Bracelet-冒頭サンプル-

 ——まだ小さい頃、空の色はどこも同じなんだと思っていた。

 夜明け前の少しずつ明るくなっていくグラデーションも、良いことが起こりそうな気配も、みんながそれを知っていて、自分と同じようにわくわくして太陽が登るのを待っているのだと。
 しとしと降る雨の冷たさも、雪のきらきらした輝きも、自分の見たものは皆も見ていて、世界中の誰とだって楽しくおしゃべりが出来ると信じていた。十歳になる頃ぐらいだったかな、そういう絵を描いてかわいいポニーテールをした先生に褒められたことも覚えている。
 それが大きな勘違いだと気付いたのはいつの頃からだろうか。世界中どころか、ほんのささいなことで家族とだって言い争うのが人間だ、と気付いたのは――。
 その時傷ついたはずなのに、その苦さも忘れすっかり大人になった青年は砂の上を歩いていた。
 マシンガンのPKMを背負い、左の脇の下にはハンドガン、SIGザウエルP226が装着されている。右の腰にぶら下がっているのは手榴弾だ。
 楽しいおしゃべりなんて、とても、とても。
 口ずさんでいた歌を途中で止め、小さく舌打ちをした青年は乾いた土を蹴り上げる。風には小石の粒が混じり、空の色は故郷より薄く高いところにあったが、太陽の光はずっと強いものだった。
 目の端を焼く、そんな鋭い光が注ぐここはアフガニスタン、ぎざぎざと尖った山々が連なる国だ。
 今や戦場の代名詞となっているこの国でも、昔は青年の子供時代のように、目を輝かせて日の出を楽しみにしていた人々がいたのだろう。
 ここへ来て長くはなるがこの感傷に慣れることはない。やりきれないな、と肩を落としたところで、背後から人影が近寄ってきていることに気付く。すぐに息を止めたが足音はなかった。どうやら少し気を抜いていたのかもしれない。
 もし、この影の主に殺意があったならば青年は喉元をかき切られていたことだろう。
 しかし、ここは安全な場所であるはずだ。
 一応のところは。
 青年はごくりと生つばを飲み込んだ後、警戒とは言わないまでも十分な緊張感をもって振り返る。
 そこにいたのは見知らぬ背の高い男だった。体の向きを変えながら左脇に伸ばした手はすでにホルスターのスナップを外していたが、彼は敵ではなかった。
 それどころか。

   やっぱりかわいい顔してたんだな

 こちらの警戒に気付いているだろうのに、脈絡なく、耳を疑うような言葉を口にしたのだ。
「あ、英語?」
 しまった。
 思わず口から出た第一声をとりつくろうように、青年、ノア・キャンベル、カナダ統合軍の特殊部隊、JTF―2(統合タスクフォース2)所属の一等兵曹は慌てて、足を揃え、すぐに神妙な顔付きを作った。階級章が自国のものと違っても、相手が尉官以上であることに気付かないほど間抜けではない。
 ただ、不意を突かれたような言葉がごくごくわかりやすい発音の英語だったから驚いてしまっただけだ。
 そんなノアの目の前にいるのは、スウェーデン軍の士官だった。北欧人らしく相当に背が高く、肌や髪の色、全体的に色素の薄い、およそ軍人には見えない整った顔立ちをした男は、無礼に気を悪くした様子もなかったが、愉快にも思っていないようだった。
 マネキンだってもう少し表情豊かだぞ、と思いながらもノアは姿勢を崩さず相手の出方を待った。
 目の色は深い青か、それとも緑か、灰色か。
 眼窩が深くくぼんでいるせいで強い日差しの下で濃い影になっていて、よくわからない。
「ああ。英語で構わないか?」
 一応のところJTF―2では英語、フランス語、それからもう一カ国語が話せることが入隊の必須条件になっている。ノアはその条件に実は正確に言えば達していないのだけれど(フランス語はティーンエイジャーが軽いおしゃべりをするようなレベル、スペイン語に至っては挨拶と買い物が出来る程度のものだ)、他のスキルでお目こぼしをもらっていた。
 軍人としてはすこぶる有能、という評価をいただいていたというのもあるが、実際のところ前線要員が足りなかった、という噂もある。
「……失礼しました、サー」
 つまるところ、ノアには英語しか、ろくにわからないのだ。
「かしこまらないでくれ……、その、……軽口のつもりだ」
 ノアのアフガニスタンでの駐留は合わせると三年ほどになる。乾いた土が肌の上に積もり層を作るのにもすっかり慣れたが、久々にひげをすっかり落としたばかりの今日のような日は、少しばかり染みて痛みさえ覚える。やっぱり生やしたままにしておくべきだったな、と思いながら指で頬のあたりを触りながらぶらぶら歩いていたところ、突然、上の方から声をかけられたのだ。
 ぽっかりあいた時間を持て余したとは言え、日差しが一番高く上がる時間に任務でもないのに外をうろつき歩くような物好きは自分しかといないだろう思っていたので、彼の正体がおおむね明らかになった後ではあったが、少しの警戒心を残したまま、ノアは様子を伺いつつ言葉を探す。
 もちろん姿勢は崩さない。
 ここはヘルマンド州の米軍基地から少し離れたところに張られた簡易キャンプだった。
 各国の特殊部隊と中枢司令官、そのブレーンが幾人かずつ、それからCIAらしき人間が二人ほど(軍服を着ていないので、ここでは目立った)が集まっていた。この周辺にいくつかの拠点を置いているタリバンと大麻の栽培している農民達のあぶり出し(それも生きるために仕方ない手段だと思うので、彼らを責めるのは気が乗らないが)、その背後にいる麻薬販売組織を分断させる、というミッションのためだったが、ついに昨日、一定の成果を上げることが出来た。
 カナダ軍としては、いつもの通り、米軍のお手伝いポジションで済んだのでだいぶ気は楽だった。この件に関わりのない農民達の保護と、負傷兵の搬送、そんなよくある難しくないミッションだった。それに珍しくCIAの持ってきた情報が正確だったのか、友軍の損失は最小限で済んだ、ということらしい。
 何名負傷、何名が死亡、という話は聞こうとしなくても耳に入るものだったが、ノアはなるべくなら聞きたくない、と願っていたので詳しくは知らない。
 ともあれ、今日付けでノアらJTF―2のメンバーはここでの本拠地であるカンダハルに帰投する。
「……軽口、ですか……」
 さて、それではこの目の前のエリートをどうしたものか。
 ノアは頬を指先でさすりながら、まずは相手の様子を伺うことにした。元はかなり分厚くひげを生やしていたが、ミッション明けのちょっとした打ち上げムードの中、同僚とのカードゲームに負けて、罰ゲームよろしくこの通りすべすべに剃り落とす羽目になったのだ。
 抵抗しようと思えば出来たが、それも余興の一つだったので、まるでティーンエイジャーの頃のようにきれいに剃り上げて見せた。
 ただ、それがこんな事態を呼ぶとは思いも寄らなかったので、正直なところ、どうすべきかがわからない。しかも米軍や英軍とならば多少の関わり合いもあったが、スウェーデン軍の人間と直接会話をするのはこれが初めてだ。
 確か、NATOには入ってなかったよな?
「やっぱりかわいい顔してたんだな」
 それに彼が口にしたのは、こんな台詞だ。これが彼の言う通り、仮に軽口だったとしても、肯定的な意味合いではまず聞かれないフレーズだ。戦地や軍隊内でこれを使う時はだいたいが強めの侮蔑を表す。
 ノアは軍に入った当初はかなりの童顔だったこともあり、相当これで馬鹿にされてきた。そのたびに取っ組み合いの喧嘩やら何やらで解決してきたが、真顔で少し上擦ったような声で言われるとどうしていいか、戸惑うばかりだ。
 そういう経験がないではなかったけれど、ごく普通の会話をする場合でも気後れしてしまう相手なのだ。階級も国籍も何もかも違い過ぎて、適当なところがわからない。
(クソ暑いってのに汗一つかいてない!)
 ぱっと見の印象で物を言って良いなら、何だか彼は違う生き物に見えた。
「……あなたもきれいな顔してますよ、Sir」
 ブロンドには憧れていた。よく見ていた古い刑事ドラマ(母の世代のものだ)のコンビの一人が長めのブロンドをなびかせレイバンのサングラスをかけているのが印象的で。フォード・グラン・トリノにはさほど魅かれなかったけれど、あんな髪形をした、あんな刑事になりたいと言って真似事をしていたものだ。
 しかしそのブロンドと彼のブロンドはだいぶ種類が違う。癖のないまっすぐな髪は砂にまみれているはずなのにきっちりと櫛が入って乱れなく撫でつけられている。正装をさせれば王子様のまね事も出来そうだ。
「……」
 不適切な台詞だったかもしれないが、そんな風に挑発でもしてみないことには相手の真意を探ることは出来ないと思ったのだ。
 彼のブロンドをこれでもかと輝かせる太陽から目を逸らしたノアは黙ってしばらく待つことにする。
 朝方の観測データでは今日の午後、砂嵐が出る可能性が高いとのことだった。もし、大きい砂嵐がこちらに直撃するようなことがあれば出発が遅れることもある。そう考えるとカンダハルにスウェーデン軍のベースはなかったが、もめ事を起こすのは避けておいた方が良いだろう。
 それからどれくらいの沈黙が二人の間を通り過ぎたろうか。こんなことなら一人で出歩いたりしなければ良かった。この強い日差しの下で長々立ち尽くす予定があればキャップをかぶって来たのに。
 待ちくたびれたノアは下唇を前歯で内側に巻き込むようにしながら、スウェーデン将校の顔を見上げた。これも不適切な態度なのだろう、身長差も手伝い相当に甘えた表情に見えるはずだ。しかし彼は問題発言の後、ほとんど何も話さず、じっとこちらを見つめたままなのだ。
 いい加減話を進めなくてはいけない。
 ノア自身けして小柄ではなかったが(街を歩けば長身の部類だ)、何となくの経験上自分の上目使いが「交渉ごと」に有効な手段だということを知っていたので、そのまま視線を動かさず、二、三回わかりやすいまばたきをした。
(……まずい)
 ノアはそこで無表情だと思っていた男に変化が表れていることに気がついた。
(やり過ぎたな……)
 ごくり、とのど仏が上下するのがわかった。そしてじわじわと目の周りが赤く染まっていくのも。それは残念ながら、粒子の粗い砂埃のせいでも、強すぎる日差しのせいでもないようだ。
 参った。
 ノアは一度視線を下に向け、それからまた彼に向ける。
 目の色は、ブルーグリーンに見えた。
 どこかで見たことのある色だったが、今すぐには思い出せない。
「エリクだ」
 会話としてはまるでつながっていなかったが、彼はそう言って少しだけ視線を外してくれた。とは言え、彼の視界の中に自分はきっかり全身収まっていることだろう。
 ノアはそれでも口の端で笑うことに成功し、少しだけ肩の力を抜いた。
 良かった、発音の出来る名前で。
 学生の頃、アイスホッケーの選手として国際大会にも出るような選手だったノアは同僚達より少しだけスウェーデンの名前に耳慣れているとは言え、そのほとんどが覚えるのが困難な発音ばかりで苦労したものだ。
 だいたいイェテボリが読めない。
 なんだあのスペルは。
「……失礼ながらSir、階級を教えていただけますか?」
 しかし、この通り戦地ではこれが何よりも大事だったりする。名字も教えて欲しかったがとりあえずは立場の線引きが必要だと思われた。
 出来るなら、早急に。あまり長くなると他の人間に見とがめられないとも限らない。直属の上官は若干神経質なところがあったので、彼に知られると面倒なことになりそうだ。
「大尉だ。エリク・……リンドベリ大尉」
 ミドルネームを言いかけて一瞬黙ったところを見ると、英語にはない発音なのだろう。愛想のなさとは裏腹に存外気遣いのできるタイプなのかもしれない。
(それなら早く解放してくれてもいいもんだけど)
 ノアはぺろりと噛んでいた下唇をなめると、彼の台詞を復唱し、少し戯けた敬礼をした。
「Captain Lindberg」
 軍人と言えば敬礼と思われがちだが、特殊部隊だとほとんど縁がない。訓練生時代に少しかじったぐらいだったりする。しかし、こういう時には色んな意味で十分に有効なのだ。
 たとえば、相手がこちらにどういう種類の「好意」を抱いているのか、確かめる時だとか。
「……」
 エリク(と、呼び掛けることは通常ノアには許されないが)は、そんなノアの態度に少し眉を寄せ、酷薄に見える少し手前の薄さの唇を何か言いたげにうっすら開きかけるが、すぐに引き結んでしまった。しかし視線はまたもまっすぐにノアを見つめている。
 なるほど、そんなにこの顔が気に入ったのか、と半ば呆れるような気持ちになりながら(目は口よりも物を言うとはこのことだ)、一つ、提案をすることで話を終わりにしようと試みる。
「……えっと、俺は、尉官からの呼び出しは断れないですよ?」
 一等兵曹ですから。
 そう続けて、もう一度唇をぺろりと舐めたノアは、目を瞠ったエリクに向けて、片目をつむる。ここがキャンプ地でなければいっそ頬にキスの一つぐらいくれてやっても良かった。
 これは正解であり、間違いだ、とはわかっていたが「てっとり早い」解決法に勝るものはない。こんな風にあからさまな「一目惚れ」をされるのは久しぶりだったので、愉快な気持ちになったというのもある。それに、すぐにカンダハルに戻れるという距離的安心感も手伝って挑発的な態度にも出られた。大尉程度の階級で、所属以外の基地に自由に出入りすることは出来ないはずだ。
 これっきりの会話になる可能性がほぼ九割、ノアはそう判断した。
 それに、せっかくなので愛想良くしておこうというのはけして悪いことではない、と思うのだ。軽薄に取られるかも知れないが、それも間違ってはいない。
「キャンベルです、サー。ノア・キャンベル」
 俺の名前。
 そう言ってにっこり笑いかける。口角をきゅっとあげたスマイルは挑戦的なそれに見えただろうか?
 士官様はそういうのはお嫌いですか?
「ノア」
 エリクはその名前を口にした後、ぐっと目を細めた。怒ったかな、と少し小首をかしげたノアだったが彼は長身を折り、身をかがめてこちらの耳元に、こう囁いた。
「話せて良かった、ノア」
 これからもよろしく。
「……え、ええ。こちらこそ……」
 ん? と思った時にはもはや手遅れだった。
 エリクはそのままさらに顔をこちらに近づけると首筋にキスをした。
 いや、キス、なんていうかわいげのあるものではなくて、あからさまに縄張りを意識する動物のように、マーキングを仕掛けたのだ。
 スウェーデン軍の大尉殿は赤く、くっきりとしたキスマークを見えるところに刻んで下さった、というわけだ。声を出さずに済んだのは厳しい訓練のたまものかもしれないが、体を起こしたエリクの表情は先ほどとほとんど変わらないままだった。
 それが面白くなくて、ノアは目に力を入れて彼を見返した。ひりついた感覚が残る首筋に手を当てる、なんて弱味も見せたりはしない。
「連絡する」
「ええ」
 待ってます、と言い終わる前にエリクはこちらに背を向け、遠く離れたところにあるはずのスウェーデン軍の宿営地に向かって歩き出した。
「……ん?」
 そこでようやくノアは気がついた。自分が今、立っている場所は米軍とカナダ軍の共用エリアで、今までその両国の人間以外の姿を見たことはなかったことを。作戦司令室もここからは離れている。カンダハルと違い、作戦を構成するメンバーであるスウェーデン軍の人間がうろうろしていても咎められることはないが、考えてみればかなり不自然だ。
 上官に報告を入れるべきか、と悩んだところでなぜか首筋のキスマークが痛んだ、ような気がした。
「俺のこと……知ってたのか……?」
 ノアはぽつりと呟くと、首をかしげた。
 そういう口ぶりであったことは確かだ。
 あるとすれば食堂としているテントで見かけたぐらいのことだろうけれどまったく記憶にない。あれだけの長身に整った容姿、一度見ていれば覚えていてもよさそうなものだったが。
「……まあ、もう会うこともないだろう……」
 そろそろ戻らないと、上官からの呼び出し連絡が入りそうだ。妙な緊張のせいで結構な汗をかいたはずなのに、昨日飲み過ぎた酒が抜けた気もしない。落ち着かなさだけが肌にまとわりついていた。
 もうどこにも彼の姿は見えないと言うのに、なぜだか、まだ見られているような余韻が残っているせいだろう。
 あれほどまでの凝視はそうそう経験するものではない。
 そんなこと、もうずいぶんと久しぶりだな、とノアは「あーあ」と聞こえよがしなため息をついてその場を靴先で蹴り上げると、元来た道を大股歩きで戻ることにした。
 砂よけのスカーフをあごのあたりまで引っぱり上げたのは、キスマークを隠すというより不機嫌面をごまかすためだった。
 ノアにもなぜ自分が眉間に皺を寄せているのか、頬を膨らませているのか、聞かれても上手く説明できそうになかった。
 やはり、世界中の人と楽しくおしゃべりをするのは難しいことなのだ。
 いい加減、夢を見るのは止めないと。

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