炭酸水



夜の空気は妙に肌寒いがベッドまで毛布を取りに行くのも袖のあるシャツを羽織るのも面倒だ。
そう思ってふと顔を上げると、外を流す車のエンジン音が聞こえてくる。
その当たり前に気付いて、静かだ、とTETSUは思った。
購入したばかりの新しいソファベッドに寝そべり、駅前の本屋で買って来た福田恆存の演劇入門を読んでいたが、さっきからどうも目が滑る。集中力が切れて来たのだろう。切りのいいところに栞紐を挟んで手を伸ばして文庫を床置きにし、伸びをした。
コーヒーでも淹れるか、と思ったが、粉が切れていたことに気付いた。飲み切ったのが日曜のことだから、明日にでも買って来るか、と思い始めてもう三日が経つ。

――TETSUさん、寝るならちゃんと毛布か何か掛けてくださいよ。

かつて部屋で共に寝起きをしていた譲介の顔を思い出すと、散々だった先月までのごたごたが芋蔓式に記憶から蘇って来て、TETSUは嘆息した。
五十半ばの男としちゃあ、ほとんどスズメの涙のような貯金を崩して引っ越しをした。
理由は、譲介が、とっくに破局してますよと言い訳をしていた例のタレントとの「熱愛報道」だ。
そのスキャンダルが巻き起こしたバタフライ効果で、ここ数年、代わり映えの無かったTETSUの日常は一変した。
幹線道路からも駅からも距離があり、通勤時間帯以外はほとんど人気もないような住宅街で、愛弟子のスキャンダルについてどう思っているんですか、と激しくドアを叩く音と怒鳴り声。アパートの横の道には、バンでやって来て通りすがりの人間にまでライトを浴びせる輩までが行き交うようになった。
女との付き合いがバレて2日、譲介が事務所の用意したホテルに行くというのでやっと肩の荷が下りたと思ったが、居残ってこっちから話を聞き出そうとするようなねちっこい記者がいるとは思わなかった。とうとう管理人からは、周辺住民の迷惑となっているというごもっともな理由で遠回しに退去の相談が来て、その流れで引っ越しをすることになった。譲介の火遊びは、巡り巡って、母親が亡くなって以来、その年なりに通帳の残高を気遣って暮らしていたTETSUに大きなダメージを残した。
スキャンダルの渦中にある譲介を、普段と同じように家に招いたタイミングが最悪だったという話ではあるのだが、TETSUとしては、そもそも譲介が実家以外の場所に一時避難してる間に、事務所が根回しして、そうしたハイエナどもを蹴散らしておくべき話ではないかと思うのだ。これまでこういうことを仕出かした馬鹿が他にいないわけでもないだろうに。
まあ、未成年時代のスキャンダルとは訳が違うってのはあるもんか。
自身は二十歳になろうが三十を越そうが鳴かず飛ばずの役者だったので、考えが及びもつかない方面の話だった。
金がないならないなりに、いつもの土方のバイトを入れた。ホンが出来ない出来ないと毎回唸りながら、霞の代わりにあんパンを食ってるいつもの脚本家との仕事が来月からの話で心底良かったと思う。
思い出したら腹が減って来た。このまま本の続きを読むか、帯を栞代わりに挟んだままコンビニに何か買いに行くか、と思っていたらスマートフォンにラインの通知が入った。
一也からか、と思いながらアプリを開くと、案の定、週末にメシを奢ってやる、という昨日のメッセージに返事が来ていた。
『すいません、TETSUさんとサシ飯食ったのが譲介に知れたら、あいつが後でどれだけ暴れるか分からないんで。今回は勘弁してください。』
勘弁。
勘弁と来たか。
「……そこまで言うほどのことか?」
スマホ片手に思わず声が出た。
譲介のヤツに灸を据えてやりたいからアイツが精神的に堪えるようなことを教えろ、と聞いてみたら、一也のやつ、しばらく出入り禁止にして譲介が音を上げてきたら許してやってください、と言って来た。
言い出しっぺが手伝え、とグループラインに使っているアイコンを作り替えさせたのが、確か、引っ越しを終えてすぐのことだ。赤い四角の中に「譲介出入り禁止」の白抜き文字。デザインってもんは、誰が見ても分かりやすくねえと。
パソコンをそこそこ使いこなせて、オレと譲介との付き合いの長さを知ってる一也に白羽の矢を立てたのは正解だった。とは思ったが、まさかここまで譲介に甘いとは。
返事は文字だけとはいえ、頑健な体つきに似合わない温厚な一也の困り顔が見えるようだ。まあ、局の近くにあるファミレスで適当に奢るはずだったが、一也の頭ん中じゃ、洒落たレストランかどこぞの料亭で飯を食わせる話になっているのかもしれない。
んな金ねえっつの。
……あるいは、譲介への気遣いに見せて、オレとメシを食うのをご遠慮させて欲しいという断りの返事か。
まあ、年の離れた相手と食事というのは、よほど親しい間柄でも気詰まりな瞬間はある。
そもそも、オレにしたところで、相手が譲介なら、あいつから手前勝手に近況をべらべらしゃべり出すから互いに気を使わなくて済むが、それ以外の若いのとは何を話しゃいいのかって話だ。
どんな話題を出されても受け答えがしっかりしている一也が普段見せてる顔からじゃ分からねえが、そっちの可能性が高いと考えておいた方がいい話しかもしれなかった。オレならまあ、譲介のヤツを出汁にして断りの言葉は言い出しやすくはあるんだろう。
KEIとふたりで飲んで来たと言うと、TETSUさんばかりズルいとむくれていた譲介の顔が頭に思い浮かんだが、あれはもう特殊な例だ。
ズルいズルいと言ったところでおめぇは仕事だろうが、と言いながら愚痴る譲介に飲ませた酒は久保田だったか。自分で飲めねえような酒を買って来なきゃいいと普段から言ってあるのに、泊まらせてもらうので、と言って、結局はそこそこのレベルの純米吟醸だの樽酒だのを持ち込んで来る。弟子と言うのも面映ゆいほどの実力を持ったあの年下の男は、日本酒は二日酔いになるのに、と零しながらも、こっちから飲ませた分はきっちり杯を干して返杯してくる。
そもそも最近、譲介以外の人間と、仕事を抜きでメシを食った記憶があるかどうか、という話だ。
村井さんとは、確か春先にいつもの万寿山で餃子を食ったな。
KEIのヤツと飲んだのは去年の冬か。
他には記憶がない。
そもそも、譲介のヤツがああもべったり引っ付いてくるまでは、広く浅くの人付き合いというのが出来ていたのだ。
三十後半から四十前半。自分以外の人間になるつもりはねえが、生き方を変えられない依怙地な性格というのは、随分と不便なもんだ。似たようなことを思って芝居の世界で生きて来ただろうに、こういうのが年相応だと言わんばかりに家庭を持って引退したヤツらの輪の中に入っていくと、否応なく、自分の中のねじけた僻み根性と向き合うことになる。あいつと会った頃が丁度、そんな時期だった。
KEIのように太い実家があるというのでもなければ、芝居の世界で、それだけで食っていくのは難しい。
映画やテレビの仕事を入れて、それがダメならバイト。
デカい事務所が囲った枠からはみ出た椅子を奪い合うのが今のこの世界で、仕事の量には波がある。そのうち、エキストラの仕事も、業界の人間を雇うより、手弁当の素人を使う場面が多くなって来た。長くバイトと掛け持ちしてりゃ、大人になりきれねえような手前に嫌気が差すこともある。
考えてみりゃ、学生の頃のように月一の頻度でそれなりの規模の本屋をうろついて、本を買い始めたのも、たまには適当でも飯を作るかと思い始めたのも、譲介と会うまではついぞなかったことだ。妙な具合で三十近くも年下のガキとつるむようになったが、あいつといて気が楽だったのはオレの方かもしれねえな。
『何か欲しいもんねえのか。』と一也にメールを打ってから天井を見ると、妙に眩しく感じる。
続きを読むか、と開いた本のページに目を移すと、眠気が勝って来た。と同時に、スマホが震える。
返事は早かった。
『それなら。週末に三十分ほど時間ください。金曜に新宿御苑の近くで用事があるんですが、TETSUさん昼前に出て来れますか?』
そのメッセージに日にちと時間を返すと『よろしくお願いします。』とアニメーションのスタンプが付いた返事が返って来た。
……熊が謝ってるな。
そもそもオレが仕事を頼み面倒をおっかぶせたというだけの話に、なぜ一也の方から謝る必要があるのか、と思ったが、あいつはあいつで、年の離れた譲介の兄貴分のつもりでいるのだろう。
譲介が十五の年に、同世代のヤツとは仲良くしておけと言った記憶はあるが、自分でも、四つ年の離れたガキ同士が、何の軋轢もなくただの付き合いが出来るとは思ってなかった。
全く、今考えりゃ、相当に無責任なもんだ。だが、二人はあれから、それなりに上手くはやっているようだ。
まあ、大概は一也の方が譲介のヤツを甘やかしてるんだろうが。



「これ、TETSUさんにと思って。」
どうぞ、と帽子を目深にかぶった一也から差し出された小さなショッパーは、TETSUがかつて結婚を考えたことがある女に何度か渡したことのあるジュエリーショップのものにあまりに似ていて腰が引けた。
「……おめぇと付き合うつもりはねえが、」と言うと一也はこちらに微笑み「ちゃんと中を確認してから受け取るかどうか決めてください。」と言って、もう一度ショッパーを差し出した。
譲介のヤツが、あいつはここぞってときにはちゃんと自分の意見を言いますよ、と言っていたがこういうところか。

金曜の昼下がり。
真昼間の喫茶店といえば有閑マダムと暇を持て余した学生が付き物だが、ほとんどコーヒーとトーストのモーニングからランチの目玉はナポリタンという昭和のメニューに、その場所柄もあって、辺りの席にはサボりを決め込んでいるサラリーマンが多い。
地下でWi-Fiも通っていないような店とあってか、隅のソファでは背もたれに身体を預けて昼寝をしている不届き者の姿までが見える。
会社員には会社員の苦労があろうとは思うが、TETSUにしてみれば、寝ていて給料が貰えるなんてのは気楽な身分だ、の一言に尽きる。
値段を見ずに頼んだブレンドを啜りながら、そう明るくもない灯りの下で家から持ってきた文庫本の続きを繰っていると、時間の五分前にやって来た一也は、通りすがりの店員にレモンスカッシュを頼み、肩に下げていた布バックの中から白いショッパーを取り出した。
店名には金の箔押し。
ショッパーの中身は紙箱だ。まあアクセサリーということはないだろう。
「開けていいのか。」
「降ったら分かりますよ、中身。」と言われて手に取って眺める。振れば中から水音がする。
……香水か。
「化粧水です。」
「化粧水ぃ?」
「きつい匂いはしません。無香料ですし、これ、ほんとにすごくいいんですよ、僕の推しメンが使ってるんです。」
推しメン。
このところ、どこでも聞くようになった単語だ。一也が惚れた相手がアイドルかモデルかは知らないし知るつもりもねえが、つまりこの場合、一也のファンがどうこうというわけではなく、一也「が」ファンになった男がいるということだろう。推しというのは、女が使う言葉かと思っていたら、どうやらそうでもないらしい。
飲み会や打ち上げの時に、時々、レポートの提出が終わらなくて、と言い訳をして妙に遅れて来る日があったが『一也、今日はデパートをうろついてるらしいんで、そのまま遅刻すると思いますよ。』と小声で譲介が言っていたのはこういうのが原因って訳か。
てっきり靴だの服だのといった着道楽の方面かと思っていたが、衣服を買って来たにしちゃ、荷物が少ないと思っていた。こんな小さな袋なら、まあ大学生のデカいリュックに隠すにはうってつけだろう。
一度試してみてください、とドラマの時に接触する美容部員のようなことを言う。
譲介のヤツ、知ってたな。
「……こいつをオレが受け取ったところで、おめぇに何の得があるんだよ。」
壺を買わせるような話なら願い下げだぜ、と冗談交じりに笑うと、一也が、これは僕の趣味なので、完全に自腹です、と言い切る。
「使い勝手が良かったら継続的に買ってみてください。売れ行きが良ければ、来年もポスターになってくれるかもしれないですし。僕、スキンケアが趣味なんです。」と一也は晴れやかな顔つきで言った。
この笑顔に捕まえられるなら、何でもする、という女はきっと多いのだろう。
世間じゃ、譲介のファンが耳目を引いているが、ファンレターの数だけ見れば、断然一也のファンの方が多い。
「そんなら貰っとく。」
ありがとよ、とTETSUが言うと一也は目を丸くして「譲介が、TETSUさんと一緒にいたがるの分かるなあ。」と言った。どういう意味だ、と聞こうとしたタイミングで、失礼します、とウェイターがレモンスカッシュを運んで来た。
氷を入れた上に薄切りの青いレモンが二枚。
一也は、小さな鞄の中からスマートフォンを取り出し、一枚写真を撮ってからおもむろに炭酸水を飲み始める。
「その証拠写真、見つけたらまた拗ねるぞ。」と主語を抜いて言うと、今度は、一也が吹き出した。
「TETSUさん、もしかして知ってるんですか?」
一也の問いかけは、まあ大体見当が付く。
譲介のガキみたいな独占欲も、友人が少ない上に仲間外れが苦手なことも、周囲にバレちゃいるだろう。
「……そりゃ、付き合いが長けりゃ気付くだろ。」と言うと、一也は絶句した。
「分かってて付き合ってるんですか。」と言われて、妙だな、と思った。
笑うか、同士愛めいた愚痴が訊けるかのどっちかだろうと思っちゃいたが、一也の顔は不機嫌そうに曇っている。
「そういうのは、不実だとオレは思いますけど。」
不実だとぉ?
最近のガキは、思い込みが激しい上に言葉の使い方も知らねえ、と思っちゃいたが、まさかこいつもそうだとは。
「あのなあ、心配は分かるが、あいつもいい年の大人だぞ。」
「大人になりきれてないからオレが心配してるんです。」という一也の様子は母熊さながらだ。
友達が多かろうが少なかろうが、まあ実際はこうだ。
数じゃねえ、こいつに何かあったら親身になってやろうと思えるだけの相手を作れるかどうかって話だった。
和久井譲介という男は、本当にツイてる。
「あいつは、おめぇがいりゃ大丈夫だな。」と言って笑うと、一也は毒気を抜かれたような顔になった。
「あいつが女とふらふら噂になってるのは、おめぇみたいな友だちが身近にいることに自分で気付いてねぇからだろうよ。ここらがいい機会だ。うちに出禁になってる間に、せいぜいアイツと遊んでやってくれ。」
「譲介は別に、」と一也が言うのに、唇の先に指を立ててから、残りのコーヒーを飲み干す。
こんな場所で名前を出すな、のジェスチャーは伝わったようで、一也は残ったレモンスカッシュを、音を立ててずず、と啜った。
パチパチと弾ける泡を見ていると、五十も近い年だと言うのに、同じのを、と頼みたくなる。
「あの、TETSUさんは、譲介のことをどう思ってるんですか。」と聞いてくる。
「どうって、……まあ心配してるほど腹は立ててねえから安心しろ。あ、これは譲介には言うなよ。」
一也は、はあ、と大きくため息を吐いた。その長さは、吐いた息で富士山の上の雲が晴れるかというほどで、とても安堵のため息には思えない。
考え過ぎると禿げるぞ、と言うと「TETSUさん、やっぱりここ奢ってください。」と一也は唇を尖らせた。
「おめぇら、そういうとこ似てるなあ。」とからかうと、一瞬で、心外だ、という顔になった一也は「払います。」と言った。
「まあそう言うなって。」と言いながら、勘定書きを取り上げる。店に、新しい客が入って来て、目が合った。
こちらで相手に見覚えはねぇが、あっちは明らかに、こっちを知ってるって顔だ。
こういう時は、さっさと退散するに限る。
「おい、一也。オレはこの先の紀伊国屋でぶらついてっから、仕事がねえなら来ていいぞ、と出禁野郎に言っとけ。」と耳打ちする。
「……TETSUさんって、あいつに甘くないですか?」
椅子に腰かけた一也がこちらを見上げる。今更気づいたか。
「お前さんもな。」と言って黒髪の貴公子の肩を叩き、尻ポケットから、いよいよ薄くなった財布を取り出す。札入れを広げると、千円札が数枚入ってるきりだ。
本屋でハードカバーでも買ったら、月末まで素寒貧だな、こりゃ。

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