、ご機嫌そうに咀嚼する姿をぼんやりと見つめる。こういった様子を目にすると、蓮は酷く幼く見えるなと思う。いつもは仕草の一つ一つを意識して整えているのだろう。昔、自分がテレビに出ていた時にも同じようなことをしていたので、すぐにわかった。外見しか見ないようなやつらに軽んじられないように、使い潰されないように、抵抗できるように。それを必要としていた世界で生きてきたのはもう昔の話だけれど、身にしみついたものはそうそう変わらない。
「…みかん、懐かしいなあ。昔、熱出した時に母さんがよく出してくれた」
「そう」
「りんごも。だから、こうやって俺の欲しいもの聞いてくれるの、嬉しい」
 こんなにもへにゃへにゃと気が抜けた笑い方をするだなんて、他の面子は知らないかもしれない。みかんとりんごを交互に口に運びながら、今にも鼻歌を歌いそうなくらい上機嫌な蓮があっ、と声を上げた。
「うさぎだ」
「……包丁の扱いが衰えてないか気になって作ったやつだよ」
「えー、嬉しい」
「話聞いてる?」
「食べるのもったいないな」
「おい聞け馬鹿」
 気まぐれに作ってみたものの、上に置くのは少し気恥ずかしくなって一口大のりんごの下に置いたうさぎりんごを掘り当てた蓮は酷く嬉しそうだ。包丁さばきは全く衰えてなかったことを知れたので自分で食べても良かったのだが、なんとなくこの器に入れてしまったもの。
「ありがと、明智。嬉しいなあ」
「………そう。君が嬉しいならもうそれでいいよ」
 何を言っても恥ずかしさを必死に取り繕う挙動にしかならないことに気付いてしまい、大きな溜息と共に言い訳を飲み込んだ。フォークに刺さったうさぎりんごをひとしきり矯めつ眇めつした蓮は、やっとその鑑賞に満足したのかちまちまとうさぎりんごを齧りだした。その図体で小動物かお前は。
「ちゃんと食べなよ…」
「食べてる。ありがたみを感じながら」
「………マジで何言ってんのかわかんねえなこいつ…」
 真面目な顔で返す言葉でもないだろうに、蓮はひどく真剣な顔でそんなことを言うのだから本当にわからないなと再び大きな溜息を吐いてしまった。こいつと生活していると、そういうことがたまにある。出会った時からは考えられない、なんというか、甘ったれた挙動だ。いい年をした大人になったはずなのだが、時折出る彼の幼い仕草にいつも驚いてしまうし、不意を突かれるとかわいい、とまで思ってしまう時がある。絶対に口には出さないけれど。
「冷たくておいしい。嬉しい」
「はいはい」
 そんなやり取りを繰り返していれば、あっという間に器の中のみかんとりんごは平らげられてしまった。食欲はあるようでなによりだ。ごちそうさまでした、と律儀に返された器を受け取って、数秒考えてから蓮の額に手を伸ばす。汗で微かに張り付いた前髪を散らしてから触れれば、やはりそこはいつもよりだいぶ熱かった。基本的にこいつの体温は高い方だが、それ以上の熱を帯びている。
「明智の手、冷たくて気持ちいい」
「君が馬鹿みたいに発熱してるんだよ」
「んー、そうだなぁ…」
 ぽやぽやと返事にならない返事を返す姿に溜息を吐きながら、ベッドサイドの時計に視線をずらす。まだまだ夜はこれから更けていく時間だ。仕方ない。蓮の額から手をどければ、名残惜しそうな視線が手を追った。
「水持ってくるから、寝てなよ」
「……わかった」
 渋々頷く姿は甘えたい盛りの子供かと思うほどで、こんな成人男性がする仕草とは思えないものなのだが、こいつがやると妙に違和感がなくなってしまうのは何故だろうか。昔から不思議な奴だったけれど、そのまま成長してしまったのはいい事なのだか悪い事なのだか。
 ベッドから立ち上がり再びキッチンへ向かう。シンクに器とフォークを置いてから、冷蔵庫の中で冷やしていたスポーツドリンクとミネラルウォーターを取り出した。枕元に置いたままにしてしまうとぬるくなってしまうが、まぁ大丈夫だろう。熱があるままふらふらとキッチンまで出てこられる方が危ないし迷惑だ。
 ついでにフェイスタオルを冷たい水で濡らして絞る。どれだけ絞っても水が垂れてくる気がして困るが、どれくらいがいいのかわからない。本来なら多分これは付きっ切りで看病するひとが、病人の側でぬるくなったタオルを交換しつつ冷やしながら世話をする時に必要とするものなのだろう。残念ながら、僕はあいつにそんなにかいがいしいことをするつもりはない。最低限の世話はするけれど、それ以上を求めないで欲しいと最初に約束したからだ。彼は二つ返事でわかったと言ったから、その約束は継続したままだ。
 とりあえずこれくらいでいいだろう、と水分を絞ったタオルとペットボトルを二本抱えて寝室へ戻れば、再び布団がもふりと膨らんでいた。こいつ、体調が悪い時は嫌に素直なんだよな。
 ベッドサイドの明かりは先程より少しだけ絞られている。その近くに持ってきたペットボトルを置いて、布団の中を覗き込む。薄暗い中で、蓮は目蓋を閉じて穏やかとは言い難い呼吸を繰り返していた。ほんの少し手を伸ばして、その上下する首元を締めてしまえばこいつはあっけなく死ぬ。ただ、僕がそれをしないという信頼と自信と甘えがあって、こうして無防備な姿を晒している。不思議な奴だ、と思う。けれど今まであったことを振り返れば、こいつはいつもこんな僕の事を信頼していたなとも思う。あの逃避行での鬼ごっこ、執念深さの末に彼が勝ったあの冬の日。もう逃がさないと掴まれた左手の熱は今だって思い出せる。
「………馬鹿だなほんと」
 馬鹿なのは蓮なのか僕なのか。自嘲気味に零れ落ちた声では蓮は目を覚まさなかった。汗で張りついた前髪を額の上から退ける。熱い額に軽く唇を寄せてから、持ったままだった冷たいタオルをそっとそこに置いた。落ちたらその時はその時だな、と諦めることにする。どのみちこまめに取り換えに来ることはできないし、一時しのぎになればいいだけだ。
「早く治せよ、蓮」
 こいつが不調だと、調子が狂う。自分にもまだそんな心が残っていたんだなと驚くとともに、どこか悔しいような、そんな気持ちにもなる。時折眉を寄せるような表情を浮かべる蓮から視線を逸らした。こいつが時折そんな顔をした後に飛び起きていることを知っている。悪夢に魘されて不安で目が覚めるだなんて、こいつも人間なんだなとしみじみ思ったこともある。こうして見ていたところで早く治るわけでもなし。僕はベッドサイドの明かりを最低限まで絞ってから、そっと部屋を出る事にした。
 はぁ、と今日何度目かもわからない溜息を吐いて、ぱたんと部屋の扉を閉じる。こいつが不調なのが悪いのだ。自分は何もおかしくはない。そんなことを思いながら、僕は再び仕事の書類を片付けるために部屋へ向かった。

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