クラウス・リオッサ - 『紫苑』

第一章:勿忘草

アルフレイム大陸北西部、ドーデン地方にある鉄道の都キングスフォール。リオッサ家の書斎は重い空気に包まれていた。机の上には、一枚の手紙が無造作に置かれていた。

『行ってきます。心配しないで。――ヴィルマ』

たったそれだけの文章が、クラウスの胸を鋭い氷の楔のように貫いた。彼は拳を握りしめ、爪が掌に食い込むのを感じた。護衛としての失態だった。しかしそれ以上に、兄として果たすべき責任を放棄したことが、彼を苦しめた。

彼は窓辺に立ち、かつて二人で植えた庭の薔薇を見つめた。ヴィルマが「お兄ちゃん、見て!つぼみができたよ!」と嬉しそうに叫んだ日のことを。あの笑顔を守るために、彼はこの家に来たはずだった。いや、守るためだけではなかった。彼に初めて与えられた、「家族」という温もり。戦術や潜伏ではなく、無邪気な会話と分かち合う時間。彼は「クラウス・リオッサ」という人物を、そこで必死に紡いできたのだ。

ふと、彼の脳裏に「施設」での教官の声がよみがえる。
『感情は刃を鈍らせる。絆は最大の弱点だ。』

「……戯言め。」
クラウスは低く呟いた。あの暗い日々から彼を引き離し、光を見せてくれたのは、紛れもなくこの家族だった。養父母の温かな眼差し。ヴィルマの無条件の信頼。それらは、「施設」が教え込もうとした「弱さ」などでは決してない。守るべき「強さ」の源だ。

彼は決意した。二つの役割を全うすると。
護衛として、彼女の身を守る。
兄として、彼女を連れ戻す。

ごくわずかな私物を鞄に詰め込んだ。変わったものは、何もない。ただ、ヴィルマが幼い頃に描いた家族の絵を、胸のポケットへしまい込んだだけだ。

ドーデンの地を踏みしめ、クラウスは旅立つ。追憶の中の温もりを胸に、そしてかつての闇の訓練で培った嗅覚を研ぎ澄まして。
彼女が残したわずかな痕跡を。彼女を狙うかもしれない危険な気配を。

「待っていろ、ヴィルマ。」
「必ず、お前を守り通してみせる。」

彼の旅は、妹を探す旅であると同時に、「施設」の道具だった過去と、リオッサ家の兄である現在を統合する、自分自身への答えを探す旅でもあった。


第二章:霞草 ―五年前―

五年前、雨の降る夜のことだ。「聖フロリアン孤児院」と呼ばれる石造りの陰鬱な建物の門前に、黒い馬車が止まった。十二歳のクラウスは、教官の指示通り、最小限の荷物だけを持って馬車に乗り込んだ。

「覚えておけ。お前の任務は観察と保護だ。余計な感情は挟むな」

教官の冷たい声が耳朶に張り付いていた。馬車の中には、イグナーツ・リオッサという温和な顔の男が、優しい微笑みを浮かべて待っていた。

「君がクラウスくんだね。これからは我が家の一員だ。わがままな妹を、よろしく頼むよ」

その言葉に、クラウスは訓練通りに低頭した。「かしこまりました。ご主人様」

「いやいや、『父』と呼んで構わない。堅苦しいことは、この家では必要ないんだ」

その言葉の温かさが、当時のクラウスにはまったく理解できなかった。彼は任務として、仮面として、リオッサ家の養子という役割を演じるだけだった。

――全く別世界への、あまりにも穏やかな導入だった。


第三章:待雪草 ―一年前―

リオッサ家での生活は、クラウスにとって「施設」での日々とは全く異なるものだった。規則正しいが温かい食事。決して必要以上に干渉しない養父母の配慮。そして何より、妹であるヴィルマの存在が、これまで普通の家族というものを知らなかった彼の世界に、少しずつ色をもたらしていった。

彼は表向き、ヴィルマの遊び相手であり、学友であり、やがては護衛となった。養父イグナーツが貿易商として多忙になるにつれ、クラウスは自然とヴィルマの身辺を守る役目を担うようになる。

その裏では、「施設」との定期的な連絡が続いていた。月に一度、市場の特定の店舗で暗号化されたメッセージを交換する。内容は常に簡潔だった。
『状況報告せよ』
『異常なし』
──クラウスは最小限の情報だけを伝え続けた。

しかし、一年前。流行病によって義父母が急逝したことで、クラウスの内面に決定的な変化が訪れる。

喪服に身を包んだ小さな少女が、真っ赤に腫れた目をしながらも、クラウスを見上げて言った。
「お兄ちゃんは……これからもそばにいてくれる?」

その声には、悲しみと、かすかな期待が混じっていた。クラウスは訓練で教え込まれた慰めの定型文を口にしようとした。だが、言葉が出てこなかった。
代わりに、彼は無意識にポケットから取り出した、戦闘糧食として与えられていた硬いキャンディーを差し出した。

「もちろん。君が望む限り、ずっと兄としてそばにいさせてほしい」

ヴィルマは一瞬目を見開き、そしてふっと笑った。涙がまだ頬に光っていたのに。
その瞬間、クラウスは初めて「任務」以外の何か──この小さな人間を守りたいという偽りのない衝動を、胸の奥で感じた。

第四章:向日葵

クラウスは義父母の遺品整理のため書斎に立ち寄った。机の前に立ち、養父イグナーツの日記帳を開く。最後の数ページをめくると、養父の力強い筆跡が目に入った。

『クラウスがこの家に来てから、ヴィルマは少しずつ笑顔を取り戻している。あの子には兄が必要だったのだ。時折、クラウスの目に尋常でない鋭さを見ることがある。過去に辛いことがあったのだろう。だが、彼がヴィルマを心から大切にしていることは疑いない。我が家に来てくれて、本当に感謝している』

クラウスの喉が詰まった。養父は彼の真実を見抜いていたのだろうか。それとも、ただの親心からそう書いたのか。いずれにせよ、この言葉が偽りではないことを、彼の胸が一番よく知っていた。

彼は日記帳を静かに閉じ、ポケットからもう一つの小さなノートを取り出した。これは「施設」時代の訓練記録の一部だ。ほとんどが暗号化されているが、ただ一カ所、平文で書かれた教官の言葉がある。

『感情は刃を鈍らせる。絆は最大の弱点だ。お前たちは道具として完成されねばならない』

長年、クラウスはこの言葉を絶対的な真実として信じてきた。確かに、感情に流されれば判断を誤る。絆があれば、それを脅威に利用される。これらは「施設」という闇で生き延びるためには、ある意味で正しかった。

しかし、リオッサ家での四年間は、その「真実」とはまるで異なる何かを教えてくれた。

感情は確かに刃を鈍らせるかもしれない。だが同時に、守るべきものへの揺るぎない執着を生み、想像以上の力を引き出す。絆は弱点かもしれない。だがそれ故に、人は誰かを信じ、寄り添うことで、独りでは越えられない困難を乗り越えられる。

クラウスはノートを破り捨てようかと思った。しかし、手を止めた。これは彼の一部だ。否定すべき過去ではなく、乗り越え、その上に立つべき土台として受け止める必要がある。

代わりに、彼はノートのそのページを引き裂き、暖炉にくべた。炎が紙を舐め、包み込み、教官の言葉を灰へと変えていくのを見つめながら、クラウスは心の中で静かに呟いた。

「お前たちは間違っていた……感情も絆も、弱点などではない。それこそが……人間が弱さを超えて強くなれる、唯一の理由なのだから。」


第五章:薊

その夜、クラウスはヴィルマや亡き義父母のために、「施設」に抗うことを決意した。

「リオッサ家の資産管理は複雑化している。ヴィルマ・リオッサの護衛に専念するため、追加任務からの解放を求む」

しかし、驚いたことに、「施設」はあっさりとそれを認めた。教官からの最後の伝言はこうだった。

「お前の判断を認める。ただし、最終的な緊急時には、指定の合図で動け」

クラウスはその時、ようやく「施設」の糸から解放されたと思った。彼は完全に「クラウス・リオッサ」──ヴィルマの義兄であり、護衛である男になれると信じた。


第六章:蝦夷菊 ―半年前―

そして、半年前。全てが音を立てて崩れ始めた。

久方ぶりに密偵が届けた羊皮紙には、短く残酷な命令が記されていた。
『ヴィルマ・リオッサを暗殺せよ。期限は三晩後。』

当主が不在のままとなっているリオッサ家に、最早利用価値がないと判断されたのか、あるいは別の思惑か──真意は不明だった。クラウスが解放されたと思い込んでいた「施設」の糸は、決して切れてなどいなかったのだ。
無論、クラウスにこの命令を遵守する気など毛頭ない。
しかし、命令が実行されなかった時点で、彼が「施設」を裏切ったことは明らかとなる。そうなれば、クラウスもヴィルマも、施設によって手配された者たちの標的にされることだろう。

三晩。
彼はその全てを、抗う手段を考え続けることに費やした。ありとあらゆる可能性を検討し、頭の中で幾度となく駆け引きを繰り返した。断ち切れたと思っていた呪縛が再び首を締めつけてくる重圧に、心身は消耗していった。

四日目の朝。疲労が骨の髓に染み渡るクラウスが、ほとんど無意識に食堂へと向かう。しかし、いつまで経ってもヴィルマの姿は見えない。
命令のこともあり、不審に思ったクラウスが彼女の私室へ急ぐと、ドアは軽く押し開き、中はもぬけの殻だった。机の上には、一枚の手紙が無造作に置かれている。

『行ってきます。心配しないで。――ヴィルマ』

彼女は、全てを知っていたのか。
それとも、別の理由で消えたのか。
握りしめた拳が、わずかに震えた。


第七章:紫苑

夕暮れが迫り、屋敷の影が長く伸び始めた。クラウスは最後の確認を終え、リュックを背負って玄関を出た。使用人たちが心配そうに見守る中、彼は一言だけ告げた。

「ヴィルマをお連れします。どうかご安心を」

その言葉には、護衛としての確信と、兄としての揺るぎない決意が込められていた。

森へと続く道は暗くなっていくが、クラウスの目は闇を切り裂くように前を見据えていた。彼の足取りに迷いはなかった。過去の訓練と、今この瞬間の決意が一つになった、確固たる歩みだった。

遠くで狼の遠吠えが聞こえた。アルフレイム大陸には、獣も、賊も、そして「施設」の者たちも潜んでいる。
だがクラウスは恐れなかった。むしろ、それら全ての危険がヴィルマの身に及ぶ前に、彼女を見つけ出さねばならないという焦燥が、彼を前へ前へと駆り立てた。

星が一つ、また一つと空に輝き始めた。クラウス・リオッサの旅は、ようやく本当の意味で始まったのだった。

「どこにいても、どんな理由であれ、僕は必ずお前を見つける」
「たとえこれが『施設』の罠だとしても、たとえお前自身が僕を試しているのだとしても」
「僕はお前の護衛だ。そして何より、お前の兄だ」
「この誓いだけは、決して破らない」

彼を待つのは、失われた妹との再会か、それと思いもよらぬ真実か──それすらまだわからない、長い夜の始まりであった。

(了)

powered by 小説執筆ツール「arei」

29 回読まれています