ある夏の死

 夏休みの宿題は毎日コツコツ進めとったタイプか、最後にガッと片付けるタイプやったかっち、みんなでえらい盛り上がりよって、なあ。わしだけ置いてけぼりやわ。

 例によってシナモンで時間を潰していた俺っちと合流するなり、こはくちゃんが拗ね気味に吐き出した。おっ機嫌悪ィな、と日頃大人びた言動の多い末っ子の態度を面白く思ったのも束の間。彼の興味の対象はテーブルについた瞬間から、涼しげな色をした季節限定メニューへと向いたらしかった。
「ニキはん。わしあんみつ食べたい」
 はいはぁ〜い、と厨房の方から間延びした返事が聞こえる。ブルーのゼリーがいかにも夏らしい、写真映えしそうなあんみつプレートは今日までの提供だそうだ。
 九月になったら。つまり明日からは、あちこちの店が競うようにさつま芋やら栗やら南瓜やらを使ったスイーツを並べはじめる。色づく野山や虫の声などではなく、そんなものに秋を感じるのだから都会は不思議だ。
「ま、俺っちも学校行ったことねェし? ニキの奴がまともに宿題やってたとも思えねェし、たぶん俺っちたち、仲よく置いてけぼりっしょ」
 気にすンなってェ、燐音くんがいるっしょ♪ 二ッと歯を見せればこはくちゃんは対照的にくちびるを尖らせた。
「は? うっさ、べつに気にしとんのとちゃうし」
「拗ねてますかァ〜?」
「拗ねとらんわやかましい」
「ほォ〜ん?」
 頭のうしろで手を組んだ俺っちは赤いソファの背もたれに体重を預けた。自然とこちらの目線が高くなり、紫色のジト目が鋭さを増す。こえ~こえ~。
 こはくちゃんの気持ちはよくわかる。自分の育った環境は“普通じゃなかった”ンだと知った時の、あの言いようのない孤独。てめェらにとっての『あるある』は俺っちにとっちゃ『ないない』だっての。当たり前みてェな顔して話振ってくるンじゃねェぞカス、なァんて思ってた時もあったっけなァ。
 そう、よォくわかるぜこはくちゃん。だから俺っちはにやにやを引っ込めて、繰り返す。
「気にすンなって。思い出ならこれからいくらでもつくれる」
 何しろ『Crazy:B』は万年夏休みみてェなもんだ……そう続けたのは間違いだった。
「ほんならはよ仕事取ってこんかい!」
 俺っち今いいこと言ったのに! せやなあ途中まではな! 器用にも照れながら怒るこはくちゃんに追い立てられて、俺っちはすごすごとシナモンから退散した。



 あいつは、メルメルはどうだろう。(ただでさえ身の上話をしない奴だけど)あいつの口から学校の話題が出たことなんて一度もない。まァ、俺っちに与えられてる情報から推測すれば、恐らくあいつもおんなじ。まともに通学なんかしちゃいねェ、青春が青くなかったタイプの人間であるはずだ。

「季節が過ぎゆくことに関心も感傷もありませんよ。関心があるのは、HiMERUが愛されるアイドルでい続けるためにはどうすべきか。それだけです」

 ラブホテルの無駄に大きなテレビが映す、どこぞの花火大会の中継。暫時、開いては黒い闇に吸われて溶けていく光の花を見るともなしに眺めていると、すこしの距離を空けてベッドに臥せっている背中が喋った。
「あ〜っそ。情緒のねェ奴」
「あなたにはあるとでも言うのですか、その情緒とやらが」
 やけに刺々しい言い草だ。顔が見えなくてもわかる。俺っちの発言が彼の癇に障ったのだ。
 メルメルはなかなかに難しい奴で、俺っちが持ってて自分が持ってねェもんがあるとどうにも気に食わねェらしい。それがダンスのスキルであれ、単なる言葉遊びで口にした“情緒”とかいうぼんやりしたもんであれ、きっと大差ない。可愛らしい負けず嫌いだ……なァんて言おうもんなら一生ラブホになんか来てくれなくなるだろう。
 無駄にでかいのはテレビだけじゃなくベッドもだ。ふたりで寝ころんでも俺らの間には数十センチの距離がある。その邪魔な距離を、俺っちは詰めた。腕を回せば汗ばんだ肌と肌がしっとりと吸いつく。ひょっとして俺らこのまんまの形でオギャーって生まれてきたンじゃねェの、ってくらいに収まりがいい。なんつってな。今は冗談を言う場面じゃない。
「あるよ」
 意識して声のトーンを落とす。ひそひそ話をする時の声で答えた。ここにはふたりしかいないのに。腕でつくった囲いの中で、身体の向きを変えたメルメルが疑わしげにこっちを見上げた。
「ほんとうに?」
「うん。あるよ、情緒」
 だから今日、おめェに会いたかったンだし。金色の目がぱちくりとまたたく。
「なんとなく寂しいもんなんだよ、夏が終わるって。理由はねェけど。たぶん学校とか夏休みとか関係ねェんだと思う。そういう風にできてる」
「──わかりません」
 フフッ、そうだよなァ。メルメルのよく手入れされた髪、つむじのあたりに鼻先をうずめ、笑みを零す。情緒のねェHiMERUくんにはわっかんねェよなァ、こんなこと言っても。どぉーん、ぱらぱらぱら。備え付けのスピーカーからは、火薬の爆ぜる音が控えめに流れ続けている。臨場感の欠片もない。ああ、あんなにも遠くで、夏が逝ってしまう。そうしてしばらく、抱き合ったまま、花火の音だけを聞いていた。

「……なつは、」
 ぽつり、ぽつり。低い声が、眠くなってきたのかやや舌足らずに、言葉をつむぐ。
「きらいです。汗を、かきますし……日射しは、つよいし。天城は見てるだけで暑苦しいし」
 うんうん、わかるよ。俺っちも同じっしょ。最後のはちょっとわかんねェけど……それで?
「どこへ行ってもひとが多くて。夏休みなんて、うっとうしいだけ。……でも」
 うん、そうかも。そうかもなァ。でも?
「あんたと汗だくで抱き合うのは、意外と悪くないって思う」
「……え」
「肌と肌がぴったりくっついて、くっついた場所から溶けて混ざって、ひとつになれそうな気がする。それは不思議と、悪くない感覚だと思う、かな」
 ふふ、とそいつが笑う。待て待て、寝るな寝るな。俺っちは期待と熱とを視線に込めて、金色の奥を覗き込んだ。
「……もっかいする?」
「馬鹿言うな、おやすみなさい」
「おやすみできるかァ! 馬鹿言ってンのはてめェだ!」
 メルメルは本当に寝てしまうつもりらしく、ベッドの隅でくしゃくしゃになった布団を引き寄せて被ろうとする。そんな所業が許されると思ってンのか。
「おま……ぶッ⁉」
 布団を剥ぎ取りにかかるが、逆に腕を引かれ布団の中に引き摺り込まれてしまう。今度は俺っちがメルメルの腕に囲われる番だった。
「寂しいのでしょう。なら大人しく抱かれていればいいのですよ」
「……おっとこまえェ……」
 抱かれたのはおめェの方っしょ、なんていう揚げ足取りは野暮だ。俺っちは火照りの引きはじめた胸に言われるがまま頬を押し当て、目と口を閉じることにした。
 とくとくと、触れた場所から心音が聞こえる。ふかふかの布団越しに微かに聞こえる花火の音も、どこか心音に似ている。

 きっと誰にでもある感傷だ。ひとつの季節が死ぬとき。何かをやり残したような、何かが指の間から零れて落ちるような、やるせなさと後悔がよぎる。なぜだか夏はそれが顕著で、何度もうしろを振り返りたくなる。それだけのこと。
「寂し……かった。でももう、平気かも」
「ふふ。天城って見かけによらず、センチメンタルというか……なんというか」
「女々しいって?」
「そうじゃなくて。なんというか……純粋なんだなと」
「……褒めてンのか?」
 生は先にしか進まない。鼓動は生きる限り刻み続ける。振り返っている暇はないと俺っちに教えたのは、情緒を解さない男だった。
「次の夏は、一緒に花火を見に行きましょうか」

 どぉん。最後のひとつが弾ける。あとには残像、静寂、そして夜の闇。いつしか遠くで、夏は逝った。

powered by 小説執筆ツール「notes」