現在地を巡る恋人たちの論争について

 ところで、司のスマートフォンには位置情報共有アプリが入っている。
 位置情報共有アプリとは。スマートフォンのGPS機能を利用してリアルタイムで居場所や移動ルートを共有出来るアプリのことである。
 位置情報共有アプリとは。恋人に入れて欲しいと言うと苦い顔をされるアプリでもある。
 位置情報共有アプリをスマホに入れるとは即ち、登録した相手の現在地を知ることが出来るということである。それが束縛に繋がることだって大いにあり得る。ダウンロードを断れば、入れたくないなんて後ろめたいことがあるの? なんて疑われてしまうかも知れない。たまたま友人宅に遊びに行ったらどうしてずっとそこにいるの、と連絡が入ることもあるかもしれない。恋人との関係に一利どころか百害を与えかねないものでもある。
 そんな位置情報共有アプリを、司は頼むからダウンロードしてくれと恋人に頼んだ。懇願したと言ってもいい。なりふり構っていられない。出来ることは全部しておいた方がいい。そんな決死の懇願だった。
 一応司の名誉のために記しておくが、司が恋人に位置情報共有アプリを入れてくれと懇願したのは浮気チェックのためでもなければ、束縛するためでもない。
 恋人の失踪癖のせいである。
 司の恋人である夜鷹純はふらりとどこかへ行ってしまうことがある。それがどこに行くともいつからいつまで行くとも言わないので周りが勝手に焦る。
 何せこの男、前科がある。いつの間にかふらりと消えて四年も姿を現さなかったことがあるのだ。その間連絡はおろか足取りも全く掴めなかったらしい。
 夜鷹の一番の友人である鴗鳥慎一郎は未だにその出来事がトラウマのようになっている。あの頃とはまた状況も違っているのだから帰ってこないわけではないのだろうけれど、何も言わずにどこかへ行ってしまうのは、ちょっと。そのようなことを微笑みをたたえて、それでも苦さの残る顔で言った。
 そんな状況を見かねて司は夜鷹にお願いした。
「純さん! このアプリをスマホに入れてください!」
「面倒」
「設定は俺がやりますから!」
「最近はどこも行ってないでしょ」
「そう言って喧嘩して行方をくらませたのはどこのどなたでしたかね!?」
「ちょっと頭冷やしに行ってただけだよ」
「二週間は結構な期間ですよ!」

 きっかけは些細なものだった。夜鷹と会う約束をしていた日に司の深夜バイトが入ってしまったのだ。いつもだったら夜鷹との約束を優先する司も、人手が足りないからと必死に頼まれてしまって断ることが出来なかった。
「すみません。明日、バイトが入ってしまったので行けません……」
 ただでさえ会う時間が作れないフィギュアスケートのシーズン中のことだった。断る代わりに顔を見て言った方がいいと思った司は、夜鷹の家まで謝りに行った。それも喧嘩に熱が入ってしまった原因だったのかもれない。
「まだそんな下らないことしてるの」
 ぺこぺこと謝る司に、夜鷹は冷たい声で言った。そもそも司が深夜バイトをすることをよしとしない夜鷹だ。辺りの空気が重くなり、司の方にのしかかってきたのが分かった。それでも司は気が付かない振りをした。
「下らなくないです。必要なことなので」
「シーズン中に余計なことで身体を酷使してコーチが務まるの。そう思ってるんだったら君はこの世界のことを舐めてる」
「俺だって調節してます。明日はちょっと事情があって入ってしまっただけです」
 いつの間にか、あたりには糸が張り詰められたような緊張感があった。不意に触ってしまえば切れてしまいそうな。
「あの子どものために司が犠牲になる必要あるの」
「犠牲じゃありません。必要だからしてるだけです」
「それを犠牲って言うんだろ」
「違います」
 夜鷹と司の意見は司の教え子であるいのりが絡まると途端に平行線になる。夜鷹はいのりが大会で金メダルを取ることは無いと思っているし、司はそんなわけがないと思っている。
 だからこの話が出てしまった時点で話を打ち切ってしまえばよかったのだ。
「明日のことはすみません。また違う日に埋め合わせするので……」
「大体、あのくだらない子どもに司が消費されてるのが腹立たしい」
「今何つった!」
 司は思わず夜鷹の襟元を掴んだ。目の前には美しい、それでも不快そうに思いきり司を睨みつけている夜鷹がいる。
「そういう言い方やめろって何度もいいましたよね。俺は全力でコーチをしているだけです。夜鷹さんにそんなことを言われる筋合いはありません」
 夜鷹の舌打ちが破裂したように部屋の中に響いた。もう今日は無理だ。司はそこで諦めてしまった。
「今日は帰ります。すみませんでした」
 夜鷹の返事を待たず、司は部屋を後にした。本当はこの後泊まっていったってよかった。準備だってしていたけれど、今日に限っては難しかった。
 そりゃあ引き受けてしまった自分が悪いけどさあ! あんな言い方しなくたって! 司は終電がとっくに過ぎている真夜中に走って下宿先まで帰った。下宿先に着いた頃には汗だくで、そのままシャワーを浴びてさっさと寝た。苛立ちを発散した日はすぐ寝るに限る。
 ぐっすり寝てすっきりした司は、深夜のバイト前に夜鷹の家に寄った。こういう時は間を置かず、もう一度顔を見て謝った方がいい。ついでに次の予定も決めてしまおう。
 少し気まずさを感じながらもらったカードキーで夜鷹の家に入ると、夜鷹は不在だった。純さん、と夜鷹を探しながら家の中をぐるりと歩き回ったものの、返事も気配も無い。
 きっと散歩に行った夜鷹と行き違いになってしまったのだろう。勝手にそう結論付けて、司は夜鷹の家を後にした。
 その次の日も、そのまた次の日も、司は時間を捻出して夜鷹の家に行った。しかし部屋には誰もいない。ただでさえ人が住んでいる気配の薄い家から更に人の気配が消えている。
 ここに来てようやく司は様子がおかしいことを認めた。もしかして、夜鷹はここ数日家に帰っていないのかもしれない。
 司はまず慎一郎に連絡を取った。「純さんがいないんですけど、何か知りませんか。ここ数日家にいないみたいで」と言うと、スマホ越しに息をのむ音が聞こえた。それから慎一郎は心当たりがないと言った。申し訳ない、と腰を低くして謝る慎一郎にこちらこそ申し訳ない、と司はスマホ越しに頭を下げる。
『純くんには私の方からも連絡を取ってみます。また何か分かったら明浦路先生に連絡しますね』
「ありがとうございます。……すみません、巻き込んでしまって」
『巻き込まれたなんて思っていませんよ。むしろ私に相談してくれてありがとうございます』
 それでは、と慎一郎との電話を切る。一応夜鷹のスマホにも電話を掛けてみたけれど、『この電話は……』と返されるだけだった。
 結論から言うと、夜鷹の居場所は分からなかった。
 夜鷹もコーチをしていた頃ならこんなことをしなかったかもしれないが、今はそのコーチも辞めてしまっている。いなくなっても何の支障も無い状態でふっと消えてしまった。
 失踪。
 真っ青になったのは司、必死になったのは慎一郎だった。司が心当たりのありそうな人に声を掛けている間に、慎一郎も出来る限り夜鷹の行き先を探っていたらしい。
 とは言え相手は失踪のプロだ。スマホの電源も切ったまま誰にどこに行くとも告げず姿を消してしまった夜鷹は、周囲の人間に足を掴ませるなんて愚行は犯さなかった。
 きっちり失踪し、そして今回は帰ってきた。
 夜鷹が姿を消してからというもの、時間を作ってほぼ毎日恋人の家に行っていた司は、いきなり開いた鍵の音に驚きテレビのリモコンを持って玄関に向かった。唯一武器になり得るそれを片手に恐る恐る玄関へ行くと、何ら変わらない夜鷹が立っていた。ぱっと見、コンビニに行って帰ってきただけのようにも見えた。
 二週間ぶりに出くわした恋人に何と言っていいか分からず、司は思わず「帰ってくるんですね……」と言ってしまった。それにむっとしたような顔をした恋人に、司は慌てて弁明した。
「すみません! そういうことじゃなくて、俺のこと嫌になっちゃったからどこかへ行っちゃったのかと思って。俺もう純さんに会えないのかと思って……」
 だからよかった。司はそう言いたかったのに言葉の前に涙が溢れた。一度溢れた物は止まらず、そのまま嗚咽となって広い玄関に響いた。止めなきゃと思うのにそう思えば思うほど涙は止まらなかった。嗚咽が滂沱に変わるまでそう時間はかからなかった。
 そこまで行くと玄関に突っ立ったままの夜鷹から戸惑いの気配のようなものを感じる。すみません、困らせたいわけじゃないんです。司が胸の内でそう思っても口を開けば引き攣った呼吸音か言葉にならない言葉しか出てこない。それにつられて再び涙が噴き出してくる。完全に悪循環だった。
 どれくらいそうしていたのか。ようやく司の嗚咽がすすり泣きに変わったくらいで司の腰に腕が回され、引き寄せられた。
「……ごめん」
 それは確かに夜鷹の謝罪だった。司を抱き締め、謝ってくれさえした夜鷹に、再び司の涙は溢れた。それでも司も夜鷹の背中に腕を回し、ふたりの間の隙間がなくなるほどぎゅうと抱き締めた。自分の腕の中にその人の形があることを確かめた。何度も腕に力を込め、何度も確かめた。大の大人に思いきり抱き締められた夜鷹は苦しかったかもしれないが、何も言わなかった。ただ大人しく、司に抱き締められていた。
 夜鷹の失踪はそうして幕を閉じた。ついでに夜鷹と司の拗れもお互い謝って手打ちとなった。事の次第を聞いた周囲はそれでいいのか、と半ば呆れたような顔をしていたが、司自身はそれでよかった。とにかく夜鷹が自分のところに帰ってきたのだから。

 しかし失踪癖である。これで神経をすり減らしたのは司だけではない。夜鷹の親友の慎一郎もである。というより一方的に巻き添えを食らい過去のトラウマを掘り返されてしまったため、一番の被害者は慎一郎かもしれない。
 その慎一郎も夜鷹が帰還したことを知らされ、泣き笑いのような顔をしていた。精一杯笑おうとしたけれど思わず泣いてしまった、というような顔だった。司にはその顔の意味がよく分かった。夜鷹はやはり戸惑っていた。
 そんな夜鷹をどうしたらいいか。司は仲直りした夜鷹と慎一郎と──夜鷹は途中で飽きてしまったので主に慎一郎と──話し合って見つけたのがこれだ。
 位置情報共有アプリ。
 懸念点は夜鷹はスマホを壊しがちの上電源が切れてもそのままにしっぱなしという点である。しかし司と付き合うようになってからスマホの衝動的な破壊もかなり減った。万一電源が切れたとしてもても、切れるまではどこにいるか確認出来る。かつある程度どの方面に行ったかは把握出来るはずだ。ということでいくつかのアプリを見繕い、これはどうか、とひとつのアプリに決めた。
 さて、ここで問題なのは、いかに夜鷹のスマホにこの位置共有アプリを入れさせるかということだった。
 司は夜鷹のスマホのパスワードを知っている。だから無断で入れようと思えば入れてしまうことも出来る。アプリだけ入れてホームに表示させない設定にしてしまえば、あまりスマホを触らない夜鷹にはアプリを入れられたことに気が付かれないだろう。
 しかし司はそんな騙し討ちのようなことはしたくなかった。そんなことをしてしまっては夜鷹との間に築き上げてきた信頼関係というものが崩れてしまうとも思った。このアプリは夜鷹に納得してもらって夜鷹の意志で入れて欲しかった。そのついでに夜鷹のことを心配している人間がいるということも少しくらい知って欲しかった。
 ちなみにこの位置情報共有アプリは、グループさえ作ってしまえば何人とでも現在地を共有出来る仕様になっている。司は慎一郎にも一緒にやりましょう、と声を掛けたものの、遠慮されてしまった。
「純くんのことは明浦路先生が知っておくのが一番いいと思うんです」という慎一郎に、司は自分の責任の重さを感じた。夜鷹の親友から夜鷹を託されたようなものだ。任せてください、と言ったからには夜鷹にこの位置情報共有アプリを必ずや入れさせなければいけない。
 しかしながら、夜鷹はすげなく司の提案を断り続けている。どれだけ司が懇願しようとそっぽを向いたままだ。
「何でダメなんですか! ダウンロードも設定も俺がやるのに!」
「余計なものが増えるのが嫌」
「余計じゃないですって! 保険です保険!」
「いらない」
「そう言ってまたどこかに行ったら……」
 どこかに行ったら、また夜鷹は帰ってきてくれるのだろうか。その言葉を司は飲み込んだ。責めたいわけではない。縛り付けたいわけでもない。距離が必要なときもある。司だって夜鷹と意見が合わなくて言い合いをした時は、怒りを発散するために夜鷹の家から下宿先まで走って帰ることもある。
「そんなに信用がない?」
「……そういうわけじゃ、ない、ですけど……。でも勝手に心配くらいさせて欲しいです。そこにちょっと安心も欲しいだけで……」
 言葉にしてみるとちょっと欲張りすぎかもしれない。それでもどこかに行ってしまうのが上手いこの人をそのままにしておくのは嫌だった。せめて少しだけ重りを着けさせて欲しいと思うのはわがままだろうか。
「心配したいの、司は」
「積極的に心配したいわけじゃないですよ。ただ、どこにいるのか分からないよりも大体あの場所にいるんだなって分かった方が安心するじゃないですか。もしどこか、俺がすぐには行けないところで事故にでも遭っていたらと思うと気が気じゃないし。でもあなたのいる場所が把握出来たり動いてるの見えたら元気そうだなってちょっとはほっとするというか、気持ち的にはマシというか……」
「変なの」
 夜鷹は相変わらずすげない。ようやく司の方を向いてはくれたが、アプリに関してはすぐに頷いてくれそうもない。
「一回入れてみて、嫌だと思ったら消していいので! ね、一回だけどうですか?」
「嫌だ」
「お願いします純さん! 何でもするから!」
 懇願に次ぐ懇願、司は夜鷹を拝むように顔の前で手を合わせた。こうして夜鷹のことを想っているのは司だけではない。慎一郎の想いも背負っているのだ。自分たちのためにどうにかアプリを入れさせて欲しい。一回入れてしまえばそれに興味の無い純がそのまま放置しておいてくれるかもと言う下心もある。とにかく一回入れさせてしまえば……! 司自身必死すぎて、自分が何を口走っているか分かっていなかった。
「言ったね」
 きら、と夜鷹の目が光るのを見た。それを見た瞬間、さあっと血の気が引いた。夜鷹相手になりふり構わず頼み込んで後悔したことが何十回とあるのを思い出した。これは司の明確な失敗である。
「今度の連休、全部僕にちょうだい」
「ええ、俺にも用事ってもんが……」
「何でもするって言った」
 こういう時に全く引かないのも夜鷹純だった。言ったのなら実行しろ。約束したなら守れ。人として全く正しい。ただし融通は利かないので全く優しくない。
「うう……はい……」
「あとこっち来て」
 急に立ち上がった夜鷹にちょいちょいと手招きされた司はそのまま夜鷹の近くに行った。その手首をがっしりと夜鷹に掴まれ、そのまま連れて行かれる。行き先は寝室で、司はああ、と覚悟を決めざるを得なかった。

 そうした犠牲も払いつつ、司はどうにか無事夜鷹のスマホに位置共有アプリを入れさせることが出来た。司自身も入れ、二台分の設定をする。これでアプリを立ち上げればスマホの電源が入っている限りはお互いどこにいるのか大体分かる。
 とは言え司がそのアプリを立ち上げることはなかった。あれからぱったり夜鷹の逃避癖が治ったのだ。
 司と夜鷹は相変わらず些細なことで言い合い、喧嘩もした。しかし夜鷹が司に何も言わずどこかに行ってしまうことはなかった。言い合いの最中、「コンビニ行ってくる」と言った夜鷹は最寄りのコンビニに行ってきっちり帰ってきた。たった五分程度の逃避行はスマホで確認する必要もない。
 犠牲の払い損か、と思わないでもなかったが、とにかくアプリを入れることになった原因の根本である恋人の逃避癖が治ったのだからよかったのかもしれない。結果よければなんとやらだ。司は夜鷹の位置情報を教えてくれているアプリを入れたまま、今日もそのままにしてある。

       *

 というわけで、夜鷹のスマホには位置情報共有アプリが入れられている。
 どれもこれも夜鷹の逃避行のせいだという。もちろん司はそれを直接的には言ってこなかったけれど、酷いこの悪癖に首輪でも付けたかったのだろう。
 しかし夜鷹にだって言い分はある。夜鷹は逃避のためにどこかへ行っているわけではない。自分の平常を取り戻すために原因となっているものから一旦距離を置いているに過ぎない。
 司と喧嘩をした時だってそうだった。また顔を合わせたら、取り返しのつかないようなことを言ってしまったかもしれない。
 あの時の夜鷹には司に言ってやりたい言葉がいくつもあった。しかしそれが司にどう影響を与えるのか分からなかった。司を傷つけてしまうのか、また喧嘩が酷くなるのか、それとも収まるのか……全て分からなかった。だから司に会うのは危険だ。そう思ったから少し頭を冷やしに行っただけだ。
 夜鷹は言葉の力の強さを知っている。同時に言ってしまったことはどうしたって取り消せないことも知っている。
 そして自分が言葉を操ることが苦手だと言うこともよく分かっていた。何気なく言った言葉でも相手を傷つけてしまう。そんなことがこの人生の中で数え切れないほどあった。それがどうでもいい相手なら夜鷹だって気にしない。腹にあった言葉を全て言ってやったってよかった。
 しかしそれが司であるならば話は別だ。夜鷹にだって別れたくないという気持ちはある。ただ手元の何が恋人を傷つけてしまうか分からない。一旦冷静になった方がいいだろう。そう思って、夜鷹は部屋を後にした。向かったのは空港だ。
 二週間後、家に戻ると変な格好でリモコンを構え、変な顔をしてこちらを見ている司が夜鷹を出迎えた。
「帰ってくるんですね……」
 司は変な顔のまま言った。それは帰ってこなかった方がよかったということなのだろうか。時間をかけてどうにか抑えつけたものがまたカッと熱を持つのが分かった。それに気が付いたのか、司は慌てて弁明を始めた。違う、そういうことじゃなくて、自分のことが嫌でどこかへ行ったのかと思った、だからもう会えないかと思って……。
 一息でそう言った司の目からは涙がこぼれ落ちていた。最初こそ静かにぼろぼろと涙を流していたものの、徐々に嗚咽の声が大きくなる。
 そのうち声を上げて泣き始めてしまった。司が自分のせいで泣いている。それは正直、あまり悪い気分ではなかった。自分がいなくなったということで司の感情が動いたのであれば多少は嬉しい。あまり良い類いの感情ではないだろうけれど。
 しかしいつまで経っても司は泣き止まない。夜鷹は段々と心配の方が勝ってきてしまった。次々に溢れてくる涙に琥珀色の目がそのまま溶け出してしまいそうだ。どうにかしなければ、と思ったものの、ここには司と夜鷹しかおらず、泣いている司をどうにか出来るのは自分しかいない。
 夜鷹は司の方に近づき、その腰を抱き寄せた。記憶にあるものよりも僅かに細くなっているような気がした。
「ごめん」
 夜鷹がそう言うや否や、司は力強く夜鷹を抱き締めてきた。一瞬呼吸も出来ないほどだった。久しぶりに感じる恋人の体温は相変わらず熱く、触れたところがじわりと熱を帯びた。それに酷く安心する自分がいた。そう思ったのは初めてだった。
 今までにハグをしたことはある。しかしそれらはあくまで形式上の軽いものであったし、今まで心から誰かを抱き締めたいと思ったこともなかった。同じように抱き締められたいと思ったこともなかった。されてこなかったことをされたいと思うことはない。未知の食べ物を口にしたいと思わないように。
 夜鷹は何度も司に抱き締められた。何度も何度も、力強く抱き締められた。骨が軋むほど抱き締められ、自分はずっとこうされたかったのかもしれない、と思った。誰かに抱き締められ、自分の存在を確かめて欲しかったのかもしれない。夜鷹の形を確かめるような抱擁は、夜鷹がここに実在して良いと言っているようでもあった。夜鷹は思わず司を抱き締め返した。司がしてくれたように力を込めて司を抱き返す。夜鷹の腕の中には確かに司がいた。自分のために泣き、抱き締めてくれる司がいた。

 それから関係を修復することは出来たものの、ちらちらとこちらを見てくる視線には気が付いていた。夜鷹は思いっきり溜息を吐いてやりたくなった。司から向けられる視線には心配が多分に含まれている。
 夜鷹だって意味なく失踪したりはしない。そう言ってやろうかと思ったが結局言わなかった。もう少し信じてくれたっていいだろ、と思わないでもなかったからだ。現に夜鷹は司の前から消えていないのだし。
 そんな司がいきなり頼み込んできた。
「純さんのスマホに位置情報共有アプリを入れさせてください!」
「嫌だ」
 それから司は何やらうだうだと言っていたが、夜鷹にとってはどうでもよかった。ただ何となく、司の頼み通りすんなりと動いてやるのが嫌だっただけだ。
 それに司のこの頼みは意味夜鷹のことを信頼していないようにも思えた。いつかそういうことが起きてしまうだろうと予期されているのも何だか腹立たしかった。
 だって夜鷹は意味なく失踪したりしない。どこかへ行く時はそれなりの理由がある。それを誰かに伝えたことはなかったけれど──それが司や周囲の人をの心配を加速させているとは夜鷹自身気が付いていなかった。
 それでも司はしつこかった。ひたすらに夜鷹に懇願してきた。
 夜鷹は全て断った。ここまで来るともう意地だ。頼まれたら頼まれるほど入れたくない。子どもじみた態度だとは分かっていた。でもすんなりと受け入れるのは癪だ。
「お願いします純さん! 何でもするから!」
「言ったね」
 司から及第点の言葉が出てきたため、ようやく夜鷹はその位置情報共有アプリとやらを入れてやる許可を出した。そのわがままを聞いてやるお代は司からきっちり徴収した。そういうところは抜け目のない夜鷹である。
 そうしてアプリがほとんど入っていない夜鷹のスマホには位置情報共有アプリが追加された。
「ここをタップすればお互いの位置が分かりますよ」
 全ての設定まで済ませた司はアプリを開きながら夜鷹に説明してくれた。地図上には黒色のアイコンと橙色のアイコンが重なるように浮かんでいる。
「今はここ。俺も純さんの家にいるから、こうやって一緒に映ってます」
「へえ」
「もうちょっと興味持ってくださいよ」
 司はそう言って苦笑いしながらこのアプリについて更に説明している。夜鷹はそれを聞き流していた。まあ入れて司が満足するならそれでいい。司を食い尽くして満足した夜鷹は司の話に適当な相槌を打っていた。
 その日の司が夜鷹の家を後にした朝方、夜鷹は司が入れたばかりのアプリを開いてみた。司のアイコンは夜鷹の家から移動しており、司の下宿先に橙色のアイコンが浮かんでいる。夜鷹は画面上で十数キロ離れた距離を見ていた。
 それから夜鷹はふとした時にそのアプリを開くようになった。日が傾いてからもそもそと起きた夜鷹がアプリを開くと、司のアイコンは福岡にあった。そういえば司は福岡にスケーティングのレッスンに行くと言っていたような気がする。
 夜鷹は司のスケーティングを思い浮かべた。長い手足を生かした正しく美しいスケーティング。大舞台で見られないのが惜しいと思ってしまうようなその姿。結局どうして司は表舞台に戻らないのか、という考えに行き着いてしまって、夜鷹はアプリを閉じた。
 貸切に行くタイミングで開くと、アイコンが僅かに移動している。ホテルに着いたのか、それとも関係者と夕飯を食べに行っているのか。福岡のご飯ってどこも美味しいんですよ、と呑気な顔で言っていた司を思い出しながら、夜鷹は画面を睨みつけた。
 滅多に酒を飲まない司だけれど、居酒屋に行く時や付き合いがある時はたまに飲んでいる。滅多に酔わないので大丈夫です、と司自身は言っているが、酒が入ると素面の時よりも隙が出来ることに気が付いていない。あの状態の司を他人の目に触れさせたくなかったが、今から福岡に飛んでいくことも出来ない。今日も飲むな、と念じながら、支度を終えた夜鷹は家を出てリンクに向かった。
 日の出頃、夜鷹はようやく眠りにつく。それでも今日はいつもより長くフィギュアの動画を見て少しだけ夜更かしをした。六時を回ったのを確認して夜鷹はアプリを開く。司のアイコンは福岡駅から少しずつこちらに向かってきている。夜鷹はそれを確認し、画面上のアイコンを親指で撫で、ベッドに横たわった。始発は今日も無事に動いているらしい。
 次に夜鷹が目を覚ますと、司のアイコンは京都にあった。
「浮気?」
『はあ!? アンタ電話掛けてくるなり何言ってんだ!』
 司に電話を掛けると寝起きに聞くべきではない音量の声が夜鷹の耳をつんざいた。思わずスマホを睨んでしまったけれど、そこに司はいない。スマホの無機質な画面があるだけだ。
「何で京都にいるの」
『蓮華茶FSCの先生に用事があって来てるだけです。ていうか今日の予定もカレンダーに書いておきましたよね!? あ、蛇崩先生! まだ話終わってないです!』
「ふうん、浮気」
『馬鹿なこと言わないでください! 今ちょっとリンクにお邪魔してるだけです……蛇崩先生!? 何でそんな距離取ってるんですか!?』
『頼むから巻き込まんといて~』
 スピーカーからは賑やかな声が聞こえてくる。きっと今日も司は沢山の人に囲まれているのだろう。いつもそうだ。司は多くの人に囲まれている。その中心でパッと明るい笑顔を向けている。その笑顔が今日は夜鷹の隣にない。
『純さん今寝起きですよね? おはようございます』
「おはよう」
『今日の夜には帰ります。あと俺浮気とかしませんから!』
「うん」
 それじゃあ、と電話を切るとしんとした室内に戻ってきてしまった。それでも今から夜鷹の一日が始まる。ひとまずシャワーを浴びるために立ち上がった。今日は貸切もないし司が帰ってくるまでにはルーティンを終わらせてしまいたい。

 そういうわけで夜鷹のスマホには位置情報共有アプリが入れられており、夜鷹は時々──割と頻繁に開いて司の居場所を確認している。そのうち橙色を見ると司だ、と思うようになるくらいには。
 パッと明るい太陽はアイコン上でも明るく、勝手に夜鷹を照らしている。

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