夢のはじまり
冒険者ギルド〈栄誉の旅〉の一階、ロビー兼食堂のカウンター端に一人の女性が腰掛けている。いつもは朝から満面の笑顔で食事を頬張っている彼女だが、今日は何かを悩んでいる様子だった。カウンターの下でぶらぶらと足を揺らし、注文したコーヒーも一向に減っていない。
(うーん……)
腕組みしては解き、カップを持ち、置き、また腕組みしては解きと繰り返している様子は、彼女、ロジーナ・アルバインを知る者であればすぐに何かおかしいと声を掛ける仕草だった。
幸いにも今日は珍しく食堂の人影も少ないため、一人で延々と悩むことができている。ハーヴェスは昨日現れた海賊船の話題で持ち切りであり、皆どこかへ物見に行ってしまった。ロジーナだって行きたい気持ちはあるが、今はそんな気分ではなかった。
組み直した手の中で、ちゃりと金属の小さな音がする。ロジーナは右手を開き、握っていたものを目の前にぶら下げた。真鍮で作られた、何の変哲もないただの鍵だ。
(いきなりはちょっと、流石にねぇ……)
眉根を寄せてじっと鍵を見つめる。光沢の少ない表面が、少しだけランタンの光で輝いていた。
(いや、何かタイミングを決めよう。また一騎打ち……は勘付かれるかな。もうちょっとこう……)
ふぅと一息つき鍵をしまう。すっかりぬるくなったコーヒーを飲み干して、席を立った。
「まぁ、すぐに会えるとは限らないわけだし」
先程掲示板に貼り出されている依頼も一通り見たが、急ぎの内容も無さそうだ。一昨日は運よくもう一人と会えたし、今日も同じように言付けを頼んで家のことをしよう。
カップを返しながら受付に伝言をお願いして、さて帰ろうとノブに手を掛けようとした途端、ドアが向こう側から勢いよく開かれた。迫ってくる扉を避けようとして足がもつれ、ロジーナは入ってきた人物にしがみ付く形になってしまった。
「……朝から積極的で困っちまうな」
「ブラム、さん」
入ってきたのは先ほど受付に伝言を頼んだ、ちょうどその人だった。慌てて一歩下がったが、どうやら彼は何も気にしていないらしい。
「んー、そうだな。タイミング良かった。受付にいくつか伝えてくっから、少しだけ待っていてくれねぇか」
「う、うん。いいっすよ?」
ブラムの背を見送りつつ、一旦表へ出る。完全に意表を突かれてしまったが、早くも顔を合わせることができたのは嬉しかった。
用事はすぐ終わったようで、程なく指に紙片を挟んだブラムが出てきた。
「なんだ、ロジーナも俺のこと探していたのか? いやぁ、さっそく相思相愛なところを見せちまったな」
「……朝から元気そうで何よりっすよ」
素早く紙片を奪い取りながら、ロジーナは口を尖らせた。
「で、だ。ちょっと時間あったら付き合ってほしいんだが……いや、探してたってことは用事あるんだよな。そっち先にするか?」
ポケットの中で鍵が小さな金属音を立てる。
そうだった。うっかり忘れるところだったが、まだ何も準備はできていない。
「あ、いやいやいや大丈夫っす!」
「慌てすぎだろ。ならまずは俺の用に付き合ってもらうか」
自分でも思ったより狼狽えてしまったが、急に訪問されるよりは好きなタイミングで切り出せるほうがまだ良いかもしれないとロジーナは考え直した。
「ほら、デートだぞデート」
「ブラムさんはもう少しムードとか気にした方がいいと思うっすよ」
相変わらずの様子に対し相変わらずの調子で返す。結局のところ、これくらいの空気で話せた方が気楽だということはロジーナ自身も感じていた。
鍵の件については帰りがけにでもタイミングを見計らって切り出してやろう。流れは途中でじっくり考えればいいし、驚いた顔を見るのが楽しみだ。そう思いながら、ブラムの横を歩く彼女の表情は明るかった。
しかし早々にロジーナの方が目を丸くして立ち尽くすこととなった。
「近場で悪いな。着いたぞ」
「……は?」
ハーヴェス北門前広場から外へ出たところで、二人の短いデートはいきなりに目的地に到着した。無いはずの目的地がそこにあったと言うべきかもしれない。
眼前には巨大な木製の壁が立ちはだかっている。壁はゆっくりとカーブしており、左右に向けて窄まっているようだ。ほとんど真上を向けば数本の柱が天に向けてそびえ立っているのが見え、そこでようやくロジーナはこの壁が船の形をしていると理解することができた。
「見ての通りだ。俺ことブラム・スカーラットはこの"海賊船バルフート"の船長となった」
「ちょ、ちょっと待って欲しいっす。これって昨日街で大騒ぎになっていた……え、海賊船?」
いくらなんでも現実味が無さすぎる。
船? 地上に? こんな巨大な? 船長? ブラムさんが?
ロジーナの頭は過負荷でどうにかなってしまいそうだったが、途中の単語が一つ引っかかってくれたおかげで何とか踏みとどまった。
「例の自称ご先祖様が残していたんだよ」
「あ、あぁー……いや、それにしても、頭が追い付かないというか……」
件の大海賊、アイフリード。突如現れてブラムの先祖を名乗った彼が関わっているのであれば、多少の……多少で片付けるには巨大すぎる気もするが、非現実感については飲み込むしかなかった。
「混乱しているところ悪いが、こっちだ。付いて来てくれ」
「はぁ、もう好きにするっすよ……」
半ば諦めの境地でロジーナはブラムに付いて行った。
茂みといくらかの資材で隠されていたが、船底側にも乗り込み口があり、陸上で運用する場合はそこから出入りすることができるようだ。
「動物とか入っちまうと困るから、他の入口を整備しねぇとな」
外から見た以上に船内は広く(本当にそうなのかもしれない)、無数と言いたくなる船室や設備が何層にも積み重なっていた。ブラム自身もまだ全容を把握したとは言い切れないようで、手にした見取り図を確認しながら階層を上がっていく。
「えーと、確かここを上がって……あったあった。ほら、この部屋だ」
ブラムの後に続き、ロジーナもその部屋へ入った。
「これは……食堂っすか?」
そこは階のほとんどを占めているかと思われる開けた空間だった。多くのテーブルと椅子が並べられており、片側にはバーカウンターや厨房への扉も見える。かつてどれだけの乗組員がいたのか分からないが、その席数を見るだけでも途方もない規模であることは窺い知れた。
「そうだ。だが俺たちには別のものにも見えるだろ? あのカウンターのあたりとか」
「んー……あ、ギルドの」
「そういうことだ。昨日の今日で改装はこれからだが、俺はこの船自体を新しい冒険者ギルドにしようと思ってる。移動するギルドだ。面白いだろ?」
大きく腕を広げて宣言するブラムは、さながら以前見た大海賊のようだった。
「ブラムさんの、ギルド……」
「ま、いきなり立ち上げたところで仕事なんてねぇし、今はむしろ怪しい船として物見の対象だけどな。それでジョーさんとかに提携できねぇかって話を……ロジーナ?」
「…………」
また規模の大きい話をと突っ込むこともなく、ロジーナはカウンターを見つめたまま立ち尽くしていた。
「流石に色々急すぎて頭が破裂したか? おーい、聞こえるかー? 目覚めのキスとか必要か?」
「……ううん、大丈夫」
「そりゃ残念」
ロジーナはぼんやりと返事をしながらしばらく動かなかったが、何か小さくつぶやくとブラムの方へと勢いよく向き直った。その顔はいつもの調子を取り戻したのか、目を輝かせた満面の笑みだった。
「うん、いいと思う! すぐじゃないかもしれないけど、きっと大繁盛するって、私には分かるの! だって……」
「おう、根拠は分からんけどありがとよ……だって?」
言いかけたところでロジーナの目が泳ぎ、誤魔化すように濁した。
「あ、いや……うーん、勘?」
「おいおい、急に信憑性なくなったぞ……」
確かに、と二人で笑い合いながら食堂の中を歩く。
「ふふ、でもきっと当たるっすよ」
「応援の言葉として受け取っておくか」
そのうちに船を発見した経緯やここに泊めた理由、今把握している設備やこれからの展望について軽く説明を受けた。聞きながらカウンターの内側や厨房を覗いていたロジーナだったが、一息ついたところで愚痴っぽくこぼした。
「はぁー、海賊船にギルド立ち上げかぁ……なんだか私が悩んでいたのが馬鹿みたいっすよ……」
「ああ、そういえば何か用事あるって話だったな。相談事か?」
「んー……うん。これを渡そうと思って」
ロジーナはポケットに入れていた鍵を取り出すと、ぽんとブラムの手の上に置いた。ちゃりと音を立てたその鍵をブラムは左手で摘まみ、目の高さへ持って行く。
「……鍵?」
「そう。この前ブラムさんがうちに来てくれた後、お姉と相談して実家を出ることになったっすよ」
「えっ、あの屋敷をか!?」
ブラムは随分と狼狽えたが、ロジーナとしては驚いて欲しいのはそこではなかった。
「私も名が売れたから独立しなよって言ってもらえて、それで小さいけど家を買ったっす」
「……俺が言うのもなんだが、お前も大概思い切り良いよな」
「どうも。で、その鍵をどう渡すか迷っている間に、まさかこーんな船とギルドの主になっているとは……」
じと……と文句ありげな視線を投げかけると、流石のブラムも少しばつの悪い顔をした。
「あー、いや、悪いな。俺も声をかけようとはしたんだが、どうにも入れ違っていたのか見当たらなくて……」
「うん?」
「ん? あれ、そういう話じゃないのか?」
「そんなこと気にする人がブラムさんと付き合うわけ無いでしょ」
「怒られてる?」
少し意地悪だったかもしれない。いや、伝え方も悪かった気がする。ロジーナはブラムの掲げた鍵を指でつつきながら、拗ねた声色で続けた。
「私はただ、これをもう少し勿体ぶったというか、ドラマチックというか、特別感のあるアイテムにしたかっただけ。どれだけ悩んでも今となっては、っすよ」
可愛くないな、とロジーナは思った。幼さを直していこうと日記にも書いたばかりなのに、自分のとっておきが他愛の無いものになったことで、へそを曲げるだなんて。
「いや? そんなことはないだろ」
「え?」
ブラムは左手を持ち上げ、天井から下がっているランタンに近付ける。光を間近で受けた真鍮の鍵は、キラキラと金色に輝いて見えた。
「恋人から貰う合鍵に勝る宝なんて、世界にいくつも無いと思うけどな」
「な……っ」
ロジーナは絶句したまま見る見るうちに耳まで真っ赤に染まり、たまらず両手で顔を覆ってしまった。
「おーおー、見事に赤くなってら」
「ほんっともう、ブラムさんは……よくそんな台詞を……」
「悪いが性分なんだ。……ありがとな、嬉しいよ。いいのか? こんな奴を家に上げて」
覆った手をずらして見上げれば、こんな時ばかり茶化しの無い視線と目が合った。少し滲んだ涙を見られるのが恥ずかしくて、怒ったような顔になってしまった。
「だめだったら渡してない……」
「……睨むなよ」
頭に手が置かれる。悔しいので反撃したかったが、ブラムの服に当たった拳はぽすっと気の抜けた音を立てた。
しばらくして落ち着くと、ちょうど昼時だった。二人はそのまま食堂で、慣れからかカウンター席に横並びで腰掛けた。もっとも、厨房には誰もいなければ食材だって用意していない。広げるのはいつもの保存食だった。
「さっきの話。ルアンシーさんとも話したけど、私はブラムさんがどこへ行こうが誰と話そうが何を見つけようが構わないっすよ。多分ルアンシーさんも同じことを言う」
ロジーナは慣れた手つきで包みを開きながら、真面目な雰囲気で切り出した。
「もともとそれを承知じゃなきゃ選ばないのもさっき言った通り。何を見つけようがについては悔しいかもしれないけど、それは今までもそうだから」
突飛な話が多すぎて忘れそうになっていたが、この船はこれまでの冒険の中でも格別な大発見で間違いない。そこに立ち会えなかったことが一人の冒険者として悔しいのは確かだった。
横を向き、隣に座るブラムをじっと見る。
「でも、どこへ行ったのか分からないとか、そもそも心配した方がいいのか分からないとか、そういうのは……ちょっと嫌」
言ってからばつが悪くなり、再び正面を向きながらロジーナは声のトーンを落とした。
「ルアンシーさんが引っ越し祝いに小さな掲示板を買ってくれて、それが今うちに掛けられているっすよ。もしこの船で遠出をするとか、数週間戻らないとか、そういう時はそこに書いて行ってほしい、かな……って」
「なんだよ、急にしおらしく……」
少し茶化され、ロジーナは拗ねた態度で視線を向けた。
「どこまでだったら言って負担にならないかなとか、こっちも色々考えてるっすよ」
「わかった、今のは俺が無粋だった。ありがとな、そこまで考えてもらって幸せ者だ」
まったく、とごちるロジーナに、ブラムは肩の力を抜いて続けた。
「まぁでも安心してくれ。いきなりドンと見せたから不安にさせたかもしれねぇけど、実際に遠出目的で動かすとなると結構な出費になるんだ、こいつ」
実際のところ、運用費について計算すると目が飛び出るような金額になってしまい、少し虚勢を張って話している部分はあったらしい。
「だから、そうだな……よっぽどお宝の目星が付いてるとか、旅費を負担してくれるような客が現れた時くらいだろうな。そうそう無いだろうよ」
我ながら随分な賭けに出たもんだ、とブラムは零す。ロジーナとしては複雑な心境であった。
「そうなんだ……って、それは安心していいやつっすか?」
「ちょっとは心配かけたいところだな……わかったよ。この船に限らず、事前に長くなりそうって分かる時はちゃんと書きに行くから」
「うん」
そうロジーナに約束するブラムは、今日一番優しい声色をしていた。
「だからそう泣きそうな顔すんな。せっかく可愛いんだから」
「誰が泣き……ブラムさん!」
「おもしろ」
食事を終え、ロジーナは改めてカウンター側から食堂を見回す。
「……大丈夫っすよ。きっと上手くいくから」
ロジーナはこの場所を知っている。見たことがある。
ブラムやルアンシーだけではない。テーブルの上に所狭しと資料を広げているエルフ、大はしゃぎで謎のアイテムを弄っているグラスランナー、肩に大きなオウムを乗せた吟遊詩人……今までに出会ってきた人々も、まだ会ったことのない人々も、皆がこの場所に集まり賑やかに過ごしている様子が、その瞳にはっきりと映っていた。
そしてもちろん、
「ねぇ、ブラムさん。ギルドを立ち上げるなら、私もやってみたいことがあるっすよ!」
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