微かな物音で覚醒した後、いってきます、という小さな声が耳元で聞こえて来た。
譲介の寝室にあるのはいわゆる低床ベッドだが、マットレスを支える金属が軋む音が聞こえなくとも、体重の移動が掛かればそれと気付く。
こちらを起こしたいのか、そうでないのか。反応はせずに狸寝入りを決め込むと、存外に深い二度寝になって、TETSUが次に目を覚ましたとき、家主である和久井譲介はいなくなっていた。
時差ボケか、あるいは疲れが出たのか。
床に落としたままのボトムスを拾い上げ、身に付けてからキッチンに行くと、こちらの目に付く場所、戸棚の近くにあるコーヒーサーバーには、今朝淹れたばかりと思しきコーヒーが、TETSUのためにたっぷり残されていた。
部屋の隅には観葉植物。外は晴れているらしく、クリームイエローのカーテンを通して明るい日が部屋の中に差し込んでいる。
中央のテーブルには、林檎やオレンジ、黄桃が盛られた果物籠とスライスされたパン。その地味なパッケージには、見覚えがある。三十年前に食べた記憶がある、焼くとパサつくばかりのサンドイッチ用の黒パンだ。
アイツ、普段からこんなもんを食ってやがるのか。
封の開いていないパンの袋を取り上げ一瞥してから、作り付けの食器棚から適当なマグカップを取り出す。白地に青の縞が入ったマグにコーヒーを注ぎ、またキッチンを見渡すと、冷蔵庫に磁石で貼ってあるメモ書きに気付いた。
随分前に見たきりの、譲介の書き文字が見えて、TETSUは眉を上げる。
「仕事に行って来ます。朝食は冷蔵庫の中です。 譲介」
マグネットを外し、その書きつけを手に取り顔を近づけたTETSUは、老眼鏡を入れたままのスーツケースの、そのまた奥底に仕舞い込んだ手紙のことを思い出した。

――あなたの死に水は僕が取ります。

あの短い書置きは、未だにTETSUの手元にある。
偶然か運命か。神代の診療所で成長した譲介が新しい保護者の手を離れて渡米することを聞いた時期と、過去に蒸発した父親の所在が分かったタイミングはほぼ同じだった。実の父親に引き合わせることが出来れば、それが、一時期暮らしを共にした子どもに手向ける餞別として、最後のひと仕事になる。それが終わったときこそが譲介との真の決別であり、自分の役目はこれで終わる、と。
そう思っていた。
この先はもうひとりで生きて死ぬだけ、それもいいとさえ思わせたあの日に、車のダッシュボードで見つけた手紙。処分することも出来ず、手元に置いたまま数年が経った時、完治するまで付き合ってくれませんか、と若い医師となった譲介に請われてここまで来た。


あの手紙を捨てられなかった未練がましい自分への意趣返しのように、今日のこれは構わねぇだろう、とTETSUは小さな書付を丸めて屑籠に投げた。
ストライク。
そうして、シンクで身体を支えながらコーヒーを飲み干す。
譲介が淹れたコーヒーは、浅煎りの笑ってしまうほどに軽い味で、中煎りや深煎りのブレンドを常用するTETSUの好みとは対極にあった。
物足りないような気持で利き手に持ったカップを流しに置くと、とっととその朝飯とやらを食ってやるか、と冷蔵庫の中を開ける。
ほとんど空に近い冷蔵庫の中に、ベーコンエッグを乗せた皿が入っていた。
――カレーじゃねえのか。
あいつも大人になったもんだ、と奇妙に感心しながら、クックと笑う。
ひとりのキッチンはやけに静かで、TETSUはそっと朝食の皿を取り出した。白く丸い皿に載ったベーコンエッグには、小さな黄身がふたつ並んでいる。
双子の卵か、あるいは卵を二つ使って作った目玉焼きか。
皿のままレンジで卵を暖め、パンに乗せて食べた。とろりと溶ける黄身が、ベーコンに絡む。
日本のベーコンと呼ばれるものとは全く違う味の燻製肉は、TETSUの舌に合った。
コーヒーはイマイチだが、こいつは悪くない。
腹がくちくなると、飯を食って、さて何をすべきか、という気持ちになった。
食事を終えれば病人らしく寝ているつもりだったが、そんな殊勝な気持ちも、ドクター和久井の軽食を腹に入れている間に吹き飛んでしまったらしい。
まずは豆だな。
ここに来るまでに通り過ぎたチェーンのコーヒーショップの場所を思い出す。今日は我慢するにしても、明日からは、自分の好みの豆で淹れたコーヒーを飲むことが出来る。
時間が余るようなら、アイツが働いている様子でも見に行ってやるか。場所は、省吾の奴に聞けばいい。そう思って席を立つと、スマートフォンの着信音が鳴っているのが聞こえて来た。
コーヒーの二杯目を飲んでからゆっくり寝室に戻ると、着信が途切れた電話の横には、この部屋のスペアキーらしきものが置いてあった。
「準備がいいこって。」
TETSUは残された鍵のキーホルダーの金具に指を通し、くるりと回してポケットに入れる。
電話をかけ直すと、留守番電話に繋がった。
「ジョー・ワクイです。大事な人と一緒なので当分掛けてこないで。職場を知っている方はそちらにご連絡ください。」
「…………?」
譲介のヤツ、振られたばかりだとか言ってなかったか?
「おい、オレだ。ブランチは食った。夕飯は何にするつもりだ?」と言っているうちに、譲介本人が電話を取った。
「あの……僕です。」
恐る恐ると言った調子の相手に「メシ、どうするか考えとけ。」と言うと、譲介は「一緒に食べていいんですか?」と言ってから、ダイナーらしき店の名前を挙げた。
「何時だ?」
「ええと、六時では?」
そこから五分の場所です、と譲介は言った。あと七時間はある。
「この辺に、どっか時間潰せる場所はねえのか?」
「今言った店の並びに、カフェとコーヒーショップと書店があります。クエイド大学の構内には学外利用が可能な図書館も。」
「おめぇの職場はどうなんだ?」
「今日は受診日じゃないですからダメです。」
分かった、とTETSUは言って、電話を切った。
「正攻法は無理か。」
ラップトップが一台ありゃあ、裏口のセキュリティをどうにか出来るか。あるいは守衛の目をすり抜けるか。
「まあ、今日のところは、大学で暇を潰しといてやるか。」
TETSUは大きく伸びをして、電話を切ったスマートフォンを尻ポケットに納めた。





powered by 小説執筆ツール「notes」

598 回読まれています