パスワード



シャワーを浴びたばかりの髪からは、タオルドライでは拭いきれなかった雫がぽたりと肩のタオルへ落ちる。
いつものログイン画面を前にした譲介は、パスワードが見えるように打ったのだから今度こそ大丈夫だ、と思う。
三度目の正直、とパソコンのエンターキーを叩き、さァ面倒な仕事の再開だ、と胸を撫でおろす。
けれど、次に現れたのはさっきと同じパソコンのロック画面で、表示された警告はこれまでに二度試した場合よりも悪かった。
次に間違えたらロックが掛かる、という文章と、観念してシステム管理者に連絡しろという英文が画面の下に映るのを見た譲介は、「…………なんでだ!?」と叫んだ。
気分転換のためのシャワーだったのに、一体どうしてこんなことに。
ピュウと口笛の音が静かな室内に響いた。
口笛の主を見つめ、譲介はジト目でそちらを見る。


和久井譲介、三十九歳。
働き盛りである。
特段のワーカホリックというわけでもないのに、どうして楽しい我が家で仕事なんかに勤しむ必要があるのか。
若かりし頃の自分に聞かれたら、甘えすぎだ、と鼻で笑われてしまうようなことを考えながら、それでも週末が締め切りの仕事をひとつ片付けてしまおうとしていたのだ。文章はもう少しで書き終わりそうになっていたけれど、休憩を入れようとシャワーを浴びに行ったのが不味かった。
多少はすっきりした頭で、なんとしてもあと三十分で切りがいいところまで終わらせる、と意気込みながらバスルームから出て来ると、こちらの休憩の気配に気づいて、ベッドルームから出て来たらしいパートナーがソファを占拠しており、代わりに、持ち帰り仕事をしていたノートパソコンの画面が真っ黒になっていたというわけだ。
常々、こうした持ち帰り仕事を快く思ってはいないパートナーの前でパニックになっていると悟られるのは不味い。
落ち着け。
とにかく、何の前触れもなく停電したとしたら、我が家のリビングの電源の全てが落ちて真っ暗になっているはずだ、と理性は囁く。
譲介は表向きの平静さを取り繕いながら、端末の電源をまず確認した。だが、その予想に反して、端末の電源コードのコード部分はコンセントに、接続部はちゃんと本体に入っている。
この唐突な黒い画面がスリープ画面でありますように、と願いながらマウスをクリックしても、どうにも動かない。
とりあえず再度電源を入れてみると、いつものようにパスワードの画面にたどり着いたはいいが、結果はこの体たらくだ。
譲介は間違っていなかった。
それなら、間違っているのは設定されたパスワードの方だ、という結論が自動的に導き出されるが、何か手を加えた人間がいない限りはそんなことにはならないだろう。クエイドのサーバが外部から攻撃された、という可能性は……。
そう考えた瞬間。
「おい、譲介。そのラップトップに何かあったのか?」
パートナーの口から発せられたその言葉は、あまりにもタイミングが良すぎた。
考えたくはないけれど、妙にわざとらしくもある。
視線を声の聞こえる方向に向けると、ムーディーな間接照明が、リビングのソファで寝転がっている人の姿をなまめかしく照らしていた。
思わせぶりな笑みと視線。
彼の関心の全てが、こちらに向けられているのを感じる。
男を惑わす瞳の色は、緑だ、青だと人は言うが、この人の双眸ほど、譲介の心を絡めとる色は他にはない。
とはいえ、照明がいらない休日の朝なら、テレビをつけっぱなしにして駅のベンチに座っているおっさんよろしく悠々とソファに腰を下ろしてタブレットで読むなりしているし、この時間なら、目が悪くなると言って譲介が座っている隣にわざわざ椅子を引っ張って来て本を読み、飽きてきたらこちらにくっついてくる人だ。(いつもの夜なら、譲介もその状況を歓迎しないではないので、二階に作った新しいふたりの書斎は、ほとんど使われないままだ。)
そもそも普段の休日に、譲介が慣れない棚の据え付けなどのDIYに困っているときは、全然こんな感じではない。真夏でもとりあえず着るものを着て、道具を手に隣にやってくる。
オンオフの別はきっちりと分けているとは言え、この人が何もせず、こんな風に無為にソファでだらけていることはほとんどないのだ。
「仕事に飽きたんならそう言え、ベッドで可愛がってやる。」
涼しい顔でそう言われるに至っては、もはや確信犯である。
こうしてパソコンの前に座ったまま、何かしたんですか、と直截に尋ねたところで、返事が返って来るはずもない。彼の態度が頑なになるだけだろう。
譲介は、一旦仕事の手を離して、食卓兼在宅の仕事場から立ち上がり、愛しい人の足元に座り込んだ。
泣き落としが通用しないのは、これまでの経験則ですっかり分かってる。
だから、譲介に残された選択肢は『年上のダーリンに甘える』の一択しかない。
「パソコン、起動しなくなっちゃいました。」とため息を吐くと、「そういう日もあるだろ。」と言って、年上の人は、しねえのか、と言わんばかりに、丁度いいところにある譲介の襟足をつんつんと引っ張った。
どうして、こんなに可愛いんだろ、この人。
いつもは、本当にこちらがぐらっとするほど格好いい人なのに、差し迫った仕事がある、こういう日に限って、どこで覚えてきたのかこんな風に甘え返されてしまうので、年下の譲介は立つ瀬がない。
つい、ため息を吐く代わりにソファの腰掛に背中をもたれかけて、「徹郎さん、もしかして何かしました?」と言ってしまった。
絶対にこんな風に問い詰めないでいようと思っていたのに、まさにその台詞が口を吐いて出て来た。睡眠不足のせいで、判断力が低下しているんだな。
……じゃない!
そういう状況判断は後回しだ。
「新しいパスワードが知りたきゃ、オレを抱いて吐かせてみろよ。」

やっぱりか。
なまじっかパソコンのあれこれに詳しいパートナーがいると、日常生活では論文検索や素読の赤入れなんかで助けて貰える場面が多い反面、こういうことがある。猫を飼ってると、在宅ワークで膝に乗って来るので邪魔されて仕事にならない、と言う愚痴か惚気かわからないような話は巷で良く聞くが、猫は飼い主のパソコンのパスワードを勝手に変えたりはしない。
「それとも、このままベッドで寝るか?」
素直に寝ときゃ、明日までには直しておいてやってもいいぜ、などと言うけれど、絶対に素直に寝かせてはくれないのだ、こういう日の徹郎さんは。
譲介に主導権はほとんどない。手で高めるか、口で出させられて、それから上に乗ってくるこの人を、抱いて、抱いて、抱いて。
気が付いたら、夜が明けている。

「徹郎さん、そういう誘い方はズルいですよ。」
「ズルかねぇだろ。」
「あなたはそう思ってるかもしれませんが。」
どうせ、明日になったら、自分のしたことが恥ずかしくて先に出ていくんでしょ、あなた。
仕事前のきっちりと作ったヘアスタイルといつもの格好でこの人の姿を上書きしないことには、夜明けまで見つめていた夜の痴態が思い出されて、その日一日は全然仕事に身が入らないのだ。
譲介がそんな風になってしまうことを、この人が知っているのか知らないのかは分からない。
そもそも、出掛ける前のいつものキスをさせてくれずに逃げること自体が、全く許しがたい蛮行だと思っている。
……そう、思ってはいるけれど、譲介はそういうこの人が可愛いのだ。

パスワード、後でちゃんと教えてくださいよ、と言って、彼の手を取って、指先に口づける。
ディズニープリンスのような譲介のその仕草に、年上の人は、今夜のおめぇの頑張り次第だな、と言って、小さく笑った。

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