お題「なぞる」/迅太刀




「ごめんお待たせ、太刀川さ――……、あ」
 迅がガラリと建て付けの悪い教室のドアを雑に引くと、窓側の席に見慣れた頭が突っ伏していた。ゆるく癖のついた、ほとんど黒髪に近い深緑色の髪。夏休みが終わったとはいえ、まだまだ夏の名残を残した夕暮れの日差しに照らされてちらちらと光っている。他に誰もいない教室の中、バタバタと入ってきた迅に気付きもしない様子で太刀川は動かない。
(あー……こっちだったかあ)
 未来視では五分五分だったのだ。退屈そうに机に座っていた太刀川に「遅い」と拗ねたように言われるのと、待ちくたびれた太刀川がこうして眠ってしまっているのとは。
 遠くから運動部の男子たちの走り込みの声や、吹奏楽部が練習をする音が聞こえる。ふたりきりの教室、開いたままの窓から入ってきた風が教室のカーテンを柔らかく揺らす。

 日直だから、という理由で自分が放課後に少しノート運びやら何やら担任の手伝いをさせられるということが視えたのは五限目の数学の授業中のことだった。率直に言って面倒だったし、早く本部に行って|ランク戦をしたかった《遊びたかった》から回避できないかとは一瞬思ったが、そうしたらその仕事はそのまま別の人に回ってしまうのも分かったから、仕方がないと甘んじてそれを受け入れることにした。残念ながらと言うべきか、今日は任務もないのでボーダーを言い訳にも使えないのだ。
 視えた時点で携帯からこっそり太刀川に、今日はそういうわけで少し遅くなりそうだとメールを入れると、早く終わらせて来いという返信がすぐに来た。こっちが授業中だということは向こうも授業中だろうに、その返信の速さに迅はつい笑ってしまいそうになってしまった。それは、太刀川も同じように早く戦り合いたいと思っているだろうことがその速さで感じられたことと、そして授業中にこんなことをしているというちょっとした共犯のような関係がいやに楽しかったからだった。
 放課後になれば待ち合わせて一緒に本部に向かうようになったのは、迅が太刀川と同じ高校に通うようになってからはすぐに恒例となったことだ。
 明確な約束をしたわけじゃない。ただ、どっちにしろ行く場所もやることも一緒なのだし、自転車通学の太刀川の自転車に乗せてもらうのが一番早いから、という理由で当然のようにそれが自分たちの日常になった。ちなみに自転車の二人乗りは先生に見つかれば怒られるので、それをバレないようにうまく視ておくのは迅の役割である。

 迅の担任のもうすぐ定年に近い男性教師は悪い人ではないのだが、いかんせん話好きなせいで、なんだかんだと話しているうちに用事の割に随分長くなってしまった。ようやく解放されて急いで太刀川の教室に来たのだが、どうやら待たせすぎてしまったらしい。迅がメールのついでに「明日英語で当たるっぽいから、おれを待ってる間に予習しといた方が良いんじゃないかな」という忠告をしておいたのだが、この様子では成果はまあ聞くまでもないのだろう。そもそもノートのひとつすら机の上には乗っていない。
 二年の太刀川の教室は、一年の自分の教室とよく似ているけれど掲示物も背面黒板の落書きも机の並びも少しずつ違う。ほとんど同じ構造のはずなのに、それだけで物珍しさを感じてしまうのが不思議だった。
 教室の中をなんとなく軽く見回しながら、迅は太刀川が座る席に近付いた。新学期早々にワックスをかけたばかりであろう床にシューズが擦れる音がしても太刀川は起きる気配をみせず、目を瞑ってすやすやと寝息を立てている。腕を枕にして横向きに眠っているから、静かな寝顔は半分以上机の横に立った迅の方に向けられていた。
 起こさないとなあ、と思う。自分だって早く起こして太刀川と自転車を飛ばして本部に行って、時間をめいっぱい使ってランク戦に興じたい。なんといっても昨日は接戦の末隠していたスコーピオンの新技をここぞというタイミングでみせた迅が勝ち星を上げて、ひどく悔しがった太刀川に「さっきのやつ、明日には対策して明日は俺が勝つからな」と息巻かれてしまったのだ。そんなの、こちらだって楽しみになってしまうだろう。
 いつもの自分だったらすぐに太刀川のことを起こしていただろうと思う。
 それを躊躇うのは、数日前に視た未来視と、昨日内々に林藤から聞いた話が原因であると自分で分かっていた。
 ──もうじき"風刃"の所有者を決める。
 長い間本部預かりとして様々な研究・検証が行われてきたが、それらが終わり、ボーダー本部としてこの黒トリガーを正式に戦力として運用することが決まった――つまり、この黒トリガーから最上を蘇らせることは不可能であると本部の開発室が結論を下した――と林藤から伝えられた。そしてその所有者の決定はおそらく模擬戦により行われるということ。ボーダー正隊員に向けての正式な告知も、数週間以内に行われること。
 そしてもう一つ。黒トリガーはノーマルトリガーと規格が違いすぎるために、"風刃"の所有者になればS級というランクに昇格し、ランク戦への参加資格を失うということ。
 知った瞬間から心は決めていた。いや、それ以外の選択肢を選ぼうとはどうしてもできなかったと言った方が正しい。自分以外が風刃を持つことを嫌だと思ったのだ。自分の中に、まだこんなにも師に執着する思いが残っていたことに驚く。
 後悔し続けているのかもしれない。贖罪なのかもしれない。それに、『みんなを守るために強くなりたい』という自分の一番の目的を果たすためには、力を得ることに対し躊躇うべきではない。
 そうするのが自分のために、みんなのために、最善の解だと分かっている。全てではないが、その"風刃"の能力も自分は多少は知っていた。この剣を一番使いこなせるのは、客観的に見ても間違いなく自分であると自身を持って言うことができる。
 迷うまでもない。そのはずだった。
 もしこの人に出会わなかったなら、自分はきっとこのことに対して、ひとつも迷うことなんてなかったのだ。

 太刀川の隣の席の椅子を引く。ぎ、と軋んだ音を立てる。自分が教室で使っている椅子よりも少しだけ高いそれに座って、机に肘をついて、太刀川の寝顔を眺めた。
 太刀川は風刃に選ばれない。それは自分だけが、未来視でもう知っていた。
 太刀川がいないのであれば、自分はきっと問題なく風刃を手にすることができるだろう。これは過信ではなく、客観的な戦績からみた確信に近い予測だ。
 だから彼との|この時間《モラトリアム》ももうすぐ終わる。あと一か月もない。太刀川にはまだ何も言っていない。
 終わると分かって、自分が彼との時間にもひどく愛着や執着をもってしまっていたことに気が付いてしまったのだ。
 そして、目の前の彼自身にも。
 手を伸ばす。それだけで難なく触れられる距離であることに気付かされて一瞬止まった手を、もう少し伸ばして指先で彼の唇に触れた。触れた、と言うにはあまりに控えめな接触だ。
 ほんのわずかに触れた指の先で、起こさないように臆病に、しかしじわりと湧き出した欲のまま迅はその唇をゆっくりとなぞる。そのあたたかさとやわらかさを指先の数ミリで知って、それだけで心臓が大袈裟に音を立てる。そんな自分にもう一人の自分が内心でひどく呆れていた。
 こんな思いを抱いている自分に今更気が付いて、どうすればいいというのだろう。この時間がもうすぐに終わると知っていて、自分を好いてほしいと、もっと触れたいと、そんな欲を相手にぶつけられるほど、自分は心を強く持てるような人間ではなかった。
 この時間がもう少しだけ続いてほしいだなんて甘いことを思う反面で、それを選べないのも、何より自分自身の選択なのだった。

 こうして二人きりでいると、時間をこのまま止められるのではないかという夢物語じみた錯覚を不意に覚えてしまう。そんなわけはないというのに。部活の賑やかな声も、ずっと遠くからたまに聞こえる警戒区域からのサイレンも、なにもかもがこの教室からは遠く、ここだけが切り離された二人だけの世界のように思えてしまったのだ。
 そんなわけはないのに。
 ひとつ瞬きをして、迅はもう一度太刀川の寝顔を見つめてから、指をゆっくりと彼の唇から離す。離れたはずなのにその熱はまだ後を引いて指先に残っているような気がした。
 そうしてすうと息を吸って、迅は太刀川の耳元に近付いてわざとらしいほど大きな声を出す。
「たちかわさん!」
「っうお!」
 流石に耳元で叫ばれたら目が覚めたらしい。跳ね起きた太刀川が驚いたようにぱちぱちと瞬きをして、そうしてから状況を段々と理解し始めたらしい。
「迅? ……あ! 今何時だ?!」
「もうすぐ五時だね。待たせて悪かったけどさ、すげー寝てたじゃん。全然起きなかったよ」
「あー、昨日ランク戦の戦術考えてたら寝るの遅くなって……。つーかそんなことどうでもいいんだよ、日直終わったんだろ? 早く行こうぜ」
「ねー、ほっぺた寝跡ついてるんだけど」
「うわ、マジか」
 迅が笑いながら指摘すると太刀川はぺたぺたと自分の頬を触る。明らかに寝てましたといった跡が頬に赤くついてしまっているのだが、まあそのうち消えるだろう。本部に行けばどうせ換装するのだし、それに太刀川はそこまで自分の外見をやたらに気にするようなタイプでもない。
「まあいいや。早く行こうよ、本部。昨日いっぱい考えてくれたんでしょ? おれに勝ち越すための戦術」
「だな。言っとくけど、まだトータルで勝ち越してるのは俺のほうだぞ」
「この一か月くらいだとおれの方が勝ってるんじゃない? すぐトータルも勝ち越してあげるよ」
「そうはさせるか」
 太刀川が立ち上がった拍子に机が小さく音を立てる。机の横にかけてあったカバンを手に持って太刀川が歩き出した。迅もすぐ立ち上がって太刀川の後を追う。その背中をじっと見つめていたいような、見つめていたくないような、そんな気持ちになって迅は歩幅を大きくして太刀川の隣に並んで歩いた。二人分の靴がきゅっと教室の床を踏みしめて音を立てる。
「今日もおれが勝つっておれのサイドエフェクトが言ってるからな~」
「そんなもんいくらでも覆してやるよ。知ってるだろ?」
 いつものその軽口が妙に耳に残った。ゆっくりとその言葉を自分の中に飲み下してから、迅は歩調をわずかに速めて太刀川の半歩先へ追い抜かす。
 そうやって急いているふりをしながら、迅はわざと軽い口調で「ま、結果はお楽しみだね」と言ってやる。笑いながら言ったその言葉に、太刀川が「まあそうだな」と自信ありげに笑い返した顔のことを、迅は振り返らなくたってよく分かったのだった。

powered by 小説執筆ツール「notes」