透明な君を纏う

 シャワーを浴びて寝室に戻ると未だ恋人が惰眠を貪っていたので、一発蹴りを入れて叩き起した。
「起きろ。何時だと思ってんだ」
「うう愛が痛ェ……はよ、要ちゃん今日もカワイーね♡」
「言ってろ。HiMERUは十時には出掛けると言ったはずです」
「お、HiMERUモード。つーことは……あ〜今日アレか。副所長の眼鏡くんと会食の日? だっけか?」
「そうです。わかっているならHiMERUの邪魔をしないでくださいね」
 てきぱきと身支度をする俺の様子を燐音は黙って眺めていたが、やがて黙っていることに飽きたのか、不意にこちらの腕を掴んでベッドへと引っ張り込んだ。びっくりして思わず大きな声が出た。
「言ったそばから何するんですかあんたは!」
「いーからいーから」
 言いながら手に取ったのは彼が愛用している香水のボトル。いつしか自宅のベッドサイドを我が物顔で占領するようになったそいつは、常に騒々しい持ち主の性格と相反するように落ち着いたスマートな男の香りで、まあ燐音にしては悪くない趣味だと思っていた。それを、二吹き。未だ素のままの足首にシュ、シュと吹き掛けられた。途端にふわりと漂う洋酒と甘い花の香り。
「なにして……」
「ン〜? マーキング?」
「馬鹿……じゃないのかあんた」
 反論することもなく彼はふふと笑った。
 会食と言うからにはお偉方も同席すンだろ、あんまオッサン共に気に入られるンじゃねェぞ。俺っちの匂いつけとけば賢い副所長くんは察してくれンだろ、次から誘うなっつう牽制も込めてっから。あと食事行くなら香水は控えめに、足元とかの方がお上品だぜェ。う〜ん俺っちってば気遣いの出来るいい男。
「わかった?」
 つらつらと語った恋人は俺の右足を掬ってつま先にキスを落とした。満足げに片眉を吊り上げたそのお綺麗な顔を、思いっ切り踏んづけてやりたい(アイドルの商材なのでぐっと堪えたが)。
「……ッ、気障なんだよっ」
「そりゃドーモ」
 玄関を出る際背中に「雨の匂いがする。傘持ってけよ」と声が掛けられたが、振り返りたくなくて無視した。何だ匂いって、野生児かよ。それに今日は朝から快晴だ。



「あっはっは! これは見事に土砂降りですねえ!」
「そんな馬鹿な……」
 度々飛び交うセクハラパワハラモラハラの地獄を潜り抜けどうにか会食を終えた夕方、お偉いさん達を顔面に貼り付けたアイドルスマイルで見送ってから屋外へ出ればあんなに明るかった空は殆ど黒に近い灰色、雷鳴まで轟く始末だった。あの時燐音の声を無視したから傘など持ってきていない。疲労困憊の頭と身体を抱え途方に暮れていたら、副所長がすすすと寄ってきた。
「ときにHiMERU氏。帰りはどうされます? 自分、その匂いのHiMERU氏と同じタクシーに乗って帰るのは少々気が引けますな」
 ――ここにもいた、野生児。匂いが変わった程度のことにこうも敏感に勘付かれると普通に引いてしまう。ああそう言えば、同じユニットにもとびきり鼻が利く奴がいたな。こんなのだらけか俺の周り。
 眉を下げてわざとらしく気まずそうな顔を作る副所長に居た堪れない気持ちになる。そんな顔しないで貰いたい。俺だって望んでこの匂いになったわけじゃない。
「――HiMERUは自分でタクシーを拾いますので、お構いなく。今日はありがとうございました」
 引き攣った笑みで丁重に告げ、これ以上何か言われる前にその場を離れようと、土砂降りの中へ小走りに突っ込んでいった。

「よっ。お疲れさん」
「……なんでいるんですか」
 一つ目の角を曲がったところに傘を差して佇んでいたのは燐音その人だった。ヤマが当たったと無邪気に笑い、彼は差していた透明なビニール傘をこちらへ寄せた。長身の男がふたり入ってもひとりの肩が濡れる程度で済むサイズの大きなそれに覆われ、身に降り掛かる冷たい雫からようやく逃れることができた。「いつからいたのか」と問えば「さっき」と答えるが、そんなのは建前だとわかっている。子供体温の癖に、繋がれた手は冷えきっているじゃないか。
「おめェ傘も持たずに出てったろ。俺っちだ〜い好きなカレシが心配でェ、来ちゃった♡」
「……ひとりで、帰れる」
「雨に降られた美人をひとりで帰らせるような男じゃねェんだよなあ、生憎」
 鞄から取り出したタオルで俺の髪をがしがしと拭きながら燐音は歳上の顔をした。自分が着ていたマウンテンパーカーを手早く脱ぐとご丁寧にこちらの肩に掛けてくれる。彼のぬくもりが移ったそれは雨ですっかり冷やされてしまった俺の肌をあたためた。
 ふたり並んで歩き出す。この過保護な恋人は、持った傘をいくらか傾けて俺が濡れないよう取り計らってくれているようだった。死角になっている方の肩はひどく雨に打たれているのだろうが、他人に施していないと死んでしまいそうなこの男のために黙っておくことにした。

 少しの間、雨の音だけを聞いていた。不意にこちらに視線を向けぬまま「御守りは効いた?」と尋ねられたから「御守り?」と繰り返すと、「香水」と何でもないように返ってきた。言われてみれば彼の香りを纏っている間はどこか心強くて、毅然とした態度でいられた、ような気もする。それも濡れたコンクリートや土の匂いに紛れてしまってもうよくわからないが。
 それに、だ。
「あんたの香水も好きだけど、……あんたの、そのままの匂いだって別に……嫌いじゃない」
 最後の方はもう消え入りそうだった。自分がひどく恥ずかしいことを言っているということには、途中で気付いた。「あはは」と曇天の雲間からいっとき覗いたお日様のように彼は笑う。
「知ってるか? 匂いが好きってのは、一説によると遺伝子に刻まれた所謂生存本能らしいぜ。俺の匂いが好きっつーのは、つまりおめェが俺の遺伝子の半分を本能から欲しがってるっつーこと」
 じわじわと言われた言葉を噛み砕いて意味を理解すると同時、ぼん、と音が出そうな程に猛烈に顔が熱くなって、慌ててその手から傘を奪い取って男を突き飛ばした。ばちゃと水溜まりを踏んだ音がした。燐音の顔が見られない。「ンなに熱烈に誘われちまったらなァ〜、燐音くん今夜も頑張らねェと」などと調子のいいことを抜かすよく回る口が憎い。バケツをひっくり返したような大雨は、いつの間にかからりと止んでいた。





(ワンライお題『香水/雨』)

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