愛しきあの子の想定外
付き合って、三年になる。
「ゾロ屋、今日は駄目なんだろ?家まで送ろうか」
「いらね」
「……酒入って」
「おれが酔っ払ってるように見えるか?だとしても女子供じゃねぇんだ。送る必要はねぇよ」
じゃ、なんて言って駅であっさりと背中を向けるゾロ屋に、おれは何度奥歯を噛み締めて拳を握っただろうか。
ゾロ屋は決しておれを自宅へと近づけようとはしなかった。付き合って三年となるがその間一度たりとも招かれた事すら無いほどだ。なんならおれはゾロ屋がどこに住んでいるのかという正確な場所すら知らない。家に近付けさせないゾロ屋の行動は徹底していて、おれが行きたそうな気配を少しでも表そうものならその場でデートは終了、即解散。という程だ。さすがに酷いだろう。あんまりだろう。ぼやき、愚痴を零し、不満を口にしたことだってあるが、その度にゾロ屋は我儘な子供を宥めるようにおれへと微笑みかけて「お前の家が良い」なんて言うのだ。はにかむ様な表情についうっかり絆されてきてしまったおれも大概といえば大概ではあるが、裏を返せばゾロ屋はそんな表情をすればおれが引き下がるとわかっている、つまり計算された行動であるという事だ。
質実剛健、男の中の男。騙しや隠し事、そんな事は苦手であるだろうに、ことゾロ屋の家に関して言えば遊び慣れた女の様におれがゾロ屋に心底惚れ込んでいる事を利用するかの如く、可愛らしい表情を浮かべて躱そうとしてくる。なんてやつ。たまにその顔を鷲掴んで巫山戯るなと言いたくなる。実際はコロッと転がって「うん!」と頷いてる訳だが。我ながらアホ野郎だ。だがお互いに滅多に会えないということもあり、会って肌を合わせる事だって翌日の事を考えると中々できない事でもあるから、言い争う時間すら勿体ない。アホみたいに頷いたって仕方ないだろう。
今日だってそうだ。デートをして少し酒を飲んで、わざと帰りが遅くなる様な時間にして、明日は早いから、なんて理由でホテルもおれの家も無理な状況。ならばせめてと、ゾロ屋を家に送る事も不自然では無い状態に仕上げたと言うのにあっさりと背を向けてしまった。
確かにゾロ屋は酒豪だ。ザルというかワク。殆ど酔わない程に酒は強いし、女子供では無い立派な成人男性、しかも剣道を嗜み、その腕前は全国クラスで、更には警察官と来ている。送る必要などないと言われてしまえばそうだなと納得するしかない要素ばかりの恋人だ。だけれども、それをわかっていながらでもおれは何かと理由を付けては送ろうとして、見事に惨敗し続けている。
ここまで来るともう呼びたくない理由が、それも明確な理由があるとしか思えない。そう思ってしまうのも当然だろう。ボヤいた時は「人様呼べるような綺麗な部屋してないから」なんて言われたが、そんなもん今更気にする仲でもない。わかっているはずだ、ゾロ屋だって。でも「汚ぇから」とか「狭いから」とか、なんなら「遠いから」とかまで言う。遠いって、いくら遠くても県外ってわけじゃねぇだろうに。
今日は背中を向けて帰ったゾロ屋だが、酷い時はタクシー拾ってそうそうにひとり帰る時もあるくらいだ。あまりにも勝手な行動にはさすがに怒ったが、それでもおれはそんな扱いをされようとも別れられない程に心底ゾロ屋に傾倒してしまっている。だからこそ余計にゾロ屋の家に一度は行ってみたいし、呼ばれない理由を知りたかった。
あまり、あまり考えたくもないし、万が一もありゃしない事だが、もしだ、もし、ゾロ屋が、家に呼ばない理由が、おれとの付き合いにあるとしたら。
実は本命が居てそいつと暮らしているだとか、だと、したら。
「……有り得ねぇだろ。三年だぞ……」
家に帰り一人の空間の中でポツリと呟いた言葉が虚しく溶けて消える。
三年だ。三年も付き合ってきて今更浮気なんて考えるなんて馬鹿らしい。特にゾロ屋は、実直な男だ。一度に二人の人間と付き合うなんて器用な真似が出来るとも思えないし、そんな不誠実、そもそもあの男はしない。と、思っている。信じている。それでも。
頑なにおれを家へと近づけないその理由がおれは知りたかった。ただの杞憂であると、おれに分からせて欲しかった。
きっとおれはそう、焦ってしまっていたのかもしれない。考えれば考える程に深みにハマって、抜け出せなくて、ずっと考え続けていたせいだろう。
クルリと背を向けて帰ってしまったゾロ屋を見送ることだけしか出来なかったデートの日から数日後。再びなんとか約束を取り付けてデートをした。適当に外をぶらついて、夕食を共にするようないつものデートだ。道端で見かけたものを指さしてあれそれと話し合ったり、会わなかった日々の事をお互いに語り合ったりと、恙無く過ごして、夕食を取るために入った店でも言葉は尽きずに目を合わせあって話し込む。
ゾロ屋がおれを見て、ゾロ屋の声を聞いて、傍に居るなと思って、それで満足出来るはずなのに、出来なかったんだ。
「……終電、逃した」
それは、わざとだ。
酒豪のゾロ屋は一件の店で飲み足りるはずが無いことはいつもの事で、だから二件目はバーへと向かってそこでゆっくりと、酒を味わいながら過ごした。時々時間を確認しつつ、まだだ、まだだと抑えて過ごして、腕に着けた時計の短い針が天辺を指す頃にようやくそう切り出した。
きょとりと、一瞬だけ目をまん丸にしたゾロ屋はその後すぐにニタリとした笑みへと変えて口をおれの耳元へと近づける。
「生娘みてぇな誘い方だな、いつもみたいに強引にホテルへ連れていきゃいいだろ?」
艶掛かった声はおれの首筋を撫でるには十分で、背中を震えさせる。恋人同士、デートすりゃやる事やるのは当然の流れで、翌日の予定によってはしない時もあるが殆どは、そう、ホテルとか、おれの家へと向かう。でも今回はそれでは駄目だった。
「……お前の家が良い、連れてけ」
「またそれか、嫌だって言ってんだろ」
ゾロ屋の顔を見て殆ど懇願するように言ったのに、ゾロ屋と言えば呆れたようにして顔を引いて酒の残っていたグラスへと口をつける。
「なんでだよ」
「散らかってるし、狭い」
「気にしねぇよ」
「おれがするんだよ。お前には格好付けてぇんだ」
なんてらしくない言葉だろう。見栄えなんて気にしない男だろうに。最低限の身なりを整えるだけで満足してしまうような男が、家は散らかってます、あなたには見せたくありません。なんて通じるはずがない。
「格好良くないお前も見たい」
「嫌だ」
「一緒になったらどうせ見るんだから、今からでも別にいいだろ」
「……いっ、しょ……?」
口に出した言葉は咄嗟のようなものではあった。だが心の底では思っていた事でもある。なんせ、三年だ。そろそろとか、思ってもおかしくない、むしろ遅いくらいだろう。おれとしては当然の考えでもあってポロリと何気なく零した言葉を、しかしゾロ屋は異世界の言葉でも聞いたかのように不思議そうな顔をして、それから、不味いものを飲んだように口を閉ざした。
その顔がおれを傷付けた事におそらく気づいていない。それ程に自然に変わった不都合である事をあからさまに示す表情に、おれの我慢もとうとう耐えられないものとなってしまったようだ。
「てめぇっ、ンだその反応は……!」
傷付いた悲しみを飲み込んだ怒りの感情におれは素直に従い、手でカウンターを叩く。本能的な、攻撃反応だ。バーテンダーが一瞬おれ達をちらりと見たらしいが、そんなもの気にしちゃいられない。
「落ち着けトラ男!違ぇって!」
「何が違うってんだ?!」
怒りだけではないだろう、アルコールのせいでもあるかもしれない。頭の奥がジンジンと痺れて声量をコントロール出来ていないのにも自覚している。自覚しているが、抑えられない。
慌てた様子でゾロ屋が周りを見渡して、カウンターを叩いたおれの手に自分の手を重ねる。身を屈めておれを上目遣いで見上げてくる姿は、薄暗いバーでもよく見えた。それは甘えたり、おれをなだめたりする時に良くする表情のひとつで、つまりはおれがこいつに甘くなってしまう顔。そしてゾロ屋はそれを自覚している事もおれは知っている。今この瞬間、そんな技を繰り出してくるゾロ屋には怒りを通り越して笑いすら溢れそうだ。そうやっておれを、誤魔化す気なのだろう。
「トラ男、な?おちつ」
「うるせぇよ!ふざけやがって……!おれは!」
「一旦外に出ようぜ?な?頼む」
ギュッと、手が握られる。それを振り払って息を落ち着かせた。口から吸い込んだ息を、ゆっくりと鼻から抜いて、会計を済ませるために鞄へと手を伸ばす。ゾロ屋も財布を取り出そうとしていたのを無視してさっさとカードで会計を済ませ、ゾロ屋の望むがまま外へと出てやった。
もう深夜と言っていいような時間であっても、賑わう繁華街は人が多く行き来している。若い男女の笑い声や、酔っ払ったサラリーマンが通り過ぎていくのを後目にしつつ、早々に後ろから追いかけて来たゾロ屋の腕を掴む。
「ゾロ屋が、一切何も考えてねぇってことはわかった」
「考えてねぇ事はねぇよ。本当だ。ただ今その話されるとは思っちゃいなかったし、何よりお前今シラフじゃねぇ、話をするべきタイミングじゃねぇんだよ。落ち着いて、また別の日にちゃんと話す方がいい」
「ならば今からお前の家に行こう」
向かう途中で酔いも冷める、家ならゆっくり話もできる。そうだろう。言いながら、でもどうせこいつは頷かないと思っていた。
そして案の定と言うやつだ。構わねぇだろう、と首を傾げて、もしかしたら嘲笑うような笑みすら浮かんでいたかもしれないおれを見て、ゾロ屋はやはり不味いものを飲んだかのようにグッと息を詰まらせて、そしておれの顔から目を逸らした。掴まれている自分自身の腕を見るゾロ屋は、繁華街のネオンに照らされ、気まずそうに、不都合を表す表情を浮き彫りにさせていた。
険悪な空気の中でも、ゾロ屋はそんな顔を浮かべるのだ。頭の中でグツグツと煮えたぎっていたマグマがドロドロと心臓までも熱く溶かしていくような苦しい気持ちが沸き起こる。痛みと苦しみと、どうしてという解決しない問題が口を勝手に開かせた。
「嫌なんだな、そんなにも。随分とご立派な理由でもありそうだ」
「い、や……いや、そういう……ああ、いやしかし……だな……」
「なんだ、おれが行くと不都合か?ん?誰か、家で待っている家族でも居るのか。一人暮らしと聞いていたがな」
明白に、疑いをかけるような言葉はゾロ屋の顔を持ち上がらせるには十分だった。
「なんだと?」
「そう思っても仕方ねぇんだよ、テメェのその反応は。一緒になるっての考えてたってのも、嘘だろ」
そう言った瞬間だった。掴んでいた腕が振り払われる。握りしめると言うよりも逃がさぬよう捉えているという方が正しいほどに力を込めていたつもりであったが、現役の警察官で剣道を嗜み、体を鍛え続けているゾロ屋の腕力はいとも容易くおれの拘束から抜け出して、そればかりか掴まれていたその腕を伸ばし、おれの胸ぐらを掴みあげてきた。
それこそ力任せというように、グッと引き寄せられた顔。勢いが着きすぎて額がぶつかりそうになるが、辛うじて痛みが襲うことは無い距離で留まる。
ネオンに照らされていた顔が近い。怒りを顕にした顔だ。男二人が険悪な空気になり今にも殴り合いが始まりそうともなれば、いくら酒精に塗れた繁華街だろうと警戒と不安を呼び起こすには十分だったらしい。賑やかなざわめきは困惑の色を乗せ、また無責任な興味の眼差しが向けられる。
「嘘、だと……おれが、お前に……?」
「ああ」
「ふざけっ……んな大事な事で嘘なんかつくわけねぇだろ!」
「どうだかな。おれは、お前が分からねぇよ」
胸ぐらを掴む手を振り払って、おれは初めて自分からゾロ屋へと背を向けた。
「帰る」
「は?!おい待てよトラ男!」
一歩二歩、踏み出す。ゾロ屋の声なんて聞きたくもなかった。
「トラ男っ!おいっ……ロー!」
久しく聞いていなかったその呼び名でさえ、おれの歩みを止める事は出来なかった。
「酷い顔してますねぇ、最近」
「ああ?」
「ちょっと、その顔患者さんに向けないでくださいよ。おれもしかしてもう……?!とか、思い込ませかねないんで」
あの夜、おれは初めてゾロ屋に背を向けて帰り、そして今初めておれはゾロ屋からの連絡を一切無視し続けている。既にひと月近くは経ってしまっているだろうか。我ながらに子供のような態度だと呆れてしまってはいるのだけれども、どうにも、連絡を返そうという気にはならない。
メッセージが届けば既読は付ける。そして付けるだけではなく目も通しているのだ。言い訳がましいかもしれないが完璧な無視はしていない。
会えないか、とか。この前はおれも悪かったとか。アイツらしく実直に謝ろうとしている。着信も何度かあった。会いたいと、心做しか途方に暮れたような声で呟かれた留守電も残っている。それにすらおれはちゃんとした返事もしていない。折り返しなんて全くしていなかった。
自分で言うのもなんではあるが、おれは本当にゾロ屋に心底惚れ込んでいて、掛け替えのない存在であると思っている。ずっと一緒に居たいし、それこそ、一緒に暮らしたいと常々思うほどなのだ。そんなおれがこのひと月の間ゾロ屋との連絡を断ち、デートすらしていない事は異常事態である。それは日頃からおれのゾロ屋トークを聞いているペンギンが不審に思っても仕方ないような出来事であり、そしてとうとう痺れを切らしてしまったらしい。
小児科医としての工夫だと言っていたペンギンのマスコットをてっぺんにくっつけた帽子を被るその名もペンギンという古い馴染みの男は、腕を組んで口元をへの字にしていた。
「ロロノアと何があったかいい加減に話して貰えます?そんな顔をして溜め込んで、周りにいい迷惑なんです。プライベートを職場に持ち込まないでください」
あまりにも最もな意見だ。気まずさについペンギンから視線をそらして目の前に置いた紙コップに入ったコーヒーを睨む。小休憩にといれたは良いがひと口だけ口を付けただけで放置してしまっているそれはすっかり冷めていた。
「大した事じゃねぇ、少々、喧嘩を……」
「アンタが?ロロノアと?ロロノアの事なら全てYESで返すようなアンタが?」
「全てじゃねぇ。ある一点においては不満を抱いていると、お前にも伝えた事があるだろう」
「……ああ、ロロノア、家には連れて行ってくれないって奴ですか。確かにあんたはよく不満を口にしてましたね、それ以外だと全部肯定してるけど」
でもその不満がとうとう喧嘩にまで発展するとは思っては居なかったとペンギンは驚いたようで、組んでいた腕を下ろした。
「どんな喧嘩?」
「……一緒に、なりてぇと言うような事を言ったんだ」
「あらプロポーズ」
「に、近い話だな。だがゾロ屋の反応はまるでそれを想定していなかったかのようで」
あの夜の話をしていると、自分の言葉の残酷さに頭を抱えたくなる。それは話を聞いていただけのペンギンも同じで、詳細を話し終えるなり大きなため息をついてみせた。
「疑うような事を言ったんですか」
「言っちまった」
「あのね、あのですよ?ロロノアだって一人の人間。アンタのもんじゃない。あの子はあの子で一個体の人間なんです。そりゃ見せたくない姿だってあるし、秘密だって持つし、何かしらの事情だってあるだろうに、それもちゃんと認めてあげないといけないんじゃないですか」
耳に痛い言葉の羅列に、おれは堪らずすっかり冷めて酸味が強くなったコーヒーを喉に流し込む。イガイガとした喉越しはとてもでは無いがいいものとは言えず、ただ不愉快さを増幅させるだけだ。つい眉間にシワを寄せておかわりをと思ったが、それが逃避行動であることもおれは理解している。ペンギンの言葉はおれにとって刃であると理解して、逃げようとしているその往生際の悪さは流石に自分でも許せず、浮きかけた腰を椅子に落ち着かせた。
「わかっている」
「わかってたら言わない発言です。おれから見ても、ロロノアはアンタに真剣だった、アンタが疑うようなことは絶対にしていないとおれだってわかるくらいだ、断言してもいい。まったくもう、傷付いた顔で苛立ちなんか顕にしちゃってるけど、悪いのはアンタだ」
「っ、だが!ゾロ屋だってハッキリしねぇんだぞ!」
「ここ、病院。居酒屋ではないんで、声落として」
とにかく、ペンギンという男は、おれが冷静さを欠けば欠く程比例して冷静になるやつだ。的確に言葉を返してくる存在がたまに疎ましく感じるが、それは思春期の男子高校生が母親に感じるものに酷似している。つまり、今のおれはどうしようもなくガキである事の証明であった。
やはり、もう一度コーヒーをいれよう。おれも冷静にならないといけない。逃避ではなくあくまでも自分を律する為であると言い訳を浮かべながら腰を上げると、空かさずペンギンは待ったと声をかける。
「ちゃんと、時間をかけてあげて。言い難いことなら尚更。三年、でしたっけ」
「……ああ、付き合って三年だ」
「言っちゃんですが短くない時間だ。その三年間ずっと、アンタには言えない事を抱えてるって事は余っ程の事です。逆に言えば、ロロノアだってもうそろそろ、ちゃんと言わないとわかっているはずです」
「……」
「まだその覚悟みたいなのが決まっていないだけ。あの子は腹括っちゃえば行動が早い子だ。待ってあげて」
「えらそーに、アイツの事をわかったような口をしやがる」
「恋人のアンタは距離が近すぎる。おれくらい離れている方が見えている部分もあるってだけ。とにかく、ちゃんと謝って、それから次です」
「……ああ」
謝る。そうだなと頷いておれはようやくその席から立ち上がった。
何よりもまず先に謝るのは確かな事だ。このまま別れてしまうなんてそれこそおれの人生の破滅が始まる大事件でしかない。疑うような事を言って悪かったと謝り、それから、ペンギンが言うように待つしかないのだろう。
もちろん、もう十分に待っただろうという、不満はある。しかしおれが急かしても、ゾロ屋の心が決まらない限りはどうしようもない事なのだ。三年の年月は長い、ペンギンがそう思うように、おれが急かしてしまったように、ゾロ屋だって同じように長い間おれに黙っていてしまったと、そしてそろそろ、と、思ってくれているはず。あの時の一瞬見せた気まずそうな顔がチラついて仕方ないが、今のおれに出来ることはゾロ屋が「考えていないことは無い」という言葉を信じることだけ。
紙コップに再びコーヒーをいれようとして、自販機に目を向ける。今は苦味より甘い物を口にした方が冷静になれそうだと紙コップを捨てて甘めの冷たい缶コーヒーを片手にし、自分の受け持つ病棟へと足を向けた。
休憩所でもあり、医師の食堂でもあるその場から外科医のおれが常時居る病棟へは隅の階段から向かった方が早いが、もう少しだけ思考を仕事ではなくゾロ屋のことを考えたくてあえて遠回りをすることにした。正面玄関へ向かう経路だ。正面玄関から少し行くと受付があり、会計や処方箋を行う待合室も兼ねている。広々としたロビーを突っきる時、おれは久しく見ていなかった緑色の頭髪をした男の姿を見て目を丸くさせてしまった。
その男は、女と共に居た。光の加減だろうか、青みがかったように見える黒髪をショートにした、美しい女だった。
親しい仲なのだろうか。女友達の話は、何度か聞いたことがある。実際に会ったこともあった。ナミ屋という蜜柑色の髪をした気の強い女と、ニコ屋という聡明な女だ。他にも何人か、女友達がいる事は聞いたことがあるが、その誰でもない姿をおれは初めて見た。
緑色の髪をした男、ゾロ屋の傍で微笑みを浮かべている女の存在をおれは知らない。三年も一緒に居てまだ知らなかった交友関係があるらしい事におれは確かに驚き、唖然としてしまう。
その女は誰だ。笑みを浮かべ、目を合わせあっているのは、何故だ。なぜ病院にいる?その女の付き添いか、それともお前にその女が付き添っているのか。それほどの仲なのか、わざわざ病院へ、付き添うような仲。
そして、浮かぶのはゾロ屋を傷つけた言葉だ。家で待っている家族が、居るのか。なんて、馬鹿らしい言葉。
でもまた浮かんでしまった。その女が、もしかして、と。
動けなくなってしまったおれは、つい、ゾロ屋とその女を見続けてしまって、そして、ゾロ屋が不意に顔を上げておれを見つけてしまったというのに、やはり、動くことは出来なかった。
驚いたような顔をしたゾロ屋は女になにか一言二言言葉をかけてから、急ぎ足でおれの元へ向かってくる。病院だぞ、走るな、なんて言葉だって口にできなかったおれは目の前までやってきた男を見下ろすだけだった。
「トラ男、そういや、ここに勤めてるんだったな」
「……」
無視したいんじゃない。ただ、言葉が見当たらなかっただけだ。だけれどおれの沈黙をマイナスの感情で受け止めてしまったのだろう。凛々しい顔つきが眉を垂れさせた情けないものに変わってしまった。おれがずっと、連絡を無視し続けてしまっていたから余計に悪い方へと考えたのだろう。口を開いて、閉じて、ぐっと息を飲んだゾロ屋は一瞬の沈黙の後再び口を開いた。
「連絡、した」
「……見ている」
「既読ついてるから、見てんのはわかってんだよ。でも返してくれてねぇ……電話だってしたんだぞ」
「わかっている」
抑揚のない、酷く淡々とした言葉しか返せない。違う、もっとちゃんと、そうだ、謝ろうとしていたんだ。謝りたいんだ。
だが、と。ちらりと見てしまうのは受付番号を待っているらしい女の姿。Tシャツにジーンズというラフな格好の女。その分、スタイルの良さが浮き彫りになっている、美しい女の、姿。
「トラ男」
「悪い、仕事中だ」
呼ばれて改めてゾロ屋を見下ろしつつも、缶コーヒーを握る手に力が入る。同時に口からこぼれる声にも力が入ってしまったのか、固い声となってしまった。それを聞いてゾロ屋は、やはり眉尻を垂れさせる。
「悪い……トラ男、今日は当直か?おれは明日は朝からで、だが夜は少し時間が取れるんだが……」
「……それで?」
「だ、からよ……この病院の前で、待ってる、から……話をしたい」
ゾロ屋らしくない。ぼそりぼそりとした言葉におれも溜飲を下す。小さなため息は意図したものではなく、自分を落ち着かせるものだ。だからゾロ屋が勘違いをするより先に、わかったと、頷いた。
「当直ではない、だが、遅くはなるぞ」
「待ってる」
「勝手にしろ」
それだけ言っておれは背を向けた。おれから背を向ける事、二回目だ。ゾロ屋に背を向けて直ぐに自分の受け持つ病棟へと足を向けた。ゾロ屋の、背中を見たくはなかったのだ。あの女の元へと向かうだろうその背中を。
冷たいはずの缶コーヒーが、握りしめていたせいですっかりとぬるくなってしまっていたと気付いたのは病棟に着いてからだった。
勝手にしろ、と言い放つような言葉とは裏腹におれは急いで仕事を終わらせて帰宅の準備を始める。傍で同僚が首を傾げながら珍しい事だとボヤいて居たのは、おれが普段なるべく多くの仕事をしようとしている姿を常々見ているからだろう。ワーカーホリックであるとよく言われているのは、知っている事であるし、おれ自身も自覚している事だが、今日はゾロ屋が、病院の前で待っているというのだから最低限に済ませようとするのは当たり前のことだ。まさかそれをいちいち言うはずもなく、たまには、なんて呟いて早々に更衣室から出て行った。
病院の外に出ると外はすっかりと暗い。どんなに仕事を早く終わらせようと思っても案外事務仕事ってのは手間取るもので、こればかりは仕方なかった。きょろりきょろりと辺りを見渡せば、すぐにあの特徴的な髪色が病室から漏れ出す光に照らされて居るのを見つける。ややうつむき加減で、しかしスマホを見つめる事はなくその視線は地面へと向かっていた。心細そうなそんな雰囲気は駆け寄り抱きしめたくものがあったが意図しておれはゆっくりとした歩みでその影へと近づいた。
「ゾロ屋」
「トラ男、お疲れ様」
昼間見た時より少しだけ表情が和らいでいる。落ち着いたのだろう。声はまだ硬いが、平素のゾロ屋に近い姿だった。
「それで?どこで何を話したい?」
だというのに、おれはなんとも意地悪だった。言って直ぐにそう気付いたが、ゾロ屋は気にした様子はなく、ただうろっと目を泳がせて、それからおれへと目を合わせてきた。意を決した様な眼差しにおれの方が息を飲んでしまう、そして続けられた言葉に、目を丸くした。
「……おれの、家」
「…………え?」
おれの、家。ゾロ屋の、家。
馬鹿みたいに母音のみを零したおれを見つめて、ゾロ屋はそれっきり黙ってしまう。お互いに少しだけ沈黙して、そしてお互いに緊張してしまったらしいと気付いたのは見つめていたゾロ屋が視線を落とし気を紛らわせるようにしてつま先で地面を蹴ったからだった。むすりと僅かに唇が尖っているのが見えて、ようやくおれも動くことができた。
なら、と駐車場までゾロ屋の腕を引いて、車へと乗せる。助手席に座ったゾロ屋は小声で何かを呟いたが一度ではおれは聞き取れず聞き返して、二度目の声でそれが住所である事を知った。ゾロ屋の家の住所だ。おれはゾロ屋がどこに住んでいるか正確な位置すら今まで知らなかったのに、今この瞬間それを知り得ることが出来たわけである。もう二度と忘れないように頭の記憶を司る場所に刻みこんで心の中にも住所を埋め込んで、さらにカーナビにもきっちりと登録をして、車を発進させた。
走る車の中はやはり沈黙ばかりが流れて、ラジオか、音楽でもとかけるかと頭によぎるのにハンドルを握る手が離れない。嫌に力が入っている事を自覚する。どうやら相当に緊張しているらしい。ゾロ屋もそうなのだろうか、両手が膝の上で拳を握り、顔は窓から外を眺めている。流れる街頭がチラチラとゾロ屋を照らしているらしいがその姿をおれは見ることが出来なかった。車を運転しているからだ、なんてのは言い訳で、結局はゾロ屋を見る事を少しだけ、恐れていたのだ。
ゾロ屋の家、おれにとっては初めて訪れる場所。そこになにがあるのか、居るのか。ゾロ屋が、おれをずっと拒んでいたその場所のことを考えて、今まさにそこに向かっているのだという緊張と恐怖、らしくもなく手汗が滲んでハンドル操作に集中する事しか出来なかった。
そうして暫く走らせた車がたどり着いたのは一棟のマンションだった。白いコンクリートの四階建て、まずまず普通の共同住宅である。
利用者の居ない駐車場があるというゾロ屋の案内に従い、今晩だけも内心謝りつつ停めさせてもらってゾロ屋と共に車を降りた。階段で三階まで上がり、ゾロ屋の名前がかかった一室の前にたどり着く。新聞受けには何も入って居らず、真っ白で無機質な扉があるだけだった。
よく、聞く話だ。玄関の傍に傘立てがあるだとか、そこに、女物の傘かかっているだとか。
つい確認してしまったのはまだおれがゾロ屋を疑ってしまっている証拠だろうか、自己嫌悪に陥りそうだった所に、ゾロ屋がポケットから鍵を出して扉を解錠する。
「……あのよ、トラ男」
「なんだ」
病院の前では平素に近かったはずのゾロ屋が、再び固く、緊張した声で呼んできた。
「……部屋の中に入って、テメェがおれをどう思うか、んな覚悟はとっくに出来てる」
「あ?」
「ただ、態度には出すな。頼む」
らしくもなく、それは弱々しい、声だった。
そして、おれに嫌われる事を恐れているような声であった。
「……わかった。無表情に、無感情に。何があっても、そっぽを向いてやるよ」
「ははっ、ありがてぇな」
笑う声に力は無く、そのままゾロ屋は玄関を開けた。
暗い廊下はすぐにゾロ屋の手によりライトが付けられる。靴を脱いだゾロ屋に続いて、お邪魔します、なんてまるで初めて使った言葉のようにたどたどしく告げると、どうぞ、なんてこれまたたどたどしい言葉が返ってきた。
この廊下をまっすぐ進むとダイニングキッチンで、すぐ隣がリビングになっているとの事。廊下のすぐ隣は寝室で、反対側はバスルーム。そんな一人暮らしによくある間取りを説明したゾロ屋は玄関から一段上がった場所に立ち尽くし、壁に背を預けた。
「スイッチはダイニンに入ってすぐの壁のところにある。行けよ」
「あ、ああ」
どうやら説明して、それであとはご自由にということらしい。腕を組んで目を閉じる姿は裁かれる罪人もかくやと言うほどに頑なであり、覚悟、という言葉を如実に表していた。
いいのか、いいんだな?先に進むぞ?
真っ暗なマンションの一室には、誰も居ないことなど明白であるし、ゾロ屋自身がインターホンを押すことなく鍵を開けて部屋に入ったのだから、やはり誰もいないことなどもう確証ができて当然である。誰か居るなんてもう、疑う余地なんてないのにおれはやはりどこか恐れるような気持ちで足を進めた。
廊下からダイニングキッチンへと続く扉をゆっくりと、開く。カーテンも締切っている暗い部屋は廊下の光が差し込んでぼんやりと家具の影を浮かび上がらせるだけだ。
ゾロ屋の言うように壁のすぐ側にスイッチがあるらしい、手探りで見つけてパチンと付けるとすぐに明るくなった。
一人暮らしらしい小さなテーブルとひとつの椅子。キッチンは片付いているというより元から物がないらしく殺風景だ。よくゾロ屋は部屋がちらかっているなどと言うがそんな様子はなく鼻じらむ気持ちでさらに横の続き部屋、リビングへと目を向けた。
「…………………………」
テレビとソファー、ローテーブル。ジム通いだけではなくこの部屋でもゾロ屋は体を鍛えているのか、ダンベルが、大小二つ転がっていた。ここでも散らかっているという印象は受けない。だが、狭いから、という言葉を思い出す要因はあった。
それはテレビでも、ローテーブルでも、ソファーの事でもなく、転がるダンベルの事でもなかった。
「……………………デッ…………カ…………」
部屋のちょうど角に、それはあった。いや、もしかしたら居た、という方が正しいのかもしれない。それでもおれにとってばあっだという他ないものが、鎮座していた。
ふわりとした体毛に覆われているそれは、丸っこいふたつの耳を頭に付けている。全体的にミルクコーヒーのような淡い色をしているが、鼻面はコーヒー豆のように濃い色をしていた。付けられたライトによって反射しているのはクリっとした愛らしいつぶらな瞳だ。大きな体はでっぷりと腹が膨れているが見ただけでフワフワと心地よく包んでくれそうでもある。ただそこはかとなく沈んでいるようにも見えて、癖がついてしまっているのだろうと推察出来た。日頃からそこに体を預けているとか、頭を乗せているだとかして、中のクッション、綿か、綿がへたってしまっているのかもしれない。太い手足は他の部分よりも硬そうだ。しっかりとした形を保っている。
そしてとにかく大きい。おれ自身百九センチをやや超える身長をしているが、同等か、少しだけ小さいくらいの大きさだろう。女性ならすっぽりと体全体を預けられてしまうくらいだ。
思わずそんな大きな存在によろっと近づき、ソファーの横を通り過ぎようとして気付いた。そのソファーにもこれまた柔らかそうな物が存在していたのだ。似たような色合いのものがソファーの左右の角っこにちょこん、ちょこん、と座り込んでいて、これまた同じく丸っこくフワフワとした耳を頭に乗せている。
クマだ。生きたクマなら流石におれとて叫んだが、そのクマは有機物ではない。無機物のクマだ。ああもう、言ってしまおう。
それらは、つまり、クマの、ぬいぐるみだった。
「ぉ、あ、ぇ……え?」
無表情に、無感情に、そんな自分で言った言葉も忘れておれは数歩程の距離を急かす様にして歩きゾロ屋の元へと向かった。
ゾロ屋は腕を組み、壁に背を預けた格好のまま、ただ顔をこれでもかと真っ赤にして汗を流し、そして歯を食いしばって足元を睨みつけていた。
「つまり、これらが、その……理由か」
こくりと、ゾロ屋は頷いた。
ソファーには先客が居るからほとんど体が引っ付きそうになる距離で隣合って座り、ゾロ屋を見つめる。ゾロ屋は両足を抱えてソファーに座り込み顔を膝へと埋めて、カタカタと小さく震えている様だった。
再び、おれは隣に鎮座しているクマのぬいぐるみをちらりとみて、それから、部屋の角に陣取っている大きなクマを見る。どうみてもやはりそれは、女児や女性が好みそうなフワフワと柔らかそうなものでしかない。ダンベルが二つ転がる部屋に同居しているそれらはあまりにもアンバランスで、しばらく眺めてから、またゾロ屋へと顔を向けた。
「……可愛らしい、な」
「馬鹿にしてる」
「してねぇ……驚いたが」
馬鹿になんかしない。趣味はひとそれぞれだ。とはいえ、驚いたのもまた事実。
ゾロ屋は言ってしまえば漢の中の漢というものである。質実剛健、真っ直ぐな気質に竹を割ったような性格。何かに依存するような事はなく、それはおれにも適用されて特別ゾロ屋がおれにしがみつくような、縋るような真似をした事は無い、寂しいけどもそれがゾロ屋だ。いやまぁ夜は夜でそりゃまぁ可愛らしい姿を見せてくれるがそれは脇に抱え込んでおくとして、兎にも角にもさっぱりとした男である。
だから、ぬいぐるみだとかに、興味があるとは思えなかった。疑ったこともないし、ゾロ屋と付き合っていてぬいぐるみのぬの字だって頭に浮かんだことは無い。
だからこその、驚きだ。
「……くいな、の、話をしたか」
「くいな?」
「幼馴染で……ああ、今日、病院に一緒に居たヤツだ」
言われて思い出す、青くも見える黒髪をショートにした美しい女。飾り気のない服装ながらにすんなりと伸びた手足と真っ直ぐな背中は体幹とスタイルの良さを表しており、ゾロ屋の隣にいる女として相応しいほどに凛とした雰囲気があった。
「話してねぇか。いや、話をしてたらコイツ等の事も言ってたはずだからな、そりゃ話なんぞしてねぇか」
コイツ等と言いながらゾロ屋は徐に自身の隣にちょこんと居座っていたぬいぐるみを引き寄せて、抱え込んだ。
両足と体の間に滑り込むように入っていくぬいぐるみは逞しい筋肉に挟まれ窮屈そうにすこし形が歪んでしまっている。そのクマのぬいぐるみの頭に顔を埋めたゾロ屋の耳は相変わらず赤い。赤い、耳に、赤い首筋。
「そのくいなが……」
ゾロ屋が話をしているのはちゃんと耳に入っている。人様といちいち比べたことは無いがおれの頭の出来ってのはそこそこいいから、言葉としてちゃんと耳から頭へと伝わっているのだが、言葉だけだ。意味が、理解できない。理解できないというより、不明瞭であった。それはゾロ屋の口がクマの頭に押し付けられているからではない。
ぬいぐるみを抱えているゾロ屋に、目が釘付けとなってしまって、その視覚情報以外の処理を頭がしてくれないのだ。
「……で……まぁ、だからな……」
スーッ、と意識して息を吸って、ゆっくりとひっそりと、そりゃもうこれでもかという程に静かに吐き出す。
今目の前にゾロ屋がいるというのに、おれはゾロ屋のその姿かたちを脳裏に正確に思い浮かべていた。くいなだとかいう、ゾロ屋の傍に居るのに違和感もなかった女の姿なんてどっかへ飛んでしまっていた。
ゾロ屋は、筋骨隆々とまでは行かないが、同年代の成人男性よりはがっしりとしているだろう。腹筋はシックスパックというものであるし、足も腕も筋が浮かび筋肉が皮膚の下にしっかりと存在している。ゴツゴツというよりはスラリとした筋肉の付き方ではあるが、それでも筋肉が無い体ですね、とは口が裂けても言えないほどに鍛えられているのだ。おれも外科医として体力勝負のところがある為に暇を見つけてはジムに行くが、ゾロ屋の体には少々及ばない。少々だ。少々。だが大いに負けているのは恐らく胸筋。確か少し前嬉しそうに胸囲が百を超えたとか言っていた。百超えの胸囲。力を抜いた状態で触ると指が沈む感覚がえも言われぬ興奮を呼び起こすのだ。ごほんっ。余談。その柔らかな胸筋を押し付けられているぬいぐるみ。
恐ろしくアンバランスだろう。おれの先入観とイメージでは、やはりぬいぐるみを抱くのは女や子供であるので、ゾロ屋のような逞しい男が柔らかでフワフワとしたぬいぐるみを抱いているのは、アンバランスで、違和感がある。だけれども、とおれはもう一度ゆっくりと深呼吸をした。
嫌悪感が無い。それどころか、それどころか、だ。
「コイツ等も、な、その、くいながよ……」
胸が締め付けられるような気持ちだ。ぎゅうっと締め付けられて、身体中がこそばゆい。叫びたいような、動き回りたいような、今すぐに床に転げ回って叫んで、ゾロ屋を抱きしめたい衝動が襲いかかってきたのだ。頭がカッカッと沸騰しているようでもあるし、地に足が付いていないような現実との乖離を起こしている不安定さもある。
「おれも正直アレだとは思っているが、どうにも一度手にしちまってから…………おい、聞いて」
「クソ尊い」
「とうと……?」
顔を上げたゾロ屋は気恥ずかしさと気まずさと、後ろめたさか、もっと色んな感情を抱えてしまっているだろう。それも良くない感情だ。そうと分かっているのにおれの口から溢れ出た言葉といえば、頭の悪い単語だった。しかしそれしか浮かばなかったのだ。誰だおれの頭の出来がそこそこ良いとか言い出したやつは、自覚しているおれが言うのもおかしいがその認識は改めた方がいいぞ。今のおれは、多分阿呆でしかないのだから。
とにかく、今のゾロ屋はおれにとって、言葉が見つからない程に愛おしかった。いや言葉なら出ていたな、尊い、そう、尊いだ。鍛え上げられた漢の中の漢が、可愛らしいぬいぐるみ抱えている。それも普段から可愛いと思っている愛おしい恋人のゾロ屋が、だ。
アンバランスさが尚のこと尊さに磨きをかけていて、おれはとうとう顔を俯かせて感嘆の息を漏らす。この世に存在していい可愛さじゃねぇ。
「トラ男?」
「そのまま」
「な、何がだ?つか、話し聞いていたか?」
「……話し?」
なんだっけ。おれはぬいぐるみを抱くゾロ屋を脳裏に刻み込む事で忙しかったのでちょっと反応が遅れた。そして、おれは話とやらを思い出そうとする。ふむ、くいなという女の話か。
「………もう一度いいか」
「ぶっ飛ばす」
そうして食らわされたのはぬいぐるみの手によるパンチだった。
もう一度、というおれの願いはゾロ屋の緊張を少しだけ解したらしい。呆れたという方が正しいだろうが。すらすらと、ゾロ屋は淀みなく話をし始めた。
くいなという女は幼馴染で、幼少期は共に同じ夢を見ていたのだとか。それは剣道で世界一を取る事と、警察官になる事だ。
しかし、くいなはその幼少期に階段から転落する事故にあってしまう。頭を打ち、利き手の腕と足を骨折させてしまったのだとか。その後遺症で歩行に障害が残り、握力も十分に発揮できなくなった彼女は竹刀を握る事が出来なくなってしまった。今日の病院は定期検査のためらしい。もう必要ないと彼女自身は言うが、その彼女の家族とゾロ屋が無理やり連れて行っているだとか。だがあと数回でそれも終わるようだ。
「くいなが階段から落ちてしばらくの時期はおれにとっても、一番苦しかったな。アイツの塞ぎ込む姿に、おれは何度も思っちまった。自分から、命を絶つんじゃねぇかってな。それが、恐ろしかったよ」
ずっと傍で支えて居たという。だが彼女はゾロ屋の心配に反し徐々に気力を取り戻したのだとか。気丈な女だと呟けば、アイツはそういう奴なんだったと反省したと笑った。
「体を動かすのが好きなやつだったが、手先も器用でな、何かを作り出すのも好きなやつで剣道をしていた時からたまになんか作ってたのは知ってたんだ。んで、剣の道をすっぱりと切り捨てたあいつは、その、もうひとつの得意分野に特化することにしたんだと」
「それで、ぬいぐるみ作家?」
「すげぇんだぜ、専門学校に入ったりしてよ。そこ出てからの最初は細々としていたんだが、どっかの……なんつったかな、誰かだかに弟子入りした後から就職して、今は人気作家のひとりだ」
「確かにすげぇな。そういう業界に詳しくはねぇが、狭き門だろ」
「おう、根性のある奴だ。基本はデザイナーとして働いちゃ居るが、自分でも作って販売してる……んで、その第一号が、こいつ」
よくよく見ればたしかに随分と古ぼけたぬいぐるみだ。ゾロ屋がおれにもよく見えるように抱えあげたのはずっと抱き締めていたクマ。
「ずっと支えてくれていたからと、興味無いだろうけれど、持っていて欲しいと言われて、そう言われちまったら貰わねぇわけにはいかねぇだろうが……それが、なんつーか、始まり」
「ゾロ屋もぬいぐるみの虜になったと」
「うっせ」
つぶらな瞳に、柔らかな手触り。抱きしめた時の程よいフィット感。全てがゾロ屋の心を捉えてしまったらしい。
「……」
おれの専門は外科医だが、古い友人には精神科医も居る。たまに知見を広めるべく医者仲間とはよく会って話してをしている事があるおれは、その精神科医からも色々と話を聞くことがあった。おれが最も興味を抱いたのは、依存についてだ。というのも薬物やアルコール、ニコチンの依存に関しての部分だが、人間が依存するのは脳に作用するものばかりではない。
例えばそれは、ライナスの毛布なんかが挙げられる。特定の毛布や、それこそぬいぐるみに強い執着心を抱くものだ。子供によく見られる症状だが、大人になっても抜け出せない場合があるようだ。強いストレスや、不安が原因とされている。ゾロ屋の場合は、幼少期の幼馴染の事故がきっかけだろう。
無理に引き離すと精神面で酷く不安定になってしまうから、放っておくことが良いとされている。もちろん日常生活に支障をきたす程の執着ならばカウンセリングが必要となる。
第一号というぬいぐるみは、彼女が持ち直した証だ。ゾロ屋はそれを手元に置いておきたいのだろう。自覚しているのかは聞くに聞けないが、おそらく間違いない。どんなに強い男でも、心に脆い部分があるものだと、おれはじっとゾロ屋と、ぬいぐるみを見る。
「コイツがここに来てから、つか、触れてから、なんかこう……いいんだよな」
語るゾロ屋の様子からは酷く執着し、日常生活が困難である、と言うほどのものでは無いことは理解出来る。一先ずはそれには密かに安堵した。ゾロ屋は第一号のぬいぐるみをキッカケに、ただただ単純に、そう、虜となってしまったのだ。
柔らかく、愛らしいそれに。
「……おれだって、おれみてぇなのが、とは思ってる。こういうのは女子供が好むもんだろう」
「……おれの先入観とイメージもそれだ、否定はしない」
「だから、知られたくはなかったんだよ」
気持ち悪いって、目で見られたくなかった。ポツリとゾロ屋は呟く。
「だが、その、てめぇと付き合うようになって……いっ、しょに、なるんだろうな、と、考えたら……ずっと黙っとく訳にもいかねぇ……どうしようかと、思って考えて……でも答えが出ねぇ。おれはテメェもコイツ等も、手放したくなかったからな」
「……」
「悩んでいるうちに、いや、悩むことで問題解決を先延ばしにしていた。情けねぇよ……それで喧嘩になっちまった。悪い」
「謝るならおれのほうだ。ちゃんと話も聞かねぇでお前を傷付けた、許してくれ」
「それだって、おれがハッキリしねぇからだろうが」
なら、おあいこだな。
そういえば目をぱちくりとさせて、一瞬だけ苦しそうな顔をする。
ゾロ屋もやはり、考えていない訳では無かったのだ。三年という年月は長い。その間もゾロ屋は、考え続けていたに違いない。もしかしたらなにかしらのサインだってあったかもしれないのに、おれは自分の不満ばかりに目を向けて、それを見落としていた。だがゾロ屋はそれを自分の責任であるという。ハッキリとしなかった自分の責任であると。それなのに良いのか、許すのか、なんて顔をしているものだから、おれは安心させるように微笑みを浮かべた。
まぁ、顔ならきっとさっきからずっと緩んでいただろうけれども。なんて言ったってこの会話をしている間であってもゾロ屋はぬいぐるみから手を離していないのだから。
ゾロ屋程の男が、不安を滲ませた表情でぬいぐるみを抱えている。世間的に見ればそれは男としてどうなのかだとか、ゾロ屋が懸念するように「自分のような者には不釣り合い」だとか、そんな印象を与えてしまうのだろうが、おれはペンギンが言ったようにゾロ屋に関しては全肯定botであるし、なによりもう純粋に。
「尊い」
「なんだって?話の流れを急に切るなよ……こっちは真剣に……」
「真剣に言っている。尊い」
「……よく、わからねぇんだが」
「お前が懸念するような感情を、おれは抱いていないという事だ。むしろ真逆だな」
「そりゃつまりは……い、いいのか?おれがこんな趣味でも」
「尊い」
「……その言葉一旦禁止にしろ。わからん」
禁止にされてしまったがおれにはそれ以外の言葉がなかなか出てこない。尊い、以外の言葉を、尽くすのならば、とゾロ屋を見続ける。視線を受け続けたゾロ屋は気まずそうにウロウロと視線をさ迷わせるその姿に、ひとつ頷いた。
「おれは引いていない。意外だと思いもしたし驚いたのは事実だからそれは言っておくが断じて引いてはいないし、不快に感じることも無い。むしろお前の新たな一面というものを知れた事を喜んですらいる」
「……本気か?」
「本気しかない」
「これ……」
再度、ゾロ屋はぬいぐるみを掲げて、おれに見せてくる。古ぼけて、少しだけ形が歪んでしまっているようだ。キツく抱くくせでもあるのだろうかと思っていると、ぼそりとゾロ屋が言った。
「か、抱えて寝てたとしてもか」
「…………………」
何度目かの深呼吸をした。
言葉が見当たらず、とりあえず深呼吸をして片手を額に当てて俯く。なるほどな。コイツは夜にはぬいぐるみを抱えて寝ているのか。そういえばおれと過ごした夜でもよく引っ付いてくるのだ、ゾロ屋は。その姿が可愛くてどうしようもなく、何度となく理性を総動員させて羊を数え襲わないようにしていたか。だがそれはもしかしたらぬいぐるみを抱いて寝ている時の癖だったのかもしれない。それはそれで癪だが、引っ付いてくるゾロ屋が可愛いのは変わりはしない。そしてぬいぐるみを抱いて眠るというゾロ屋を想像したら言葉なんぞはおれの頭脳から絶滅してしまった。
ぎゅうぎゅうとぬいぐるみを抱きしめて眠るゾロ屋、または腹の上にでも乗せているのかもしれない。寝相が悪い所があるから抱えているつもりでどっかに投げてしまって、夜中に手探りで求めているなんて時もあるかもしれねぇな。小脇に抱えて豪快にイビキなんてかいているかもしれない。そんな姿を想像するだけでまたおれは叫びつつのたうち回りたくなった。なんだそれは、見たい。
ふと、おれは大きなぬいぐるみが気になった。腹あたりが少しだけ沈んだ形に癖ついてしまっている部屋の角を陣取っているクマだ。
「……あれに、体預けて寝ている時も、あるのか」
俯いたままに聞けば、ゾロ屋はもう吹っ切ってしまったのか「たまに」とブスくれたような声で返してきた。なるほどな。ぬいぐるみ抱えつつぬいぐるみに抱えられて寝ているのか。
「尊……」
「禁止つったろ、それ」
「他に言葉がねぇんだよ。なんだそれ、お前、これ以上可愛い要素を付けるんじゃねぇよ、普段から可愛いと思ってるおれのキャパシティが限界突破で上限解放だぞ。レベル九十九だったのがもう百越えだぞふざけんなもうお前がぬいぐるみ抱えている姿が脳裏に刻まれちまって事ある毎に思い出しては可愛さゆえに悶え苦しむことになっちまうだろうが可愛いなお前」
「……理解に苦しむ言葉ばかりだが、つまりは、いいって事だな?」
「最の高だよもう全てを包み込んで愛してやろう。なぜならそんなお前もおれは好きだ」
「多分全世界でお前だけだな、それ言うの」
「他に居たら殴り飛ばしてバラして海に沈める」
「はは、そうかよ」
声が明るくなった。おれの本気をどうやらやっと受け入れたらしい。
くすくすと笑っている姿を見るために顔を上げれば、ゾロ屋は抱えたぬいぐるみを見つめて「よかったな、ワドー」といっていた。ワドーとは。
「名前か、そいつの」
「あ、ああ。そうだ。コイツはワドー。で、そこの、でけぇのがしゅーすい、お前の隣に居るのがゆばしりで、あとベッドにはきてつってのが居るんだ」
「厳つ……」
「なんだって?」
「イイナマエダナー」
想定していなかった名前が出てきたが、何かしら由来はあるのだろう。ここでもっと可愛らしい名前が出て来たら流石にどう反応していいものかと悩んでいたところだ。いや、まぁ、うん、ゾロ屋の口から甘ったるく可愛らしい名前が飛び出てくるのもまた、おれはきっとか可愛いと思ってしまうのだろうが。
「そいつらも、全部幼馴染の彼女が作ったのか」
「おう。たまに作ったと言っては見せてくれてな……どいつもなかなかよく出来ていてよ、その中でこれだと思ったやつを買い取っ……………」
「………そうか」
「お、幼馴染割引ってのを利用している」
「今度詳しく話を聞こうか」
どうやらひとつ、別の問題が隠れているようだ。じろりとゾロ屋を見つめるとスルッと躱されてしまう。こんな時には得意技であるおれが弱くなってしまう顔は見せないのかと素直さには呆れてるが、ゾロ屋も後ろめたいのだろう。
散財癖はないと思っているし、しょっちゅうというわけでもないのだろうが、一点物の、それも名のある人気作家が作ったぬいぐるみともなればそれなりに値段が付くだろう。幼馴染割引というものがどれほどの物かとか、元々の値段はとか、聞きたい事はあるだけあふれてくるが、それは今度の機会にしようと思い、一先ず今は気になったもうひとつの単語について話を聞く事とした。
「ベッドと言っていたが……寝室に居るのか、きてつ、というぬいぐるみ」
「おう」
おれが話題を変えたのもあるだろうが、もうすっかりゾロ屋の中から懸念も心配も不安も抜け落ちたのだろう。紹介してやると言ってぬいぐるみ、ワドーを小脇に抱えるなりおれの手を引いてきた。見せてやるではなく紹介だと、随分と愛着を持っている事が窺い知れる言葉選びについほっこりとしてしまう。
きてつは少しだけ大きい、中ぐらいだな。なんてゾロ屋が言っているうちにすぐに寝室へと辿り着き、そしてなんの戸惑いもなく扉を開けた。
目の前に広がる部屋は、そう、ゾロ屋の部屋だ。今まで家にすら迎えられなかったおれは今日一日で住所を知り得た上にゾロ屋の秘密に触れ更には愛らしい姿を見れたわけだ。今まで知らなかったゾロ屋の姿に情報供給が過剰だと思っていたのに、その上でさらに、ゾロ屋の匂いが染み込んだ部屋へご案内と来た。つい、深呼吸。仕方ねぇだろう。
ゾロ屋の部屋はダイニングキッチン同様に殺風景とも言えるようなものだった。デスクにはノートパソコンが閉じられて置いてあるだけで、あとは数本程度のペンが入っているペン立て。クローゼットは壁に埋め込まれている形となっているために部屋の邪魔になってはおらず、代わりにというように置かれているのは、筋トレグッズだ。ダンベルと、あとはバーベルと呼ばれる大きめのもの、壁に立てかけられているのは丸めたマットだろう。
ゾロ屋らしく、男らしい部屋であると言えるが、部屋に入ったゾロ屋が近づいていくベッドにはやはりアンバランスで不釣合いなそいつが居た。枕元にぽすんと乗っかっているそれはなかなかに存在感がある。
「きてつだ」
「……クロクマだな」
「なんだったかな、ゴシック?タイプ?のクマに挑戦とか言って……黒い体と赤い目が特徴なんだよ。くいなは服も着せるべきだと言ったんだが、それが随分とごわごわとしてて、ひらひりとしてるもんでな。触り心地的に、遠慮した」
あん時は少しだけ喧嘩になりそうだったなぁ。なんて言いながら抱えていたワドーをベッドへと丁寧に下ろし、クロクマ、きてつを抱えた。
中ぐらいの大きさと言っていただけに、ワドーよりは大きなそれはゾロ屋が両手で抱えると腰が陰に隠れてしまう。ワドーが小脇に抱えられる大きさと考えればむしろ結構大きい方なんだろうが、しゅーすいという一際大きなクマを見たあとでは中ぐらいと言われればなるほどと納得するしかないような大きさだ。
「寝る時はそいつら抱えてるわけか」
「ぅ……改めて言われると、情けねぇなやっぱ」
「いいから。答えろ」
「なんでそんなの固執するんだよ……きてつは、枕元で、抱えて寝るのはワドーだけ、だ」
頭に思い描くゾロ屋の寝姿。鎮座するクマの傍でクマを抱えて寝ているわけだ。横向きになってぎゅっと抱えて、丸めた体で抱え込むように寝ている姿だ。でもやっぱり寝相が悪いから、いつの間にか落ちてたりするんだろうな、そんな姿は容易に浮かんでしまう。
「で、まぁ、つまり……一応コイツ等が居るのが……理由ってなるわけだが……」
言いながらきてつを抱えたゾロ屋はベッドへと腰掛けた。手持ち無沙汰に、それとも気を紛らわせたいのか、きてつの鼻面を指先で軽く擦っている。まるで生きた犬猫を可愛がる時にする仕草のようであり、それだけ可愛がっているという事だ。そんな仕草をするゾロ屋こそが可愛いだろう。全世界が今のゾロ屋を見てなんと言おうともおれはこの存在を肯定する。なぜならペンギンが言う通りおれはゾロ屋に関しては全てをYESで返してしまえる男だからだ。
ゆっくりとベッドに腰掛けるゾロ屋へと近づいて、やや俯き加減のその頭に触れる。そっと撫でてやれば安心したのか、すりっと頭を上げてもっとというように擦り付けて来る姿はそれこそ猫が頭を撫でてもらいたいが故にする仕草そのもので、思わず叫びそうになった、叫んでいいだろうか。
「尊い……ッ!」
「なぁ、禁止って言葉辞書で調べてくれねぇか……わからねぇ」
「お前が好きだと言っているだけだ」
「……ま、いいけどよ……」
このままゾロ屋を撫で続けて居たらおれは語彙力を失い「尊い」が鳴き声になってしまいそうだ。流石にそれは頂けないと、ゾロ屋から手を離して代わりにきてつの頭へとその手を移動させる。
触れてわかったが、見た目よりも少しだけ毛がチクチクとする。だが気になるほどでは無い。撫でてみれば成程、少し癖になる触り心地だ。毛並みを整えるようにして何度か撫でているとクスリとゾロ屋が笑ったらしい。
「ふふっ、成程」
「ん?なにがだ?」
クスクスと笑うゾロ屋はきてつを無でるおれの手を眺めてから、顔を上げておれへとその眼差しを向ける。ゆるりと緩んだ瞳には、幸せだとか、そう、そんなふわりとした柔らかさがあった。
「とうとい、か……きてつを撫でるお前を見て何となくわかった、可愛いな、お前」
「………可愛いのはお前だが?!」
我慢の限界だ、この可愛さ。ふわふわしたもん抱きしめて微笑むゾロ屋をこんな間近で見ていておれの理性が持つわけがなかった。
尊いが犬猫のような動物の如く鳴き声になることは無かったが、獣と化すのは十分で、思わず、殆ど衝動的にゾロ屋の肩を押していた。ぼすりとベッドが沈み、座り込んでいたワドーがコロリと転がる。勢いに驚いたゾロ屋が声を上げたその口を、おれはすぐさま塞いだ。
おれとゾロ屋の体の間にあるぬいぐるみが形を歪ませて、息がしにくそうだ、いやぬいぐるみなので息なんかしない、でも文句を言うように胴体がおれを押し返してくる。邪魔だなと思ったがそれを退けるのも手間に感じてしまい、無視してより一層ゾロ屋へとおれは体を押し付ける。
「ちょ、ぁ、ふっ……」
合わせた柔らかな唇を堪能し、ゾロ屋の頭に手を回して、明日の事なんて頭からすっぽ抜けてもう片方の手をゾロ屋の服のその下にある肌に触れようと差し込もうとしたが、そこでやはりきてつが邪魔だなと思い、まず先にこのぬいぐるみにはご退場願おうかと、ちょうど腕のところを掴んで引っ張った。だがしかし、びくりともしない。
「………おい」
まさかぬいぐるみがゾロ屋にしがみついているはずも無い。しがみついているのはゾロ屋の方だ。ゾロ屋がぬいぐるみをきつく掴んで離そうとしない。それどころか口付けを拒むようにして首を振るものだから、意図せずとも不満に低い声が漏れてしまう。
「ゾロ屋、そいつ、きてつ、離せ」
「い、やだ……!つか!ヤんねぇぞ!」
「ああ?!」
「明日仕事だろう?!」
「それがなんだ」
「なんだじゃねぇよ!そ、それに……」
言い淀むゾロ屋は、離せというのにより一層きてつをきつく抱きしめる。ぎゅうぎゅうと抱きしめられたきてつに、阿呆でしかないが純粋に嫉妬してしまった。形が変わるほどに抱きしめられていると言うのに、赤い瞳がまるで満足そうに輝く。勿論錯覚だ。だがどこか優越感を見せつけてきているようで腹立たしく思っていると、ゾロ屋はボソリと言った。
「こ、こいつらが居るとこだと、いやだ」
「………」
それは、つまり、あれか。見られたくないとか、居た堪れないとか。恥ずかしい、とか。そういうものがゾロ屋の中にあるということか。
「……たっ……」
ただのぬいぐるみだぞ、そんな事考えるなんて、と口にしそうになったが、ゾロ屋はきつてをおれに「紹介する」という言葉を選ぶ程に愛着を持っている。それだけ大事で、大切にしたい存在であるということだろう。
自分の心の拠り所にも等しい存在となっているそれらの目の触れるところで、人の浅ましくも熱く、欲望に塗れた姿は見せたくねぇと。
「な……」
なんだそれは。なんだ、この超純粋培養された存在は。
先日、喧嘩になった夜のバーでは淫靡に微笑み「小娘のような」だの「強引にホテル」だの、肉欲をよくよくご存知な大人の男としての言葉ばかりを並べ立てていた男が、ぬいぐるみを抱えながら「こいつらが居るところだと嫌」なんて。
「……尊……」
「またそれだ」
「ふざ、な、ん、あ………ああもう!なんだその可愛い理由は!」
もしこれが、過去付き合った女が言った言葉ならば何を今更純粋ぶってんだかと呆れて萎えていた所だろうか、ゾロ屋が言うとなればおれの心臓が過去最高記録を更新する程に跳ね上がってしまった。下手すれば心臓発作でご臨終だ。してたまるか。
衝動を抑えきれず、きつてごとゾロ屋を抱き締めればそれなりの硬さと厚みのあるきてつに押しつぶされてゾロ屋が僅かに呻いた。悪いが耐えてくれ、おれも耐える。
「仕方ねぇ!寝るだけにしてやる!」
「泊まるか?おれは別にいいがお前明日……」
「何とかしてみせる!」
「そ、そうか……」
じゃ、いいぜ。
安心したように、そして嬉しそうに笑うゾロ屋におれは本気で自分の理性を試されているのではないかと思った。
事実試されたのだろう、多分。寝る時おれとゾロ屋の間にはワドーが寝そべったのだから。
試してきたのはコイツらなのかもしれない。枕元にきてつ、間にワドー。まるで見張られているような爛々とした眼差しに、なるほど確かにこりゃ手を出せねぇなと、痛感したのだった。
「ご機嫌ですね」
数日後、ペンギンが呆れたようにおれに言い放った。
「ああ、おれはこれからの人生をゾロ屋と共に過ごす事が出来るのだと思うとまさに世界が薔薇色に輝いて見える」
「らしくねぇ言葉……じゃ、問題解決?」
そうと言えるかといえばまた違うのだが。
ゾロ屋はおれへ秘密を打ち明けてからより一層可愛くなった。元から可愛いが、家に招いてくれるようになってからはもっとずっと可愛いと思える姿を見せてくれるようになった。
ぬいぐるみを抱える姿は相変わらずアンバランスだがふくふくと笑みをこぼす姿は写真に収めてそのうち写真集を作りたくなる程に愛らしいし、デカイぬいぐるみのしゅーすいに凭れて転寝をする姿には拝み倒したくなる程に情緒を崩壊させられる。天気のいい日には天日干しをするんだと言っては抱えてベランダへと出す姿は愛情深さを見せられて、新たな一面が続々と顕にされるのだからそりゃもう、世界は薔薇色だ。だが、しかし。
「まだ、後一歩だな」
「へえ?」
合鍵を、渡してくれた。もういつでも来ていい、と。そう言いながら。
一緒には暮らしてくれねぇのかと、嬉しく思いながらも合鍵の意味を考えながらポツリと呟いた言葉にゾロ屋は気恥しさを隠しきれない顔をして、対策を練っている、と言った。
つまりは、夜の話で、その際のアイツらの居場所について、だ。
「ゾロ屋の望むことならばなんでもしてやりてぇが……こればかりはな」
「なんの話しっすか」
「まだお前には離せねぇ」
なんとなく、ゾロ屋がおれを家へ呼ばなかった理由の一つに、おれとの関係があったのではないかと思っている。それはおれが想定していたのは少し違う。おれはゾロ屋が傍に居ると触れずには居られないというところだ。
アイツらが居るところでは所謂そういう雰囲気は出したくないゾロ屋、なのにおれは、触れようとするだろうから、呼ぶに呼べない、というところもあったかもしれない。
ならばどうするか、そんなもん考えるまでもない。アイツらにはアイツらの為の部屋を用意してやるしかないだろう。
「広めのマンション、買うか」
「お引越しにしちゃ中々お高い買い物ですね」
「ゾロ屋と、一緒に暮らすためだ」
「なるほど?え、ロロノアってそんなに荷物ある子でしたっけ?あ、筋トレ部屋とか?」
「ああ、それも必要だな」
「それも?」
他になにか?と首を傾げるペンギンに、おれそっと口元に笑みを浮かべた。
「……内緒だ」
まさかぬいぐるみの為の部屋だとは口が裂けても言えない。少なくとも、今は。
おれは近い未来、ゾロ屋と共に暮らすだろう家に思いを馳せ、幸せな気持ちを抱いて仕事へと戻るのだった。
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