途連れ
1(バス)
ここはどこだろう。薄暗く狭い部屋だ。両手を伸ばせば壁に触れることができるし、少しジャンプすれば天井にだって手が届く。私の横には鏡があって、鍵のかかったドアと薄汚れた壁を無感動に映し続けている。私は白い陶器でできた椅子に座っている。足もとには小さなゴミ箱があって、誰が捨てたかわからないゴミが入っている。時々部屋は揺れる。少しずつ心は孤独を吸って平穏を取り戻していく。
いつからか何か嫌なことがあるとトイレにこもる癖がついていた。文化祭や体育祭、卒業式などはトイレの中でやり過ごしていた記憶の方が鮮明だし、高校のころの修学旅行では自由行動中にそれが原因で班のメンバーとはぐれてひとりぼっちになったこともあった。この用を足すために区切られた一人分のスペースが私の最後の砦だった。どこへ行っても、いつになってもここだけが私の居場所だった。
コンコン、とドアがノックされ、私は跳ねあがるように驚いた。それから「大丈夫ですか」と若い女性の声がした。十代の若い声。しかしそこに若者特有の気恥ずかしさや不慣れからくる戸惑いのようなものは感じず、凛とした声だった。私は急いで立ち上がって鍵を開け、ドアの外に出た。
「すみません」
と私は目の前にいた女性に頭を下げる。身長は160センチほどだろうか。私と目線が同じで自然と目が合った。
「もう二十分くらいトイレに入ってたから、心配だったんで」
私はもう一度「すみません」と明らかに年下のその女性に深々と頭を下げた。彼女はそんな私を不思議そうな顔で見つめている。私がドアを閉めてその場を立ち去ると、彼女は少し迷った素振りを見せてからトイレに入った。バタンとドアが閉められ大袈裟な音を立てて鍵が下ろされた。
深夜の夜行バスはまるであの世に向かうための最後の乗り物かのように暗く、静かで、異様な雰囲気に包まれていた。私は足元の小さな明かりを頼りに自らの座席まで歩いていく。その間バスは大きく揺れたりカーブを曲がったりすることなく、一定のスピードで私を目的地まで運ぶために走り続けた。私が通った座席の乗客は全員寝苦しそうにしながらも眠っていて、その奇妙な光景に私は一瞬不安になった。私はバスに限らずほとんどすべての乗り物に良い思い出がなかった。
私の隣の席が空席になっていた。さっき私が会った彼女は隣に座っていた人なのだと思い出す。なるべく起こさないよう席を立ったつもりだったがどうやら起こしてしまったみたいだ。私は身体を半身にして狭い座席の間を通り窓際の席に座った。
カーテンを少し開け外を眺めるとバスは見知らぬ土地の高速道路を走っていた。黄色い月が星のない空にぽっかりと浮かんでいて粛々と世界を照らしていた。このバスはどのあたりを走っているのだろうか。私は日本地図を想像する。バスの正面にある時計は2:45と表示されている。青森への到着予定時刻が午前九時半なので、まだ七時間近くは走り続けるようだった。私はもう一度日本地図を想像し福島を過ぎた辺りにバスのミニカーを置いた。福島の上にある県は何県だっただろうか。そんなことを考えていると隣の席の女性がトイレから戻ってきた。
「体調はどうですか?」
と女は言った。特に心配している様子はなく、とりあえず形式的な質問をしているといった感じだった。
「大丈夫です。その、ちょっと考え事をしていたの」
「それはよかったです」
それはよかったです、と私は彼女の真似をして口の中で呟いた。奇妙な喋り方をする人だと思った。私は小学校のころに描いた絵日記に先生がつけた感想を思い出した。『それはよかったですね。』
近くで見ると彼女はやはり若く、高校生くらいに見えた。痩せていて肌は白く、シャツの上からでも骨の形がありありと想像できた。身なりもきちんとしていて、どうしてかこの場所には合わないような感じがしたが、深夜の夜行バスが似合う人というのがどんな人なのか上手く想像は出来なかった。
「どこへ行くんですか?」
と彼女は言った。それから座席の前に置いてあるリュックをあさり、飲み物とビスケットを取りだした。「いります?」と差し出された一枚のビスケットを私は受け取る。
「青森ですけど」
と私は少し戸惑ってからそう答えた。
「ああ、ほぉですよえ」
ビスケットを咀嚼する口もとを手で押さえながら彼女は言った。それからペットボトルの水を一口飲む。
「すみません、話しかけちゃって。眠れないんですよね。体のあちこちが痛くて体調悪いのに、お腹もすいちゃって」
彼女がもしゃもしゃとビスケットを食べる様子を見ていると、さっきまで確かにそこにあった眠気が引いていくのを感じた。私は彼女からももう一枚ビスケットをもらった。
「青森には帰るんですか?」
「ううん、行くの」
「じゃあ、わたしと一緒ですね」
そう言って彼女はビスケットの袋をリュックの中に戻し、「寒くないですか? バス」と上着を取りだしてそれを羽織った。ヒッチハイカーが持っているようなとても大きなリュックだった。中を覗くと寝袋や地図、モバイルバッテリーなど様々な物が詰め込まれていた。
「ねえ、あなたいくつ?」
と私はずっと気になっていたことを尋ねた。
「いくつに見えます?」
いたずらに微笑みながら彼女はおへそを私の方に向けて言った。私は上から下まで彼女を一通り眺めてから「十七」と言った。
「え、すごい。アタリです。何でわかったんですか?」
「私、美容師やっててあなたくらいの年齢の子とよく話すから、なんとなくわかるの。髪の感じとか話し方とか。ねえ、高校生だよね?」
「そうです。二年」
「ああ、夏休みね」
と私は言った。八月上旬、学生は夏休みの時期だった。
「そうですけど、わたしは関係ないです。学校行ってないので」
あたりまえのことのように喋る彼女に私は少し面食らって、変に黙り込んでしまった。いまの子は学校に行かないという行為が後ろめたいことではないのだろうかと私は考えたが、前に来店した彼女と同じくらいの年齢の不登校児と話したことを思い出した。その彼女は自分が不登校であるということを極力知られたくないようだった。
「そうなんだ、それで一人旅? すごいね」
「そんなところです」
私は自分が高校生だったころのこと思い出した。まだ十年も経っていないはずなのに、その記憶は酷く曖昧でマッキーで黒く塗り潰されたようなものばかりだった。友達は一人もいなくて、勉強もあまり得意ではなく、いつも独りでいては何か嫌なことがあったらトイレにこもるような生活をしていた。そしてその生活はいまでも変わらない。職業的なコミュニケーション力はついたけど、根っからの性格はそう易々と変わってはくれない。
バスは相変わらずなめらかな運転で私たちを青森まで運んでいた。唸るような低い冷房の音を除けばとても静かな夜だった。前後の席からは寝息が聞こえ、このバスに乗っている三十人ほどの人たちは私たち以外全員眠っているのだと思った。人々はそれぞれ違う夢を見ていて、それがシャボン玉のような形で具現化してバスの中を埋め尽くしていく様子を私は想像した。夢で膨らんだバスはそんなこと気にせず淡々と青森を目指す。
「ほんとは何だか不安になっちゃって眠れなかったんです」
唐突に彼女は言った。
「おねえさん名前、なんて言うんですか? わたしは乃々香です」
「亜希」
「亜希さん、個人的な話していいですか」
私がうなずくと彼女は小さく息を吐いた。色の薄い小さな唇はぎゅっと結ばれ、自らの内側から次の言葉が浮かび上がってくるのを待っていた。私も同じように彼女の言葉を待った。バスが緩やかなカーブを曲がっているのを感じる。カーテン隙間から月光が差し込み彼女を照らした。
2(個人的な話)
「このことは誰かに言ってもらって構いません」
と乃々香は言った。
「どういうこと?」
「例えば、亜希さんが美容室のお客さんに『この前会った女子高生がこんなこと言ってた』と話してもらっても大丈夫ってことです」
「そんなことしないよ」
「つまり秘密にしなくてもいいってことです」
「その秘密にしなくてもいいってことがあなたにとって大切なのね?」
彼女はうなずく。私は「わかった」と書類にハンコでも押すみたいにうなずいた。彼女の言わんとしていることは何となく理解できた。これからするのは秘密の内緒話ではないということ。個人的な話というのは秘密の共有を相手に強いてしまう。だからまず初めにこうして断わっておく必要があるのだろう。
「個人的な話って身近な人には話しづらいんです。わたしの場合、距離が近ければ近いほど、そういうことって話せなくなります」
私は黙って彼女の話を聞いた。何を話すか、何から話すか、それをどう話すか、考えているようだった。波のないみずうみに沈んでいくように彼女の瞳が少しずつ色を失っていく。これまで色んな人の話を聞いてきた。大抵は他愛もない話ばかりで、ただの時間つぶしにすぎない。でもときどき、私にだけ個人的な話を打ち明けてくれる人がいる。その人たちは決まって、乃々香のように自らの内側に目を向けた。
「わたし、いじめられてて、それで学校に行ってないんです。もう二カ月くらいずっと行ってません。親にも学校の先生にもそのことが言えなくて、わたしはただ理由もなくひきこもってる子って思われてると思います。だから父も母も先生も困らせてしまってる。みんなとてもいい人たちなのに、わたしはこうして家出して……」
両親が心配しているんじゃないの、という言葉を私は飲み込んだ。そんなこと言ったって、それは彼女の問題で私には何もできないのだ。
「どうして家を出たの?」
と私は訊いた。バスがガタンと揺れ、彼女は反射で開きかけていた口を閉じた。それから小さな声で「わからない」と呟いた。
「気づいたら、服とか、バイトで溜めたお金とか全部持って、このバスに乗ってたの。それでとんでもないことをしてしまったって思って、母に北海道へ行くと連絡はしました」
「北海道?」
「わたし、北海道まで行こうと思ってて」
「それでお母さんはなんて?」
「わたしが必ず帰るし、どうしようもなくなったらすぐに連絡するからって言ったら、折れてくれました。たぶん父が何か言ってくれたんだと思います。電話には必ず出ること、とか色々言われましたけど」
「そっか」
私がそう言うと彼女は小さくうなずいた。不安とか恐怖とかそういう色んな暗い感情が彼女の中で渦巻いていた。それでも彼女は引き返すことなく、親もとを離れて遠い北海道という地まで行くことを決めたのだ。私なんかよりもずっと強い人だと思った。
「ねえ、私の個人的な話もしてもいいかな」
「はい、わたしばっかり、ごめんなさい」
彼女は滲んだ目もとを指で拭って笑顔を見せた。そんな彼女の顔を見て私は自分が何を話すべきなのか全くわからなくなってしまった。
「大したことない話なんだけどね」
大したことない話なのだろうか。あらかじめ用意していたかのようにするりと口から飛び出した言葉。どうして私はいつもこうなんだろう。
「恋人と別れたんだ。それで、自分探しの一人旅って感じ」
自分の笑顔が引きつっているのがわかった。恋人と別れたんだ。自分で初めて口にして、ようやく少し実感が湧いた気がした。そっか、私は彼と別れたんだ。別れたということはもう恋人じゃないんだ。
「ムリして笑わなくていいですよ。わたしは亜希さんのお客さんじゃないんですから」
『でも、あなただって笑ったじゃない』という言葉は声にならなかった。いま口から本音を零したらきっと泣いてしまう。何だか馬鹿みたいだ。深夜のバスの中で十個近くも歳が離れている高校生の女の子と二人で泣きあうなんて。
私は感情を整えるように大きく息を吐いた。少しだけ心が軽くなったのを感じる。
「でも、大人になっても自分って見つからないものなんですね」
彼女は小さく笑って「何だか安心しました」と言った。彼女はリュックから飲みかけのペットボトルを取りだし、中の水を全て飲み干した。それからグッと両手を頭の上で組んで、大きなあくびをした。そのあくびを見て、私は「ねえ」と声をかける。
「自分って見つけるものじゃないと思うの。たぶん失くしてしまうものだと思う。みんな産まれたときに神様から自分をもらうの。でもそれを失くしてしまう人がいる。物を失くすみたいにね」
「わたしもよく物を失くします。お気に入りのヘアピンとか、靴下の片っぽとか」
半分目を閉じながら彼女は言った。
「それに私は大人じゃないよ。大人が何なのかすらわかっていないもの」
「それじゃ、わたしと一緒ですね」
「そうだね。ねえ、あなた」
「乃々香です」
「ねえ、乃々香。まだ私に言えてないことがあるんじゃないの?」
私がそう言うと彼女は目を閉じてうなずいた。彼女の顔は差し込んだ月明かりに照らされてまつ毛がささやかな影を落としていた。寝息のような深い息に合わせて彼女の胸は上下し、耳を澄ませばその薄い皮膚を通して心臓の音まで聞こえそうだった。
「わたし、レズビアンなんです」
私は彼女の頬に手を当てた。彼女は眠っているように見えた。私は彼女がこれまで歩んできた道を思った。そしてこれから歩んでいく道を想像した。彼女は安心しきった小鳥のように眠ってり、一筋の涙を流した。その涙を拭うと彼女の唇は何かを求めるように震えた。
私は月明かりが差し込むカーテンの隙間を閉め、目をつぶった。このまますぐにでも眠気に身を任せることができた。目が覚めたら辺りは明るくなっていてこのバスは青森についているだろう。それからのことは着いてから考えれば良い。月が出ているうちに眠ってしまおう。明るくなってからは眠ることさえ許されないのだから。
3(青森から)
目が覚めると世界は明るくなっていて、バスは青森県内を走っているようだった。「もうすぐ着きますよ」という乃々香の声に起こされて時計を見ると朝の九時ちょうどだった。彼女は寝起きとは思えないケロッとした顔でスマホをいじっていた。彼女は母親に青森についたことを連絡しているようだった。そんなことで両親の心配が和らぐとは思えないが、音信不通よりはマシだろうと私は何も言わなかった。
私たちは青森駅前に降ろされた。ここが青森のどの辺なのか私には見当もつかなった。何だか奇妙な感覚だった。つい昨日まで東京にいたのにいまは本島の一番端まで来ている。彼女も同じように感じたらしく「なんだか変な感じですね」と笑った。
私たちは駅の中にあるコンビニでおにぎりやサンドイッチをを買い、それを駅前の公園のベンチに座って食べた。駅はラッシュの時刻は過ぎたものの通勤通学の人たちで溢れかえっていた。彼らは私たちには目もくれず吸い込まれるように駅の中へ入っていった。
「ここって青森のどの辺なの?」
と私がたずねると彼女はテーブルに指で青森の形を大雑把に描いて「ここら辺です」と青森のへこんでいる部分を指した。私はそれを見て、青森の恐竜のような奇妙な形を思い出した。
「それでこれからどこに行くの? せっかくだから観光でもする? あの大きな犬がいる美術館とか」
「そんな時間はないです。フェリーで北海道に行かなきゃいけないので」
そう言い終わると彼女は最後の一口となったサンドイッチを口に放り込んだ。それを流し込むように水を飲んでから、彼女はスマホで時間を確認する。
「それで亜希さんはこれからどうするんですか?」
「どうするって一緒に行くよ」
私がそう言うと彼女は驚いたように顔をしかめた。
「一緒に行くって北海道にですか?」
「北海道でもどこでもだよ。あなたが行くところに私もついていく」
「どうして……」
「どうしてって」
次の言葉が出てこなかった。どうしてだろう。バスに乗ってからというもの説明がつかない自分の行動が増えた。いままでの私だったら、北海道に行くなんて先の見えない道を選ぶことはなかった。そもそも見知らぬ年下の女の子とこんなに仲良くなることもなかったはずだ。先が見えない不安というものにこれまでさんざん押しつぶされそうになってきたというのに、いまは不思議と気分は晴れていた。
「大人とされる年齢の人が一人いるだけでずいぶん旅は楽になると思うよ。ご両親も少しは安心するだろうし。それともあなたは私と一緒にいるのは嫌?」
私の問いに彼女はまた顔をしかめた。唇をきゅっと結んで、何かを我慢するみたいに。
「……乃々香です」
と彼女は呟いた。
「乃々香はどうしたい?」
「でも、亜希さん仕事とか」
「私いま、休職中なの。だから大丈夫。ねえ、私はさっき『どうしたい?』なんて聞いたけど、私があなた……乃々香についていきたいの。この旅で乃々香が何を見てどう思うのか。それを見て私が何を感じるのか知りたいの。だから私も一緒に行っていいかな?」
彼女は小さくうなずいて「おねがいします」と言った。
*
私たちは駅からバスに乗り、フェリーターミナルへ向かった。十分ほどで着き、私たちはそこで一番安い値段の函館行きのチケットを二枚買った。海が見え、私たちはいま本島の端にいるのだとようやく実感した。すぐにフェリーが来て、私たちはその想像の何十倍も大きい船に乗り込んだ。私たちは客席がついたボートのような船をだとばかり思っていたのでその大きさに圧倒された。
フェリーの中には客室があって、一番安いグレードにした私たちは大部屋のような場所だった。学生時代の修学旅行を思わせる何もない部屋に他の乗客がすでに十人ほどいた。私たちはその部屋の一番隅に荷物を下ろし、座り込んだ。
「プラス千円くらいだったし、個室にすればよかったね」
と私が言うと彼女は「これでいいんです」と言った。これでいいんです。不思議な言い回しだと思った。この部屋に辿り着くためにこのフェリーに乗ったとでもいうような言い方だった。
「それで北海道に行って、その先はどうするの」
私がたずねると彼女は「一番端まで行きます」と言った。リュックの中から日本地図を取りだして彼女は北海道の尖った部分を指でさした。
「とりあえずここまで行ってみようと思うんです。自分探しの旅の定番って感じがしませんか?」
彼女の言いたいことは何となくわかった。きっと限界まで行くことに意味があるのだろう。なるべく長く旅をして、それでいて明確な目的が必要なのだ。
私は北海道の端から端までの長さを指で測り、その指の長さを保ったまま本島まで持っていく。ここまでとは違い、目的地まで一直線で向かってくれるようなバスや新幹線に乗るつもりはないのだろう。
「あの、眠いので少し眠ってもいいですか? バスであまり眠れなくって」
「うん。私起きてるから、少し眠るといいよ」
彼女は「ありがとうございます」と礼を言うと、壁にもたれかかるようにして目を閉じすぐに寝息を立て始めた。函館につくのはだいたい三時間半後だった。地図上では些細な隙間なのに、この大きな船で三時間もかかる距離を移動している。それがいったい具体的にどのくらいの距離なのか私にはわからないが、フェリー乗り場から海の向こう側にあるはずの北海道が全く見えなかったことを思い出した。
昨日は四、五時間しか眠れていないはずなのに不思議と眠気はなかった。自分がしっかりしなければいけないという、変な責任感のようなものが働いているのかもしれない。それにこんな大部屋で私はまだしも彼女を無防備で眠らせておくわけにはいかなかった。私は彼女に対して何か特別な感情を抱いているのだろう。彼女と肩が当たるたび私の心は温かい気持ちで満たされた。
彼女が起きるまでの間、私は北海道について考える。私は一度だけ家族で北海道に行ったことがあった。それはもう十五年近く前のことだった。確か当時もこのくらいの時期で、私の夏休みを利用して行った。せっかく北海道に来たのに変わらず暑くて、なんだかがっかりしたのを覚えている。飛行機で行って、海の幸を食べて、それが私の地元のものとの違いがあまりわからなくて、水族館に行って、ホテルに泊まって、帰ってきた。どれも曖昧な記憶ではっきりと覚えていることは何一つなかった。
彼女は函館につくまで眠り姫のようにずっと眠っていた。このまま永遠に起きないんじゃないかと思うくらい、それは深い眠りだった。英気を養っていたのだろう。目が覚めた後の彼女はとてもテンションが高かった。
フェリーを降りてすぐ彼女は私に写真を撮ろうと言った。私は彼女に言われるがまま海をバックに二人で写真を撮った。それを彼女の母に送るというので、私は誘拐犯か何かの容疑で指名手配されるのではないかと思ったが、そうなったらその時にまた考えればいいだろうとそれを許した。
「それで、これからなんだけどさ、いったん函館に泊ってきちんと計画を立てない? これからが大変なんだしさ」
私の提案に彼女はあまり乗り気ではないようだった。函館の街を遠く見渡して、難色を示す。
「わたしそんなお金ないです。それにそれだとなんだか旅行っぽい」
「私が払うからいいよ」
「でも……」
「ねえ、もしかしてだけど、野宿するつもりだったの? 十代の女の子が何日も? 危険すぎるよ」
「野宿はサイアクどこも見つからなかったらで」
「でもホテルだって未成年一人じゃ泊まれないんじゃない?」
私がそう言うと彼女は諦めたようにうなずいた。
「私だってお金が無限にあるわけじゃないから、なるべく安い所を探そう。ノノが自分の力で行きたいのはわかるけどさ」
「ノノ?」
「そう、乃々香だから。ノノ。ずっと名前で呼んで欲しがってたでしょ。どうせなら呼びやすい方がいいなってさっきフェリーの中で考えた」
「ありきたりです」
と彼女は言って歩き出した。ホテルに泊まることは賛成してくれたのだろう。似合わない大きなリュックを背負って早足で歩く彼女の背中を見ながら私はキャリーケースを引いてあとを追った。
函館の街を歩きながら私たちはなるべく安いホテルを探す。もちろん歩き回ってひとつひとつ宿泊費を聞いて回るわけではない。インターネットで調べ、ここから遠い最安値のホテルにするか、そこそこ近いホテルにするかを考える。まだ日が暮れるまで時間があるので遠い方に行くことにする。彼女は自らの足で歩くことに意義を感じているらしく、とても満足した表情を見せた。
函館の街並みは私に遠く離れた土地に来たことを実感させる。周りを海に囲まれて、高い建物がなくのっぺりと平坦な土地。異国情緒あふれる街と聞いていたが、やはりここは日本で、日本語を話す私と同じ文化の人々が住む街なのだと感じる。たった数時間で来れる場所に価値観を変える大きな転機のようなものは落ちていないのだろう。インドや南アフリカにでも行けば何か変わるのだろうか。いやきっと結局どこへ行っても同じなのだと私は思った。
私たちは目についた定食屋に入り昼食を食べた。贅沢はしないという彼女の要望に合わせて選んだ店だったので観光客のような人はおらず、地元の人が数人いるだけで寂れた店だった。しかし味は悪くなく、値段もとても安かった。店をあとにした私たちはそのまま寄り道せずにホテルに向かった。東京にもある見知ったビジネスホテルだった。二人部屋を取り、料金は私が四分の三払い、彼女が残りを払った。
部屋に入って私たちはまず代わりばんこにシャワーを浴びた。猛暑まではいかないものの、炎天下の函館を歩き二人とも汗だくだった。私はキャリーケースから新しい服を取りだしてそれに着替え、彼女は備えつけのバスローブを着た。彼女は服というものをバスの中で来た上着以外全く持ってきていないようだった。
「そんなんでどうするつもりだったのよ」
と私が言うと「こっちで買うつもりでした」と子供のような澄んだ目をして言うので私は呆れて言葉も出なかった。
「家からそういうのを持って来たくなかったんですよ。新しい自分を探しに来てるのに、古い自分を着たままじゃ見つからない気がして」
「でもお金ないんでしょ? 下着はいくつか買うとして、服は私のを着てみたら? キャリーケースに詰め込む物がなくて多めに服を持ってきてるから」
彼女はまた何か不満そうな顔をする。ぎゅっと顔をしかめて、これはしかたないことなんだと我慢するような表情だ。「何が不満なの?」と私が聞いても頑なに口を開かない。
「もしかして、まだ私に気を使ってる? 申し訳ないとか思ってるの?」
「そうじゃなくて」
彼女はうつむいて首を横に振る。
「そうじゃなくて?」
「……人の服とかあんまり着たくないんです」
「なんだ、そんなこと?」
「私にとってはそんなことじゃないんです」
「でも仕方がないじゃない。いくらあるのか知らないけど、なけなしのお金で服を買って、それを毎日毎日かわりばんこに生乾きの服を着るのは嫌でしょう?」
「そんなのわかってますよ! だから何も言わなかったんじゃないですか!」
「ねえ、ノノ。とりあえずさ、着てみなよ。ほんとにムリだったら新しいのを買えばいいじゃない」
私はキャリーケースからシャツとジーンズを引っ張り出し、彼女に放り投げた。彼女はその二つを嫌いな食べ物でも見るような目でしばらく眺めてから、じっと私のことを見る。
「あっち向いててください」
「別にいいじゃない」
私はそう言いながらも彼女に背中を向けた。そして彼女があの夜のバスで私に言ったことを思い出した。自分と同性を好きになるというのはどういった感覚なのだろうか。一般的なものズレているとしても異性に恋をする私には未知の領域だった。その未知が目の前の(いまは背後だが)十七の女の子の中に詰まっているのだと思うと不思議な気がした。
私は大多数の人は自分の中にある性別性が嫌っていると思っていた。私は自分が女であるということによく嫌気がさすし、私の恋人だった人も自分の中にある男性性のようなものをよくは思っていなかった。だからこそ、自分にないものを持っている異性に魅かれそして恐怖し、自分と同じものを持っている同性には安心と嫌悪を感じるのだと思っていた。では彼女はどうなのだろう。多かれ少なかれ彼女が何かその小さな体一つでは抱えきれないものを隠していることは明白だった。そうでなきゃ、こんなところまで一人で来ようとは思わない。それは彼女自身の性別に関するもの、そして彼女が恋している(恋していた)人の性別に関するものなのだろうか。どちらにしろそれは、私と同じでこの旅の途中に見つかるようなタイプの答えでないことは明らかだった。
「もういいですよ」
私が振り向くと、彼女は居心地が悪そうに私の服を着てベッドに座っていた。彼女は私よりずいぶん細いので少し大きいかと心配していたが問題なさそうだった。とても上手に着こなしていて、私が着ていたときより服が若返ったように見えた。
「大きさは大丈夫そうだね」
「はい。でも落ち着かないです。亜希さんの匂いがする」
「すぐに慣れるよ。きっと」
それから私は少し仮眠を取って、ホテルの売店で夕食になりそうなものを軽く買った。お昼を遅めに取ったせいと疲れで二人とも食欲があまりなかった。それに節約の意味もある。
部屋に戻り私たちは買ってきたお菓子やカップ麺を食べながら、これからの計画を立てることにした。彼女はベッドの上に大きく北海道の地図を広げ、目的地である宗谷岬をペンで丸く囲んだ。ここには『日本最北端の地の碑』という石碑があるらしい。それを見ることが今回の旅の目的だ。
「それでルートはどうするの? ぐるっと回るか、真っすぐ進む? 札幌から一番北の稚内までは飛行機が出てるみたいだよ」
私は札幌から稚内までを指で弧を描くようになぞる。「ちなみに函館から札幌までも飛行機があるよ」と同じように指でなぞる。
「それじゃ、明日には旅が終わっちゃうじゃないですか。わたしはもっと身の丈にあった旅をしなきゃいけないんです。だからホントは徒歩か自転車で行こうと思ってました。でもそれだと何カ月もかかっちゃうのでバスか電車かなといまは思ってます」
改めて見ると北海道という土地はとてつもなく広い。私が住んでいる東京や地元の栃木を足したって面積はその十倍はゆうにある。私がどれだけ狭い世界で生きてきたのか思い知らされるようだった。しかもこの北海道は日本という小さな島国のささやかな一つの島に過ぎないという。ここからずっと上に向かえば、中国やロシア、アメリカといった何十倍もの広大な土地があるのだ。インターネットの発展で世界中は繋がったと言われているがそんなの嘘っぱちだ。私はとてもとても狭い世界で生きている。あの夜行バスのトイレから私は永遠に出ることができないのだろう。
「なるべく遠回りをして、電車とバスを使っていきたいと思うんです。でもそれだとなかなか海沿いは行けないんですよね。地元のバスとかは走ってるのかもしれないですけど」
「私がレンタカーを借りてもいいんだけど」
「そしたらずっとわたしは車に乗ってるだけになっちゃいます」
私は彼女と二人で海沿いをドライブする様子を想像した。音楽でもかけて、他愛もない話をする。窓を開けると海風が入ってくる。とても素晴らしいが、それだと私は北海道をぐるっと一周、一人で運転することになるし、ガソリン代だってとんでもないことになるだろう。とてもじゃないけど現実的ではない。
しばらく沈黙して二人で開けたポテトチップスをつまんだ。外はすっかり夜になっていて、夕方に天気予報を見るためにつけたテレビからはバラエティー番組の明るい笑い声が流れていた。
「まあ、仕方ないですね。身の丈にあったものが一番大切ですから」
「ねえ、身の丈、身の丈っていうけど、そんなに大切なことなの?」
私がたずねると彼女は深く考え込むように黙った。私は続ける。
「身の丈って言葉はその、高いものを買わないとかそういう贅沢をしないみたいな意味でしょう? お金がどのくらいあるのか知らないけど、たぶんノノが必死にバイトか何かをして稼いだお金なんでしょ。それならそのお金で飛行機に乗ったって問題なんじゃないかな」
彼女は夜の海のように黙っていた。正しい言葉が現れるのを待つように寄せては返す言葉の波を見つめている。
「確かにそうかもしれません。飛行機だってバスだって自転車だって、考えようによっては身の丈にあっているし、考えようによってはあっていない。上手く言えないですけど、たぶんこれはお金の問題じゃないんです。時間の問題なんだと思います。例えばこれが不公平なすごろくだとして、わたしと亜希さんがプレイヤーだとします。亜希さんは強い目が出るさいころを持っているから、飛行機を使ってゴールまですぐ行ける」
彼女は包装されたチョコキャンディーを駒に見立てて、函館、札幌、稚内と進めた。私のチョコは日本の最北端にいる。
「でもわたしは弱い目しか出ないさいころを持っているから遠回りしなければいけない」
彼女はチョコキャンディーをぐるっと遠回りさせてから稚内に置く。
「それってお金の問題じゃない? 私にはお金があるから良いさいころ振れる」
「違います。すごろくって例えが悪かったんですけど、早くゴールに着くことが目的ではないんです。あと、さいころの良し悪しを決めるのはお金じゃなくて、要領です」
「ヨウリョウ」
と私は呟く。
「わたしは要領が悪いから、ゴールに着くまでに遠回りしなければいけないんです。亜希さんだったら十歩で辿りつける答えにわたしは二十歩必要なんです。だから十歩でゴールに辿りついても意味がないんです。二十歩分歩いてゴールに辿りつかなればいけないんです。わたしの言ってること伝わってますか」
「たぶん」
「東京から飛行機に乗って、たった数時間で日本の端っこまで行って、それで色々わかる人はそうすればいいんです。でもわたしはそうじゃない。そういう人のマネをして、何かわかった気になってる人がよくいますけど、そんなの意味ないんですよ。身の丈にあったっていうのはそういう意味です」
彼女はそこまで言うとイラついた気持ちを吐きだすように息をついた。逸れてしまった話を戻すために北海道の地図から二個のチョコキャンディーをどかした。そして彼女はそのうちの一つを口の中に放り込む。
「色々言いましたけど、やっぱり行き当たりばったりでいきません? スマホとお金があれば、まあ野垂れ死ぬことはないだろうし」
私はその提案にうなづく。これは彼女の旅なのだ。私は彼女に従う。私の返事を聞いて彼女は広げた地図を折りたたみリュックの中にしまった。それから二人で残りの食料をすべて食べきった。
彼女は眠る前にもう一度シャワーを浴びると言い、浴室へ行った。私もそうしようかと考えたが、めんどうくさく思えこのまま寝てしまうことにした。私はキャリーケースから寝間着を取りだしてそれに着替えた。歯を磨くために洗面所へ行くとシャワーの流れる音に混じって彼女の鼻歌が聞こえた。いま話題のアニメーション映画の主題歌だった。
私がベッドの上でうつらうつらしていると、シャワーを浴びた彼女が「眠そうですね」と声をかけてきた。彼女がシャワーから出たことにすら気づかなかった私は、授業中の居眠りがバレた少女のようにビクッと体を震わした。その様子が余程おかしかったのか彼女は大きな声で笑った。
「亜希さんはシャワー浴びないんですか?」
私はあくびをしながら首を横に振った。彼女に話しかけられたことで眠気は少しマシにはなったがベッドから立ち上がる余力はなかった。この糊のきいた清潔なシーツとほどよい反発のマットレスに身を委ねたらすぐにでも眠ることができるだろうと思った。
「ねえ、もう寝ちゃうんですか?」
彼女は私の横に腰を下ろした。ふわりとリンスの香りがして、その柔らかな匂いはさらに私の眠気を誘った。彼女の質問に対し私は「ああ」だとか「うう」だとか返事をしたと思う。しかしそれ以降の記憶はなかった。私は冬眠するクマのように眠った。
3()
目が覚めると世界は明るくなっていて、バスは青森県内を走っているようだった。「もうすぐ着きますよ」という乃々香の声に起こされて時計を見ると朝の九時ちょうどだった。彼女は寝起きとは思えないケロッとした顔でスマホをいじっていた。彼女は母親に青森についたことを連絡しているようだった。そんなことで両親の心配が和らぐとは思えないが、音信不通よりはマシだろうと私は何も言わなかった。
私たちは青森駅前に降ろされた。ここが青森のどの辺なのか私には見当もつかなった。何だか奇妙な感覚だった。つい昨日まで東京にいたのにいまは本島の一番端まで来ている。彼女も同じように感じたらしく「なんだか変な感じですね」と笑った。
私たちは駅の中にあるコンビニでおにぎりやサンドイッチをを買い、それを駅前の公園のベンチに座って食べた。駅はラッシュの時刻は過ぎたものの通勤通学の人たちで溢れかえっていた。彼らは私たちには目もくれず吸い込まれるように駅の中へ入っていった。
「ここって青森のどの辺なの?」
と私がたずねると彼女はテーブルに指で青森の形を大雑把に描いて「ここら辺です」と青森のへこんでいる部分を指した。私はそれを見て、青森の恐竜のような奇妙な形を思い出した。
「それでこれからどこに行くの? せっかくだから観光でもする? あの大きな犬がいる美術館とか」
「そんな時間はないです。フェリーで北海道に行かなきゃいけないので」
そう言い終わると彼女は最後の一口となったサンドイッチを口に放り込んだ。それを流し込むように水を飲んでから、彼女はスマホで時間を確認する。
「それで亜希さんはこれからどうするんですか?」
「どうするって一緒に行くよ」
私がそう言うと彼女は驚いたように顔をしかめた。
「一緒に行くって北海道にですか?」
「北海道でもどこでもだよ。あなたが行くところに私もついていく」
「どうして……」
「どうしてって」
次の言葉が出てこなかった。どうしてだろう。バスに乗ってからというもの説明がつかない自分の行動が増えた。いままでの私だったら、北海道に行くなんて先の見えない道を選ぶことはなかった。そもそも見知らぬ年下の女の子とこんなに仲良くなることもなかったはずだ。先が見えない不安というものにこれまでさんざん押しつぶされそうになってきたというのに、いまは不思議と気分は晴れていた。
「大人とされる年齢の人が一人いるだけでずいぶん旅は楽になると思うよ。ご両親も少しは安心するだろうし。それともあなたは私と一緒にいるのは嫌?」
私の問いに彼女はまた顔をしかめた。唇をきゅっと結んで、何かを我慢するみたいに。
「……乃々香です」
と彼女は呟いた。
「乃々香はどうしたい?」
「でも、亜希さん仕事とか」
「私いま、休職中なの。だから大丈夫。ねえ、私はさっき『どうしたい?』なんて聞いたけど、私があなた……乃々香についていきたいの。この旅で乃々香が何を見てどう思うのか。それを見て私が何を感じるのか知りたいの。だから私も一緒に行っていいかな?」
彼女は小さくうなずいて「おねがいします」と言った。
*
私たちは駅からバスに乗り、フェリーターミナルへ向かった。十分ほどで着き、私たちはそこで一番安い値段の函館行きのチケットを二枚買った。海が見え、私たちはいま本島の端にいるのだとようやく実感した。すぐにフェリーが来て、私たちはその想像の何十倍も大きい船に乗り込んだ。私たちは客席がついたボートのような船をだとばかり思っていたのでその大きさに圧倒された。
「それで北海道に行って、その先はどうするの」
私がたずねると彼女は「一番端まで行きます」と言った。リュックの中から日本地図を取りだして彼女は北海道の尖った部分を指でさした。
「とりあえずここまで行ってみようと思うんです。自分探しの旅の定番って感じがしませんか?」
彼女の言いたいことは何となくわかった。きっと限界まで行くことに意味があるのだろう。なるべく長く旅をして、それでいて明確な目的が必要なのだ。
私は北海道の端から端までの長さを指で測り、その指の長さを保ったまま本島まで持っていく。ここまでとは違い、目的地まで一直線で向かってくれるようなバスや新幹線に乗るつもりはないのだろう。
「あの、眠いので少し眠ってもいいですか? バスであまり眠れなくって」
「うん。私起きてるから、少し眠るといいよ」
彼女は「ありがとうございます」と礼を言うと、壁にもたれかかるようにして目を閉じすぐに寝息を立て始めた。函館につくのはだいたい三時間半後だった。地図上では些細な隙間なのに、この大きな船で三時間もかかる距離を移動している。それがいったい具体的にどのくらいの距離なのか私にはわからないが、フェリー乗り場から海の向こう側にあるはずの北海道が全く見えなかったことを思い出した。
彼女は函館につくまで眠り姫のようにずっと眠っていた。このまま永遠に起きないんじゃないかと思うくらい、それは深い眠りだった。英気を養っていたのだろう。目が覚めた後の彼女はとてもテンションが高かった。
フェリーを降りてすぐ彼女は私に写真を撮ろうと言った。私は彼女に言われるがまま海をバックに二人で写真を撮った。それを彼女の母に送るというので、私は誘拐犯か何かの容疑で指名手配されるのではないかと思ったが、そうなったらその時にまた考えればいいだろうとそれを許した。
「それで、これからなんだけどさ、いったん函館に泊ってきちんと計画を立てない? これからが大変なんだしさ」
私の提案に彼女はあまり乗り気でないようだった。函館の街を遠く見渡して、難色を示す。
「わたしそんなお金ないです。それにそれだとなんだか旅行っぽい」
「私が払うからいいよ」
「でも……」
「ねえ、もしかしてだけど、野宿するつもりだったの? 十代の女の子が何日も? 危険すぎるよ」
「野宿はサイアクどこも見つからなかったらで」
「でもホテルだって未成年一人じゃ泊まれないんじゃない?」
私がそう言うと彼女は諦めたようにうなずいた。
「私だってお金が無限にあるわけじゃないから、なるべく安い所を探そう。ノノが自分の力で行きたいのはわかるけどさ」
「ノノ?」
「そう、乃々香だから。ノノ。ずっと名前で呼んで欲しがってたでしょ。どうせなら呼びやすい方がいいなってさっきフェリーの中で考えた」
「ありきたりです」
と彼女は言って歩き出した。ホテルに泊まることは賛成してくれたのだろう。似合わない大きなリュックを背負って早足で歩く彼女の背中を見ながら私はキャリーケースを引いてあとを追った。
函館の街を歩きながら私たちはなるべく安いホテルを探す。もちろん歩き回ってひとつひとつ宿泊費を聞いて回るわけではない。インターネットで調べ、ここから遠い最安値のホテルにするか、そこそこ近いホテルにするかを考える。まだ日が暮れるまで時間があるので遠い方に行くことにする。彼女は自らの足で歩くことに意義を感じているらしく、とても満足した表情を見せた。
ビジネスホテルの部屋に入って私たちはまず代わりばんこにシャワーを浴びた。猛暑まではいかないものの、炎天下の函館を歩き二人とも汗だくだった。私はキャリーケースから新しい服を取りだしてそれに着替え、彼女は備えつけのバスローブを着た。
それから私は少し仮眠を取って、ホテルの売店で夕食になりそうなものを軽く買った。お昼を遅めに取ったせいと疲れで二人とも食欲があまりなかった。それに節約の意味もある。
部屋に戻り私たちは買ってきたお菓子やカップ麺を食べながら、これからの計画を立てることにした。彼女はベッドの上に大きく北海道の地図を広げ、目的地である宗谷岬をペンで丸く囲んだ。ここには『日本最北端の地の碑』という石碑があるらしい。それを見ることが今回の旅の目的だ。
「それでルートはどうするの? ぐるっと回るか、真っすぐ進む? 札幌から一番北の稚内までは飛行機が出てるみたいだよ」
私は札幌から稚内までを指で弧を描くようになぞる。「ちなみに函館から札幌までも飛行機があるよ」と同じように指でなぞる。
「それじゃ、明日には旅が終わっちゃうじゃないですか。わたしはもっと身の丈にあった旅をしなきゃいけないんです。だからホントは徒歩か自転車で行こうと思ってました。でもそれだと何カ月もかかっちゃうのでバスか電車かなといまは思ってます」
改めて見ると北海道という土地はとてつもなく広い。私が住んでいる東京や地元の栃木を足したって面積はその十倍はゆうにある。私がどれだけ狭い世界で生きてきたのか思い知らされるようだった。しかもこの北海道は日本という小さな島国のささやかな一つの島に過ぎないという。ここからずっと上に向かえば、中国やロシア、アメリカといった何十倍もの広大な土地があるのだ。インターネットの発展で世界中は繋がったと言われているがそんなの嘘っぱちだ。私はとてもとても狭い世界で生きている。あの夜行バスのトイレから私は永遠に出ることができないのだろう。
「なるべく遠回りをして、電車とバスを使っていきたいと思うんです。でもそれだとなかなか海沿いは行けないんですよね。地元のバスとかは走ってるのかもしれないですけど」
「私がレンタカーを借りてもいいんだけど」
「そしたらずっとわたしは車に乗ってるだけになっちゃいます」
私は彼女と二人で海沿いをドライブする様子を想像した。音楽でもかけて、他愛もない話をする。窓を開けると海風が入ってくる。とても素晴らしいが、それだと私は北海道をぐるっと一周、一人で運転することになるし、ガソリン代だってとんでもないことになるだろう。とてもじゃないけど現実的ではない。
しばらく沈黙して二人で開けたポテトチップスをつまんだ。外はすっかり夜になっていて、夕方に天気予報を見るためにつけたテレビからはバラエティー番組の明るい笑い声が流れていた。
「まあ、仕方ないですね。身の丈にあったものが一番大切ですから」
「ねえ、身の丈、身の丈っていうけど、そんなに大切なことなの?」
私がたずねると彼女は深く考え込むように黙った。私は続ける。
「身の丈って言葉はその、高いものを買わないとかそういう贅沢をしないみたいな意味でしょう? お金がどのくらいあるのか知らないけど、たぶんノノが必死にバイトか何かをして稼いだお金なんでしょ。それならそのお金で飛行機に乗ったって問題なんじゃないかな」
彼女は夜の海のように黙っていた。正しい言葉が現れるのを待つように寄せては返す言葉の波を見つめている。
「確かにそうかもしれません。飛行機だってバスだって自転車だって、考えようによっては身の丈にあっているし、考えようによってはあっていない。上手く言えないですけど、たぶんこれはお金の問題じゃないんです。時間の問題なんだと思います。例えばこれが不公平なすごろくだとして、わたしと亜希さんがプレイヤーだとします。亜希さんは強い目が出るさいころを持っているから、飛行機を使ってゴールまですぐ行ける」
彼女は包装されたチョコキャンディーを駒に見立てて、函館、札幌、稚内と進めた。私のチョコは日本の最北端にいる。
「でもわたしは弱い目しか出ないさいころを持っているから遠回りしなければいけない」
彼女はチョコキャンディーをぐるっと遠回りさせてから稚内に置く。
「それってお金の問題じゃない? 私にはお金があるから良いさいころ振れる」
「違います。すごろくって例えが悪かったんですけど、早くゴールに着くことが目的ではないんです。あと、さいころの良し悪しを決めるのはお金じゃなくて、要領です」
「ヨウリョウ」
と私は呟く。
「わたしは要領が悪いから、ゴールに着くまでに遠回りしなければいけないんです。亜希さんだったら十歩で辿りつける答えにわたしは二十歩必要なんです。だから十歩でゴールに辿りついても意味がないんです。二十歩分歩いてゴールに辿りつかなればいけないんです。わたしの言ってること伝わってますか」
「たぶん」
「東京から飛行機に乗って、たった数時間で日本の端っこまで行って、それで色々わかる人はそうすればいいんです。でもわたしはそうじゃない。そういう人のマネをして、何かわかった気になってる人がよくいますけど、そんなの意味ないんですよ。身の丈にあったっていうのはそういう意味です」
彼女はそこまで言うとイラついた気持ちを吐きだすように息をついた。逸れてしまった話を戻すために北海道の地図から二個のチョコキャンディーをどかした。そして彼女はそのうちの一つを口の中に放り込む。
「色々言いましたけど、やっぱり行き当たりばったりでいきません? スマホとお金があれば、まあ野垂れ死ぬことはないだろうし」
私はその提案にうなづく。これは彼女の旅なのだ。私は彼女に従う。私の返事を聞いて彼女は広げた地図を折りたたみリュックの中にしまった。それから二人で残りの食料をすべて食べきった。
彼女は眠る前にもう一度シャワーを浴びると言い、浴室へ行った。私もそうしようかと考えたが、めんどうくさく思えこのまま寝てしまうことにした。私はキャリーケースから寝間着を取りだしてそれに着替えた。歯を磨くために洗面所へ行くとシャワーの流れる音に混じって彼女の鼻歌が聞こえた。いま話題のアニメーション映画の主題歌だった。
私がベッドの上でうつらうつらしていると、シャワーを浴びた彼女が「眠そうですね」と声をかけてきた。彼女がシャワーから出たことにすら気づかなかった私は、授業中の居眠りがバレた少女のようにビクッと体を震わした。その様子が余程おかしかったのか彼女は大きな声で笑った。
「亜希さんはシャワー浴びないんですか?」
私はあくびをしながら首を横に振った。彼女に話しかけられたことで眠気は少しマシにはなったがベッドから立ち上がる余力はなかった。この糊のきいた清潔なシーツとほどよい反発のマットレスに身を委ねたらすぐにでも眠ることができるだろうと思った。
「ねえ、もう寝ちゃうんですか?」
彼女は私の横に腰を下ろした。ふわりとリンスの香りがして、その柔らかな匂いはさらに私の眠気を誘った。彼女の質問に対し私は「ああ」だとか「うう」だとか返事をしたと思う。しかしそれ以降の記憶はなかった。私は冬眠するクマのように眠った。
4(北海道)
真夜中に夢を見た。そのとき私はいま夢を見ているのだと自覚できた。ここは北海道のホテルで、隣のベッドでは少女が安らかな寝息を立てて眠っている。私は夢と現実の狭間にいた。ここは北海道の函館にあるビジネスホテルの一室であり、そうではなかった。枕元にあるデジタル時計に目をやると2:45と表示されていた。20時過ぎに寝たのだ、目が覚めるには妥当な時間だと思った。しかし"目を覚ます世界"が妥当ではなかった。じっと時計を一分近く見つめていたが、数字が2:45から変わることはなかった。時間が止まっているのかそれとも私の体内で流れる時間とズレがあるのか判断することはできなかった。
私はベッドから立ち上がる。さっきまで隣のベッドで眠っていた少女は消えている。しかし跡形もなく消えたのではない。痕跡は残されている。シーツのしわ、枕のくぼみ、めくられた布団、脱ぎ捨てられたバスローブ。私は荒くなる息を抑えるために一度大きく深呼吸をした。恐怖で体の神経が過敏になっているのを感じる。ホテルの部屋全体をまるで慣れ親しんだ自分の部屋のように把握することができた。私は短く息を吸い吐き出す。目を閉じることはできない。一瞬の瞬きのうちに世界ががらりと変わってしまうような危うい雰囲気がこの世界にはあった。
部屋の奥から物音がする。入り口のドアの方だ。私は耳を澄ます。小さな川を水が流れるような音がする。私は音のする方へと歩いていく。いつ床が崩壊するかわからない。裸足で一歩一歩慎重に絨毯を踏みしめる。目と口と喉が渇いていく。心臓は危険を知らせるように激しく高鳴る。音はトイレの中から聞こえる。私がドアの前に立つと音は止む。ドアの向こうでナニカが彼女の息を殺している。
私はドアノブに手をかける。当然のように鍵がかかっている。今度は中からぴちゃぴちゃと水が跳ねるような音が聞こえる。私はトイレのドアをノックする。そこは私だけの世界のはずだった。返事はない。しかし中には得体のしれないナニカと彼女がいることが私にはわかる。
「入ってます」
とドアの向こうで少女は言う。夢はここで覚める。
目が覚めたのは朝だった。しかし枕もとの時計を見ると2:45を表示している。昨夜の夢は何だったのだろうか。あれほどリアルな夢を見たのは初めてだった。私はコンセントから充電器を抜きスマホの電源を入れる。時間は7:32と表示される。私は二つの時間を見比べながら二分待つ。スマホの画面は7:34になり、ホテルの時計は2:45のまま変わらない。私は小さく気を吐いて立ち上がりトイレへ向かう。ドアノブに手をかけると当然のようにドアは開いた。中には誰もいない。尿意は感じたが不気味なのでトイレには入らず、ベッドの上に戻る。
乃々香は規則正しい寝息を立てて眠っている。私は現実の世界にいるのだとほっと胸をなでおろした。時間はズレなく動いているし、彼女はここにいる。
彼女が目を覚ましてから、私たちはホテルの朝食バイキングに向かう。お世辞にも豪華とは言えなかったが、好きな物を好きな分だけ食べられるということに私たちはありがたがらなければいけない。朝食を食べながら私は彼女に夢の話をした。話すべきでないとも思ったが、悪い夢は口に出した方がいいと誰かが言っていたのを思い出したのだ。
「それでわたしを助けてくれたんですか? そのナニカから」
私は首を横に振る。クロワッサンを一口かじってから「目が覚めちゃったのよ」と言った。彼女は器用に箸で鮭の骨を取り除いている。
「でも助けようとしてくれたんですよね?」
「どうだろう。怖くて体も頭も動かなかったから。それにノノが『入ってます』って言ったの。だから助けるとか、そういう危険はなかったのかもしれない」
「じゃあ、次はきちんと助けてください」
「次って私、またあの夢みるの? 怖くて嫌なんだけど」
「見ますよ。たぶん」
彼女の言うという通り私はその夜全く同じ夢を見た。
*
ホテルを後にした私たちは電車を乗り継いで札幌まで向かった。どの電車も空いていてほとんど貸し切りのような車両もあった。見慣れない街を眺めながら電車に揺られるのはとても良い気分だった。朝九時過ぎにホテルを出て、札幌に着くのは夕方ごろを予定している。時間はとてもゆっくり流れていた。これから六時間近く私はずっと電車に揺られて過ごすのだ。それは途方もない時間のように思えた。しかしその時間は二十四時間ある一日の四分の一でしかない。本当の一日というのはこんなにも長いのかと私は驚いた。
電車に乗りながら彼女は延々と自分の話をした。どこで産まれて、どういう学校に通って、友達は、部活は、家族は、みたいなどれもとても個人的な話だった。初めは自らの人生を整理するために、ただひたすら口に出して話しているだけなのかと思っていた。だから私は邪魔しないように最低限の相づちだけを打っていると「聞いてますか?」とたびたび顔をしかめた。どうやら私に話すことを目的としているようだった。私が「どうして?」と尋ねると彼女はそんなこともわかんないんですかという表情をした。
「じゃあどうしてわたしに夢の話をしたんですか」
彼女は向い窓を眺めていた顔を私の方に向けた。車両の連結部分が激しい音を立てる。その近くに座っていた私はその音に驚いて彼女から目を逸らした。
「まあ、いいです。それで、どこまで話しましたっけ?」
「高校に入ってマミちゃんって子に出会ったとこまで」
彼女の人生を一言でまとめるなら絵に描いたような普通だった。共働きの両親の家に生まれ、何不自由なく育ち、友達もそれなりいて、勉強も運動も人並みよりはできた。現在は公立の高校の二年生だが、学校には行っていない。
「マミとは席が前後だったんです。教室の廊下側のすみっこ。お互いクラスに友達がいなくて、だから自然と話すようになりました。会って二日とかでわたしたちは他の友達なんていらないと思うほど仲良くなりました。二人とも積極的にクラスの中に入っていくようなタイプじゃなかったので、わたしたちはクラスで離れ島のように浮いた存在になりました」
彼女は一息ついてまた話し始める。
「わたしの人生で最も美しい時間だったと思います。死ぬとき、もし走馬灯を見るなら間違いなく彼女と二人で話していたあの教室です。青春アニメみたいに誰もいなくなった放課後の教室でずっと二人で喋ってました」
彼女は向かいの窓から差し込む夕陽と言うにはまだ明るい太陽の日差しを懐かしそうな目で眺めた。私は彼女とマミという女の子が夕日が差し込む教室の隅で話している様子を想像した。彼女たちは黒いセーラー服を着ていて、二人とも真っ黒な髪を後ろで結んでいる。しかし私の想像は次第に歪んでいき、教室で話す二人の顔がどちらも乃々香になった。二人の乃々香が仲睦まじく笑い合っている。
「あまりに完璧だったんです。文句のつけようがありませんでした。でも完璧な三角形がないように、わたしたちにはどこか綻びがあるんです。そして完璧に近ければ近いほど永遠は遠ざかっていくようでした。わたしがそう思っていたいだけなのかもしれません。わたしたちは完璧という禁忌を犯してしまったのだ。だからこれは罰なのだと」
おもむろに電車は駅に停車して、彼女が「少し降りませんか?」と言った。札幌まではまだ少しあったが、この調子なら後数時間もすれば着くことができるだろう。私はうなづいて電車から降りた。
私たちはいま北海道の左端にいた。小樽という場所で私でも名前を聞いたことのある街だった。駅を出るとメインストリートと思われる通りに出てその先に小さく海が見えた。彼女はそこを指さして「行ってみましょ」と言った。
石造りの建物とひらけた空、潮の匂いが私にここが東京でないことを思わせる。私たちはそんな街を眺めながらただひたすら真っすぐ海に向かって歩いた。しばらくすると橋のかかった小さな川があって、その先に港があった。白い砂浜があるような海を期待していたので、その倉庫のような建物が並ぶ殺風景な景色に私は少しがっかりした。海に面しているところは美しさに違いはあれど全て砂浜なのだと思っていた。だから砂浜がこの島国をぐるっと一周囲んでいて、砂浜を辿ればどこまでも歩いていけるのだと思っていた。少し考えれば違うとわかる当たり前のことだけど、いままで考えるきっかけがなかった。
私たちはそのまま海沿いを歩いて、次の駅まで向かうことにした。ナビアプリを開くとすぐに街中へ戻そうとするので、しばらくその案内を無視して歩いた。その間、私たちに会話はなかった。彼女は海を見ながらマミのことを考えているのだろうと私は何となく思った。砂浜は繋がっていないけど、この果てしなく平坦に続く海だけは繋がっているのだ。どこまでも。
駅に着いて札幌まで行く電車に乗った。そこで彼女は夢の話をした。
「昨日、わたしも亜希さんの夢を見ました」
世界は夕日の赤色に包まれている。彼女は慎重に言葉を選別するようにじっと自らの手指を見ていた。細くてきれいな指だった。日にかざせば皮膚の内側にある血管や骨まで透けて見えるようだった。
「見た夢の内容は全然違うものだったけど、わたしたちの夢は繋がってしまったんです。これはあまりよくないことです」
これは自らの過ちであるとでも言うように彼女は深刻そうな顔をしていた。電車は夕日から遠ざかるように走っていて、まるで夜に向かっているようだった。私たちの目の前には七十歳近くの男性がいて熱心に本を読んでいた。私はその傍らで彼に寄り添う杖を見ていた。それから二度ほど電車が揺れた。
「どうしてそう思うの? よくないことだって。同じ夢を見るというのは素敵なことだと思うけど」
「同じ夢なら別にいいんです。でもわたしたちは別々の夢を見ています。お互いの夢と夢の間に道が作られてしまったんです。わたしは前に一度、夢が繋がったことがあるからわかるんです」
「それはマミって子と?」
私がたずねると彼女は大きくうなずいた。不安そうに何度も両手の指を絡めては開いている。
「正直上手く言葉にできる気がしません。わたしはそのとき、彼女の身に何が起きたのかほとんどわかっていないんです。人の心の中や夢の内容なんてわかりようがないんです」
「マミって子の中で起きたことに、あなたは巻き込まれたってこと? それで今回は私の中で起きていることに巻き込まれている」
「違います。今回巻き込まれているのはわたしじゃなくて亜希さんです」
「私があなたの中で起きている何かに巻き込まれているってこと?」
彼女はうなずく。
「ねえ、それって不自然よ。上手く言えないけど。夢の状況からみれば巻き込んでいるのは私だし、巻き込まれているのはノノの方だと思うわ」
私がそう言うと彼女は黙り込んでしまった。電車は変わらず規則的な速度を保ちながら、私たちを目的地まで揺らし続けている。札幌は次の駅だった。日はもう暮れかけている。
札幌駅に着いてあらかじめ予約しておいたホテルに行く。一日中ただ電車に乗っていただけなのに、私の体はくたくただった。私はベッドに身体を預けて少しの間目を瞑る。まぶたの裏には昨日の夢が写る。しかしこれは夢の記憶ではない。現在進行中の夢なのだ。昨日のまま読みかけの本のように時間が静止している。私はまだトイレのドアの前にいて、そこには鍵がかけられている。
日が沈み、夕食を食べて、シャワーも浴びて、月が空高く浮かぶころ、彼女は話の続きを始める。
「現実に起きたことだけを話します。そのとき見た夢も、彼女が感じていたであろうことも、一年経ったいまでもはっきり覚えています。でも夢は所詮夢です」
私はうなずく。夢はどこまでリアルを孕んでいても夢でしかない。
「まずいま、彼女は遠くへ引っ越してしまいました。彼女がどこに居るのかわかりません。だから彼女が思っていたことや感じていたことをわたしが知ることはできないんです」
おそらくマミが引っ越したのは北海道なのだろうと私は思った。だから彼女はこの土地を選んだのだ。私と同じように。しかしどれだけ技術が発展したといっても顔と名前しかわからない人を探し出すのは、ただの高校生には不可能に近いことだ。
「彼女はわたしにキスしました。誰もいない教室のすみでわたしたちはキスしたんです。それはとても美しい光景でした」
「光景?」
と私はたずねる。
「そのとき、わたしは自分自身を俯瞰してました。そこにはわたしがいて、彼女がいて、二人で見つめ合っていて、キスしたんです。いけないことをしていると思いました。別にレズビアンや同性愛に偏見があったわけじゃないんです。むしろわたしはこうなることをどこかで望んでいる節がありました。彼女と恋人になれたらどんなに素敵だろうって。でも人が望んでいることというのは決まっていけないことなんです。でもそれに抗うことはできません。わたしたちはアダムとイブの子ですから」
私は彼女の言葉を反芻する。夢は所詮夢です。彼女は遠くへ引っ越してしまいました。それはとても美しい光景でした。いけないことをしていると思いました。わたしたちはアダムとイブの子ですから。
「それで? どうなったの?」
「見てた人がいたんです。そしてその子が言いふらしたんです。マミがの乃々香にキスしてたって。いじめのようなものにはならなくて、ただ噂として周知の事実になりました。その噂ではなぜかわたしは被害者になっていて、彼女ばかりが好奇の目に晒されるようになりました。そのうち彼女は学校に来なくなって、気づいたら彼女はわたしの前から姿を消しました。彼女が引っ越したのを知ったのはずいぶん後なんです。だからどうしようもありませんでした」
話はここで終わりのようだった。彼女は波のない湖に沈んでいくように黙り込む。浮かび上がった心は再び底に沈んでいく。彼女は孤独な岩のようにベッドの上で横たわった。黒い髪がベッドシーツの白を侵食するように伸びている。瞳からは一筋の涙が零れている。
「亜希さん」
と彼女は言う。
「どうしようもなかったんです。連絡は届かないし、先生は北海道ってことしか教えてくれないし、もともとどこに住んでたのかすらわたしは知らなかったんです。もっとできることがあったはずなのに心が動かなかったんです」
目からは涙が零れ続けているのに、彼女の顔には表情がなかった。瞳は黒い水彩絵の具を垂らしたかのように光なく滲んでいる。私は、彼女が私を強く求めているのを感じた。それは悲痛な叫びのように私の体を鋭く伝う。
「亜希さん、お願いです。わたしを抱きしめてください」
「ねえ――」
「違います。そういうことじゃないんです。わたしは、レズビアンなんかじゃないんです。ただのヘテロセクシャルで、ただただ普通の女なんです。恋愛対象は男で、性自認は女のどこにでもいる普通の女子高生です……だからその行為に意味なんてものはなくて、ただの接触に過ぎなくて……」
私は彼女の横に行き、頬を濡らす涙を拭った。そして彼女に口づけをする。彼女の唇は涙で湿っていて、少ししょっぱかった。私は両腕で彼女の華奢でとても軽い体を引き寄せて抱きしめる。繊細な飴細工のように強く抱きしめたら壊れてしまいそうなまだ若い女の子の体だった。
彼女はこの行為に意味がないと言う。これはただの接触なのだと。それなら私がいままでやってきた意味のある行為、意味のある接触は何だったのだろう。
「亜希さん、わたし、男の人が好きなんです。でも彼女は違いました。言葉にしなくてもそういうのって何となくわかるんです。だからわたしもそうなるように頑張りました。いままで本当に好きになった人なんていなかったんです。周りがそういう話をする中、わたしには好きという感情が同年代の男の子たちに向くということが理解できなかったんです。そのことでわたしはずっと寂しい思いをしてきました。誰かに抱きしめて欲しいのに、誰にどう抱きしめられたのかわからなかったんです」
彼女は一息でここまで喋って、それから私の胸の中で咳き込んだ。背中に当てた手から彼女の肺が震えるのを感じる。
「だからわたしも彼女と同じなんだって思い込むようにしたんです。そうすることでしか彼女とは繋がっていられないって思いました。もしわたしが彼女を少しでも拒絶してしまったら彼女はわたしの前からいなくなってしまう。それだけは避けなくちゃいけないと、わたしは必死にレズビアンのフリをしました。でも自分の心を偽り続けるなんて、結局上手くいくはずがなかったんです」
そこまで言うと彼女は呼吸を整えるようにゆっくり息を吐きだした。そして眠りに身体を預けるようにまぶたを下ろす。私も同じように彼女を抱きしめながら目をつぶった。彼女の息が胸に当たってくすぐったかった。赤子のように高かった彼女の体温少しずつ下がっていくのを感じる。彼女はわたしの中で眠ろうとしているのだ。
「亜希さんは、わたしを抱きしめていて何か感じますか」
どう答えたらいいかわからず、私が黙っていると「わたしは感じます」と彼女は言った。
「亜希さんの中にわたしがいるんです」
「夢が繋がってしまったから」
と私は言った。彼女は小さくうなずく。
「わたしを救ってあげてください」
彼女はそう言い残して、眠った。
*
真夜中、私は昨夜と同じように夢の中で目が覚める。時間はきっかり2:45。隣のベッドでは少女が眠っておらず、もぬけの殻だった。周りを見渡すとここは昨日泊まった函館にあるホテルだった。私はベッドから体を起こし、緊張をほぐすために大きく息を吐き出した。夢は所詮夢に過ぎない。夢の中で命が取られることはないし、誰かを傷つけることもない。夢は私だけの世界だ。何をしたって咎められることはない。例えばこのホテルの窓ガラスを全部割ってもいいし、好きな人をここに呼び出して無理やり犯してしまってもいい。
私は自分にここは私の世界なのだと言い聞かせながら立ち上がる。トイレから小さな物音とそよ風が吹き抜けるような音が聞こえる。私がドアの前に立つと音は止み、世界は静寂に包まれる。ドアの取っ手の下に暗証番号式の鍵が取り付けられていた。ディスプレイには四桁分の空白が並んでいる。
私は思いつく限りの四桁の数字を入力する。今日の日付、西暦、2:45、私の誕生日――。しかしどれも駄目で一分間操作禁止のペナルティーを貰ってしまった。私に関することではなく彼女に関することなのだろうか。私は彼女にまつわる数字ついてはほとんど無知と言っても過言ではなかった。知っているのは年齢だけだ。誕生日も電話番号も知らない。
しかしここは私の夢の中なのだ。私が知らないものがパスワードに設定されるはずがない。一分間のペナルティーが終わり、私は0781と入力する。正解を知らせる機械音と共に鍵が開いた。この数字は私がよくパスワードに使用する数字だった。私が嫌いな数字を四つ選んで組み合わせた数字で、私の個人情報から絶対に辿れないようになっている。
私が恐る恐るドアを開けると、そこにはバスローブを着た少女がいた。他には誰もおらず、そこはありきたりなホテルのトイレだった。これで夢は終わりじゃないのだろうか。夢から覚める気配はない。とりあえず私は彼女の手を取ってトイレを後にした。
「助けてくれてありがとう」
と彼女は言った。私は彼女をベッドに座らせる。私は向かい合うように隣のベッドに座り、彼女のことを観察した。外見的にはおかしな様子は見当たらなかった。怪我をしているわけでも、幽霊のように半透明なわけでもない。しかし何かが変だった。デジャブのような、夢の中で夢を見ているような奇妙な感覚。彼女を見ているとなぜか私は心臓の高鳴りを感じる。それが恐怖から来るのか緊張から来るものなのか、はたまた全く別の要因があるのか私には判別できなかった。
「ねえ、私はこれからどうすればいいの」
私は彼女に尋ねた。彼女は光のない虚ろな目で私を初めて見た。
「おねえさんはどうもしなくていいんです。あのときのように何もせず、ただ流れに体を任せていればいいんです」
「あのとき?」
「そうです。おねえさんが恋人以外の男の人と初めて寝たあの夜です」
「どうしてあなたがそんなこと知っているの」
「私はおねえさんに関する大抵のことは知ってます。あの夜は寂しくて悲しくてどうしようもなかったってことも。おねえさんは悪くありません。悪いのはあの男です。何カ月をおねえさんを放っておいたくせに、ちょっと他の男と寝たくらいで浮気なんて」
「ねえ、なんなの? 何が言いたいの」
「仕方なかったってことです。おねえさんだって飼い主の帰りを待つ犬じゃないんだから、ずっと放っておかれたら寂しくて浮気くらいしちゃいます。それにたぶんあの男だって向こうで浮気してたに違いないですよ。そうじゃなきゃこんなにすぐ別れ話になるはずありませんもん」
私は耐えられなくなって彼女の頬を平手で叩いた。膜の薄い風船の割れたような音が静まり返った部屋に響く。彼女は叩かれた頬を手で押さえている。私はじりじりと痛む赤くなった手のひらを見た。
「これも仕方のないことです」
「やめて」
「ねえ、おねえさん。わたし、おねえさんの気持ちわかります。孤独の逃げ場が無くなって自分の中に溜まっていくんですよね。それで寂しくてどうしようもなくなっちゃうんです。わたしもです。ねえ、そんなわたしたちを誰が責められるんでしょう? おねえさんは見知らぬ男と寝ているときだって、その男を通して彼を見ていたのに。それの何が浮気なんでしょう?」
「やめて」
と私は言う。
「ねえ、わたしはおねえさんを通して彼女を見ます。おねえさんはわたしを通して、その男でも別の誰かでも好きな人を見ればいいんです。そうすれば何もかも上手くいきますよ。わたしたちにはそれができます」
彼女は身体の前で縛っていたバスローブを紐をほどく。バスローブ下には何も着ておらず、するすると彼女の未完成な身体が現れる。彼女は倒れ込むように私の体を押し、首筋に唇を当てた。彼女の一挙手一投足に反応しわたしの胸は激しく高鳴る。このままじゃいけないと思った。しかし私の手足はスイッチが切れたロボット人形のように動かない。声は金縛りにあったときのように掠れて、音にならない。
彼女の手足はアダムとイブを唆したあの蛇のように、服の内側に入り込み私の体を触る。このまま彼女の言う通り、体を預けてしまうべきなのかもしれないと思った。彼女は切実に私を求めていたし、私も彼女を求めていた。それにこれはわたしの夢だった。夢の中で現実的な責任は発生しない。しかし私がこのまま彼女に身体を許してしまうと、おそらく夢から覚めてしまうだろうという予感があった。それでは何一つ問題は解決しない。
私は彼女の頬をまた思いきり叩き、それから力いっぱい彼女の体を押しのけた。私はすぐに立ち上がって乱れた服を直した。彼女は枕がクッションになったようで、叩かれた頬を抑えながら猫のように小さく丸まっていた。
「わたしはおねえさんを求めてる。おねえさんもわたしを求めてるのにどうして」
彼女は泣いていた。それは海に降り注ぐ雨のように音のない涙だった。
「正しくないことだからよ。あなたも、私も、そしてマミって子も」
「ねえ、おねえさん。わたし寂しいんです。誰かに抱きしめられたいんです」
「わかってる。でもこれは夢なの。だからどうしようもないのよ。でもね、私はあなたのことを抱きしめたしキスもした。それは本当。だからそのことだけを思って眠りなさい」
彼女が眠ってしまってから、私はトイレに向かう。ドアは閉められており、取っ手の下には暗証番号式の鍵がついている。私はさっきと同じように番号を打ち込みドアを開けた。
5(最北端)
目が覚めると視界に大きな影がかかっていて、起き上がるために頭を上げるとその影と衝突した。その影は乃々香だった。額を抑えながら彼女を見るといたずらっ子のように笑った。
「やっと起きました。もう朝食の時間終わっちゃいますよ? このまま白雪姫になっちゃうのかと思いました」
「白雪姫?」
「なんでもありません。早く行きましょ。わたしお腹すきました」
彼女は寝起きの私を急かして、先に一人で朝食へ向かった。
私があとから行くと彼女は机の上にたくさんの皿を並べて先に食べ始めていた。私がこれ全部一人で食べるのかと訊くと彼女は頬を膨らませた。
「もう片付けちゃうみたいだから、わたしが亜希さん分も取っておいてあげたんです」
私は彼女に礼を言ってから朝食を食べはじめた。寝起きで全くお腹は空いていなかったが、彼女が私の倍は食べたのでたくさんあった皿はほとんどが空になった。
「今日で宗谷岬まで行っちゃおうと思います。ホントはもっと時間をかけていくつもりだったけど、まあもう十分かなって」
私はうなずいた。
ホテルを出て、私たちはいつものように電車に乗り込む。予定では途中で一泊してから稚内に行く予定だったので、きっと目的地の宗谷岬にある日本最北端の地の碑に着くのは日が暮れてからになるだろう。その近辺で一泊して、帰りは飛行機を使うつもりなので私は明日にはもう東京にいるのだ。長いようで短い、奇妙な旅だったと私は思った。
彼女は昨日見た夢の話を聞きたがったけど、私はどう話したらいいかわからなかったので曖昧に返事をして誤魔化した。その代わりに私は私の話をした。私の浮気が原因で別れた恋人との話だ。
「彼は私の初めての恋人だったの」
と私は言う。彼女とは会ったときからずっと隣同士で座り合って個人的な話をしているなと思った。個人的な話、しかしこの世界に個人的でない話がいったいどのくらいあるだろう。政治の話だって世界金融の話だって突き詰めれば個人的な話。だから私は誰かに口を開くのが苦手だ。目は口ほどにものを言うという言葉があるけれど、結局心の内を表わすのは口なのだ。話さなきゃ何もわからない。
「とてもいい人だった。私には勿体ないくらいの人でね。二年近く付き合ったの。いま思うと不思議ね。どうして二年も私に時間を割いてくれたのかな、なんて思うくらい素敵な人で、とても素敵な時間だった」
私は彼の顔や声を思い出そうとした。しかしそれは上手くいかずに曖昧で靄がかかったものだった。代わりに彼との思い出を探すが、どれも古びた映画のように途切れ途切れで意味のない映像ばかりだった。
「別れたのは一年前なの。馬鹿みたいでしょ? 一年かけて、ようやく一歩前に進むことができたの」
私がそう言うと彼女は首を横に振った。それから「……どうして」と消え失せそうな声で呟いた。
「どうして、別れたんですか」
私は考える。どうして別れたのだろう。客観的に見れば理由は明白で、言い逃れようのない事実だった。でもそれ以外に何か別の理由が合ったのではないかという私の身勝手な希望がこの一年だった。本当の理由を、考えることを放棄しながらずっと考えていた。
「私が浮気したのよ」
回答期限が来たように私はそう答えた。ずっと引き伸ばしにしていた答えをようやく出した。認めて、口に出してしまえばなんてことないようなことに思えた。こんなことに一年間も悩んでいたなんて馬鹿らしいが、そんな自分が少し愛おしくも思えた。
「私のこと……軽蔑する?」
彼女は大きく首を左右に振る。
「浮気はダメです。絶対。好きな人を好きだった人を大切な人を傷つける行為です。亜希さんのことを何も知らなかったらそう言ってたと思います。でも私はもう亜希さんのことを知ってしまってるからそんなことは言えません。何かあったんですよね?」
「何もなかったの。私にはあのとき何もなかったのよ。だからああいうことができたのね。赤の他人が私の中に入り込む余地があったんだと思う」
彼女は黙って私の次の言葉を待った。しかし私は次の言葉なんて持っていなかった。これが私の全てだった。ちょうど乗り換えの駅に着いて、私たちは電車から降りた。そして反対側のホームへ行き、しばらく待ってから来た電車に乗り込んだ。代り映えのない時間が続いた。ただ二人横並びで電車に座って移りゆく景色を眺めている。時間が経つにつれ、風景は都市から街へ、そして平坦な田舎に変わり、その変化に合わせて乗客も数を減らした。私たちは昼食も取らずに目的地へ向かった。ただ一日中電車に乗っているだけだ、お昼を抜いたくらいで死ぬわけじゃない。
「ねえ、亜希さん」
夕日が傾き始めた誰もいない車両の中で彼女は呟いた。私は「なあに」と返事をする。
「わたしの旅に意味はあったんでしょうか?」
ガタンと大きく電車が揺れた。私は彼女の求める答えを探すように宙を見た。誰も捕まっていないつり革が一列に並んでダンスでもするかのように揺れている。床に映しだされた電信柱の影がすごい勢いで私たちの前を横切っていく。
「わたし、不安なんです。日本の端にしっかりと時間をかけて行けば何か変わるかもしれないって思って家を出ました。そのときはそうしなきゃいけないって思ったんです。でもいざ近づくと、どこまで行ってもわたしはわたしなんだっていう思いが強くなるだけで、何かが変わるような実感なんて何一つないんです」
彼女は自らの小さな手を眺めながら言った。私はその手を取り優しく握りこんだ。彼女の手はとても温かかった。きっと彼女の未完成の体の中で渦巻くエネルギーが発している熱だろうと私は思った。
「きっとそういうものなんだよ」
と私は言った。それはまるで自分に言い聞かせているかのような言葉だった。そういうものなんだよ。
「そういうもの?」
私はうなずく。
「そう。どこまで行っても私は私だって気づくことに意味があるんじゃないかな。たぶんこれから何度も私が私じゃなきゃいいのにって思うよ。でもそのたびに私は私だって思い直していかなきゃいけないの。生きるってそういうことだと私は思う」
私の言葉を反芻するように彼女は黙り込む。夕日はしだいに傾き始め、電車は着実に私たちを目的地へと運んでいる。私は昨日の繋がってしまった夢のことを思う。彼女には悪いことをしたと思う。そして同時に彼女の言う通り身を委ねればよかったとも思う。しかし生きるというの私は私だと思い直すことなのだ。誰かにその判断を委ねてはいけない。
そのまま電車に揺られ続け、日が暮れたころに私たちは目的地である稚内に着いた。稚内から最北端の地に行くにはバスに乗るしかなかったが次のバスは翌日だった。私たちは仕方なくレンタカーを借りて、私の運転で最北端の地を目指した。私の力を借りることを渋るかと思ったが、彼女は特に反対せずレンタカーの助手席へと座った。
一時間ほど車を走らせる。その間、私たちはずっと無言だった。もう何も喋らないことにすっかり慣れていたし、それにもう話すことは特になかった。私たちはここ数日で話すべきことを全て話し終えたようだった。
日本最北端の地にはそれが記された三角形のモニュメントがあった。ネットで散々見たせいか大した感動もなく、思ったよりも大きいなという感想しか抱けなかった。辺りは真っ暗で人は誰もおらず景色も全く見えなかった。暗闇の向こう側から海の音が聞こえるだけだった。
「明日来れば良かったかもね。どうせ一泊するんだしさ。そしたらもう綺麗な景色が見れたかも」
私は記念碑の裏側に回り込み海を見た。しかしあるの闇だけだった。
「いいですよ。どうせわたしは冷めてるから感動なんてしないだろうし。人がいなくてちょうどいいですね」
彼女は私の隣に来てそう言った。それから「海って広いですね」と呟く。私は「そうだね」と返事をした。
「どう何か変わった?」
「何も変わらないですね。でも――」
「でも?」
「亜希さんに会えました。それが家を出る前と今の違いです」
私は「だね」とうなずいた。それから二人でしばらく暗闇と区別のつかない海を眺めた。この場所はオマケみたいなものだなと私は思った。私が欲しかったものは全て道すがら手に入れてしまった。だからこの場所に立っても何も感じない。ただここは終わりなのだ。地球は丸くて人生は長いから、何事にも終わりが必要なのだろう。
「じゃあ、帰ろっか」
「ですね」
私たちは駐車場まで歩き、そこに停めたレンタカーへ乗り込んだ。
powered by 小説執筆ツール「arei」
21 回読まれています