紫陽花



「……しばらくは薬品庫の担当、ですか?」
「そうだ。」
久しぶりのイシさんのカレーは、一晩置くと本当に旨くなる。
譲介が黙々とスプーンを動かしていると、向かいの椅子に座って納豆をかき回していたK先生は、この先の仕事のことだが、と譲介に切り出した。
カレーの匂いと一緒に、イシさんが焼いたばかりのアジの開きの匂いがする。
先生とは、同じ屋根の下で寝起きをしていても、食事を取るのは基本的に夕食だけだ。
たまには朝飯を一緒に食うか、とこちらの食事の時間に合わせて来たのは、退院直後の様子見兼診察も兼ねていたのかと思ってはいたが、まさかこんな話になるとは。
ちら、と時計を見ると、麻上さんが診療所に顔を出すまでは、まだ時間がある。
先生は、その前に言うべきことを言ってしまおう、と思ったのだろうか。
「お前はこの先、失われた肝臓がある程度再生するまでは生活リズムを整え、健康的に過ごす必要がある。」
それは、言わずもがなの指摘だった。
「だからって……。」という譲介の抗弁は、「譲介、担当医の話を最後まで聞け。」という先生の言葉に遮られた。
「今のお前の体調は万全と言えない。」と言われて唇を引き結ぶ。
今のは、確かに僕が悪い。
ここにいる自分は――病院食とは程遠いカレーは食べているが――先生の弟子としての和久井譲介ではなく、生体肝移植を済ませたばかりの、ひとりの患者なのだ。
手術の前後は完璧に患者になりきって演技をすること、までは覚悟していたのだ。譲介は不意に、村では授け手、というんじゃが、まさか譲介君がなあ、と言葉を濁していた憲三さんたちの顔を、思い出した。
『オレが執刀する以上、手術は成功させる。だが授け手になることは、お前が思う以上に負担が大きい。何かあれば、墓に入ることにもなりかねない。』
覚悟は変わりないな、と尋ねながらも、前日の先生は、いつもの調子だったので、譲介もまた、手術を受けるぎりぎりまではいつも通りに仕事をしていた。
あの日に掛けられた言葉を、どこかで軽く見てはいなかっただろうか、と譲介は自問する。
(これまでの僕は、患者になった村の人たちに対して、今の先生のように声を掛けていたはずだ。)
「今は退院したてだ。掃除も、暫くは調子が悪いと思ったら麻上君か村井さんに替わって貰え。感染症には気を配って生活せねばならん。軽い運動は許可するが、それ以外は厳禁だ。」
そこまでしなきゃならないんですか、という問いが喉元まで出かかった。
かつて、左胸の刺傷の手術を終えた後は、元保護者だった人から同じように注意を受けた。
――安静にしておけ、酒と煙草は厳禁だ。
そう言って、人差し指でトン、と額を押された。
あの人にただそうされるだけで、譲介は魔法のように、抗すべき言葉を失った。
患者と言う立場は、本来、医者に比べれば酷く弱い。
「仕事の完全復帰までは、最低三か月の休養だ。」と先生は話を続けた。
「だが、休養と睡眠、栄養を取ることにだけ集中しろと言ってもどうせ難しいだろう。これは村井さんからの提案だ。仕事は、今週の調子を見て、開始する日を決める。まずは週3日、一日置きだ。最初は付き添いありで、午前だけの状態から始める。論文を読むにせよ仕事にせよ、全て昼間に集中して、夜は寝ることだ。」と言われて、譲介は瞬きをした。
「もし、急患があっても、スか?」
「調子のいい日の昼なら助手に呼ぶこともあるだろうが、早くて夏からだな。手術中にお前が体調を崩しても、誰もフォローには入れん。夜のシャドー練習も暫くは中止だ。」
往生際の悪い譲介の言葉に、先生は静かに反駁する。
譲介は、はい、と神妙に頷いた。
これは、弟子としての立場からの弁えとは違うはずだ。
学生時代の自分とは、今は違う。新しく巡り来た機会と捉えるべきだった。
いつかの自分と、こうして同じ患者と言う立場に立ってみると、医師としてどう振舞うべきか、どんな医師になりたいのかという指標が、鏡映しのように見えて来る。
お前は納得すべきだ、と理性は譲介に助言する。目を瞑れば、涙がこぼれそうに不安だった。
小さな返事の後、深い息を吐いて口をつぐんだ譲介のことをどう思ったのか、先生もまた、譲介と同じように食事の手を止めた。
「譲介、どうした。」
先生が眉を上げた。
心配されている、そのこと自体は嫌ではないのだが、胸がざわつく。
「ちょっと喉が。」
水を飲みます、と譲介が言うと、先生は少しホッとしたような顔に見えた。
「これまでにも何度か経験があるだろうが、薬品庫の仕事も、楽とは言えんぞ。」
「はい。」
分かっています、と言うまでもなく、村井さんの顔が頭に浮かんだ。
薬品庫は本来なら、番頭さんのような、村に長い人が引き継ぐべき仕事なのだ。
朝と夜に、朝は前日のカウントの後で減っているものがないか、日中の出し入れの後で薬品の数が合っているかを、確認する必要がある。
かつては数名体制で担当したというが、過疎で村の人口が減った上に、施錠が厳重になった今、ほとんど村井さんがひとりで掛かりきりの仕事になっている。
地味で目立たないが、無医村だった頃からこの村には欠かせない大事な役目だ。
その仕事を任されるというのは、裏返せば先生や村の人たちからの信頼の証とも言える。
そのことは、譲介だって分かっている。
(ここを追い出される訳じゃない。夜になったらここに戻って休める。)
譲介は、そう言い聞かせ、気持ちを落ち着けるために水を飲んだ。
手術を受ける覚悟だけなら、心は疾うに決まっていた。
産みの母親の顔や態度にあれだけ感情を揺さぶられても、結局はドナーになることは止めなかった自分が、今になってどうして、と思う。
ただ患者であれと言われ、普段の仕事から遠ざけられることが、自分をこんな風に動揺させるなんて思っていなかった。
「心配するな。その間は、オレも外の仕事は調整する。」
「すンません。」
「謝るな。今のお前は患者だ。心配するな、と言っても難しいだろうが。昼に時間を見つけられたら、そのうちシャドー練習も再開する。」先生はそう言って、くるくると箸を回し終えたばかりの納豆をご飯の上に乗せている。
いつまでも休めると思うな、と発破を掛けられ、譲介の心は浮き立つ。
「あ、ありがとうございます!」
「譲介、メシの最中だ。大声は控えろ。」
まだカレーが残ってるぞ、と言って、先生はおかしそうに笑った。





「そろそろ行くか。」
「はい!」と言って譲介は診療鞄を持つ。
持ち上げると、ふらりと足元がおぼつかない。
あれ、と間抜けな一言を口に出すことはなんとか回避できたが、ちらりと先生を見ると、譲介の手元をじっと見つめている。
たった二か月のブランクが、こんなところに出てしまうとは。
生体肝移植の手術前であれば、片手で持つことが出来た診療鞄が、今はずしりと重い。
往診を再開する前に、たまにはダンベルで手首を鍛えておいたら、とついこの間まで麻上さんにからかわれていたけれど、その予言が当たってしまったようだ。
両手で持つのが歩きづらいことは散々経験しているが、復帰第一日目で失敗は出来ない。
その一瞬の躊躇を捉えられてしまったのか、目ざとい先生には「どうした?」と尋ねられる。
先生、今の僕の状態、見えてるでしょう、と言いたい気持ちをグッと抑えて「往診に行くのも久しぶりなので。」と譲介は答える。
――時々、どうしてか意地が悪くなるんだよな、先生。
「久しぶりの診療鞄は重いか。」
確認するように言われる。
端的に言えばそうだが、ハイ、と正直に頷くことを求められてもいないような気がした。
早くこの患者扱いを終わらせてください、とアピールして虚勢を張ったところで、先生には直ぐ見抜かれてしまう。そのことは、この二か月ですっかり分かってしまっている。
何しろ、先生はこの村の医師として…ええと、二十年近く働いているのか。
薬品庫へは様々な人がやってきて、先生が何歳からこの村で「神代先生」の名を継いだのか、名を継ぐ前はどんな子どもだったのか、村の外から来た人間にはどう接して、何に気を付けるべきか、色々なことを教えてくれた。
先生は、カルテを見てこちらの誕生日も既往歴も何もかもを知っている、自分ばかりが丸裸だ、と常々思っていたけれど、この二か月、おしゃべり好きな村の人たちのおかげで、その不公平感はかなり薄まって来ていた。
村井さんも、昼間の往診を続け、屋外を出歩いて日光を浴びる生活になってきたせいか、なんだか生き生きしてきたようにも見えるし、そうであればもう少し、あの薬品庫で働き続けてもいいとさえ思っているのだ。
譲介は、自分の調子の良さになんだか笑いたくなってしまった。
「山北地区の辺りは、そろそろ紫陽花が色づいてますかね。」
「ああ、そうだな。しばらく雨が続いたから、いつもの道は紫と青に染まってる。」
夏が来るまでに、すっかり手術から回復するのは難しいかもしれない、と譲介は思う。
「今度こそ、準備はいいな。」と先生が言った。
譲介は、ハイ、と応え、もう一度、いつもの診療鞄を持ち上げる。
よいしょ、と声を上げると、村井さんに笑われるぞ、と先生がからかうように言った。
外に一歩出れば、梅雨の合間の晴天だ。
来月になれば、この梅雨も明けて、もっと体調も良くなって、トマトやキュウリ、トウモロコシといった夏野菜のカレーが食卓に上るだろう。
待ち遠しい未来が待っている。
譲介はそんな風に思いながら、久しぶりの往診の、その一歩を踏み出した。

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