夏蔦に背を預け

 店に入るとき、こんなにも緊張したことはない。こういうガヤガヤと騒がしい居酒屋だって、トウマに連れられて最近は慣れてきたくらいだ。
 今夜腕時計を見るのはいったい何度目か。暗がりでよく見えないが、さっきは横を向いていた長針が上を向いているのは確認できた。約束の時間まで一時間は切っていたのだから、ならば時間はぴったりのはず。ああ、動け、相手はもうとっくに着いているはずだ。そういうやつだと俺はよくよく知っていた。
 引き戸の取手にかけた手が震えているのに気づき、心臓が引き絞られる錯覚を無理やり意識の外に追い出す。大きく息を吸って、止めて、戸を開けた。
 存外軽かった戸はピシャッと音を立て、慌てて店内へ入りやんわりと閉め直す。その背中に元気の良い店員の声がかかり、俺は唾を飲み込んでから答えた。
「待ち合わせです。予約の――」
 その名前を口にしたとき、声は震えていなかったろうか。
 
 
 
 個室の座敷席へ通され、帽子をとって顔を覗かせる。龍之介はすぐに気づいてぱっと目を輝かせ、折目正しく「こんばんは」と挨拶した。
「悪い、待たせたか?」
「そんなことないよ。さあ入って、何飲む?」
 渡されたメニューには見慣れない単語が並んでいた。これだけで知らない土地に――龍之介のテリトリーに足を踏み入れた気がしてほのかに胸が温かくなる。単純なものだと冷ややかに嗤う自分を努めて無視して、「じゃあこれ」と指差した。
「泡盛初めてじゃない? 大丈夫?」
「せっかく沖縄居酒屋なんだ、ここで飲まなくてどうする? 好き嫌いはさほどないから気にするなよ」
 龍之介が見繕った料理と一緒に酒を頼み、個室の中をぐるりと見回す。本来なら二人だけで使うような席ではないのだろう、広々としていて隅に座布団が積まれていた。人の家、というイメージが湧いてくる。こんな家には、入ったことはないけれど。
「落ち着かない?」
 正面の龍之介がにこにこと問いかけてくる。慌てて否定を返そうとして、少し考え小さく頷いた。
「……正直なところは、そうだな。あんたの場所のような気がして落ち着かない」
 俺がいてもいいのかって。卑屈は口には出さなかったが、目を細めて微笑む龍之介を見ているとすべて筒抜けなのではないかとすら思う。ふふ、と緩く口角を上げた龍之介は、深みのある色のテーブルを愛おしげに撫でた。
「俺が上京してから、故郷を感じたくなったときには必ず来る店なんだ。君と一緒に来られて嬉しいよ」
「……へえ……」
 うまい返答が思いつかなかった。気のない相槌に聞こえただろうか、しかしちょうど注文を運んできた店員によって誤魔化されたはずだ。
 グラスをそれぞれ掲げて乾杯と唱える。バーで飲むときのその声はもっと密やかで、最近メンバーや映画部の皆で集まるときはもっと賑やか。どちらでもないのが不思議な心地だった。
 料理をつまみながら、お互いの近況を話したり相手が出演したドラマの感想を言い合ったりする。龍之介の語り口は穏やかで、時たま子供のように顔を綻ばせて喜んだり驚いたりと退屈しない。
 メンバーと話すときとも少し違う、かすかな高揚感と緊張感。それらがありつつも、うまく話せているだろうかなんて頭に浮かびもしなかった。どこか楽しい夢を、見ているような――。
 ふと遠くを見た俺の目線に気づいたか、龍之介は首をかしげて名前を呼んだ。
「虎於くん? どうかした?」
「……なんか、」
 ぐるりと頭の中を言葉が巡る。これを出していいのか迷い、しかし出さないほうが不誠実のように思えてテーブルの上にぺたりと伏せた。隠し事は嫌だ、偽りは嫌だ、まっすぐでいたい。でももうとっくにぐちゃぐちゃになった俺の中は、こんな感覚ひとつでさえも素直に吐き出させてくれないのだった。
「……友達みたいだ……」
 囁きより小さな声で、伏せた顔と覆った腕に遮られて。到底聞こえるような音ではなかっただろうに、龍之介は静かに応えた。
「俺は、友達だと思ってるよ。……君は違うの?」
「っそうじゃなくて、」
 寂しげな龍之介の声音に慌てて顔を上げるが、目を合わせることはできなかった。半端な眼差しはテーブルの上の皿の模様をじっと見つめる。このチャンプルーをうまいうまいと言いながら食べていたとき、どんな話をしていたっけ。もう思い出せなかった。
「俺にとってあんたは、山とか海とか太陽とか――そういう、とんでもなくでかい自然の中の目印みたいなイメージなんだ。だからこうやって、」
 ひとつため息を吐き出す。言わなきゃよかったと後悔する自分が、今からでも黙っておけと騒いでいる。今更そんなことできるかとねじ伏せるが、出てきた声は信じられないくらい小さかった。
「こうやって、目の前で一緒に喋ってるのが、現実味がなくて」
 絞り出した言葉が合っているとは思えなかった。俺自身にすらよくわかっていない感覚をどうにか形にして、こんなものを渡したところで困らせるだけだ。視界に入ったグラスを引っ掴んで一息に煽る。
「と、虎於くん。一気飲みは危ないよ!」
「妙なことを言い出して悪かった。忘れてくれ。なぁ、あんたのおすすめはなんだ? 俺に故郷の味を教えてくれよ」
「虎於くん、」
「頼むよ。せっかくあんたと一緒にいるんだ、楽しい時間にしたい」
 勝手に始めたのは俺のくせに。小狡く上目に見つめれば、龍之介はなんともいえない顔で一度唇を噛み、ため息まじりに「わかった」と応えた。
 所詮おまえはこんなものだと冷笑する自分を裏に感じながら、口角を上げた表情を貼り付ける。しかしすぐに嘘じゃなくなるだろう、龍之介といる時間が楽しいのは事実なのだ。
 
 
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 泥の中を揺蕩っているような意識が徐々に輪郭を得る。目を閉じて横になっている自分の身体の存在を取り戻して、肌に触れるシーツの感触に心地よさと、そこに沈む全身の気だるさを感じて。誰かと夜を過ごした日の目覚めはいつもこうだった。途絶えていた生命の続きがふっと、繋がる感覚。
 明け方に感じるこれはいつも虚しいものだったっけ。繋がったところでその先にあるのは、常に変わり映えのない日常なのだから。
 そういえばこの感覚もずいぶん久しぶりだ、とぼんやり思ったところで違和感に気づく。誰かと過ごした夜? そんなわけはない、だって昨夜俺が一緒に過ごしたのは――。
「あ。起こしちゃった?」
 瞼だけ持ち上げてみれば、ちょうど顔が向いていた先に龍之介がいる。厚手のカーテンに手をかけていて、その隙間から細く伸びる光に彼だけが照らされていた。まるでスポットライトのように。
「よかった、一度起こそうか迷ってたんだ。気分はどう? ……虎於くん?」
「……寝起き一発目には刺激が強すぎるものを見た」
「えぇ!? 虫でもいたかい?」
「そんなわけない」
 綺麗に整えられた寝室だった。当然自分の部屋ではなく、ホテルにしては生活感があり、「カーテン開けても平気?」と尋ねる龍之介はしっかりこの部屋に馴染んでいる。構わないと返して、昨夜の記憶を辿った俺は頭を抱えた。
 飲み慣れない酒の、強い酒精に意識を飛ばされた覚えしかない。
「虎於くん、やっぱり気分悪い……? 大丈夫?」
「いや、体調は何も問題ない……本当にすまなかった。ここ、あんたの家だろ?」
「気にしないで。楽も天も地方ロケでいないんだ」
 留守中に奴らのテリトリーに侵入したようで、余計に腹の底がむず痒くなった。しかも酔い潰れて家主をベッドから追い出すなんて。最悪だ。
「悪い……いつもこんな酔い方はしないんだが……」
「君にしてはペースが早いなとは思ったよ。……まるで記憶を飛ばしたいみたいにさ」
 ベッドのそばに近づいた龍之介に目を合わせてにっこりと微笑みかけられ、反射的に血の気が引く。なんだ、どうして、と思った瞬間脳裏に情景が蘇ってきた。テーブルに伏せたときに見つめていた木目と、龍之介の寂しげな声。俺は友達だと思ってるよ。
 ひゅっと息を吸ったきり、吐き出すこともできなくなっている俺に優しく目を細め、龍之介は「虎於くん、今日の予定は?」と言った。
「仕事のスケジュールはトウマくんに確認させてもらったんだ。プライベートで何もないなら、シャワーを浴びて、それから一緒に朝ご飯を食べよう。どうかな?」
 差し出された手のひらを見る。逃げ場はどこにもなく、忘れるための酒もない。こんな最悪な気分で受けるエスコートがあるのかと思いながら、俺は小さく小さく答えてその手を取った。
「……うん」
 
 
 
 着替えやタオルと共にバスルームに押し込まれ、なんとかシャワーを浴びて戻ってきた俺の目の前に並んでいたのは、簡素ながらも几帳面にまとまった和食だった。白米。味噌汁。煮物に卵焼き。
「本当はお魚とか出したいところなんだけど。簡単でごめんね、煮物は作り置きだし」
「いや、充分すぎるくらいだ。あんたが料理係なのか?」
「持ち回りだよ。オフの人が作ったり、その時間空いてる人が作ったり。おいしいし飽きないし、性格が出て面白いよ」
 たまに三人で作ったりもするんだ、と笑いながら龍之介は正面に座った。TRIGGERが三人でキッチンに詰まっているのを想像すると少し笑える。二人揃って「いただきます」と手を合わせてから箸を取った。
 龍之介は相変わらずにこにこと楽しそうにしていて、先ほど容赦なく逃げ場を奪ったのはきっと天然だったのだろうなと初めて思い至る。隠し事があっても、偽りがあっても、まっすぐで誠実。陥れようとか騙し討ちしようなんて発想があるわけもない、それが十龍之介だった。
 少し肩の力が抜ける。そういえばこないだ楽が、と話していた龍之介に相槌を打てば、彼は一瞬驚いたように目を瞬かせてからぱっと顔を綻ばせた。
「……なぁ。なんでそんなに機嫌がいいんだ?」
「えっ!? ああ、いや、その……そうだな、そろそろ話したいかも」
 おかわりはいる? と訊ねられ、首を横に振る。今度は「ごちそうさまでした」と二人で手を合わせ、神妙な表情をしている龍之介にならって姿勢を正した。
「虎於くん。ええと……」
 こんなにも改まっていったい何を言われるのか。やはり昨夜のことで呆れ果てて、絶縁状でも叩きつけられるのだろうか。だったら今の今までにこにこしていたのはなんだったのか。
 十龍之介、底が知れない男だ。ごくりと生唾を飲み込んだそのとき、龍之介は勢いよく頭を下げて叫ぶように言った。
「俺と、友達になってください!」
 ぱちり。一回まばたきをして、数秒待って、もう一度ゆっくり目を閉じて、開ける。頭を下げている龍之介は幻ではないようだ。ならば聞き間違いかともう数秒待ってみれば、「……だめ?」と上目に窺われた。
「……なにがだ?」
「えっと、だから、俺と友達になってほしいんだ」
 聞き間違いではなかったらしい。ぱちぱちぱち、とまばたきを三回。昨夜自分が言ったことは覚えているし、龍之介がどう返したかは先ほどしっかり思い出した――友達みたいだ。友達だと思ってるよ。
 その流れでの話題であることはわかるが、龍之介が俺に『友達になってください』と頭を下げている理由となるとさっぱり理解できなかった。口を開け、息を吸って、何も言えず無意味に吐く。そんなことをしている間にみるみる龍之介が絶望したような面持ちになっていくので、俺は慌てて「当たり前だ」と言った。
「あた……当たり前、というか。なんであんたがそんなこと……」
 意味がわからない、と眉根を寄せていると、ようやく顔を上げた龍之介が言葉に迷うように目線を落としながら口を開いた。
「ええとね……昨日君に言われて気づいたんだ。俺たち、許すだの許さないだのって話はしたのに、友達になる話はしてなかったかもって」
「……友達になる話?」
 口に出してみるとなんともむず痒い、まるで幼稚園児のような言葉だった。少なくとも二十を越えた男二人の会話ではない。
「何か誤解させたなら悪かったが……友達ってのは、そういう話をしてからなるものじゃないだろ」
「そうなんだけど、そうじゃなくて。君には俺を見てほしいんだよ――山とか海とか太陽じゃなく、俺を」
 その声を聞いた途端、魔法でもかけられたかのように視線が引き寄せられる。空の食器が並んだ食卓を越えて向けられる、龍之介のひたむきな瞳から目が離せない。
「目の前にいる、俺を見ていて。俺がいるのに、遠くなんて見ないで。……人間の俺と、友達になってよ」
 朝の透き通った空気の中、龍之介の黄金色がきらきらと散っているようだった。長い睫毛がまたたくたびに輝き、俺の呼吸を奪っていく。この顔にそんなことを言われて、ノーと言える奴がこの世にいるだろうか。
 自分がそう評されることは数多あれど、他人に――ましてや男相手にこの俺が同じ経験をする日が来るとは思っていなかった。不思議と悔しさは感じない。ただただ圧倒され、頷くしかない魔力。
 呆然と首を振ろうとして、寸前我に返る。いいや、拒否したいわけではないけれど。これに頷かされるのもなんだか違う気がするし、そもそも話の流れ自体俺に都合が悪かった。
「よっ……酔っ払いの戯言に何言ってる。深く考えすぎだ……俺はあんたのこと、その、ちゃんと思ってるよ。……友達だって」
「本当!? 嬉しいな」
 うきうきとした声音を聞いたと思った瞬間、にわかに視界が翳る。知らず背けてしまっていた顔、その頬に高めの体温が触れ、ぎょっとしているうちにやんわりと向きを変えられた。
 視界に映るのは、椅子から立ち上がりテーブルを越えてこちらに手を差し伸ばす龍之介の姿。逆光に薄く翳った黄金色の輝きが、今度は鈍く俺を捕らえた。
「できたら俺の目を見て言ってくれると、もっと嬉しい。……どうかな?」
 今度こそ呼吸を忘れる。五感のすべてが龍之介を感じる以外の仕事を放棄したかのようだ。あ、死ぬ、と反射的に思って、俺は。
「…………むり…………」
 両手で顔を覆って視界を閉ざした。
「え!?」
「めがつぶれる……」
「えぇっ!?」
 結局俺に何をさせたいのか知らないが、完全に逆効果だ。人は太陽を直視してはいけない。
 北風と太陽の寓話のようだ、あれは太陽が勝ったけれど。現実逃避にそんなことを考えていると、背後から高らかにスマホの着信音が鳴り響きびくりと肩を震わせた。
 この音は俺がメンバー用に設定している音声着信のものだ。振り返ればリビングのソファの上に俺の荷物がまとめて置いてあった。あそこから鳴っているらしい。
「……取っても?」
「あ、ああ、もちろん」
 龍之介の手が離れるやいなや荷物のもとへ飛んでいき、相手も確認しないで電話を受けながら廊下に出る。今だけは誰であっても、どんな用件でもこの救いの神に感謝したい気分だ。
『トラ! 何やってたんだよ、ずっとラビチャ入れてたのに』
「トウマ……」
 応答するなり耳に飛び込んできたのはトウマの声だった。スマホを確認すれば、たしかにトウマからのラビチャの履歴が残っている。昨日の深夜から、時折間を開けながらも今朝の今このときまで延々と。内容はというと、『何してんだトラ』とか『今どこにいる』とか『十さんに迷惑かけんな』とか。
 そういえば仕事のスケジュールをトウマに確認したと言っていたっけ。俺が酔い潰れて困った龍之介が連絡を取ったのだろう。トウマはトウマで、なんとか俺を叩き起こそうと苦心していたわけだ。
『昨日十さんから連絡来たんだぞ、お前が酔って寝ちまったって。うちに泊めるっつってたけど、トラ今どこにいんだ?』
「龍之介の家。なぁトウマ、格好いいって三十回言ってくれ」
『はぁ!?』
「いいから早く」
 なんなんだよもー、とぼやきながらもトウマは律儀に“格好いい”と唱え始める。こういうところにつけ込まれるんだよなうちのリーダーは、と他人事のように考えつつ、目を閉じてトウマの声に意識を傾けた。
『……格好いい、格好いい、格好いい! ほら言ったぞ!』
「ありがとう、助かった。危うく俺のアイデンティティが崩壊するところだった」
『お前のアイデンティティそれだけなのか?』
「そんなわけないだろ。じゃ、切るぞ」
『あっ、おい! 十さんにちゃんと謝ってお礼言っとけよ!』
 わかったと答えて通話を切る。トウマのおかげで冷静さを取り戻したような、特に変化はないような。だって、スマホを押しつけた胸がまだとくとくと忙しなく鳴っている。
 だが、嫌な感覚ではない。軽く深呼吸をして、龍之介を置いてきた部屋をそっと覗き見た。
 しょぼん、と効果音がつきそうなほど落ち込んだ様子で食器を片付ける龍之介がいる。時たま手を止めては、「やっちゃったなぁ」と呻いたりため息をついたりと忙しい。先ほどの直視できない太陽と同一人物とは思えない、なんとも人間くさい有様だった。
 だがそれでも、俺の視界にいる彼はどこか夢の中のように現実味がない。きっとどんな姿を見ても、いつであっても、遠くても近くても。当分この感覚は消えないだろうという予感があった。俺が胸を張って、龍之介の隣に立てる人間だと自分を誇れないかぎりは。
 山とか海とか太陽とか。曖昧なくらいに大きすぎるものを目指して、俺は走り続けている。それを龍之介だと、なんとなく感じていたけれど。
 たぶん、龍之介も同じだ。全貌が見えないほど巨大な何かに向かって――一緒に走っている仲間。
 目を閉じて軽く深呼吸をして、足を踏み出す。夢の幕はいつか払えるはずだ。だって俺は、走り続ける自分自身を誇らしく思っているのだから。
 龍之介はきっと、そんな俺を隣で見ていてくれている。
 
 まずはひとつ、話をしてみよう。今日はどこに行こうか?
 友達の俺とあんたでふたり。さあ、どこへ行ってみようか。
 
 
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 遅くにごめん、トウマくん! もしまだ起きてたら、すぐに連絡もらえないかな?
 
 一秒も経たずにラビチャは既読がつき、次の瞬間には着信画面になっていた。トウマくん、と表示された画面をスワイプして電話を受ける。
「トウマくんごめん! 無理言ったよね」
『いや全然! ダラダラしてただけなんで! それよりどうかしたんすか、今日はたしかトラと飯行ってたんじゃ』
 事情は知っているらしい。それが、と説明する俺の目の前には、テーブルにぺったりと頬をつけて寝息を立てている虎於くんがいた。
 他の人を交えた飲み会の中でも、こんなに酔い潰れてしまった虎於くんは見たことがない。むしろいくら飲んでも平然としていて、真っ赤になったトウマくんを介抱しているくらいなのに。
 途中からペースが速くなったのは気づいていた。今の有様は、その時点で止めなかった俺の責任でもある。
『トラが? 珍しい……』
「俺が飲ませすぎちゃったんだ。それで悪いんだけど、虎於くんの家の場所――」
 そこまで言ってはたと気づく。俺が背負って送り届けに行ったとして、部屋の中にスムーズに入れるとはかぎらない。彼の住居でまごまごして、酔い潰れた御堂虎於の姿をマンションの住人に見られるほうがよくないのではないか。
 しかもTRIGGERの十龍之介に介抱されている姿なんて、と考えたとき、彼が酔い潰れた原因が脳裏に蘇る。自惚れでなければ、いや間違いなく、あれのために虎於くんは酒に逃げたのだ。
 ――友達みたいだ。
『や、俺が今から迎えに行きます! 店どこっすか』
「……やっぱり、俺の家に連れて帰るよ」
『へ?』
 山とか海とか太陽とか。そういう、とんでもなくでかい自然の中の目印みたいなイメージなんだ。彼はそう言った。目の前にいる俺ではなく、本当に遠くを見つめる眼差しで。
 その目を見た瞬間の突き刺されるような衝撃を、虎於くんは知らない。俺自身ですらも、あれがなんだったのか言葉にすることは難しかった。悲しみでもない、怒りでもない、ひたすら強く全身を奔った――渇望のような何か。
 渇き。そう、あの瞳を見てから喉が渇いてしかたがないのだ。知らずこくりと唾を飲み下し、電話口のトウマくんへ同じ言葉を繰り返した。
「今夜は俺の家に連れて帰る。天と楽もいないし、近くだから」
『んな、十さんに迷惑かけらんねーっすよ。トラも気にしちまうと思うし……』
「あ、そうか。明日仕事がある? プライベートで用事とか」
『仕事の予定はなかったはずです。プライベートも……あいつ、今日十さんと飲みに行くの、めちゃくちゃ楽しみにしてたから……』
 って、そうじゃなくて! とトウマくんはノリよくツッコミを入れたが、俺は別のところに気を取られていた。そうか、楽しみにしてくれていたのか。
『言いづらいんですけど。めっちゃ、落ち込むと思います。十さんの前ではいつも以上に格好つけたがるんすよ、トラのやつ』
「……それは……」
 続きは口の中だけで呟く。それは――余計に、帰せない。
 電話の向こうの俺の様子に気づくわけもなく、トウマくんは『俺が言ったって言わないでくださいね』と声を潜める。もちろん、と返しながら、すやすやと寝息を立てる虎於くんに視線を落とした。
 顔色はいつもとさほど変わらない。ただ疲れが溜まっていたせいで寝入ってしまっただけといった風情だ。耳や頬が少し赤みを帯びてはいるが、それは俺も同じ程度だろう。途中から虎於くんが心配であまり飲み進めていなかったから、酔った感覚はまったくない。
 ……いいや、しっかり酔ってはいるはずだ。そう自覚しておかないと、自分が何を口走るかわからなかった。
「……ごめん、トウマくん。君がメンバーのことを心配して、嫌な思いをさせたくない気持ちは痛いほどわかってる。でも、頼むよ。今日だけは俺のわがままを聞いてくれないかな」
『……わがまま、って……』
 そんなのずるいっすよ、とトウマくんは言う。狡さは百も承知だ。
「どうしても明日、虎於くんに話したいことがあるんだ。心配しないで。ちゃんと、何も損なわずŹOOĻに返すって約束する」
『……そりゃ、返してくんなきゃ困るよ。トラもŹOOĻ なんだ。……信じていいんすね?』
「うん。信じて」
 即答すれば、たっぷり数秒間を空けてから大きな大きなため息が聞こえてきた。スマホを耳元から離さず最後まで聞き届ける。
『……わかりました。トラのこと、任せます』
「ありがとう、トウマく――」
『あっ。明日話したいことってなんすか!? 内容次第じゃやっぱダメです!』
 さすがŹOOĻのリーダーだ、しっかりしている。思わず笑って、俺は少しだけ考えた。
 咄嗟に出た言葉だけれど、やっぱり俺は話したいのだ。話して、伝えたい――俺を通り過ぎて遠くを見つめた虎於くんに。
 きっと嘘ではないはずだ。渇きは唾で潤せる。いつもより幼く見える虎於くんの寝顔から知らず目をそらして、俺は電話口に微笑んだ。
「友達になってください、って」
 
 
 
 終

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