プロローグ
むき出しの指先を刺すように、風が体温をさらっていく。スモッグに沈んだ薄灰色の空が頭上に重く垂れこめ、その陰鬱な空気の下で、重い赤茶色のレンガ造りの建物が互いに身を寄せるように並んでいる。
ルーファスは、インクの染みでまだらに汚れた紙の包みを小脇に抱え、歩調を早めた。
「朝食を抜いて、夕食を減らして……」
揺れる赤毛の隙間から覗く眉間に深くしわが刻まれ、吐いた息が白く空に溶けていく。丁寧に仕立てられた外套が、その青年の、氷を張ったような青白さと骨ばった身体つきをかえって際立たせていた。
抱えられている包みの汚れ――青いインクは、すでに時代遅れの色だった。彼が生まれるよりずっと前には、この青の作る光が街路を照らし、家々の中にまで暖かな空気を運んでいた。
空腹の痛みが、ルーファスの顔に影を落とす。「廃業」という二文字が頭をよぎる度、青年の歩みは荒くなった。
青インクの値は、毎年上がり続けている。それなのに、彼の稼ぎは減っていく一方だ。背の高さと見てくれの良さのおかげで「ご婦人方」に贔屓され、なんとか今の仕事にぶら下がっている。
『蒸気は裏切らない。――燃料不要、魔力不要、新時代の動力へ。』壁に貼られた薄汚い紙が、彼の行先を覆うように街の景色を支配していた。
青インクを手放すまいと、ルーファスの腕に力がこもる。薄暗い現実から目を背けるように、視線を足元から前へと移した。気付けばもう、見慣れたアパートの目の前だ。壁と壁の間に押し込まれたその建物は、どこか息のしやすさを感じさせた。
ルーファスは、見慣れたポーチの前に、見慣れない影を見つけた。疲れが見せた幻かとも思ったが、それは確かにそこにうずくまっていた。風に追われるように白い石の段を駆け上がり、影を見下ろす。するとその半透明な影が揺れ、2つの金色の目がこちらを見上げた。緩くうねった髪の間から尖った耳が伸びている。肌の色は、月が輝く夜空をそのまますくい上げたような深い青だった。
世界から色が抜け落ち、人々のたてる音が頭のずっと奥で響き始める。ルーファスは呼吸を忘れ、静かに震えた。
「どうされたんですか。」
勤め先と雑貨屋、それに食料品店――限られた場所でしか言葉を発さない日々の中で、こうして誰かに話しかけるのは今月に入って初めてのことだった。さっきまで響いていた喧騒が心臓の音でかき消えようとしている。よく平静を保った言葉が出たものだと感心した。
影の瞳が大きく揺れる。それと同時に唇が開かれ、そのまま閉じた。
「どうされたんですか。」ルーファスの声が、もう一度繰り返された。これを逃したら、もう二度と何かを掴めない気がした。目の前の光に縋るように、声が自然と強くなる。
「動けなくなってしまって……。」その声は素直で、それでいて子供のような無力さが滲んでいた。
世界の色と、けたたましく響いていた通行人の話し声や馬車の音、そして自身の心臓の音がゆっくりと日常に戻っていくのを感じた。少しだけ、肩の力が抜ける。
「立てますか?」
差し出したルーファスの手に、あたたかさが触れる。同時に一瞬視界が揺れ、額の奥がざわめいた。
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