夢の続きへ

暉長石号の船首には、夢境の空に翼を広げる大きな鳥の彫刻が飾られている。ひょいひょいと慣れた足取りでその舳先《へさき》に登った星は、強風で髪がめちゃくちゃになることにも構わず、網目のように広がって光り輝く夢の地を一人覗き込む。

様々な派閥の様々な思惑に終始翻弄されたピノコニーでの休暇も、そろそろ終わりを迎えようとしていた。調和セレモニーの裏に隠された問題が一先ずは片付き、この地を旅の終点と定めたナナシビト達への巡礼をも済ませた今、列車はじきに星や仲間たちを乗せて次の停車駅へと出発する。きっと姫子からそろそろ帰ってくるようにという連絡が入るのも、もう間もなくのことだろう。
だからこそ、星は残り時間の目一杯を費やすように今日もこの地を歩いてまわる。それはいくつかの開拓の旅のなかで彼女の習慣になった、振り返らずに前に進み続けるためのお別れの儀式のようなものだった。

「星。何がしたいのか知らないが、早く降りてこい」

背中に投げかけられた声に振り返ると、同行人が些か疲れたような顔をして星を見ていた。旅の終わりにピノコニーを見てまわるにあたり、なるべく連れ回すことを勝手に決めて引っ張ってきたのだ。他に目付け役がいないのなら仕方がないと、もうすっかり日常と化した溜息をつかれながら。

「丹恒、ちょっとこっちに来てよ。暉長石号ならここの眺めが一番だから」

ちょうどマダム・スカーレットに頼んで折り紙の小鳥たちにわざわざ退いてもらったところだ。鳥の頭を模した彫刻の先端はなんとも心もとない足場だが、二人くらいなら立っていられるスペースはある。ピノコニーの十二の刻を眼下に収める飛行艇の景色が絶景でないはずがないのだと、星は丹恒に向かって手を差し伸べる。

「俺はいい。それよりも落ちたらどうする気だ」

たとえ腕を組んだまま微動だにしない彼が、その誘いをすげなく断ることは最初からわかりきっていたことだったとしても。

「別に平気だよ。落ちたことならもうあるし」

言った途端に丹恒の眉間に皺が寄る。
思えば彼にはまだちゃんと話していなかった気もするが、星は初めて夢境に入った時に一回、そして花火に突き落とされて一回、この旅の間に既に二回も夢境の空を落下しているし、どちらもどうにかなっている。あと一回や二回落ちたところで本人的には慣れたものだ。

「……星。いいから降りてこい」
「なに、想像して怖くなっちゃった? あんた高所恐怖症だったっけ? ドリームボーダーのほうがよかったかな」
「場所の問題ではない。この夢境はもう〝秩序〟の庇護下にあった時とは別物だと認識して行動しろ」
「大丈夫だって。ここは私に付き合って『お前が飛ぶなら俺も飛ぶ』って言うところでしょ。『目を閉じて、俺を信じるんだ』『信じるよ、——空を飛んでる!』でもいいけど」

スラーダ熱砂オーディションで妙な自信をつけた星の迫真の演技に向けられたのは、悲しくなるほど訝しげな眼差しである。台詞の裏でも勘繰るような目で彼女を見た彼は、なんとか言ってよと唇を尖らせる星に深い溜息を返してくる。

「…………一体何の真似だ」
「何ってピノコニーの名作映画ごっこ。丹恒もしかして知らないの?」

露骨にげんなりした丹恒を無視して、星は少しだけ得意げになった。たしかシリアスだったはずの映画の中身など端から無視で自らよじ登った船首の上、意気揚々と腰に手を当てながら彼女は口を開く。

「色々あってすれ違った主人公たちが、夢の船の船首でお互いの信頼を確かめ合うんだよ。前になのと見たんだ。最後のほうは寝ちゃったし、どんな話だったかももうほとんど覚えてないんだけどね」
「…………」

どうやら丹恒にこの話題はあまりウケなかったらしい、返事の代わりに返ってきたのはこれ以上ないくらいの微妙な顔と沈黙だった。もしかしてネタバレ厳禁なタイプだろうか。そうだとしてもきちんと自己申告した通り、映画の終盤をなのかの肩での爆睡で迎えた星はそもそも物語を見届けられていないから、その心配はいらないのだが。
時々どうも気難しくなる丹恒に頬を掻きつつ、ひとまず星はこの話題を切り上げることにする。ここ最近はずっと別行動だったのがなんとなく心残りで、せっかく連れ出した彼の機嫌をこんなことでわざわざ損ねる趣味はない。

「船長の大事なお客をこの景色を見せずに帰らせるわけにはいかないんだよ丹恒」
「景色なら甲板からの眺めで俺は十分だ。向こうでならいくらでも付き合うし、今行くなら売店でスラーダでもゴミソーダでもなんでも買ってやる。だからまずはそこから降りるんだ」

「ちょっと、あんた私のことなんだと思ってるの」聞き分けのない子供でも宥めすかすような彼の言葉に、星は若干憤慨して言った。

「スラーダなんてホテルレバリーでもう吐くほど飲んだ。当分いらない」
「……」
「だいたい前に落ちたのはどっちも私のせいじゃない。銀河打者の体幹とバランス感覚をナメてもらっちゃ困る」

言いながら、星は立っている船首像の上で一回二回と飛び跳ねてみせる。今こそ調和の運命に目覚めた開拓者の真価を存分に発揮するときだ。膝はしなやかなバネになって星の意思に応え、彼女はやがてわずかな足場の上で軽やかにダンスのステップを踏んで見せる。

「おい星やめろ、何かあってからじゃ遅いと何度言えば——」

カツン、と靴先が金属に当たる音が響く。

「あ」

星の視界の端で丹恒が血相を変えたのと、彼女の足先が滑るようにして足場を捉え損ねたのはほぼ同時だった。
おそらくは、着地の時の爪先のわずかな角度の問題だった。それだけのことで、器用に保たれていたバランスはあっという間に崩れてしまった。
ふっと心臓が浮かび上がるような感覚と一緒に全身から嫌な汗が吹き出して、黄金の双眸が驚きと狼狽に見開かれる。咄嗟に彫像の背を駆け上がった丹恒が伸ばせる限り手を伸ばし、——まるでそれを嘲笑うように、足場を失った星の体は重力の腕に絡め取られて、無情の空へ放り出されてゆく。

「————ッ、星!」

焦燥に染まった丹恒の声に星が応えてしまったのは、半ば反射的な行動だった。次の瞬間ぱしんと乾いた音がして、引力に抗うように伸ばされた星の腕を丹恒が掴む。
渡してなるものかと叫ぶように、骨が軋むほどの力で握り込まれた。そうかと思えば次いで捥げそうなほど強く腕を引かれる。自業自得の失態を責めるようなその痛みに、星の顔が思わず歪む。
何かに体がぶつかるのと同時に守られるように包み込まれて、それまで全身を散々に打っていた風がほんの少しだけ和らいだのは、それからすぐのことだった。

「…………ちょっと待って、なんであんたまで落ちてるの」
「この状況で一番に言うことがそれか」
「いや、……えっと、さすがにちょっと混乱してる。落ちたとしても丹恒を道連れにする予定は」

気がつけば、二人諸共ピノコニーの空を落ちている。

「お前といると本当に、」

耳元でやっとのことで絞り出すような声がして、けれど結局言葉は最後まで続くことなく消えていく。その代わりのように背に回る腕の力がぎゅうと痛いほど強くなった。一連の出来事で胸に膨れ上がった感情をどうにかやり過ごすように、まるで何かを確かめるように、押し黙ったまま星の肩口に顔を埋めた丹恒の表情を、彼女がいま窺い知ることはかなわないけれど。

「丹恒、別にそんなに心配いらないよ。だってここは夢境なんだよ」
「……お前は、夢でなら俺が落ちていくお前を黙って眺めていられるとでも思ったのか」
「それは、……ごめん」
「二度とするな。悪い夢でも冗談じゃない、——心臓が止まるかと思った」
「……うん。本当にごめん、今回は私が悪い」

今彼がどんな顔をしているのかなんとなく想像がついて、さすがの星もしゅんと目を伏せる。丹恒は優しくて、そして誰よりも自分自身に一番冷徹なのだ。彼女を含む列車の仲間たちとの旅の永遠を願い、それが決して叶わない夢だと悟って目を覚ましてしまうような人に、こんなかたちで心配をかけるつもりはなかった。
ここは夢だから、多少のことは本人の意思でどうにでもできる。そしてそもそも星自身が星核が本体と言われたら否定のできない素体に過ぎないのだから、ちょっと傷が入ったところでさしたる問題にはなり得ない。星の持つそれらの認識が完全に裏目に出たのは明白だった。ピノコニーの開拓の旅で彼女はその大部分を身をもって学んでいるけれど、丹恒は違う。だって彼はここ最近彼女のした経験のほとんどを、一緒にはできなかったのだから。
考えれば考えるほど星は立つ瀬がなくなっていく。そうしてそのまま丹恒の腕に大人しく収まりながら、彼女は彼にしか届かない声量で言いにくそうにぼそぼそと呟く。「その、これは言い訳なんだけど」

「まさかこんな風に『お前が飛ぶなら俺も飛ぶ』をしてくれるとは思わなかったんだよ」
「…………星。一応聞くが、本当に反省しているのか?」

長い沈黙の末、腕の力を緩めた丹恒がやっと星を見る。問いかけに応えて顔を上げると、星を映す不機嫌そうな彼の瞳は思うよりずっと近くにあって、彼女は思わず瞬きを一つ。

「いつまでその話を引っ張る気だ」
「いいじゃん、それよりこの感じならあんた映画に出れるよ、主役を張れる。そういえば写真もよく売れたし」
「言っていろ。お前の小遣い稼ぎにはもう手を貸さない」
「ちなみに言っておくけど私もオーディションで優勝してるから。しかもこの宇宙中のエンタメが集まる夢の地ピノコニーで。だからいつか絶対共演しようね、最高の相棒役で」
「……何をどう聞いたらそんな話になるんだ。俺はやると一言も言っていない」

あっという間に脱線していく話題と丹恒の言うことなど結局半分くらいしか聞いていない星に、やがて彼は諦めたような顔になった。

「はあ……。お前にまともな受け答えを期待するだけ無駄だった」
「ごめんって」
「映画云々よりも今はこの状況を打開するのが先だろう」

言われて視線を動かせば、未だ地上は遥か彼方だ。夜明けの間際のような空の向こう、目を凝らした先で一際輝く摩天楼はきっと黄金の刻だろう。砂漠の星に築かれた、富と欲望、そして極上の娯楽の集う憶質の空を、二人抱き合ったまま落ちていく。
どれほど強く冷たい風に煽られても、彼女の背を支える腕は力強い。何なら丹恒はさりげなく自分を下敷きにどうにか星を庇おうとしているようにも思わなくもない。けれど、そんなことは不要だ。真っ直ぐに彼を見つめて、星は先回りするように笑って言った。「平気だよ、丹恒」

「夢は夢だから、地面と激突する前に目を覚ませば大丈夫。それより見てよ、このすっごい眺めをさ!」
「……まったく、呑気な奴だな」

このままずっとこうしているわけにはいかないことは、星もよくわかっている。時計の針は止まるまで未来へ向かってのみ進み続ける。目の前に広がる光景がどれほど心を奪うものでも、夢には必ず幕切れの時がくる。生命体はなぜ眠るのか、その問いに答えを見つけた今ならばそれは尚更に。

「ここでいろんな思い出ができたよ。友達が教えてくれた秘密基地で、もっと綺麗な空も何回も見た。きっと一生忘れられない。あんたにも見せたかったな」
「そうか」

自分のとっておきを分かち合うことの持つ特別な意味と繋がりを、星はこの旅で知ったのだ。
明けていく夜の複雑な色彩を描く空を、その下に一望する眠らぬ街の輝きを、いま息を呑むようにして二人見ている。星のするどんな取りとめもないお喋りにもいつもじっと耳を傾けてくれる丹恒が、すぐそこでいつも通りに静かな相槌をくれる。
欲しかった旅の全てがそこにあった。それら全てになんだか苦しいほど胸がいっぱいになって、星は思わず彼の背に回す腕にぎゅっと力を込めた。

「丹恒。次でも、次の次でもいい。また一緒に開拓しようね」

零れ落ちるようにして口をついて出たのは、夢にまで見た、けれどこの地で星が叶えることのできなかった唯一の心残りに他ならない。

「もちろんだ。言っただろう、開拓の旅は先が長い。心配しなくても、お前が望めばそんな機会はいくらでもある」

「うん、そうだね」その瞳に一心に星を映して返ってくる彼らしい肯定に、彼女は珍しくへにゃりと照れくさそうに笑う。それを見つめていた丹恒の目元もまたつられるように僅かに緩んだ。距離はずっと息遣いすら感じるほどに親密なまま、ほとんど無意識だろう、彼らのそんな表情の機微に気がつけたのは、きっと互いに互いだけだ。

「思い出は一つずつしか増やせない。でも、あんたとならきっとたくさん作れるよ」
「……ああ。俺たちは、出会って数日で引き裂かれる映画の主人公ではないからな」

永遠に明日の来ない夢境の空を、儚い幻想に時を忘れて耽溺する人々の頭上を、迷いもなく駆け抜けてゆく流星のように、やがて彼らは目を覚ます。
ずっと一緒にこの旅を。共に見た夢を夢で終わらせないために。

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