煎餅


この十円玉で電話を掛けようかと徹郎は思う。
重い雲が空を覆っていて、大きな雨粒がぱたぱたと降っている。
今朝は兄さんが傘を持って出ないから徹郎も一緒になって忘れてしまったのだ。買ったばかりのスニーカーもすっかり濡れてしまうというのに、うかつに玄関を出てしまったことが悔やまれる。柄のところに名前が書かれた黄色くて明るい傘は子どもっぽくて徹郎は好きではなかったけれど、今日はそんな風にも言ってはいられない。
お守り袋に入っている十円玉で電話を掛ければ、運が良ければ母さんが家にいて、傘を持って迎えに来てくれる。そうでなければ、このそぼ降る雨に濡れて帰ることになる。どうして今朝傘を持って来なかったのだろう、と徹郎は思う。頭の隅で、次男でちゃっかりで忘れっぽい徹郎が、兄さんを頼ればいいじゃないか、と言っている。うるさいなあ。
兄さんは同じ小学校に通ってはいるけれど、徹郎が教室に行って呼び出すのをひどく嫌がるのだ。
どうしようかと迷っているうちにも、雨は酷くなってくる。
秋は長雨の季節だ。毎日天気予報を見ていても、予報は外れてしまうことも多かった。昨日の夜の母さんは、西から天気が変わるから、広島や大阪が雨なら、もしかしたら明日は雨になるかもしれないわね、とニュースの後の天気予報を見ながら言っていた。そのことを、寝てしまうまでは覚えていたのに。
校内に戻って、もう少し図書室で時間をやりすごせば、そのうち雨が上がるかもしれない。
半年前に誰かが飲めない牛乳をぶちまけてしまった図書室は、いつも夏になると妙な匂いがしたけれど、徹郎は匂いの届かなくなる端の席にいることにしていた。この間、待合室にいた吉岡さんから教えて貰った源義経の本を読もうと思う。
いつもの席が埋まってないといいけれど、と思いながら上履きに履き直そうとしたとき、徹郎、と名前を呼ばれた。
「……兄さん。」
徹郎が顔を上げると、湿気が多くてまとまらないくせっ毛をいつものように跳ねさせた兄がそこにいた。
「傘を忘れたのか?」という兄の手には、大きな蝙蝠がある。
「その傘、誰かから借りたの?」
「先生に言えば貸してくれる。」
「そうなんだ。」
医者の家に長男として生まれたことを早くから自覚して、外では品行方正を絵に描いたような兄だった。
「僕も入っていい?」
「当たり前だ。そのために借りたんだから。」僕ひとりなら走って帰る、と凛々しい顔で兄さんは言う。
すれ違った女の子が、真田君かっこいい、と言いながら横を通り抜けていく。本当は雨に濡れるのも靴を濡らすのも嫌なくせに。こういうのを、外面がいいと言うのだ。
けれど、徹郎は、じゃあふたりで濡れて帰ろう、という気にもなれなかった。兄さんの歩幅は、幼い徹郎とは違いすぎて、この雨の中では、あっという間に背中も見えなくなってしまうのが落ちだった。
雨の中を必死で走って濡れねずみになるのは楽しいけど、それで明日風邪を引いたら父さんにまた怒られてしまう。
――兄さんの言うことを聞かないからだ。
父さんに言うように、兄さんの言うことを素直に聞いていれば頭が良くなるのだろうか。誰もいないところでは徹郎のおやつを横取りして、徹郎との約束をすっぽかして、徹郎のことを、時々でべそのみそっかすと笑う兄さんに、素直に従う気にはなれない。
それでも「一緒に帰るぞ。」と言いながら差し出された手を取るしかない。
薄暗い灰色の雲が覆う空の下。しとしとと降り続く雨の中を、傘を差して並んで歩いた。
「徹郎、手の中に何を握ってる?」
「別にい。」
「いつもの松野に寄って、フーセンガム買ってやろう。……それなら話すか?」
松野、というのは、小学校の近くのよろづやだった。徹郎も時々、習字の時間のために足りなくなった半紙や墨汁を買いにいくことがある。春夏秋と、そこで小さな菓子を買って、帰り路での腹を満たして帰る子どもは多いけれど、兄さんは、そういうことをするタイプではなかった。
「どうせ半分しかくれないくせに。」
「ふたつもあるならそれでいいだろ。」
「半分だと、すぐに味がなくなるからつまんないよ。」と徹郎が言うと、兄さんはお前は呑気でいいな、と言って笑った。
「人生って、ずっとそんなもんだ。」
自分だって子どものくせに、兄さんはすぐに大人のような口を利く。
徹郎はいつも、見下されているような気持になる。
「人生とフーセンガムって、何か関係ある?」
「……多分、ないな。それに、お前にひとつ、僕にひとつ買えるならその方が絶対に良い。」と兄さんは言った。
さっきと比べたら、少しだけ子どもの顔をしている。
話題を変えようとしているのか、「この雨はそのうち雪になるな。」と空を見上げて兄さんは言った。
その言い方は、天気予報を見ている時の母さんにそっくりな言い方で、似てるなあ、と思って徹郎はつい笑ってしまう。
まだ雪は降らないよ。兄さん。
そんな風に口にしようとした徹郎は、曇り空を見上げて怒ったような顔をしている隣の横顔を見て口をつぐむ。
いつも、突然に不機嫌になる兄の感情のその矛先が、自分に向かうことを徹郎は分かっている。
「ガムをわざわざ買わなくても、昨日母さんが戸棚に仕舞っていたおせんべいがある。」
徹郎の秘密はこうしてすぐに暴かれ、白日の下に晒されてしまう。
「そうか。」
いいことを聞いた、と頷く横顔に、胸がざわつく。
「一人で食べようとするなよ。」と徹郎が念を押すと、兄さんは「さあ、どうしようか。」と言って、口元に意地悪い笑みを浮かべた。

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