煎餅

世界にはまだまだ知らない世界が広がっているのねえ、と目の前に広がる景色を見て麻上夕紀は思った。
「これ、もしかして全部カレー味?」と尋ねると、譲介は「はい、そうです。」と頷く。被っていたタオルを外して首を動かすと、頭のてっぺんからはぽたぽたと雪が解けた水が滴る。
「譲介君、もうちょっとちゃんと頭拭いたら?」と言うと、はい、と返事が返って来る。
K先生の三番弟子である和久井譲介は、真面目で、医学に対してストイックで、そしてカレーが好きだ。偏食の子どもに近い最後の特性が邪魔をしてこれまで気づいて来なかったのだが、この子は本当に顔がいい。
二月。
冬のさなか、雪山登山仕様のアノラックを身に付けて往診に出かけた譲介君は、どこで手に入れたのか、診療鞄の他に、ビニールに包まれたポスターサイズの紙袋をパンパンにして診療所に戻って来た。
中から出て来たのは、スーパーで買えるようないつもの銘柄のカレー味のパッケージから、カレーうどん味と書かれた有名店の監修商品、明らかにどこかの手土産と思われる箱入りまで多種多様な、というには限定的な味のお煎餅たち。折しもバレンタインの直前の診療日。いつもの食卓が、さながらモンドセレクションの選定と言った雰囲気になっている。
「……譲介君、今日そんなに色んなお宅を回って来てないでしょ。」
今日は、午後からの雪を警戒し、日向地区を回ってから、そのまま帰って来たはずだ。
一月の終わりから二月にかけてのこの時期は、余程の晴天が見込めない限り、午後は診療所で待機をすることが多い。
K先生が一人で往診していた時期は、日暮れて横殴りの雪に見舞われて帰宅が困難になった場合でも、天気の回復を待って患者の家に戻ることにしていたけれど、この和久井譲介という青年は、帰宅するなり、イシさんのカレーが食べたいです、と言って、まるで空腹を抱えたゾンビのようになって戻って来るので、結局は折衷案で、時間を巻き加減にしながら、午後の二時からは診療所でテレビ電話や電話を介して問診するということになったのだ。
そんなこんなで、譲介君が使っている部屋にも、先日とうとうパソコンがやって来た。譲介君本人は正直には言わないけれど、一也君と時々、新しい症例や村の人たちの既往症の確認でパソコンメールを交わしているらしい。
「それが、今日回れないお宅の皆さんから預かってきたって柿崎さんのお宅で手渡されて。」
「……そうなんだ。」
背後でK先生がギュッと眉間に力を入れているのが分かった。
「先生、これはチョコレートじゃないからセーフですよね。」と振り返ると、「……うむ。」と診療机でカルテを見ていた先生は肯定とは程遠いような顔で頷いた。
「チョコレートじゃないならセーフって、なんスか?」と譲介君が首をかしげる。
「この診療所、昔からバレンタインデーのチョコレートは禁止なのよ。理由って言うのは、」
「……麻上君、それは。」
「いいじゃないですか。譲介君だってことの背景を理解しないと。」
わたしもこんな話、本人がいないところで、とは思いますけれど、どうせ先生は連絡取り合ってるようだし、直ぐに本人に話しが行くでしょう。おそらく。
「はあ。」と事情を知らない譲介君は、雲行きが怪しい様子を察知して困った顔をしている。
「で、理由って言うのはね、表向きはバレンタインデーのチョコレートの食べ過ぎで一也君が虫歯になった、って話にはしてるけど、」
「あ、それ、僕も聞きました。僕も先生から歯の定期健診受けてますし、一也も同じだったとしたらあいつがいきなり虫歯になるって信じられませんよ、かと言って、まあ話してくれた方にはそれが嘘じゃないかとも言えませんし。」
「実際はねえ、Kの方がチョコレート多く貰ってる、って先生に食ってかかる人がいたからなのよ。」
「ええ? それって、この村の人ですか?」
譲介君が、まさか、という顔をしている。そのまさか、なのよねえ。
「……。」
先生は沈黙を守っている。
そりゃあまあ、盟友の不利になることは言えないでしょうけど。
こんな日まで義理堅くなくとも、と思ってしまう。
「今年から診療所ではチョコレートは禁止だ、って。こーんな顔で。」と真剣な時のK先生の真似をすると、「似てないっスね。」と譲介君から即座にツッコミが入って来た。
「え、そう?」
「チョコレートは禁止だ!」
このぐらいじゃないですか、とへの字口で腕を組む。迫力は全然足りてないけど、なんだか妙に可愛い。
「今日の譲介君、やけにノリがいいわね。」と返事をすると、譲介君はぎょっとしてK先生の方を向き直って、「……すいません、差し出口でした!」と言って、いつの生まれ、と思うほどの四十五度の敬礼をした。
しまった、今のは失言だったのかしら。
こういう時には四角四面で、先生のこと敬愛してて、ほんと真面目なのよね……ここにいるうちに、一也君くらいは柔軟になって貰わないと、と思ってるけど、直ぐには難しそう。
「それにしても、ちょっと多いわね。これ、勉強の合間に食べていけば大丈夫かしら。」
手土産系の個包装はともかく、殆どが袋だ。しけらないように缶に入れておくとしても限度がある。
「それは、流石に本が汚れてしまうので。食事の後にちょっとずつ食べて行くにしても、なかなか食べきれないと思います。多分、いつも野菜を貰う時みたいに、ここでイシさんが来た時に一緒に分けて食べた方が。」
「そう? 譲介君がいいならそうしましょうか。」
「譲介、それでお前はどうする。」話が一区切り、と思っていたところで、K先生が口を開いた。
「え?」と譲介君が先生に顔を向ける。
そういえば、こういうのが久しぶりで忘れてたけど、バレンタインデーにチョコレートを貰った人がまず考えることが他にもあったわね。
「こういうのはお返しが必要だろう。」
「あ!」
先生に水を向けられて来月のホワイトデーのことをやっと思い出したらしい譲介君が困った顔をしている。中学時代とか、高校の時とか、譲介君なら全く貰ったことがないわけでもないわよね。その時はどうしてたのかしら。
「まあ、一也君はまだ学生だったから、受け取ってありがとう、で済んでたけど、この場合は、お返しを考える必要があるわね。……先生、」どうしましょうか、と目で尋ねる。
ピンからキリまで、という言葉はあるが、これはちょっとデリケートな問題かも。
大袋のチョコレートを持ってきてざらざら渡していた光景も、あれは富永先生の愛嬌があればこそ、という気がするし。かといって、冬場の忙しい時期に譲介君に時間を取らせるのも。
「これを診療所で分けたことにして、後はイシさんに何とかして貰えない、こともないと思うが。」
「それでいきましょうか。」
先生の助け船に、譲介君はホッと胸を撫で下ろしている。
折しも、天候の確認のために付けっぱなしにしていたラジオからは、警報のニュースが流れて来る。
夜からは暴風、暴雪警報、か。
まあ、今は畑仕事のある夏とは違う。村の皆は、外には出ずにこたつで丸くなっていてくれるでしょう。
……だといいな、とこういう日に無理をしそうな人の顔が頭にちらついてしまう。
これはもう職業病ね。
「譲介君、K先生、今日の午後は臨時の休診にして、村井さんも呼んで、皆でカレー煎餅の食べ比べの回にしません?」
「譲介、それでいいか。」と尋ねると、はい、と譲介君が返事をした。いい返事。
「この間、狭山茶のいいのをいただいたので、それで食べましょう。」
「楽しみです。」と譲介君が笑っている。
じゃあ、午前中の仕事をキリよく終えて、午後に臨みましょうか。

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