「星の終わり」本文サンプル


(おいていかないで!)
 それが塵《ちり》の初めての祈りだった。塵は目覚めた瞬間から宇宙の只中にいた。宇宙は生まれてから現在までとめどなく膨張を続ける無限であり、塵は蒼い星の人々が指先でつまめるほどの大きさしかない矮小だった。推力もなくただ真空に浮遊するちっぽけな塵にとって、光の進む速さで距離を数える宇宙の広さは途方もなく、自分が今どこにいるかなど分かりようもなかった。目覚めた塵にあったのはただ、放り出された、という直感だけだ。放り出された、どこから。なにから?
 疑問を抱いた途端、周囲の無音が悲鳴に変わった。光が見当たらないがために何もないように思われた四方の宙《そら》には、実は似通った姿形をした億万の同胞が漂っていた。同胞はみな混乱と焦燥に震え、共振し合った動揺は悲愴な叫びを生んだ。だがいくら群れを成そうと、痛ましい声を上げようと、星のように自ら光ることもできない塵芥《ちりあくた》では見つけてもらえるわけもなく、叫びは互いの内側を揺さぶり不安を膨れ上がらせるばかりだった。帯状に列を成して泣き叫ぶ夥しい数の塵芥は、無力の杭に縫い止められて身動きひとつ取れなかった。
 その悲鳴の列を辿った先の、彼方の宙《そら》には光があった。青白く煌《きら》めくその光は冷たく燃える一個の星だ。標《しるべ》もなく茫洋《ぼうよう》と広がる虚空をたったひとりで駆けている。疾る速度は澱みなく、描く軌道に迷いはない。闇闇《あんあん》たる宙に清冽《せいれつ》な横顔を煌煌《こうこう》と輝かせ、この宙に連なる次の宙を目指して未知なる道をひた走る。
 その疾駆を睨《ね》めつけている眼があった。惑星をいくつも周囲に従え真っ赤に滾る灼熱の巨星《きょせい》が、目の前を駆け抜けていく星を黒々とした瞳で睨んでいる。疎ましいのだ。宙を駆ける星は巨星の生まれたこの銀河よりも遠くの、もっと旧《ふる》い宙から飛んできた。自分よりもずっとずっと小さい光でありながら、原初の匂い、始まりの記憶をたずさえて、どこにも行けない自分の知らない宙をめがけて駆けていく。その若さが忌々しくてならない巨星は炎の色をした怒気を吐き、それでも光が怯まないと知るや顔じゅうを歪めて激昂した。巨星の激情は付き従う惑星をわななかせるほどの嵐だった。苛烈な怒りは駆ける星の青ざめた身体を無惨に焼いた。
 それでも星は疾駆をやめない。焼かれた身体が崩れようと止まる兆しはない。溢れた青い血潮は嵐に吹き飛ばされて、宙に輝く血の轍《わだち》を引いた。焼かれて溶け落ちた身体の一部も吹きすさぶ嵐に引き剥がされて、光の後ろに延々と屍肉の転がる帯を作った。
 塵がいるのはその帯のなかだ。その屍肉こそ塵の正体だった。けれど。
(ああ、)
 あれは自分だ。塵の身の内に確信が閃く。自分はあの星の一部だった。記憶を司らない自分が忘れてしまうほど遠い故郷から、那由多の銀河系を越えてようやくここまでやってきた。旧い宇宙をたたえた身体で新しい宙を渡るのは喜びだった。宙の果てを目指す疾駆こそ我が宿命、生まれた意味、輝けるこの身の全て。疑いの余地はなく、だからどこまでもどこまでも行けると信じて、なのに、なぜあそこに自分はいない。どうしてあれは遠ざかっていく。
 まるで放り出した自分のことなど忘れてしまったかのように。
(いかないで)
 ぽつん、と零れた信じがたい戯言がじわじわと凍りつくような実感を帯びていく。まさか、ありえないと思うそばから光は離れていく。そうだあれは振り返らない。自ら輝き、自ら道を選んで迸る、揺るぎなくも軽やかなあの星には振り返る理由がない。剥がれ落ちた無様な自分、光る力も駆ける術も持たない身体を顧みる理由はない。
(いかないで)
 塵の声は巨星が叩き付ける嵐の残響に掻き消される。嵐に裂かれた身体から血を絶えず流しながらも星は行く。砕けた身体を撒き散らしながらなおも燦然と宙を灼き、巨星の傍らを駆け抜けて新しい宙へと飛んでいく。
(いかないで! いかないで! おいていかないで!)
 こんなところに置き去りにされるのは嫌だ。どこにも行けない身体は嫌だ。お願い待って、一緒にいさせていやだ、いやだ、いやだ!
 塵の祈りに揺さぶられた周囲の同胞がこぞって同じ叫びを上げる。いやだ! いやだ! いやだ! 張り裂けんばかりの絶叫はそれでも光に届かない。彼らは星ではないから。宙を灼くこともできないから。
 光は放物線上の軌道を描きながら巨星の後ろへと回り込み、あっというまに見えなくなった。駆ける星は最後まで速度を緩めることなく塵のいる宙を脱した。光の流した血は嵐に吹き飛ばされて霧散したが、撒かれた身体は軌道に沿って帯状に転がったままそこに残った。塵芥の群れの絶叫は慟哭に変わった。星が二度と戻って来ないことは誰もが分かっていた。
 絶望が身体の底からせり上がってきて塵は嘔吐《えづ》いた。吐いても何も出てこないのに真っ黒な悲愴がいつまでも内から消えなかった。そのうち嘔吐きに嗚咽が混じり、全身から哀しみを振り絞るようにして塵は泣いた。泣いて、泣いて、泣き続けて、けれどその声は宇宙を少しも揺すらなかった。
 塵はこうして置き去りにされた。



 ある種の星は塵と息とが混ざり合って生まれる。輝きはないが堅牢な形を持った塵と、原初の輝きをたたえつつも形を持たない吐息とが、重力に引かれて互いを見つけ溶け合った果てに星となる。星に置き去りにされた塵芥もそのように、他の輝きと身を寄せ合って違う光になれたなら、深い孤独をその燐光で消し去れたかもしれない。だがこの宙では原初の豊かさを残した熱い息など絶えて久しく、冷えきった虚空に輝くのは古い星ばかりだ。
 自ら輝く星ならば己を示すこともできただろう。惑星ならば軌道を描く隣人を友にすることもできた。赤い巨星に追従するのも道のひとつではあったはずだ。だが星になれない塵芥はいつまでたっても暗いまま、星の去った軌道の跡に何ができるでもなく転がっている。
 彼らの大半は少しずつ、長い時間をかけて自分を閉ざしていった。高重量の星が死んだあとに残す黒い穴のような、互いの慟哭をその身に取り入れ続ける永遠に彼らは飽いた。自分はあの光だったのだと覚えておくことは痛みの保存でしかなかった。だから光を忘れ、自分を忘れ、ただの物質の塊になることを選んで沈黙した。
 一部は他の星に救いを見出した。光の敷いた軌道上、塵芥の横たわる帯の上を定期的に横切る星があった。その星は駆ける光とは揺らぎかたの異なる蒼をたたえていた。あの蒼は光の撒き散らした血の青と同じだ、と謡う声がどこかで挙がり、勘違いだと冷静に諫める声は黙殺された。あそこに飛び込めばもう一度光になれる、という囁きが広がるのはあっという間だった。
 蒼い星が塵芥の群れを横切るたび、軌道上にいた塵のいくらかがその身を惹かれて落ちていく。選ばれた幸福に歓喜の声を上げながら身を投げる。ありがとう。ありがとう。泣きながら落ちていく彼らが、けれど蒼い揺らめきに受け入れられることはない。蒼が映り込んだだけの空気の層にぶつかって、彼らの矮小な身体は跡形もなく砕け散る。砕けた身体はその場で燃え尽き、求める光には程遠い終わりにしか至れない。
 それは明確に彼らの死だ。自ら燃え尽きることもできない彼らに待つのは、それを救済と呼べるほどの永劫だ。



 最初の祈りが報われなかったあの塵はすっかり膿んでいた。疲れ果てるまで泣いたのに吐き出しきれなかった哀しみが、いまだ自分の底に澱《おり》となって沈んでいるのを感じていた。その重たさに抗う気力も持てず、引きずられ傾いだ格好のままぼんやりとそこに居る。時々遠くに蒼い光が見えて、またそんな時期かと思い、救いを求めて死んでいく同胞に何も感じないまま、途方もない時間をやり過ごす。
 時々自分が生まれた宙《そら》のことを考えた。ここで停滞している自分に永遠に終わりが来ないなら、せめてこの身が知っているはずの始まりを思い出したかった。だが空を駆ける光として生まれ落ちた宙、原初の神秘に満ちて極彩色に輝くという故郷の風景は、ちっぽけな頭のなかをいくら探してもなにひとつ見当たらなかった。あるのは何も生まれる余地のない虚《うつ》ろだった。
 いずれこの思惟《しい》も澱《おり》もその虚ろに溶けて、物を思わぬただの塊になるのだと塵は思った。幾億回めかの思考をそこで終え、また茫漠とした時間をやり過ごすべく、両の瞼を閉じるように意識を閉ざそうとした。
 その瞬間。瞼裏をこじ開けて知らない光が射してきた。

「こんにちは、お元気ですか。」

 その光はどこからともなくやってきた、奇妙な金属の塊から発せられた。塵より遙かに大きいが星というには小さすぎる。小惑星の追突ひとつでへし折れそうな細長い部分と、星にしては変に角張った部分や扁平な部分が混在しており、扁平な部分からは形も色も月に似た丸い傘が突き出ている。
 金属の塊は巨星から届く光を身体の表面に反射させているだけで自ら輝いているわけでもない。なのにその塊は塵芥の群れに向かって不思議な光を投げかけてきた。
「こんにちは、お元気ですか。」
「Hartelijke groeten aan iedereen.」
「Hello from the children of planet Earth.」
 光はひとつひとつが塵の知らない波長を持ち、仄かな温かさを含んでいた。塵の膿んだ内側を唐突に照らしながらも不躾に焼くことはしなかった。
「あなたたちは彗星の欠片ですね。この宙域から遙か遠く、ずっと旧《ふる》い宇宙からやってきた偉大なる旅人たち。蒼星《そうせい》人類に流星と呼ばれて愛されてきた、尊敬すべき先達のみなさん、こんにちは。お会いできて光栄です」
 塵はまだ知らなかったが、それは金属の塊が訪《おとな》いの灯として他者に手向けるよう与えられた、言葉と呼ばれる光だった。

powered by 小説執筆ツール「arei」