dozen rose
受付に座っていたのは、金髪を肩まで伸ばしたボブカットの女性だった。
「アーサー・デントさん、貴方の就労ビザの申請には切手が必要です。お金はお持ちですか?」
そんな風にいきなり言われて、返す返事が出てこなかった。
朝から待たされていたのに、訪ねる最初の窓口を間違えたせいで、その日の順番待ちの尻尾の方に回され、いよいよ自分の番が回ってきたと勇んだアーサーは、時計を見て青くなった。
「ない、です。家に取りに戻る時間があれば」出鼻を挫かれて落胆していた時間が惜しかった。
「本日の申請時間ですが、後、20分でご自宅に行って戻って来ることは可能ですか?」
一瞬で、ディスポーザーの中に投げ込まれた生ゴミになった気分だった。
どれだけ思いつめた顔をしていたのだろう、担当の職員はにっこり笑ってアーサーにアドバイスをした。それも、アーサーを落ち着かせる役には立たなかった。
「ああ、それは………」
背中に冷や汗が流れてくる。
アーサーの運転するぽんこつカブト虫が、もし160マイルを出せれば、それは往復不可能な距離じゃない。
ただし、頑丈だけど、レーシングカーとは違っている愛車が、そんな猛スピードで走れるはずもなかった。
「一回ご帰国してまたビザを申請したらいかがです?」
「無理です!週末には仕事が入ってるんだ。」
すっぽかしでもしたら、僕は職を失ってしまう。
大きな声を出したせいで周りの職員達からの何事かという視線を感じて、アーサーは口を閉じて、深呼吸した。
一度目を閉じて、五つ数えて、給料日前の財布をさかさに振っても、出ないものは出ない。
この世に魔法はなかったってことが分かるだけだ。
おまけに、知恵も出てこなかった。
今朝、朝食用にロールパンを齧ったきりだったことが悔やまれる。
せめて、バターとマーマイトを塗っていれば、なんて思う。
アーサーは、もう一度だけと、ざら紙で出来た、この役所が出来た当時からあるみたいな茶色の書類に目を通した。
ビザの種類、発行条件。
上から、順ぐりに。
その紙の下から二番目の行に記された文字に、アーサーの心はどきりと高鳴り。
――お前はエールを飲みすぎる。
出会った日のことを覚えてないし、頭の中で太鼓だけで出来たオーケストラの演奏が始まってしまう、とアーサーが言ったときの彼の台詞だった。
こちらを覗きこんで、アーサーがとりわけ苦手な、皮肉な笑みを浮かべる男の顔と、その生まれのことを思い出した。
仕事は他所でしているけど、街で生まれて、骨を埋めるつもりだということも。
アーサーの頭に、一つのアイデアが閃いた。
今の時点では検討する時間はないけれど、その思い付きは、検討すればするほどに、どつぼに嵌ることは明白だった。酔っぱらって、脱ぎ始めたかどうかしたのだろう、カーンはパブの個室にアーサーを連れ込んで初めてセックスにもちこんだ日のことはよく覚えてはいないし、身体だけのつきあいと言われてしまったら立ち直れない気がする。けど、それならそれで、強制送還される方が気楽になる。
よほど不安げな面持ちでいたのだろう、顔を上げると、役所の女性は、アーサーの顔を、心配そうに眺めていた。
「デントさん、どうします?」
「あの、一本電話を掛けてきます。このビザの書類って、相手はサインだけで大丈夫ですか?」
―――
寒い、寒い、寒い!
役所の中の古風な趣のあるセントラルヒーティングでも、ないよりはましだった、とアーサーは外に出て思った。
前日の雪のせいだ。
急ぎすぎて、充電していた携帯電話を忘れてきたのが悔やまれる。
アーサーは手を震わせながら、冷え切った役所の廊下にある公衆電話の前に立った。
外は晴れて暖かい日和に見えるのに。
薄暗い照明の中で、これから電話する相手を納得させられる言葉を頭の中で組み立ててから、電話の中にコインを入れ、覚えている電話番号をダイヤルする。
相手から、仕事用の携帯電話を教えて貰ったことはなかった。
仕事でも利用せず、普段は国際電話になってしまうというのが男の主張だった。繋がらなければ、強制送還だな、とアーサーは改めて思った。そうなったらひどく寂しいことだろう。
通じてくれ、と願いながら、固定電話に連絡した。
数秒後。
「カーンだ」
通話口に出たのは、アーサーが覚えている本人の声だったので、アーサーはほっとして、頭の中の口実を忘れてしまった。
「アーサーか?」
「あ、うん。」
よく分かったな、と思い、身寄りがないと言っていたことを思い出した。電話を掛けてきそうな相手は、職場かアーサーしかいないのかもしれない。
「君、前に、僕に、生まれはこの街、って言ったよね。国籍も?」
「そうだが、なんだ、藪から棒に」
話している間にも、ことん、と電話ボックスの中で最初のコインが中に落ち込んだ音が聞こえた。
時間がない、ついでに、コインもないと焦ったアーサーは「カーン、僕と婚約して!」と口にしてしまった。
「昼から、酔っているのか?」哀れむような言葉遣いだった。
「酔ってない。真面目に言ってる。これからの生活が掛ってるんだ」
「詳しく話せ」
「カーン、悪いけど時間がない。移民局に来てくれないか。」
「ビザか。」
カーンが、勘がよく飲み込みが早いことは織り込み済みだった。
イエスと言うべき時間を、アーサーはもう一度、すうと息を吸い込む時間に当てた。
「何も言わずに婚約して。君が今、オーケーって言ってくれなかったら、僕はイギリスに戻らなきゃならなくなる。」
「嘘の片棒を担げと?」イエスでも、ノーでもなかった。
けれど、どちらかというとノーに天秤が傾いているような、カーンの低い声がアーサーの耳に届いた。
「それは、うん、窮余の策って言って欲しいところだけど。」
沈黙。
「20分だけ、君の時間を僕にくれないか。10分でここに来て、書類にサインして、君の日常に戻ってくれたらいい。それだけだ。」
「10分?」
「役所が閉まるまでに手続きを。」
次に逢った時に奢るから、イエスと言ってくれ、とアーサーは受話器をぎゅっと握り締めた。
「待ち合わせはどうする?」
正気か、でも、それで済むと思っているのか、でもなく。
アーサーは、心得た様子の簡潔なカーンの言葉に、なぜか、カーンが泊まったあとの家の、少し片付いた様子を思い出した。
「移民局の場所、わかる?あの桜並木のある、大きな道路沿い。駐車場は隣。僕は正面のエントランスで待ってる」
「書類にサインだけでいいのか?」
「いや、あの、君が、もし、僕のことを、僕と同じように好きだと仮定しての話だけど、…」
そこまで言ったところで、コインが切れた。ツー、ツー、ツー、と不通になった音が鳴り響くと、アーサーの頭に正気が戻ってきた。
今まで黙ってた手の内を明かしてしまった。いや、最後までは言ってないけど、こんな風に間抜けに言うつもりじゃなかった。
カーンは、どんなつもりかと呆れてしまっただろう。
ビザの取得のついでにプロポーズなんて、アーサーだって自分に呆れている。
もとを思い返せば、今日のこの日以外の日程だって、カーンに華々しくプロポーズする予定だってなかったのだ、上手く出来なくても仕方ない。
アーサーは、カーンにこの街で拾われた猫みたいなものだ。
出稼ぎでこの国のラジオ局にきたばかりの頃、雨が降らないことが憂鬱というおかしなホームシックに陥っていた。
そのホームシックの寂しさを酔いで押し流そうとしてたアーサーを一番に拾いあげたのがカーンだった。
手の中で、くしゃりと握り締めたチラシを拡げる。
下から二行目に書かれた文字「婚約ビザ」。
その字面を見るだけで、名状しがたい恥ずかしさがあったけれど、蛍光マーカーでラインを引かれた箇所を見て、アーサーは電話に突っ伏した。
”ビザの切れる一日前までの手続きをお願いいたします。”
就労ビザは、3日前。単純な計算を入れて、あと2日の猶予が、アーサーにはあったはずだった。
あー…いや、カーンがいつまでこっちにいるか分からなかったから、これでよかったのかな…。
どう言い訳したところで、口に戻らない言葉と寒さに頭ががんがん痛くなって、手袋をしてない指が冷たくなる。
「デンワ、アイテ、マスカ?」
背中を指で突いたアジア系の女性が、アーサーを現実に引き戻した。
待っている間に、紅茶を飲もうと思い、財布を広げたけれど、使えそうなコインは残っていなかった。
どの道、今日の役所はあと20分で窓口を閉めてしまう。
戻って、新しい申請書類を埋めてから、エントランスでカーンを待つ必要があった。
オーケーって言ってくれ、って、イギリスに戻らずにここで一緒に居たい、なんて、酒の勢いでもなきゃ、言えない台詞だ。
けれど、恥ずかしいからってイギリスに退散する選択肢は、もうアーサーの中にはなかったし、どうしたって彼の顔を見るまでは我慢しなきゃならない。
いずれ強制送還されるにせよ、それはカーンともう一回抱き合ってからの方が未練がなくていいかな、なんてことを思う。
悲観的だ。
本当は、紅茶より、甘ったるいカクテルが飲みたかった。
―――
電話が突然に切れたとき、カーンはようやっと呆けたように開けていた機能不全の口を閉じ、出かける準備を始めた。
部屋の隅にある身軽なブリーフケースから財布とカード、旅券を取り出して、コートを羽織った。
窓のない部屋から飛び出すと、外は明るかった。
カーンは、身寄りがない。
短く子供時代とその上を行く学業を終えて得た仕事は、危険がつきまとう海底油田での働き口だった。
初めての家族とも言える部下を持ってからの日々はめまぐるしく。一日を仕事に捧げて、自由な時間を持たず、深夜に現場に出ることもしばしばだった。
仕事に慣れた部下からは、もっと自分の時間を持つよう言われることがあるが、そうした欲求はカーンの中では薄かった。
人生に限りがあるならば、選択肢の中から、安息のために家庭を持つことをわざと除外していた。
両親の死を経てからの人生行路で学んだのは、酷い出来事は二度以上、それも続けて起こるものだということだ。
ただ生きていくために何をすればいいか考える。自分を駆り立てるのは、まさにその動機だった。
車のエンジンを掛け、少し暖気をする。
毎日、人と話さない仕事をしていると、言葉が出なくなってしまうようだ、と誰に言い訳するでもなくカーンは考えた。
帰国するたびに、パブへ行って酒を飲んではいたが、それだってただ食事のついでだった。
食事を出すレストランに行き着くまでに、持ち帰った仕事が終わらないことがあるからだ。
めりはりのない生活で、出掛けた先のパブも、込み合う午前零時を前に出て行くことがしばしばだった。
その時間を過ぎた酒場は、性欲を解消するために暗がりに消えていく男女が集う出会いを提供する場になってしまう。
人生は短い、性行為でストレスを解消する前の手順と言うのが、カーンには煩わしいことこの上なかった。
その晩、入国したばかりだったアーサーと知り合ったのも、カーンが出入りしている、かなり早めの時間帯のことだった。
「もっと込み合った賑やかな場所を想像してたんだけど、こんなに閑散としてるのは平日だから?」
アーサーは、カーンに向かって、ナンパ目当てであることを隠そうともせずにあけっぴろげに話しかけてきた。
カーンは、酔っ払いに絡まれたことはほとんどない。
酔っ払いが出来上がるような時間には入場規制を掛けるこのパブで、外で並ぶような時間帯にここを訪れたことは、ただの一度もなかったからだ。
くるりとした赤毛をした男は、流し込むようにビールを二杯飲んで、あっという間にカーンに肩を預けてきた。
メニューの金額と財布の中身を照らし合わせて、もう女の子に奢るお金がないなんて計算外だ、と言った赤い顔。
アルコールが特殊な作用を起こしたものか、胸の大きい子が好きだといっていたアーサーの性的な志向は承知のうえで「それなら奢られてみるか」と言った。
アーサーはイエスかノーかの答えを告げるより先に「ここに来る前に紅茶を飲みすぎたみたいだ」と言って立ち上がってふらふらとトイレに入っていった。
君はどうする、と背中に問われたような気がした。
猫のような暖かな身体で暖を取らせてもらうくらいの気持ちになったカーンは、チップ込みの勘定をテーブルに置いて、アーサーを追いかけた。
トイレの薄暗い明かりの中で視線を交わして、その一分後にはアーサーと個室に籠もって互いに下半身を擦り付け合っていた。
どう説明すればいいのかわからないけれど、カーンとアーサーはそういう関係になってしまった。
二杯引っ掛けて、トイレに籠もって。その時々の気分で(つまりは、個室の清掃の度合いで)キスをしたり。背後からアーサーの脚の間にカーンのものを挟んでことに及ぶこともあった。
余禄のように、腹から直接肌に触れようとすると、アーサーは拒まなかった。
アーサーの胸は存外に柔らかで、触りでがあって、爪で乳首を引っかくと感じたような甘い声を出した。
開店時間ぴったりに到着するカーンに遅れること少し、着古したTシャツでよろよろとパブにやってくるアーサーと言葉を交わすのが、いつしかカーンのパブ通いの動機付けになった。
カーンはアーサーの身体を、足元に蟠ったズボンや、上半身を覆う全てを脱いだところを夢想するようになる前に、アーサーを部屋へ誘い、身体を重ねるようになった。
アーサーは、カーンの窓のない部屋では、パブの延長みたいで落ち着かない、と次の機会を捉えて自分の家に誘い、カーンを朝までベッドの上の、皺くちゃのシーツに留めることに成功した。
昼に、電話を使って呼び出されたことは初めてだった。
―――
「アーサー」
何時来るのかと待つ時間は長すぎて、エントランスの椅子に浮浪者よろしく寝そべっていたところに名前を呼ばれ、顔を上げると目の前に薔薇があった。
色の違う十二本の薔薇を、銃みたいに鼻先に突きつけられる。
「ダズンローズ?」
「時間がないのでは」
「カーン、でも」
演技にここまでする必要はない、と言いかけて、その説明の時間もなかったのかとアーサーは気付いた。
「あのさ、婚約ビザの場合は」
「長い説明は、食事の時間までに聞いてやる。まずは、書類だ。」
窓口に連れて行けと命令されて、アーサーは従うしかなかった。
金髪の女性は、アーサーを待っていたけれど、連れてきた人間が、(というか、アーサーが連れられるように引っ張られて戻ってきたのを見て、というのが正しい状況説明だったけれど)男だったのを見て、目を丸くしていた。
「プロポーズ、間に合ったんですね」
カーンが、アーサーが記入欄を埋めてしまった書類にさらさらペンを走らせている横で、受付嬢は、婚約おめでとうございます、とアーサーに晴れやかな笑みを向けてきた。
「ええ、まあ。」
「私も、この窓口に長いですけど、これまで同性を連れていらした方は初めてです。」
今日見た中で一番開けっぴろげに明るい笑みだったので、アーサーは少しだけ今日の選択を嬉しく思い、同じくらい後悔した。
「あの、じゃあ、これどうですか、記念に」
カーンに手渡しされた薔薇の花束を押し付けようとすると、気配を察した婚約者は「書類を破り捨てるぞ」と脅しを掛けてきた。
受付嬢は、「というわけで、あなたの人生を左右するお花はいただけません。」それに、すごく高いんですよ、と両手を挙げた。
アーサーだって、このプロポーズの定番の薔薇の花束の値段くらいは知っていた。
平たく言えば、ビザ更新の切手の値段と変わらないくらい値が張るものだ。
仕方がないので、薔薇を見つめた。
顔を近づけるといい匂いが漂ってくる。
あらゆる可能性の中で、神様から一番困難な選択肢を押し付けられたような気分になって、アーサーはため息をついた。
「アーサー」
カーンが戻した書類は、後はアーサーの署名をするだけになっていた。
カーンの現住所が、アーサーの家になっている。
「君、いつ僕のうちに引越ししたの?」
「今週中には。今夜は、お前のうちに泊まって構わないだろう?」
いつものようにオーケーと言え、とカーンがそう言って迫るのを聞くなり「込み合ったお話なら書類が出来たら呼んでください、できたら三分以内で」と時計を置いて受付嬢は席を外してしまった。
「あのさ、僕ら、今日もパブには行くんだよね?出来たら僕は、カーンの部屋の方が」
30分前には、カーンに抱かれるまではイギリスに戻りたくない、って思ってたのに、余裕が戻ると勢い、いつもの片付いていないベッドのことを思い出してアーサーは焦った。
「レストランを予約した。」
「レストラン?」
「書類にサインだけでいいのかという問いに答えて貰っていないからな。」
「それは、あの、僕がこれにサインをする、っていうのじゃ駄目なのか?」
プロポーズへの、変則的なイエスの返事を貰ったアーサーは、もぐもぐと口の中で「言われなくても、サインはするけどね」と署名をし、カーンはアーサーに聞こえるようにはっきりと、「No」と言った。
受付嬢に赤らんだ頬で書類を渡したアーサーは「ビザが発行されるまで待ってくれたら嬉しいけど」とカーンに言った。
「人には30分で返事を急かしておいて」
「だから………それはごめんって」
計画じゃ、僕の方が君に同じようなことを迫るつもりだったんだ。
薔薇は、顔を隠すのに便利だな、と思ったアーサーの額に、カーンはキスをして「今晩、ベッドの中で返事を聞かせろ」と言った。
カーンとベッドにいて、よそごとなんて考えてられないんじゃないかな、と思いながら、アーサーはこくりと頷いた。
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