アンチ残業

「なんかさー、最近帰り遅いね」
「そうかな?」
「残業ってやつ?」
「まあそういうやつだね」
 とぼけたわたしの返事に悠仁くんは繋いだ手を強く握り直しながら少し面白くなさそうな顔をしていた。分かりやすいむすっとした表情が可愛くてじっと見ていると、「なににやけてんの」と言われてしまう。我慢していたはずなのに顔が緩んでしまっていた。
 平日の夜に会う日、悠仁くんはわたしのマンションの最寄り駅まで迎えにきてくれる。寒くなってきたから最近の彼の手は少しなまぬるいことが多い。
 コンビニに寄って悠仁くんにあげるジュースとお菓子を買った。でも本人は「こんな時間から食べたら虫歯になるよ」と言うので、自分の分だとは思っていないみたいだ。
 夜の道を悠仁くんと手を繋いで歩く。わたしよりずっと年下で、背丈はそんなに変わらないはずなのに、彼の手は大きくて指も太くて、恋人繋ぎをするとちょっと手が疲れる。きっと悠仁くんを形成するのものはすでにほとんどが男のひとのそれになってきているんだろう。嬉しいような寂しいような複雑な気持ちを押しつぶすように、強く悠仁くんの手を握り直した。
「でもそっか、最近ちょっと待たせちゃってるね。ごめんね」
「や、俺はいいんだけど。俺が迎えに来れない時も遅かったら心配だなって思っただけ」
 前を向いたまま当たり前のように言われた。その横顔を見て、やっぱり好きだなあと思う。当たり前にわたしのことを大事にしてくれる悠仁くんは時々眩しい。そんなふうにされていいのかな、と自分でも戸惑うことがあるくらい彼はいつも優しいのだ。
 しばらく歩いたところでマンションについた。オートロックを抜けてエレベーターに乗ったら部屋まではもうすぐだ。最初に来たときはどことなく緊張している様子だったのに今となってはすっかり慣れてしまったらしく、悠仁くんはわたしより先にエレベーターのボタンを押してどんどんと部屋に進んでいく。
 部屋の扉も悠仁くんが合鍵で開けてくれた。そのまま足早に洗面台へ向かって手洗いとうがいをすませる。わたしがのろのろとコートを脱ぎながら「なにか飲む?」と声をかけると、悠仁くんがやってきてぱぱっとコートをハンガーにかける。そのままソファに腰掛けて、隣をばんばん!とわざと音が出るくらいの力で叩かれ、急かされてしまった。
「いいからこっち!」
 必死なようで少し切なそう。そんな顔でわたしを見る。外にいるときはまるでおとなしくてそれこそ大人びて見えたのに、今はそうでもない。
 誘われた隣に座ると悠仁くんはほとんど身体をわたしに向けながら両手を握ってくれた。
「明日休み、なんだよね」
「うん」
「…大丈夫?疲れてない?」
「ううん。悠仁くんに会ったらぜんぶふっとんじゃった」
「ふうーん…そういうこと言うんだ…」
「久しぶりにゆっくり過ごせるからうれしいね」
 気持ちのままに顔が綻ぶ。悠仁くんは?と聞くと返事のかわりにキスをされた。すぐに離れていったけどちゃんと近くにいる。おでこをくっつけあってわたしたちはなんとなく笑った。
「ナナミンが残業嫌いな気持ち、分かったかもしんない」
「(ナナミンて誰だろう…?)」
「はい。じゃあバンザイして」
「えっ!?ちょっと待って、その…それは…」
「嫌?」
 嫌なわけじゃない、という意味を込めてじっと悠仁くんを見つめてもきょとんとした顔で返されるだけで求めてる答えは返ってこなさそうだった。
 彼はなんの躊躇もなくわたしの服の裾に手をかけていて脱がそうとしている。久しぶりにゆっくりできる金曜の夜、そういうことをしないわけはないとわたしも勝手に思ってしまっていたけれどいくらなんでも性急すぎる。
「…お風呂、入りたい…」
「俺はもう待ってるあいだにシャワー浴びたよ」
「!? ずるい!」
「今日暇だったから」
「じゃあ待ってて」
「いいよ気にしなくて」
「わたしがするの!ぜったいやだ!」
「ふーん…」
 悠仁くんは時々こういうところがある。自分はちゃっかり用意をすませているのにわたしにはそれをさせない、というか求めていないのではないか?と思うことがあるくらいだ。どんなに相手が気にしないと言っていてもこれはそういう問題ではないので譲るわけにはいかなかった。
 彼の手をそっと離して「お風呂入ってくる」と逃げるようにソファから立ち上がった。悠仁くんは「えー」とぶすくれていたけれど折れるわけにはいかないのだ。
 洗面台に移動すると、ついてきていたのかドアの隙間からぶすくれたままの悠仁くんがこちらを覗いていた。
「俺も一緒に入る」
「…さっき入ったんでしょ?」
「エチケットとして?」
「言ってることむちゃくちゃだよ悠仁くん!」
「だってもう我慢できねーもん」
 さっきまでのちょっと可愛い拗ねた男の子が一瞬で消えて、じとりと熱のこもった目で見つめられたと思ったらもうすでに唇を奪われていた。「俺が脱がせてあげる」とキスをしたまま言われ、器用に服を脱がされていく。本当にもう一度入るつもりらしい悠仁くんも服を脱ぎ始めた。その間も、少しも離れるのが惜しいと言うようにわたしたちはキスをしたままだった。
 シャワーを浴びるというよりもほとんど頭から被るようにしてくっついていたから口の中にお湯が入ってくる。欲のこもった悠仁くんの目に射抜かれてわたしの体はシャワーのせいだけではないくらい熱を持っていた。
「仕事ばっかで俺のこと忘れられたかと思った」
「ゆ、じくん…っ」
「寂しかったのって俺だけ?」
「あ…っ」
 まだ、裸で抱き合ってキスをしていただけなのにすっかりその気になってしまっているわたしのそこに悠仁くんのが当てがわれた。その硬さに、わたしの身体の奥が明確な熱を持つ。とろけてしまいそうな期待と興奮で悠仁くんを見つめたけれど、彼は少し不機嫌そうな顔をしてそれ以上押し進めてはくれなかった。
 縋るようにして彼の肩に捕まって身体を擦り寄せる。それに反応して悠仁くんの身体がびくりと跳ねた。
「ずるいって、そういうの」
 噛み付くようなキス、というのは悠仁くんのするキスのことだと思う。他の人とこんなふうにしたことがないから分からないけど、食べられてしまいそうな、このまま本当に食べてほしいような、溺れるようなキスが上手だ。
 息継ぎの合間にわたしも寂しかったと伝えると、彼は恍惚とした表情を見せた。そのまま足を持ち上げられて待ち侘びた快感をわたしがだめになるまで与えてくる。
 息が止まりそうで、それが気持ちよくて、いつのまにかシャワーは止まっていたのに本当に溺れて死んでしまいそうだった。

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