あの日



英語のテスト結果が学年一位だった。
譲介は、担任から貰ったテスト結果を見つめて、燦然と輝く「1」に目を瞠る。
頑張ったな、和久井、と言われて、譲介は、あ、はい、と言って呆けた顔で手の中にある紙片を見つめた。
通信簿における「1」評価なら、今までに数えきれないほど貰って来た。小学校に入ってからずっと、譲介の成績は中の下でもいいところと言った具合だった。
そもそも、譲介のようにギャンブル狂いの父親を持つような子どもは、成績が伸びないと相場が決まっている。食事の時間は不規則で、夜はまんじりともせず親の帰宅を待っている。朝食もろくに食べずに登校して、授業中には寝る始末。学校にいる間、分からない問題は分からないままに時間だけが過ぎていくのは、かつての譲介にとっては当たり前の日常だった。
それが変わったのは、二年前にテツと暮らすようになってからのことだ。
同居が始まるなり、オレが見てやる、といきなり宿題に口を出して来るようになったテツのせいで、もう終わった学年の分のドリルも、勉強が全く分からなくなった時期から買い直しをすることになり、算数も九九から覚え直した。
譲介の身元引受人と家庭教師とを兼任するテツはあまりにもスパルタだった。どんな教科でも五十点を越えたらいいところの成績だった譲介に、算数と国語と社会の全部の教科が七十点を越えたらカレーを作ってやると言ったのだ。
譲介にとっては最悪の日々の幕開けだった。レトルトも我慢しろと言われ、引き取られて暫くは、少なくとも三か月はカレーを食べない生活が続いた。こっそりと渡されたお金でレトルトのカレーを買ったこともあったけれど、見つかり次第捨てられてしまった。
譲介自身が、テツに隠し事をするという大事と天秤にかけて、こっそりカレーを食べるのを断念した夜もあった。
テツは、家にいない夜にも七時には電話を掛けて来て、譲介に勉強の進み具合を聞いて来た。
算数の問題が上手く解けずに、ご飯とインスタント味噌汁とカレー粉を掛けた卵焼きで、ひとり泣きながら食事を済ませた夜もあった。
今思えば、我ながら健気すぎる。
そもそも、引き取られて暫くの時期は、一緒に暮らすのだからテツに嫌われないようにしないと、と思って色々遠慮をしていたけれど、それが無駄な努力と気付くまでに時間は掛からなかった。テツと来たら、譲介と一緒になって寝坊をするわ、寝ぼけてパンツを履かずにいつものズボンを履こうとしてチャックにチン毛を絡ませるわ、仕事に行く時に財布を忘れて出ようとするわ、薄々は分かっていたけれど、あのちゃらんぽらんを絵に描いたような父さんと長く付き合える精神性を持つだけあって、模範的とは言い難い大人だった。
譲介は結局、テツに対するツッコミが追い付かないところまで追いつめられて、今ではすっかり地金が出てしまった。
ダメテツのときのテツを叱り飛ばせるようになると、段々と調子が出て来たのか、あるいは冷暖房完備の部屋で勉強を続けてきた努力が実って来たのか、誰に言われなくとも――担任とテツ、それから自分の中に残っていた良心のかけらも含めて――宿題を自発的に終わらせられるようになった。
そんなこんなで、学校の勉強がやっとスタート地点に立てたと思ったのは譲介が小学校を卒業する頃のことだ。テツが勉強を見てくれなくても、学校で教師に内容を尋ねたりしているうちに、その時その時で授業に出る内容の問題も自力で解けるようになってきた。
そうすると、今度はハードルが上がった。テツのカレー基準点が七十点が八十点になり、今は八十五点が四つの教科で取れればパスという具合だ。英数国はその中に必ず含まれているという条件も付いている。譲介がいくつかの教科で山を張り、いくつかの教科の勉強は捨てるというやり方を覚えると、七十点以下のテストがあったら無効という付帯条件が追加された。譲介と保護者テツのいたちごっこだ。
今日は、と英語以外の教科の点数を見てみると、国語と数学、理科、英語に社会がスレスレで八十五点を越えている。テツが勝手に決めた赤点ラインもクリアしていた。
休み時間にそそくさと人のいない社会科準備室の中に入って、ポケットから折り畳みのスマートフォンを取り出す。手にした紙片を写真に収めて、英語が一位になった、カレー作ってよ、とテツにメールをした。ぼんやりと窓の向こうを眺めていると、いきなり手の中の電話が震えて、他に何かねぇのか、と返事が来たので譲介は驚いた。
他に、ということは、何かひとつカレー以外の願い事を叶えて貰えるということだ。
とっさに、新しい靴、と思ったけれど、いつでも叶えて貰えるような物欲を、今のこの嬉しさや努力と引き換えにするのは何かが違う気がした。
夕食を一緒に食べて欲しいと言えばそうしてくれるだろうけど、仕事があるのは分かってる。テツはきっと、今夜うちに戻らないのが分かっているからこんな時間にメールをしたのだ。そのくらいは分かる。
休み時間はじりじりと減って行くのに、それ以外に自分がテツにして欲しいことは特に思い浮かばない。
強いて言えば、良くやったと頭を撫でて欲しいくらいだ。
譲介は未だに、テツに頭を撫でて貰うのが好きだ。
中学生にもなってガキくさい、と思うが、パブロフの犬のようなもので、多分この先も一生こうなのだろう。
母親にも、父親にも気に掛けてもらえなかった譲介のことを、テツだけが、お前が大事だと示し続けてくれた。ソファで寝ているテツを起こさないように毛布を掛けたりするときに、テツの手を持って頭に乗せてみたことがあるけど、テツが起きてないといつもの嬉しさがない。
無理にいい子を演じることはしないが、言われた成績をキープするようにしているのは、カレーのためだけというわけでもない。
昔の譲介はちびだったから、頭を撫でる以外にも、テツとの接触はあった。気軽に抱き上げて貰って、肩車もしてもらっていた。今もふたりの間には厳然とした体格差が存在するので、出来ないことはないだろうけど恥ずかしいだろ、と譲介は思う。
肩車か。
譲介はふと、いつかの夕焼けと、テツの肩の上から見た景色を思い出した。
――紋付袴を着せてやれなくて悪いな。
五歳の年の、秋の日の遊園地。
小さな甘い飴を舐めながら、テツと一緒に大きな夕陽と茜色に染まる空を眺めた。古びたジェットコースターに並ぶ人はまばらで、遠くに見える観覧車だけが妙に立派だった。
あれって、結局どこだったんだろうな。
ふと気づいて時計を見ると、チャイムが鳴る一分前になっている。
譲介は慌てて教室に急いだ。

**


普段と違う話をするときは、ふたりでカレーを食べ終わった後に限る。
譲介にとってこの筋肉隆々のテツが男らしい男の基準なのだけれど、カレーを作るときに付けるエプロンも全然違和感がない。作り終わってエプロンを外した後も暫くはちゃんと保護者の顔をしているから、言い出しやすいのだ。
「……遊園地だあ?」
「うん。行きたい、テツと。」と譲介が言うと、テツは妙な顔をした。
「ダチがいねえから保護者と行くってか。……おめぇも寂しいやつだなあ。」
なるほど、今譲介に向けた顔は、テツなりの同情の顔だったらしい。女と言わないのは、テツの優しさか、はたまたテツ自身が譲介の年に彼女がいなかったことを意味する可能性もある。後の方だといいと譲介は思う。
譲介に友人はいない。
テツと暮らしている今の譲介にとっては、運動部に入って目下の人間の根性を試したがるサディストの教員に付き合う時間も、レベルの低い子どもとつるんで時間を潰す時間も、人生の無駄でしかなかった。
それに、確かに友人はいないけれど、譲介は今、テツと行きたいという話をしているのだ。
譲介にとって、遊びに行くのも、思い出を作るのもテツが一番で二番手はいない。
この先もずっと席は空いてるだろうという気がする。
「放課後の三時間でもいいよ。時間作って。」と譲介が粘ると、テツは舌打ちしてスマートフォンを取り出し、メールをポチポチと打ち始めた。
譲介は、テツの『仕事モード』が終わるのを待ちながら、テツを観察する。
出会った時から変わらない、と思っていたテツも、譲介を引き取り始めた頃から仕事量を増やし、こうして厳しい顔をすることが多くなった。
今も多分、外面はどうあれ苦手な相手に連絡しているに違いない。
メールを打ち終わったテツから、来週の土曜でいいか、と聞かれて、譲介はやった、と心の中で飛び上がってから、澄ました顔を作って、いいよ、と答える。
「どっか行きたいとこでもあんのか?」と聞かれたけれど、関東周辺と違ってテツと暮らすN県に遊園地はほとんどない。夏休みになるとテレビに映るのは忍者村や恐竜公園ばかりで、時間を作って車で県外に移動して行く家族連れの方が多い。きっといつものハマーで出かけることになる。近くない方がいいとは思ったけど、譲介はテツの都合に合わせるつもりだった。
「テツと行くならどこでもいい。ジェットコースターがあれば。」
ジェットコースターがあるような規模の遊園地なら、観覧車もあるに決まっている。
まあ、一緒に観覧車に乗りたいと言ったところで、十数年前の一度きり、譲介と遊園地に行ったことなんて、きっとテツは忘れているだろう。だけど、もしかしたら覚えているかもしれない。
「コースターなあ……。」と言ってテツは考えあぐねるような顔になった。ここ数年は、仕事と譲介の学力の立て直しに忙しかったせいで、そうしたレジャー施設に連れて行かれた記憶はない。
「何着てくか聞いていい?」
「……は?」
「土曜の遊園地にいつもの格好だと目立ち過ぎると思うんだけど。」と言うと、知るか、と言ってテツは譲介にデコピンした。
イテっ、と咄嗟に口にするが、本当は痛くはない。
もっと口の悪いガキだった頃に食らったデコピンは、これの百倍は痛かったし、額には跡が付いて、次の日には誰かにからかわれるほどだった。
「オレと一緒に行くのが恥ずかしいってんなら、おめぇが変装しろ。」
譲介と暮らすうちにデコピンの力加減が出来るようになったテツは、そう言って席を立った。
シンクでカレーの皿を洗っているので、譲介は隣に立って布巾を持った。
テツと暮らす家に食洗器はあるけれど、手入れが面倒だから冬以外はほとんど使わない。
もうテツの肩くらいには背が伸びたから、ちょっとは大人扱いしてくれてもいいのに、と思いながら、譲介はテツが洗ったカレーの皿を黙々と拭いた。


**


「………閉園時間考えて行き先決めた?」
後三十分で閉園です、というアナウンスと蛍の光がゆっくりと流れる中、譲介が横目で保護者の顔をちらりと見ると、案の定「まあコースターだけなら乗れんだろ。」と誤魔化すようにテツは言った。まあいいか、と譲介は思う。
ワーカホリックな保護者とたまのドライブに出かけられたと思えば、それだけでも上出来の部類だ。
仕事を巻きで終わらせた、と言って学校前の通学路にハマーで乗り込んで来たテツにピックアップされたのが、二時半過ぎだった。
勿論、いつもの黒いタンクトップと白のコートといういでたちで、こうして仕事帰りの顔をして今日現れたのは、さっさと子育てのタスクを済ませてしまおうと思ったからに違いない。
制服のままで高速に乗って、途中休憩を入れながらのテツの運転に付き合った先に、その寂れた遊園地はあった。
広い駐車場はガラガラ。古びた看板は、それが塗られたのは、少なくとも二十年前と思わせるような雰囲気だった。
遠目に見えるジェットコースターは、「ジェット」と名づけられたことが恥ずかしいのではないかと思える速度でガタゴトと動いており、起伏も少ない子ども仕様だ。園内の地図を見ると、いくつかの定番の乗り物はあるようだった。
フライングカーペットとメリーゴーランド、ティーカップ。どれもテツが乗ってくれそうにないラインナップだ。
それから観覧車。
入場料はなく、乗り物は百円の切り取りチケット制で、テツはそれを最初に三千円分のチケットを買って譲介に渡した。
使い切れないだろうと分かってるけれど、譲介は何も言わなかった。
それをポケットに仕舞い込み、テツと譲介は、狭い遊園地の中をぶらぶらと歩いた。そうして、ジェットコースター前にたどり着くと、ひとりで乗って来い、とテツに追い立てられる。
運転に疲れたからベンチで寝る、と言われた譲介は、舌打ちしたいような気持を抑えて、じゃあ預ける、と担いでいた通学鞄代わりのリュックをテツの胸に押し付けた。
ジェットコースターは、目を瞑るほどの怖い乗り物ではなかった。譲介は、座った席から見える場所でベンチに座っているテツを見て、結局寝ないくせに、と思いながら、横を通るのに合わせて手を振った。三分半の乗車時間はあっという間に終わってしまったので、余ったチケットで他のアトラクションも乗ってみることにする。
ティーカップに、フライングカーペット、観覧車で園内を半周。閉園時間をちょっと過ぎたくらいでは追い立てられはしねえ、と言って、テツが堂々と園内を奥へ奥へと歩いて行くので、もう家に帰ろうという顔をしている家族連れと行き会う。
この込み具合で迷子になるわけでもないのに手を繋いでいる親子連れを見ると、譲介はそれが羨ましくて、ちらっと横目でテツの方を見てしまう。
こういうのはまあ、やっぱり雰囲気なんだろうな、と譲介は思う。
そもそも、テツが乗ってくれそうにない、と思い込んだ時点で、相手の目論見に踊らされてしまった気がする。父さんだったら、きっと口八丁手八丁でテツをなんとかティーカップくらいには乗せられていたかもしれない。
「ドクターTETSU。」と譲介は言った。父さんがいつもそうしていたみたいに。
「ああ?」とテツは眉を上げた。
僕たちはきっと、同じ人の顔を思い出している。
「僕と観覧車に一緒に乗ってくれませんか?」
チケットが余ってるから、と長いつづりを見せて言うと、テツは、頭を掻いて「分かったよ。」と言った。
もう閉園時間という顔をしていたもぎりの老人に、お願いします、とチケットを切って渡す。
晴れた日の昼間もいいですが、今の時間もいいものですよ、と微笑まれた。


青い屋根の六人掛けのゴンドラの扉が開く。
どこに席を決めようかと迷った譲介を、おめぇはこっちにしとけと奥の席に追い立ると、ごゆっくり、とおじいさんがドアを締めた。
テツは、譲介の隣にどっかりと座って、ブーツを履いた長い足を組んで目を瞑った。
いつものハマーとは、運転席と助手席が入れ替わった配置になった。
「うわ………。」
上昇する硝子窓から見える景色は、この遊園地が驚くほど海が近い場所にあることを譲介に気付かせた。青い波頭が、茜色に染まっている。
譲介と出かけるときにはカーナビを使わないで運転するテツが、どこに向かって車を走らせているのかは分かっているつもりでいたけれど、頭の中の日本地図はうまく機能してくれない。
いつもの二十七階からの景色とは全然違っているな、と思いながら、譲介は、ぼんやりと海に日が沈む様子を眺めた。
その間にも、観覧車は、少しずつ一番上に近づいていく。
陽が赤く染まって落ちて来て、そのせいでテツの顔も少し夕陽の色になっている。
こういう時のテツは、頬を抓っても耳を引っ張っても目を開けない。狸寝入りの達人になることを譲介は知っているけれど、起きてよ、と譲介は言ってみる。五歳の子どもに戻ったみたいに。
その懇願に根負けした訳でもないだろうけど、テツはうっそりと目を開けて、「何のためにおめぇをこんな辺鄙な場所まで連れて来たと思ってんだ。」と言って手を伸ばし、テツを見ていた譲介の顔を、力づくで外に向けさせた。
「悪くねぇだろ。」とテツに言われ、「うん。」と頷く。
「……前に連れて来た時はおめぇも赤ん坊みてえなもんだったし、散々食ったり飲んだりしてたからな。」とテツは言った。
「もしかして、ここ、八年前に来た?」
「覚えてたのか。」とテツは言った。
今、テツはどんな顔をしているんだろう。
「乗らなかった観覧車の記憶くらいだよ。どこでもいいって言えば、思い出したら連れて来てくれるかも、って思って。」
観覧車の窓硝子には、窓の外を見ているふりをしている譲介の顔と、譲介が見つめる、長い髪で隠れた半分だけのテツの顔。
「賭けたんだ、テツが覚えてる方に。」
あの人ならこういう風に言いそうだ、と父親の顔を思い出しながら譲介が口にした言葉に、テツは、クックとおかしそうに笑う声がして、「和久井譲介、満点だ。」と譲介の頭を撫でた。
窓の外では、家の屋根が近くなってきた。
ゴンドラは、ゆっくりと地上へと戻って行く。



地上に戻ると、もう蛍の光も聞こえなくなっていた。
遊園地の中の電灯が、ぽつぽつと灯り始めている。
もぎりのおじいさんは、今なら従業員出口から抜けられます、と言って、譲介とテツに小さな園内地図の紙を手渡した。
「帰るか。」とテツが言う。
「うん。」と譲介は言って、リュックを担いでいない方の右手で、テツがポケットの中に仕舞い込もうとする手を取った。
「今日はテツも満点。」
そう言って、譲介は大きな手を自分の手に繋いで笑いかける。
テツはそうかよ、と言いながら、譲介の手を振りほどかない。
ふたりで、夕闇に溶けそうな薄暗い道を、ゆっくりと遊園地の外へと歩いて行く。
今日のこの日も、いつかは思い出になるのだろうと思いながら。

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