【原利土1819IF】頸と心11


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十一 変化



 冬が近づいていた。
 木々の葉はすっかり落ち、枝だけが空に向かって伸びている。朝には霜が降りるようになった。息が白くなり、指先が悴む。囲炉裏の火を絶やすわけにはいかなくなった。

 ある日の夕餉どきのことだった。囲炉裏を囲んで鹿肉を食べながら、野良がふと言った。
「去年の冬は、年末に大雪が降ったな」
 黒は肉を噛む手を止めた。
「大雪?」
「ああ。膝まで積もった。狩りに出られなくて、三日ほど籠もっていた」
 野良は火を見つめながら続けた。
「あの時は備蓄が少なくて苦労した。今年は早めに干し肉を作っておかないとな」
 黒は黙って聞いていた。去年の冬の大雪。膝まで積もったというその話に、何か引っかかるものがあった。
 黒は去年の冬を思い出そうとした。去年の今頃、自分はどこにいただろう。まだ忍者隊にいた頃だ。忍務を受けて各地を回っていた頃。年末には──そうだ、山を越えて西へ向かっていた。雪は降っていたが膝まで積もるような大雪ではなかった。せいぜい足首が埋まる程度だった。
(おかしいな)
 野良がいたという場所と黒がいた場所は、そう離れていないはずだ。せいぜい山一つか二つ向こう程度の距離だろう。それなのに野良が言う雪の量がまるで違う。
「……この辺りは、雪が多いのか」
 黒は何気なく聞いた。
「そうだな。山に囲まれているから、降り始めると溜まりやすい」
「ふむ……」
 黒は肉を口に運んだ。山一つ川一つ越えても気候は違うことがある。谷の向きや風の通り道で雪の積もり方は変わる。それだけのことだろうと考えた。けれども喉の奥に、小さな棘のようなものが残った。



 その夜、黒は眠れずにいた。
 野良は既に眠っている。いつもの二歩の距離で、穏やかに呼吸をしている。囲炉裏の残り火が微かに赤く燃えている。
 去年の冬のことを、また考えていた。
 大雪が降った。膝まで積もったのだと、野良はそう言った。だが黒にはその記憶がない。同じ頃、同じような場所にいたはずなのに。
 気のせいだろうか。記憶違いだろうか。あるいは本当に、山一つ越えただけで天候が違ったのだろうか。
 黒は考えることをやめた。考えても分からないことを考えても仕方がない。今は目の前のことだけを考えればいい。冬を越すこと。春まで生き延びること。そして──。
 野良の寝顔を見た。
 月明かりに照らされた横顔。穏やかな呼吸。この男の傍にいると安心する。この男の傍にいると、余計なことを考えずに済む。
 黒は目を閉じた。野良の呼吸を聞きながら、眠りに落ちていった。


***


 日が経つにつれて、野良の世話焼きは増えていった。
 最初は肉の分け方だけだった。一番旨い部位を黒に与える。それだけだった。けれども次第に、それだけではなくなっていった。
 ある朝、黒が目を覚ますと、枕元に何かが置いてあった。
 布だった。野良の荷にあった布だ。手拭いほどの大きさで、少し厚みがある。黒が手に取ると、野良が囲炉裏の傍から声をかけた。
「首に巻け。このところ冷える」
 それだけ言って、野良は火の番に戻った。黒は布を見つめた。首巻きか。確かに最近、朝晩の冷え込みが厳しい。首元が冷えると身体全体が冷える。野良はそれを見越して、これを用意したのだろう。
 黒は黙って布を首に巻いた。温かかった。
「……ありがとう」
 小さく言った。野良は振り返らなかった。ただ「ああ」とだけ返した。

 数日後には、革製の篭手が現れた。
 兎の毛皮で作ったものだった。武具と言うより防寒用だ。篭手なので指先が出るようになっていて、作業の邪魔にならない。黒が見つけた時、野良はまた火の番をしていた。
「これは?」
「余ったから作った」
 それだけだった。この大きさの毛皮が余ることなどあるのだろうか。野良は黒の顔を見ない。黒も野良の顔を見なかった。篭手をはめると、温かかった。

 更に数日後、黒が散策から戻ると、囲炉裏の傍に見慣れないものがあった。
 敷物だった。鹿の革で作られている。以前仕留めた鹿の皮だ。あれを野良がなめしていたのは知っていた。川水に漬け、塩と油で揉み上げ、天日にさらして仕上げる。何日もかけて作業をしていた。その革が、敷物になっていた。
 薄い乳白色の革だった。柔らかく、厚みがある。座ればきっと温かいだろう。
「これは……」
「見れば分かるだろう。敷物だ。床が冷えるからな」
 野良は相変わらず火を見つめていて、黒の方を見ない。
「……お前が作ったのか」
「見ていただろう」
 素っ気ない声だった。けれどもその声の奥に、何かが滲んでいるような気がした。照れているのだろうか。それとも別の何かだろうか。
 黒は敷物の上に座った。温かかった。床の冷たさが伝わってこない。革の柔らかさが心地よい。
「……ありがとう」
 また小さく言った。野良はまた「ああ」とだけ返した。

 野良は何も言わない。
 首巻きを渡す時も、篭手を渡す時も、敷物を作った時も、何も言わない。ただ黙って用意して、黙って渡す。使えとだけ言う。それだけだ。
 けれども黒には分かっていた。
 野良は自分のことを見ている。自分が寒がっていないか。自分が困っていないか。そういうことを見ている。見て、考えて、用意している。──自分のために。
 その事実が、黒の胸を締め付けた。嬉しかったのだ。誰かが自分のことを気にかけている。誰かが自分のために何かを作っている。そういう経験はいつ以来だろう。家を焼かれる前か。父や母が生きていた頃か。もう思い出せないほど昔のことだ。
 それと同時に、胸が痛んだ。
 野良は自分に色々なものをくれる。首巻きをくれる。篭手をくれる。敷物を作ってくれる。温かいものをたくさんくれる。なのに自分は何も返せない。返せるものを何も持っていない。返せないどころか、自分は春になったら消える。野良が目を覚ます前に、黙って消えようと思っている。約束を破って、嘘をついたまま消える。野良がくれたものを全部持って──いや、置いていくべきだろうか。首巻きも篭手も敷物も、全部置いていくべきだろうか。そう考えると、胸が軋んだ。
 持っていきたい。野良がくれたものを持っていきたい。形見のように。思い出のように。この男が自分のために作ってくれたものを手放したくなかった。
 だがそれは野良を裏切ることだ。野良の気持ちを踏みにじることだ。くれたものだけ受け取って、何も返さずに消える。それは──。
 黒はそこで思考を閉じた。
 考えるな。今は考えるな。まだ冬は始まったばかりだ。春は遠い。今はまだここにいられる。今はまだ──この男の傍にいられる。
 黒は敷物の上に横になった。温かかった。野良の作った敷物は、温かかった。



 ある日、野良が狩りから戻ってきた時、何か大きなものを担いでいた。
 鹿だった。若い雌鹿だ。いつもより大きい。冬に備えて脂を蓄えているのだろう。毛並みも良い、いい鹿だった。
「大物だな」
 黒が言うと、野良は頷いた。
「この皮で、上掛けを作る」
 上掛け──つまり夜具にするのか。革の敷物を作った時と同じ要領でもう一枚作るつもりらしい。敷くものと掛けるもの。それがあれば、冬の夜も凌げる。
「……また、なめすのか」
「ああ。手伝え」
 それだけ言って、野良は鹿を捌き始めた。黒は黙って手伝った。皮を剥ぎ、肉を切り分け、骨を取り除く。いつもの作業だ。野良の動きには迷いがない。目的が明確だからだろう。この皮で上掛けを作る。それが野良の頭にある。
 黒は野良の横顔を盗み見た。
 真剣な顔だ。いつも真剣だが、今日は特にそうだ。丁寧に皮を剥いでいる。傷つけないように。できるだけ大きく使えるように。それは誰のためだ。何のためだ。
 分かっている。自分のためだ。黒のためだ。冬の夜、黒が凍えないように。黒が温かく眠れるように。そのために野良は大物を仕留め、丁寧に皮を剥いでいる。
 黒は視線を逸らした。
 見ていられなかった。この男の優しさを真正面から見ていると胸が苦しくなる。嬉しくて、申し訳なくて──どうしていいか分からなくなる。

 皮をなめす作業は何日もかかった。
 川水に漬け、塩と油で揉み上げ、天日にさらす。その繰り返しだ。野良は毎日欠かさずその作業をした。黒も手伝った。冷たい水に手を浸し、革を揉み、絞り、干す。指先がかじかみ、手が荒れた。それでも野良は続けた。黒も続けた。
 やがて革は薄い乳白色になった。
 柔らかく、しなやかで、温かみのある革だ。野良はそれを丁寧に整え、縁を切り揃えた。敷物より一回り大きい。掛け布団として使うには十分な大きさだ。
 その夜、野良は上掛けを黒に渡した。
「これを使え」
 いつもと同じ言葉で、いつもと同じ素っ気なさだった。けれどもその目が少しだけ違った。何かを期待しているような、何かを確かめたいような──そんな目をしていた。
 黒は上掛けを受け取った。
 温かかった。革の温もりが手に伝わってくる。野良が何日もかけて作った革だ。野良が自分のために作った革だ。
「……ありがとう」
 三度目の礼だった。けれど今度は、声が少し震えた。
 野良はそれに何も言わなかった。ただ頷いて、火の番に戻った。その背中を黒は見つめた。広くはない背中。華奢でもない背中。
 黒は上掛けを手繰り寄せた。
 温かかった。野良の作った上掛けは──温かかった。



 ある日、黒はいつものように散策に出て、ぼんやりとしていた。
 山は冬へ向かう匂いを濃くしている。落ち葉は乾き、踏めば薄い音を立てる。陽の当たる場所はまだ温いものの、影へ入れば空気がひやりと刺さる。風は高いところで鳴っていて、枝の先が擦れる音が遠くから降りてくる。生き物の気配は薄い。皆、冬支度に忙しいのだろう。
 黒は歩きながら、自分の足音だけを聞いていた。二歩先に野良の気配がない。それだけで世界が広くなる。広くなるのが、妙に落ち着かない。
(あれはやはり──そういうことなんだろうな)
 黒は歩きながら小さく息を吐く。このところ、野良がくれるものが増えた。肉の旨い部位に始まって、首巻き、篭手、敷物、上掛け。それに加えて細々とした世話。薪を割るのを代わろうとする。薬草を採ってくる。ついでだと言って白湯を寄越す。それは全部黒のためのものだった。言葉にならない気遣いが、目に見える形を取り始めている。野良は無駄を嫌う。合理を選ぶ。ならばこれは合理の範囲を少し逸れている。これは──懸想している相手への贈り物だ。
 そう思えば、全部が筋の通る形になる。年上の男にあんなふうに世話を焼くのは不自然だと黒ですら思う。自分がもし野良の立場なら同じことをするだろうか。間違いなくしない。あんなことは余計な手間を増やすだけで、情を傾けるなどもってのほかだ。それは忍のすることではない。
 それなのに──黒は自分の口の端が、ほんの少しだけ上がりそうになるのを抑えていた。嬉しいと思ってしまうのが怖い。嬉しいと思った瞬間に足元が緩み、緩んだ足元から全部が崩れそうだった。けれども同時に、崩れたものの下から何が出てくるのかを確かめたくなる自分がいる。
 歩いているうちに、小さな沢に出た。水は細く冷たく、石の間を縫って流れている。黒はしゃがんで掌を浸し、指先を濡らした。冷えが骨の奥まで届く。頭が少しだけ冴える。
(……もしかしたら……)
 野良は、自分がここを去ることを考えているのを察しているのかもしれないと、黒は掌の水を落としながら思った。自分が春になったら消えるつもりでいることを、野良がどこかで嗅ぎ取っているのかもしれない。野良も忍だ。違和感を拾うのは忍の癖だ。野良はその拾ってしまった違和感を、言葉にできないまま抱え込む癖もある。黒が歩く気配、眠れぬ夜の呼吸、碁盤の上の指の止まり方──その全部から何かを掴んでいても不思議ではない。
 きっと、だから贈るのだろう。言葉の代わりに物を。黒を繋ぎ止めたくて、不安を誤魔化したくて。野良はきっとそれを否定するだろうが黒には分かる。物は言葉よりも嘘をつかない。渡した瞬間に渡した側の欲が形になる。野良がくれたものはどれも黒が過ごしやすくなるためのものだ。ここにいてほしいのだと──野良がくれたものたちはそういう形をしていた。
 黒は立ち上がり、木の幹に背を預けた。冷たい樹皮が背に当たる。空を見上げると枝が絡み合って、空の青が細く切り取られている。冬に向かう空だ。あの青も、もうすぐ灰色に変わるだろう。
(もし野良が、そういうつもりなら──)
 黒は目を細めた。
 もし野良が自分を望んでいるのであれば、受け入れればいいのだろうか。野良の気持ちを。野良の隣を、自分の居場所として認めることを。
 野良は真面目な男だ。遊びの情ではない。軽い冗談で済ませられる類のものではきっとない。だから曖昧に受け取るのは残酷だ。受け取るなら同じ重さで返さなければならない。返せないなら受け取ってはいけない。だが返せないと分かっているからこそ、受け取ってみたいという欲も芽を出す。
(私も、大概だな)
 黒は心の中で自嘲した。返せないと分かっていて、相手から与えられるものを欲しいと思う。相手が苦しくなるかもしれないと分かっていて、受け取ってみたいと思う。忍として生きて来た中での癖だと言うのは簡単だ。けれどもこれはそうではない。これは執着だ、と黒は思った。
 自分は野良に執着している。傍にいると安心する。息がしやすい。生きていてもいいと思える。それも本当だ。けれどもそれだけではない。そんな柔らかな感情ばかりでは決してなかった。
 野良の心が自分に傾くことを、黒は確かに嬉しいと思っていた。そうして自分が去った後にも、その傾きが残ればいい。野良がふとした時に自分を思い出して、胸のどこかが少しだけ痛めばいい。そんなことを望んでいる自分がいる。忘れられたくない。いなかったことにされたくない。情けない。醜い──けれど、否定できない感情だった。
 黒は木の幹に背を預けたまま視線を落とした。落ち葉の間から根が見える。根は外からは見えないのに木を支えている。野良の中にある自分の影も、そんなふうに残ればいいと、黒は思ってしまう。
 そして、さらに厄介な考えが頭をもたげる。
 そもそも、もし野良が、傍に残ってほしいと思っているのなら──。
(私は本当に……消える必要があるんだろうか)
 黒はその問いを、胸の中で繰り返した。言葉だけでも甘すぎて、舌に残る。
 打算もあった。野良の庇護のもとで息を潜めていれば、いつか追手の手も緩むかもしれない。抜けたきり行方知れずになった抜け忍がいることも知っている。忍者隊も暇ではない。いつまでも一人に構ってはいられない。熱が冷めれば探し方も粗くなる。時間が経てば経つほど、追跡の目は緩くなる。
 ここで過ごせばいいのではないか。野良の目の届くところで、野良の作る生活の中に紛れ込んで、外へ出ず痕跡を残さず、誰にも見られず生きていく。そうして月日が過ぎれば追う側は飽きる。飽きた頃に動けばいい。あるいは動かなくてもいい。
 それは筋は通っている。生き延びるための理屈として。けれども黒は、その理屈に別のものが混じっていることを知っていた。
 そうすれば──ずっと野良と一緒にいられるかもしれない。
 囲炉裏の火の音を聞きながら眠り、朝には湯気の立つ器を受け取り、野良が狩りから帰るのを待つ。春が来ても夏が来ても、ここにいられるかもしれない。そう思った瞬間、愚かにも胸の奥がふっと緩む。
 その緩みが、怖かった。
 野良の未来を潰すかもしれない。信用を失わせるかもしれない。雇い主に知られたらどうする。最悪、野良の家族にまで迷惑がかかる。そういう現実は黒の頭がいちばんよく分かっている。だから春になったら消えると決めたのに。
 それでも思う。野良が望むなら──野良が危険を承知で隣に置こうとしているのなら、自分がそれを拒む理由はないのではないか。自分が消えようとしているのは本当に野良のためだけだろうか。見捨てられる前に消える、そういった心理があるのではないか。
 黒は目を閉じた。冷たい空気が肺に入る。胸の奥の熱が余計に目立つ。打算と執着が絡まってほどけない。生き延びるための理屈を、野良の温もりに繋げる自分がいる。
 黒は息を吐いた。まだ白くならない息が静かに消える。
 家へ戻ろうと思った。戻って、野良の目を見て、野良の呼吸を確かめて、自分がどれほどそれに縋っているのかを確かめるために。縋っていると認めることが、いちばん危険だと分かっていながら。



 家に戻ると、野良が囲炉裏の傍にいた。
 火の番をしている。いつもの光景だ。黒が戸を開けると、野良は顔を上げた。視線が一瞬だけ黒の全身を確かめるように走る。怪我はないか、異常はないか、そういうことを見ている。そういう目をする男になっていた。
 黒はその視線を、わざと見返さずに受け流した。見返せば、こちらも同じ目をしていると知られてしまう。
「何かあったか」
「いや」
 黒は土間で履物を脱ぎ、囲炉裏の傍に座った。いつもの位置——ではなく、少しだけ近くに。一歩半ほどの距離。野良が僅かに身じろぎした。気づいたのだろうが、何も言わなかった。言えない、の方が正しいのかもしれない。
 囲炉裏の火が燃えている。薪が爆ぜる音がする。外では風が木々を揺らしている。
「……寒くなったな」
 野良が言った。沈黙から逃げるように。
「ああ。そろそろ雪が降りそうだ」
「そうだな」
 何でもない会話だ。いつもと同じような。黒は野良の横顔を見ていた。火に照らされた輪郭。真面目な顔。何かを堪えているような、何かを待っているような──待っているのが何なのか、黒はそれを確かめたかった。
 黒は野良の方へ、少しだけ身体を傾けた。肩が触れそうな距離まで。わざとだ。偶然に見せる必要はない。
 野良の呼吸が、一拍だけ止まった。すぐに戻ったが、黒は聞き逃さなかった。
「……野良」
 名を呼んだ。野良が顔を向ける。近い。火の明かりに照らされた目が黒を見ている。戸惑っているくせに真っ直ぐな、逃げ場のない目だと黒は思った。
「……何だ」
「敷物も、上掛けも、よく眠れる」
 それだけ言った。野良の目が僅かに揺れた。言葉を探しているようだった。黒はその揺れが消える前に、さらに言葉を重ねる。
「首巻きも温かい。篭手も。全部」
 野良は何も言わなかった。けれどその沈黙は拒絶ではなかった。受け止めている沈黙。野良は受け止めてしまう男だと黒は知っている。だからこそここまで踏み込める。
「あれの意味を、……分かっている」
 黒は目を伏せて言った。視線を合わせないのも計算だった。合わせれば、野良が欲しがるものを与えてしまう。それはこちらが不利になる。
「分かっている。お前が何をくれているか。全部」
 野良の肩が強張った。それでも距離は離れなかった。黒も離れず、離れない、という事実だけを差し出した。沈黙が落ちる。何かが伝わった後の、静かな沈黙だった。伝わったのは宣告だ。野良が引き返せないという宣告だ。
 黒は目を閉じた。
 これでいい。今はこれでいい。分かっている、と告げた。受け取っている、と伝えた。黒が正しく受け取った以上、野良はもう引けない。引けない男が、次に何をするかを見たかった。
 火が燃えている。薪が爆ぜて、風が鳴る。
 二人は並んで座ったまま、黙って夜を過ごした。肩と肩の間には、僅かな隙間があるだけだった。




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