手紙


佐久間病院のバス停前。
普通なら、病院の周りには何件かは医者や見舞客を当てにした食堂や飲食店が立ち並んでいる。
バス停のベンチから見ると、確かにそれらしい店は視界に入っているものの、ランチの時間がちょっと過ぎただけなのに看板が仕舞われて張り紙がしてある店構えが多い。その中には、既に廃業した店もありそうな様子だった。
今、まさに僕たちの見ている前で、一軒の店から蕎麦、うどん、と書いてある暖簾が仕舞われた様子を見て、「本当に蕎麦でいいのか?」と一也が言った。
「しつこいなお前も。僕がいいと言うんだからいいんだよ。まあ、立ち食いしかないならカレーに変えるけど。」と言ってスマートフォンを取り出すと、宮坂からふたりで無事に帰って来てよ、というメッセージが入っていた。これは僕が返事をしていいのかとふと思ってちらりと隣を伺うと、一也は力の抜けたような顔で「イシさんのいつもの乾麵の茹でたのより美味しい店があるといいな。」と笑っていた。
「……まあ、いつものあれはあれで旨いよ。」
家に帰るまでが遠足よ、と生真面目な顔で僕たちふたりを見送った麻上さんと宮坂の顔がちらりと頭の隅を過る。
「先に帰りの電車の時刻表を調べて、逆算して間に合いそうな場所にある店決めるぞ。お前は診療所に連絡しておけ。」
「あ、そうだな。」
先生がきっと心配してる、と言うと、妙な目付きで見つめられた。
何か言い返そうとしている気配を察した瞬間に、ロータリーをぐるりと回って、バスが一台目の前に止まった。行かせろ、と手を振ると、一也はすいません、と運転手に会釈した。ブロロロロ、とバスのエンジン音が去っていく。
まあ、コンスタントに本数があるから、一本くらい見逃しても構わないだろう。
「とにかく、皆心配してるだろうから、帰宅の時間を伝える必要がある。固定電話でも宮坂の電話につなぐのでもいいけど、長話は後にしろよ。」
ニヤりと笑みを取り繕うと、「分かってるよ!」と一也は顔を赤くしている。
全く、身も心もスーパードクター見習いになって戻って来たかと思ったら、格好の付かない奴だ。
どれだけ身体に合っていようが、古びたマントはまだ、実際のこいつの中身にはそぐわない。
こいつの地金の部分が出てしまうのは、ひとりの女の前だけとは言っても。まあそれはそれだ。
「譲介、電車の時間は分かったか?」
「ああ。今からだと、四時台の電車には間に合っても、野上北行のバスの最終には乗れない。駅から歩いたら、村に戻るのはほとんど夜更けだな。」
到着が七時くらいまでに間に合えば、近くに住まいがある誰かに車を出してもらうことが出来ないこともないけど、この時間では遠慮した方が良さそうだ。
「歩くしかないか。一也、お前、僕と雰囲気のいいホテルに泊まりたい訳じゃないだろう?」
「その言い方は気になるけど……まあ、そうだな。」と一也は遠慮がちに笑う。
「じゃあ行くか。」
電車の時間は決まっているのだから、さして急ぐ必要もない。検索エンジンで見つけた、歩いて十五分ほどの場所にある蕎麦屋を探すことにした。
家に帰る手持ちの金がないと病院の受付で相談したら、院長からの本日の謝礼です、と薄い封筒に包まれた金封を貰ったので、ちょっといい天そばくらいは食べられるだろう。


暖簾をくぐると、中途半端な時間だと言うのに、蕎麦屋はそこそこ混んでいた。
ほとんどが一人客だが、テーブルでマスクを外し、衝立越しに話している人間もいる。
メニューを見て、かき揚げ蕎麦と湯葉のせ蕎麦を頼んだ。
カウンターから、水どうぞ、とコップが差し出される。
コップに指の跡がついていないか確かめて一口飲む。
「湯葉なんて、妙なものを食べたがるな。」
「なんとなく季節限定メニューと書いてあると気になっちゃうんだよ。柚子も彩りがあっていいだろ。」
「宮坂が言いそうなセリフだな、それ。」
「………。」
「このくらいで照れるなよ。」というと、まごついた様子で照れてない、という。
こいつら以外の男女なら本当に何もないのかと勘繰るような気持にもなるが、相手があの宮坂という女であればさもありなんというところだ。先代のK先生も、彼と肩を並べる戦友のような女性がいて結婚はしていなかったと聞くけど、こいつらがどう転ぶかはまだ分からない。
この先のことは誰にも分からない。
そう、親の死に目なんていうのは今の僕には本当にどうでも良かった。
血縁上の父親から量だけはたっぷりとある与太話を聞いている間、思い出していたのは、TETSUの話を聞いていた自分自身のことだ。ロボトミー手術に、兵器にさせられたイルカの話。Kの一族の話と同じくらい浮世離れしていて、けれどずっと物語めいていて、今よりずっと若い頃の彼が世界を飛び回ることを思い出している間、彼が本当は誰に執着しているのか、そのことがこちらにも伝わって来る語り口だった。
「それにしても、意外だった。」
「何がだ。」
「あの人が僕たちに手術を任せたことさ。普段はそんなことをする人じゃないってことをお前も知ってるだろ。」
3Dプリンタで反転した心臓模型。
あれは、きっと自分で使うために準備したものだ。
お前はどう思った、と水を向けると、一也は困ったような顔をした。
「僕は、ちょっとわかる気がするけどな……見せようとしたんじゃないか? 譲介の成長した姿を。」
誰に、と一也は言わなかった。普段はデリカシーがないくせに、随分成長したものだ。
「……あの人、こっちが嫌になるほどお節介な人だ。」
苦々しい気持で吐いた言葉を、一也は頷いて聞いている。さっきまでは向かい合って手術をしていたというのに、今はまるでカウンセリングをされる側になったような気分だ。
「譲介の書いたあの手紙、読んでくれたらいいな。」と一也が言う。
「まあ、期待はしないよ。そんなマメな人じゃないからなあ。……本当の家族なら、こんなことは悩まないで済むのかな。」
自分の口からするりと出て来た言葉は、さして思いがけないものではなかったけれど、他人に言うつもりもなかった。留学に行ってしまえば、こんな場所で蕎麦を食べながらの話など、互いに忘れてしまうだろうと思っているからだろうか。一也は、馬鹿なことを言っているとは笑わずに、「そうなったらなったで、きっと、別の悩みが出来るだろうけどね。」といつもの声で言った。

TETSUに、手紙を書いた。
一也には、一分を惜しんでカンファレンスするべき時間を削ってまで買い物をする理由を、説明する必要があった。
ヤクザからの借金を背負った男が、この先どこで野垂れ死にしようと、僕は動揺しない。
けれど、あの人が死ぬときは、立ち会う必要があるし、その権利が僕にはある。
自分勝手に人の人生に関わっておいて、自分の都合が悪いときだけ他人面をしようとする医者も、きっと最後は一人先生を頼るだろう。
あの人は、僕がアメリカで勉強している限り、危篤状態になっても周囲に口止めをしようとするに違いなかった。僕が、それは絶対に嫌だと、はっきりと意思表示をしない限り。
封筒とサインペンと一筆箋を買って、あの人に手紙を書いた。
片親に捨てられ、片親とは生き別れた。新しい人生を踏みだした矢先、試験で躓き、また親代わりに捨てられた。そう思っていたのに。
――離れはしたが、お前を見捨てた訳じゃない。
腹立たしいけど、母親の時も、父親の時も――流石に、ヤクザと関わった仕事でこれほどまでにバカバカしい顛末に終わるとは思っていなかっただろうけど――、あの人が僕にしてきたことは、つまりは、高校時代からの延長線上にある見守りの継続だ、そう認めざるを得ない。
もう僕があの人に出来る恩返しといえば、彼の腹に巣食う腹膜播種を取り除く手術が出来るような医者になること、それしかない。けれど、あの人の人生の残り時間は、まだどれくらい残っているのだろう。まだ医師免許も持たない僕が立派な医者になるまで、時間が待ってくれるとは思っていなかった。
絶対に間に合わせてやる、と思っていても、彼に残された時間がどれだけあるかは、誰にも分からない。
それなら、べたべたした家族ごっこが苦手だってことは分かっているけれど、最期くらいはそばに居させてほしい。それが本音だった。
はあ、とため息を吐いた。
時間がないからととっさに選んだ言葉を、鼻で笑われる可能性だってある。
だけど、無理だろう。
死に水取ってやるなんて、まともな大人なら冗談でも口にしないような言葉を高校生に投げ掛けるような、僕を死なせかけた責任を取ろうというのに取れなくて一人先生に丸投げしたようないい年の男に、今の僕の気持ちを伝えられる言葉は、きっとあれしかなかった。

顔を上げると、カウンターの中で蕎麦を茹でながら、水を飲んで休憩していた様子の店主と目が合った。
店は大方空いて来ていて、「兄ちゃんたち、深刻な顔してんなあ。良かったらやるよ。」と、中から細い棒が刺さっている箸立てが出て来た。
「これ、何です。食べられるんですか?」と言って一也が僕たちふたりの真ん中に箸立てを寄せて来た。
「蕎麦を揚げて塩振ったやつよ。うめぇんだよ、これが。」
ポリポリやってくれ、景気よくなるぜというので、とりあえず食べた。
一也と並んで、ポリポリと蕎麦を揚げた菓子を摘まんでいると、確かに、こうして煮詰まった考え方をしていることが、段々とバカバカしくなって来る。
「そういえば、一緒に生活してた頃は、何度も医療で人を支配するとか言ってたけど、露悪的な言葉の表面だけを鵜呑みにして、振り回されていた自分が馬鹿みたいだ。」
おそらく、ロボトミー手術とか、そういうことを過去の汚点とも考えずに披瀝する『ドクターTETSU』の姿に気圧されていたんだろう。あの頃の僕は高校生になったばかりだったけれど、精神的には母に捨てられた頃からほとんど成長してなかった。
「体力もないのに意地を張って、最悪だ。今だから言うけど、あの人、杖を使い始めた頃、一緒に暮らしてた僕に、体調が悪化したとかそういう話とか相談、絶対に口にしようとしなかったんだぜ。
「案外、近くにいすぎて見えてこないものもあるということかもしれない。」
「K先生の凄さ以外は、だろ?」
「はは。」
話にオチが付いたところで、お待ちどお、という声がして蕎麦がやってくる。
ふたりでずるずると啜る。
暖かい食べ物が、胃の中を通っていく。
そういえば、いつか一緒に食べたな、と思い出す。
あの人の、ドクターTETSUの人生の興味は半分は金で、後の半分は一也に向けられたものだったから、アメリカに行ってしまったら、僕はもう死に目に立ち会うくらいしか会うこともなくなるだろう。
素直に、フライトの日程でも教えておけば良かった。
隣では、一也が、ご馳走様でした、と言って手を合わせている。そうして、こちらにゆっくりと向き直った一也は、「譲介。アメリカ行っても頑張れよ。」と藪から棒に言った。
「……早くないか?」
そんなに僕を追い出したいのか、とからかうと、「いや、そういう気分だったし、当日に言ったら泣きそうな気がして。」と真面目な顔になっている。
「そういうものか。」
「そういうものさ。あ、時間そろそろじゃないか?」会計お願いします、と一也がカウンターの中の大将に告げる。自分から話を振っておいて、切り替えが早いやつだ。
デリカシーがないのよ、と憤慨していた宮坂の顔が思い浮かぶ。
「一也。診療所に戻っても、僕が手錠を掛けられてヤクザの隠れ家に連れて行かれたことは言うなよ。」
「言わないよ、宮坂さんたちが驚くだろうし。」
「宮坂なら、やっぱり私も連れて行って欲しかった、くらい言いそうだけどな。」
「……それは言いそう。」
「まあヤクザと関わらせたくないって先生の判断は正しいけど、あいつ、いたらいたでなんか役に立ちそうなんだよなあ。……っておい、一也、お前顔怖いぞ。」
行くか、と言って立ち上がる。
店の外には風がぴゅうと吹いていて、風圧に目を瞑りかけた瞬間、見知った色の車が通り過ぎた。
あの人の車に似ていた気がするけど、今はまた、僕の知らない新しい隠れ家に向かって走っているところに違いない。
「僕も、帰って部屋の片付けしなくちゃなあ。」
「必要なら手伝うから、いつでも言ってくれ。」と言いながら一也は明らかに目的地の駅と逆方向に歩いて行こうとするので首根っこを掴んでこっちだこっち、と方向転換させる。
「多分、物がないから一人でも大丈夫だと思うけど、その時は頼む。」
誰かからのメッセージを受け取ったらしいスマートフォンが小さく震えた。
宮坂からの手土産の催促に違いない。
だとしても、手に取って画面を見ない間は、あの人からの連絡と思っていられる。
あの頃のあの人が、一人先生みたいに、よくやった、と一言でも言ってくれていたなら、きっと僕は今でも、あの人の元にいたんだろう。不健康な顔で、一也にライバル心をたぎらせて。
きっと、だからこれで良かったんだ。
言うだけのことはちゃんと書いたのだから、執着や感傷を捨てて、前だけ向いて行ける。
「じゃあ帰ろうか。」
「そうだな。」と頷く。
あの村へ『帰る』のも、あと少しのことだ。
手錠の話は省略するとしても、今日のオペは宮坂に説明出来た方がいいだろう。
「……あ。」
「どうした、譲介。」
あの売店で新しいノートを買っておけば良かった、と言うと「譲介らしいなあ。」と言って、一也が楽しそうに笑った。

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