仁愛
私(わたくし)には、愛する二人の兄がいます。
神里綾人。その人は、雷神様にお仕えする社奉行神里家の現当主。家族をとても大切にしてくださって、その家族が帰る家を守るために寝る間も惜しんで働いています。白鷺の姫君として私に煌びやかな市井を任せる一方で、お兄様が裏でどれ程の重荷を背負ってらっしゃるか分からないほど子供ではありません。しかしお兄様が水面に落ちる水滴の波紋のように、それを曖昧にしてしまうことこそが、私がまだ子供だと思われている証でもあるのです。お兄様の背中に追いつくために、日々邁進するのみです。
トーマ。その人は、神里家の家司。屋敷の家事だけでなく、私たち兄妹の世話や離島での顔役をしてくれています。幼い頃にモンドから流れ着いて屋敷で共に過ごすようになりましたが、トーマの持ち前の明るさや前向きさには、私もお兄様もとても救われました。家臣でありながら、彼は私たちの友人であり家族でもあります。あの背中に護られたことは一度や二度ではありません。トーマのように大切な人を護れるような私でありたいです。
『朝夕に庭を吹く風に涼しさを感じるようになってまいりました。太郎丸が影で涼む姿が見られなくなって少し寂しい気がします。
ナタの旅が無事に終えられたこと私も嬉しく思います』
「旅人さんはお兄様に関する手がかりを、ナタで得ることができたのでしょうか……うう、尋ねて良いものか悩みますね」
兄を持つ妹として、少なくとも家族と離れ離れになって旅人が感じている、心細さや悲しさは理解できるはずだ。言葉を選びながらも和紙に筆を滑らせる綾華の表情はどこか楽しげで、それが世界各国を渡り歩く友人へ宛てた手紙だからだろうか。
耳をすませば、ちょうど文章を書きながら考えていた兄たちの話し声が聞こえてきた。そろそろトーマがモンドへ旅立つ頃合いだろうか。そうなれば見送るのも家族として当然の責務。それに兄たちの顔を見れば、彼女にかけるべき言葉が浮かぶかもしれない。筆を置いて立ち上がった綾華は、話し声のする方へ歩みを進めた。
「トーマ本当にそんな軽装で行くつもりかい?」
「軽装って、これ以上オレに何を背負わせようとしているんですか」
「君の母君への手土産」
「だから天麩羅は持っていけませんって! モンドまで何日かかると思っているんですか」
朝食を終えたばかりの屋敷の一室にてトーマは荷造りをしているところだった。モンドに帰省するから長期の休みが欲しいと言ってきたのだが、その目的が掃除とくれば理由を聞いた綾人はトーマらしいと笑うしかなかった。
経木に包まれた天麩羅をトーマの目の前に差し出した綾人は「美味しいよ?」と呑気に続けてくる。美味しいのは当たり前だ。だって綾人が稲妻では名店と知られる烏有亭(うゆうてい)に作らせたものだから。中にはおそらく綾人お手製の、大根で出来た椿の飾り切りが添えられているだろう。
綾人がここまで天麩羅にこだわるのは、以前トーマの母であるウルリーケに贈り物をした際、たいそう気に入ってくれたという経緯があるから。トーマとて主が自分の母親の好みのものを持たせてくれるのは喜ばしいことではあるが、稲妻で有名な配達会社の狛荷屋(こまにや)に配達をお願いするでもなく、素人が何日もかけて船旅をするのに持ち歩くのは少々いただけない。それにトーマの料理の腕を持ってすれば、確実に現地で作った方が賢明だ。
それでも綾人の気遣いが嬉しくないはずがない。
「若のお気持ちは嬉しいのですが、途中で稲妻の城下にも立ち寄るので、足の速い食べ物を持ち歩くのは少々難しいです」
「それならば、これは道中に君が食べると良い」
「ありがとうございます。そうさせていただきます」
せっかく綾人が準備してくれたものだ。食材を無駄にすることも、綾人の気持ちを無碍にすることもなさそうだと、トーマは胸を撫でおろした。
「トーマ、とお兄様。こちらにいらしたのですね」
綾華が部屋を覗いてみるとトーマが広げられた荷物を大判の風呂敷の上にまとめて、丁寧に包んでいるところだった。横に退けられているものは持っていかなくても良いと判断したものだろうか。手伝っているように見えて、横から眺めているだけの綾人を気にするようなトーマでもない。
「おや、旅人さんへの文は書き終えたのかい?」
「書きたいことが次々と出てくるので、少し筆を置いてみました」
嬉しそうに、少し照れたように笑う綾華に、綾人とトーマは穏やかな笑みを向ける。テイワットを旅する旅人の名声は遠く稲妻までも届くほどで、息災でいるか気にかけている綾華にとって手紙のやり取りは心安らぐものだった。同じ兄を持つ妹としても、彼女と意気投合するところがあったのかもしれない。
「あはは、お嬢らしい。旅人は今ナタにいるのかい?」
「はい。じきナド・クライへ向かうと、先日の手紙にそう書かれていました。トーマのお母様も確かナド・クライに行かれるのでしたよね?」
「そうなんだ。しばらく留守にするからってオレに家の掃除を頼んできてさ、参ったよ」
「久しぶりの里帰りだろう。もう少しゆっくりしてくればいいのに」
「いえ、充分すぎる休暇を頂いていますから」
「そうかい? それじゃあゆっくり羽を伸ばしてくると良い」
そう言って綾人と綾華がトーマを見送ったのは六日前のこと。トーマがモンドに旅立って、もうそんなにも経った。屋敷の中は普段より少し静かではあったけれど、いつも通りの日常が流れている。けれどそこにほんの僅かな違和感を感じるのは、居るはずの人が居ないというぽっかりと空いた穴のせいだろう。
綾人が身支度を終えた頃、家臣が部屋へやってきた。普段なら、トーマ相手なら、多少の我儘だって許されると、起こされて身支度を手伝わせるというのに。朝食だってそう。普段ならトーマが側に控えて、時には一緒に食べたりするというのに。
朝食を一人食べ終えた綾人は廊下を静かに歩きながら、ふととある柱の前で足を止めた。それは年の初めに背比べをして印をつけた柱だ。懐かしそうに目を細めながら綾人は柱の傷を撫でた。今の綾人の目線よりもうんと低い位置から刻まれたその傷は、最初は二人分だった。そこにトーマの名前が増え、当たり前のように毎年、綾人の母親の華代が記してくれていたのだ。
ぼんやりと柱を眺めながら、綾人は小さく息を吐いた。
鎖国が解けて諸国との外交が活発になり、稲妻内だけでなく他国へ綾人自ら足を運ぶなんてことも多くなった。社奉行当主が自ら国外に赴くなど、以前では考えられなかったことだ。それだけ稲妻の情勢が落ち着いていて、社奉行も安泰という良い兆しだ。
公務で家に帰れず、数日不在にすることもあったぐらいだ。綾人が数日家を開けて帰宅しても、トーマはとびきりの笑顔で綾人の好物を作って出迎えてくれていた。ほんの六日だ。六日会えないだけなのに。寂しいと言ってしまえばそれまでだけど、それを口にするのはほんの少しだけ憚られる。
「はーぁ……いつから私はこんなにも……」
――弱くなってしまったのか。その場に座り込んだ綾人は柱に額を押し付けて息を吐く。
社奉行当主として、神里家長男として、綾人はいつだって気を張っていた。弱みを見せれば足を掬われ、隙を見せれば安易に取り入られる。いつだったか全てが敵だと思っていた時期があった。疑わしい者を遠ざけ、トーマにも故郷に帰るよう言い渡した。それでもトーマは真っ直ぐな瞳で綾人に忠誠を示し、神の視線を浴びたのだ。それ以来、綾人はトーマの心を疑うことがなくなった。
往来でこんな姿誰にも見られたくないのに、どうしてか今は弱音を吐きたくなってしまった。綾華のように己の感情に素直で、純粋であれたらどれだけ良かったか。
背後で小さな悲鳴が聞こえて、ぱたぱたと慌てるような足音が聞こえてくる。武道に通じ、忍である終末番を抱える家系でもあるのに、感情を消すことができずに足音をたてるとは。
「お兄様いかがされたのです?」
やがて聞こえてきた焦燥した声に、綾人はしまったと顔を上げた。
「……綾華」
「もしや具合が悪いのですか?」
「大丈夫。心配ないよ」
「顔色が優れないようですが……はっ、またトーマが居ないからと無理をしたのではないですか?」
「なぜそこでトーマが?」
膝を軽く叩いて立ち上がった綾人は首を傾げた。それにつられた綾華も「違うのですか?」と綾人と同じ方向に首が傾く。
「トーマは、関係ないよ」
嘘だ。多いに関係あるというのに。
「そうですか……私はてっきりお兄様が寂しがっていらっしゃるので、無理にでも根を詰めているのではと思っていたのです」
「コホン……綾華、私は寂しがってなど」
「隠さなくても大丈夫ですよ。私もトーマが居ないと、やはり寂しいなと思っているので」
泣きぼくろのある空色の大きな瞳が優しく緩む。扇子を口元にあてて綾華が微笑んだ。品があるその仕草は、彼女の母親に似ているようでもあった。
「ふふ、そういうことにしておこうかな。綾華、これはトーマには内緒だよ」
「はい。私とお兄様だけの秘密ですね」
「さて、と……トーマは明日には戻ってくるんだったね」
「そうですね。何か、そうですね、トーマの好物でも準備しておきましょうか」
兄妹が家を空けて帰ってきた日に、トーマがいつもしてくれていたことだ。トーマの好物と、腕を組んで考える二人はしばらくして「あ!」と同時に声を上げた。
「「鍋遊び」」
同じ提案をした綾人と綾華は肩を揺らして笑いあった。
鍋遊びとは各々が違う食材を準備して鍋の中に入れ、目を閉じて具材をすくいあげて、誰が準備した食材か当てる遊びで得点の多かった者が勝つというものだが、トーマが気に入っている遊びでもあった。それぞれが織り成す具材の味で、それはもうなんとも言い難い味になるのだが、それは綾人の遊び心のある牛乳や、塩と砂糖を間違えた水饅頭を常に食べさせられるからこそ付いた耐性とでも言えるのか。兎に角、トーマも綾人に負けず劣らずへんてこな遊びに興じるのが好きなのだ。
◇◇◇
トーマがモンドから戻ったのは翌日の夕方だった。稲妻を出立した時より大荷物なのは聞かないでおこう。
「長らく留守にしてすみませんでした。お陰様で元の家よりピカピカにできました!」
「それは良かった。モンドではゆっくりできたかい?」
「はい。酒場で新しい友人もできて、母さんの話を聞けました」
「新たなご友人が! それは素敵ですね」
「それで、これはお土産。アップルサイダーって言って、お酒じゃないからお嬢も飲めるはずだ。それにこれは若にと、蒲公英酒。あとこれは――」
次々と出される瓶や食べ物の包みに工芸品。トーマが大荷物になっていたのはこれが理由だった。
「モンドから食材も仕入れてきたから今度二人に何か作るよ。あと鍋遊びにでも使ったら面白そうだな」
「トーマそれなのだけど、今夜鍋遊びでもどうだい?」
「え?」
「実はお兄様とひっそりと計画していまして、準備も出来ているんです。あとはトーマが食材を選んでください」
「うん、やろう! それじゃあ早速食材を選んでくるよ」
いそいそと食材を持って厨へと走っていくトーマの、金色の髪の尾が嬉しそうに揺れていた。
ちなみに綾人が選んだ食材はミントゼリーとウナギ肉、綾華はきのこピザとラズベリー、トーマは謎の肉とツルツル豆
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