蚊虻花鳥を惑わす
言うまでもないことだが、ひとにむやみに手を上げるのは本当によくないことだ。刀剣男士は戦うためにいるとはいえ、本丸では手合わせ以外の暴力沙汰は御法度である。痛い目にあわされれば、体も心も傷つくのだから――。
そのようにわかっていたからこそ、後家兼光はその初夏の昼下がり、おつうこと姫鶴一文字に平手でひっぱたかれた日光一文字が、「助かりました、ありがとうございます」と力強く言い切って頭を下げているところを見て、大混乱に陥ったわけである。
よく晴れた午後三時過ぎ、後家兼光は庭にいる刀たちにおやつの水羊羹を渡しに行くべくお盆を両手に歩いていた。
勝手口を出て母屋の壁沿いに進み、あっついなぁと思いながら角をまがったところでふと、姫鶴一文字と日光一文字が母屋の縁側に並んで座っているのが見えた。ふたりとも庭の花菖蒲を見ながらすでにおやつを食べていて、こちらの気配に気付いていないようだ。
ボクもお腹空いたな、とか考えながらのんびり歩いていたら、不意に日光があのよく通る声で「すみません、姫。お願いします」と言うのが聞こえた。
相変わらず慇懃だな、と思った次の瞬間、後家兼光は我が目を疑った――おつうがスッと手を上げたと思うと、しばし狙いをさだめ、そのまま日光くんの横っ面を張り飛ばしたのだ。ぱちん、と軽い音があたりに響いた。
もちろん、見る限り、姫鶴は明らかに全力ではなかった。後家兼光が彼の友逹だから庇っているわけではなく、姫鶴の張り手の本気はあんなもんではない。日光くんは引っ叩かれた方向に微動しただけで、水羊羹も無事だったようだし、ほぼダメージは受けていなそうに見えた――が、暴力は暴力だ。
そして、何より意味不明なのは、姫鶴が急にキレたとかではなく、日光くんのお願いを受けての張り手だ、ということだ。連隊戦の何百戦目で意識の限界、とかならともかく、非番の午後に気合い入れてもらいたくなること、あるか? 理解を超えた事態に後家兼光はその場に立ちすくんだ。急に暑くなったから幻覚を見てるんだろうか。
しかし、これだけでは終わらなかった。ひっぱたかれた日光一文字は、眼鏡を押しあげながら、はっきりした調子で確かに言ったのだ。
「さすがです、姫。助かりました。いつもありがとうございます」
いつもありがとうございます? いつもたたいてもらってるってことか? いったいなんなんだ。バイオレンスすぎる。
ところで後家兼光は、同派のみんなから格好いい言動について教わったとき「もし『後家くんはS? M?』ってひとに聞かれたら、『Lかな』って言うと安全だよ。服のサイズ的にも君はLだし、あと、SMっていう、ちょっと特殊な趣味が世の中にはあるから、それ絡みでからかわれるのも避けられる」ときいていた。
興味を持った後家兼光はそのあとさらにちょっと調べて、SMというものの概要を理解した。精神・物理・性的にひとをいじめることを楽しむSタイプと、いじめてもらって喜ぶMタイプがいて、お互いの需要を満たしあうらしい。
もしかしたら日光と姫鶴もそういうあれかも、と後家兼光は天啓のように思いついた。仮にそうならまだ納得がいく。さっきのあれは、おつうのビンタにしては手加減してたが、いちゃつきの一環ならさもありなんだ。取扱注意な趣味とはいえ、当事者が納得してるならご自由に、である。ていうか、ふたりって恋仲なんだろうか。だとしたらお赤飯炊かないと……。
邪魔しないように後家兼光は後ずさり、母屋を逆方向に大回りして離れに向かった。
その晩、後家兼光はお風呂上がりの謙信景光と五虎退を捕まえて、「おつうと日光くんって付き合ってるのかな」と聞いた。答えによっては明日、餅米と大納言小豆を買いに行かなくてはいけない。ふたりは丸い目をぱっと見開いて顔を見合わせた。
「そうなのか? はじめてきいたのだぞ」
「ぼ、僕もです。姫鶴さんがそう言ってたんですか……?」
「や、なんでもない。それならボクの思い違いかもしれないけ、ど……」
じゃあ、だとしたらふたりはただのSMぷれいやーずだってことか? 思わず口ごもると、五虎退と謙信は心配そうな視線をよこし、「なにかあったらはなしてだいじょうぶなのだぞ。ぼくたちも、せっぷんのしーんくらいはみたことがある。『白雪姫』というあにめで……」などと諭して、思案事を独りで抱え込まないようにと説得してきた。
だが、いくら今が深夜でも、見た目も言動もいとけない短刀相手に「や、おつうが日光くんをひっぱたいてあげてたから気になって。そういうプレイなのかな? 仲いいよね」とはさすがに言えない。むろん、ふたりのほうが兼光より年上だが、それとこれは別だ。
「あー、まあ、うん、たいしたことじゃなくて……あ、虎くんだ」
どうしようもなくなった後家兼光は、五虎退を呼びに来た虎くんをうっかり抱き上げてくしゃみをとまらなくする、という荒技を発動して部屋に戻り、どうしたものか、と思いつつ布団に潜り込んだ。付き合ってるけど皆に内緒なのか、それとも、SMだけの仲なのか――どちらかによって秘密度合いが大分違う。山鳥毛と小豆は遠征中だから、明日帰ってきたら意見をきこう。
翌日、朝ごはんを食べ終えた後家兼光が畑の様子を見ていると、後ろからすうっと影が差してきて、低い声で「ごっちん」と呼んだ。
「おつう。どうした?」
「あのさぁ、なんかへんなうわさ流したでしょ」
開口一番からこのテンション、間違いなく怒っている。「日光一文字と付き合ってるんだ、て、かちゃにまできかれた」と姫鶴は怒気交じりに言った。
どうも、昨晩寝室に来るのが遅かった五虎退を心配した粟田口の誰かが事情を聞き出して拡散し、火車切までの伝言ゲームの間に疑問文が断定に変わったらしい。ごめん、と後家兼光は心から謝罪した。
「でも、さすがに昼からあんなことしてたらボクだっておどろくよ」
「……」
「あ、もちろん、誰にも言ってないよ。にしても日光くん、すごいね」
姫鶴は、とても微妙そうな顔はしたが、なぜか無言になった。逆にいえば、姫鶴は「おれらはびじねすでSMしてるのに困るんだけど」と怒ったり、白い顔で「身内殴るの無理、助けて……」とか言ったりはしなかったのだ。後家兼光は内心ほっとした。
「お幸せにね。ケガとか気を付けなよ」
「……なにそれ」一言多いと姫鶴は毒づいた。「何がどーでもべつに、勝手でしょ」
「それはそうだ。ごめん」
いいひとに会えてよかったね、と後家兼光は心の底から言った。本丸に刀剣男士多しといえど、SM趣味ともなると数が少ない方だろう。
運命切り開いて会えたんだな、としみじみしていたら、貝のように黙っていた姫鶴が何かに耳をすますように顔を傾けたかと思うと、表情をキッと険しくした。
「待ってごっちん、かぁとまってる」
「うん? 『かぁ』?」
「すっごいデカい。うごかないで!」
早口にそう言われるのと、けっこうな剣幕の姫鶴にひっぱたかれるのがほぼ同時だった。ぱちん、と耳のすぐそばで破裂音が響く。後家兼光は頬を押さえて呆然とした。
「いっ……お、おつう……なんで……」
いや、いうほどは痛くなかったけれど、なぜボクに――。なんとまあそのとき、よりにもよって日光一文字が後ろから駆けつけてきた。
「姫! っ、遅かったか……」
豚さん貯金箱のような謎のオブジェを小脇に携えて立ちすくむおつうの彼氏(たぶん)の姿を見て、後家兼光は一気に我に返った。まずい。意味もなくひっぱたくのがおつうと日光くんの愛のかたちなら、おつうがボクをひっぱたいてるところを当の日光くんに見られたとか、不貞現場を抑えられたみたいなものだ。
「ごめん!!」後家兼光は頭を下げつつ叫んだ。「浮気じゃないから!! おつうも、ほら、たたくなら日光くんにしてあげないと……!」
姫鶴は目を剥いて、後家兼光が顕現してから聞いた彼の声のなかでも最大級におおきな声で「はぁ……?!」と言った。
日光一文字は困惑したように立ちすくんでいる。彼の持っている豚の置物のまるい口から、不思議な匂いの煙がたちのぼった――。
***
「……というわけで、ボクは今みんなの誤解を解くべく行脚をしている」
なるほどな、と内番着のジャージを羽織りながら山鳥毛は返答した。自分たちが遠征であけているあいだに、たかが蚊のせいでそんなことになっているとは――。
「まあ、姫鶴は蚊が嫌いだからな……」
刺されやすい分、警戒心も強いのだ。刀剣男士も蚊にさされるとあらかじめ言っておけば良かったね、と小豆は反省の弁を述べている。
可愛らしい花柄の虫除けシールを内番着の胸元に貼った後家兼光は、神妙に顔の前でぱんと手を合わせ、「噂が広がっていると思いますが、以上の通りそーすが事実に反するので、ご訂正のほどお願いします」と言った。
「わかったが――つまり、姫鶴と我が翼には交際の事実はない、ということでいいのか?」
言うと、後家兼光は一瞬黙り、頷くというよりは小首を斜めに傾げるような仕草をした。それから、怪談のオチを伝えるときのような小声で囁いてきた。
「噂の出元が完全にボクの勘違いなのはほんとなんだけど――謎なのはさ、なんでおつう、ボクが勘違いしてお幸せにとか好き勝手言ってるときにもっとはっきり否定してくれなかったのか――」
「いた、ごっちん。ひまならおやつ配んの手伝って」
お盆を持った姫鶴がひょいとふすまから顔を出した。後家兼光はさっと立ち上がって、姫鶴のお盆から水無月を載せた銘々皿を二人分取り上げると、驚嘆すべき素早さで山鳥毛と小豆の前に置き、「じゃあ、また」と言い残して去っていった。
二振りの足音が遠ざかっていったのを確かめて、山鳥毛は両手で一気に前髪を崩した。先ほど遠征から戻ったとき、日光が博多の粟田口に何やら冷やかされているところを見たが、おそろしく満更でもなさそうな顔をしていた。それに、後家兼光は姫鶴の隣の部屋で起居している。そのあたりを考えると、姫鶴が無言だったのは多分、昼から何かしらしていたからで――。
「……野暮だが、否定する必要がある話なのか?」
このままいくと近日中に姫鶴と日光の間で一悶着起きる。過去の経験から言ってまず間違いない。小豆長光は「まあ、おとなだもの、いつかはおちつくよ」と冷静に言ってコースターを置いた。
「いつかは……そうだな、いつかはな」
「きになるなら、きみがくちをだせばすぐどうにかするんじゃないの」
その可能性は高いが、だからこそ逆に下手に嘴を挟めないのである。きみもくろうするねえ、と小豆長光は苦笑している。水出し玄米茶をグラスに注いで一気に飲み干し、山鳥毛は深く息をついた。
窓辺には風鈴が揺れ、日光が置いていった蚊遣りの煙に混じって雨の匂いがする。少し気を取り直した山鳥毛は銘々皿を引き寄せ、水無月に黒文字を突き立てた。もうじき夏越の祓、本格的な夏はすぐそこだ。年の後半も家中安泰であるよう、長としても個人的にも切に願うのみ――まあ、仮にこれから一雨来て雷鳴が轟いたとしても、夏の夕立はすぐに止むのが常である。
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