音楽のある風景/悪犬(2023.9.14)

⚠︎未来捏造・ルームシェア設定

「ただいま」
 玄関から、暗いままの廊下に向かって声を掛けた。返事はない。リビングの電気はついていないから、きっと作業部屋か寝室にいるのだろうとあたりをつける。まだ夜は浅く、寝るには早い。それなら、作業をしている可能性の方が高い。
 リビングに鞄を置いてから、足音をなるべく立てないで廊下を逆戻りする。ノックもしないで握ったドアノブはあっさりと回って、きぃ、と微かな音を立てて開いた。
 部屋の中にいる相棒の姿を認めて、彰人はやっぱりな、と思った。電子キーボードの前に座った冬弥は、彰人が帰ってきたことに気がついていない。ふたりの貯金で買ったキーボードは台の上に乗せて、その前に椅子を置いている。ピアノをやっていたくせでペダルを踏もうとして、冬弥が足先を遊ばせるのを見兼ねて、彰人がフットレストを購入した。
 冬弥の手はなめらかに動いていて、そのぶんキーボードの鍵が落ちるかたかたという音は滞ることがない。相棒の奏でる音は細いコードに吸い込まれて、けっして彰人には聞こえない。真剣な目はじっと指先に視線を落としている。
 彰人は知らぬ間に肩に込もっていた力を抜いた。気配を殺したままでまた、そっと呼吸をする。
 たった壁一枚隔てたくらいで聞こえなくなる、冬弥がキーボードを弾くときの息づかいが、彰人はいたく好きだった。黙って、今は聞こえない音を想像するのが好きだった。その明晰な頭と優れたセンスから、世界にあたらしく創り出されていく音楽を想像するのが、好きだった。彼がヘッドホンを外して彰人に聞かせてくれるものが、己の想像をいつだって上回っていくことを知っているからこそ。
 冬弥がすっと鍵盤から指を離して、彰人はその曲が終わったことを知った。ふぅ、と深く息を吐いた冬弥がヘッドホンを外して扉を──こちらを振り返る。涼しげなアイスグレーがまるく見開かれた。
「彰人、帰っていたのか」
「おう。ただいま」
「おかえり。気が付かなくて悪かった」
「いや、今帰ってきたとこだから。そんなことより、何弾いてたんだ?」
「ああ──ちょうど、新しい曲ができたんだ。彰人も聞いてくれ、コーヒーを淹れてくるから」
 さっと立ち上がった冬弥がぱたぱたとリビングに向かっていく。ほんとうは、冬弥が演奏している姿をしばらく見ていたから、「今」帰ってきたと言うのが正しいのかはわからなかったけれど。別に飲み物を持って来なくたってよくて、一刻も早く最高の相棒の作った旋律を聴きたかった。楽譜立てにはA4の紙が一枚だけ。冬弥がアイデアを出すときに書き出していく記号たちはまだ彰人には解読できない。仕方なく、ローテーブルの前に腰を下ろして、相棒の足音が近付いてくるのを待った。



 『作業しながら待ってる』の返事があったから、冬弥はできるかぎりゆっくりと鍵を回した。かちゃん、ともう慣れた感触と音で扉は開く。
 買ってきたばかりの食品たちがカバンの中でがさがさと音を立てた。耳障りに思えてしまうことを申し訳なく感じながら、足音を殺して歩く。予算の関係上防音の部屋を借りることはできず、たどたどしいピアノの旋律が廊下に漏れ出していた。自分の顔に笑みが宿るのがわかる。
 オレにはこれだけでいい、とパソコンを抱えて言い張った彰人を説得したのは冬弥だった。これまで己の喉と耳だけでやってきた彰人は、音楽の授業以外で楽器に触れたことがなく、もちろん鍵盤だってわからないと言った。いつか慣れたらきっと、打ち込みをし直すよりもそちらの方が手間が省けるようになるだろう、と冬弥が主張して、手取り足取り教えると約束したおかげか、彰人が折れてくれることになった。できるようになって困るってわけでもないしな、とのことで。
 拙いメロディはところどころ止まって、それでもどこか、冬弥の耳にはきらめきをともなって届く。いつだって冬弥の心に手を差し伸べて、上へと引き上げてくれる。強烈なまでに前を向き続けるひとらしい音楽だ。
 作業部屋の目の前に立ったとき、冬弥の踏んだ床板が小さく軋んで、ぱたりと扉の先は静かになってしまった。そうっとドアを開けば、彰人はぱっと振り向いて、おかえり、と告げてくる。今回ばかりは成功するのではと思っていた冬弥にとっては残念な結果だ。
「……もっと聞きたかった」
 つい、挨拶より先に不満が口を衝いた。相棒は呆れたように肩を竦めて、冬弥が弾いてくれればそれでいいから、とキーボードの横に置いていたノートパソコンを手に取る。そうやって、懸命に作っていたものを一呼吸で投げ渡してくれるくらい信頼されているのが嬉しいと思う反面、冬弥の教えたとおりに鍵に触れるところを眺めていたいとも思う。
「つーか、そんなことより先に飯だろ。買い物頼んじまって悪かったな」
「いや、いいんだ。むしろタイミングが良かったくらいだ」
「そうか? なら、良かったけど」
 ひょいと冬弥の手からエコバッグを奪った彰人がキッチンへと歩いていく。後を追いながら、食事が終わったらもう一度頼んでみようと決める。それから、忘れていたことがあって口を開いた。
「彰人、ただいま」
「おう、おかえり」
 声にはすこし、しょうがないなとでも言いたげな響きが乗っていた。
 


 波に揺られている、と彰人は思っていた。
 ふわふわ、居心地の良い感覚の中をたゆたう。あたたかくて、やわらかくて、きもちがいい。きらきら、音が降ってくる。鼓膜から脳を伝って、ちかちかと光を感じるくらいにまばゆくて、目を開けた。
 そうして寝ていたことに気がつく。何度か瞬きをして平常を取り戻した視界は、見慣れた作業部屋の床だ。楽譜や書き散らしたメモが乱雑に落ちている。椅子の足と、それに座っている人間の足を認識してから、ああ、冬弥がキーボードを弾いていると知った。どうやら、さっきのきらめきは彼の指先からこぼれたものらしい。
 たぶん、夜遅くまで作業をして、そのまま寝落ちてしまっていたのだろう。掛けた覚えのないブランケットはまだすこしつめたくて、冬弥が起きてからさほど時が経っていないことを示していた。変な姿勢で固まっていたせいか背中が痛い。身動ぎした拍子にローテーブルに足をぶつけて、冬弥がちらりと目線を寄越した。
「はよ」
「彰人、おはよう」
 のそのそと起き上がる彰人を、冬弥はなんだかおかしそうな顔をして眺めていた。くぁ、とあくびをひとつしてから、なんだよ、と彰人は相棒に尋ねた。
「いや、なんでもないんだ」
「なんでもなくないだろ。言えよ」
「その、……眩しそうな顔だな、と」
 眩しい? と、彰人は首を傾げる。遮光カーテンは閉められていて、朝日は隙間から顔を覗かせる程度だ。そう言われるほどの光が差し込んでいるわけでもなかったし、部屋の電気はまだ眠っていた彰人を気にしてか付いていない。
「ああ。うまく言葉にできないが──たとえば、ステージの上を見ているような表情だな。スポットライトを見るような……」
 相棒の不器用な言語化でも、彰人にはなんとなく理解できた。眩しいということばに引っ張られたのか、スポットライトのイメージで浮かんだらしいそれは、「憧れ」や「尊敬」という感情がいちばん近いだろう。
「俺はなんだか、彰人のその顔が好きなんだ」
 冬弥は瞼の向こうに灰色の瞳を隠して、そっと白黒の長方形たちに手を這わせた。買ったばかりの頃、ピアノの鍵盤のように力を込めて、怪しげな音を立ててしまっていたのが懐かしい。これを担いでステージに上がることはないのだから、強弱の表現機能などは必要ないだろうと彰人が助言した。今ではすっかりこの軽さに慣れてしまったらしいから、ひょっとするとむしろ以前のようにピアノを弾く方が難しいかもしれない。
「そうかよ」
 ブランケットを払い除けて、ぐんと伸びをした。冬弥のピアノを聴きながら目を覚ますのは、ひどく気分が良かった。オレもこの瞬間が好きだ、とは恥ずかしくて口に出せず、代わりに冬弥の隣に立つ。朝飯はしばらく後でもいいだろう。
 


 ふわ、と意識が浮き上がって、寝ていたな、と思った。机に伏せるような体勢だったせいか、首にひどい負荷が掛かっていたようだ。背筋を正すと、肩から布のずり落ちる感覚がする。よく確かめてみると、それは彰人が着ていたはずのパーカーだった。共に暮らす部屋の中で何度となく見た、部屋着用のものだ。当の彰人はといえば、キーボードの前に丸い背中が見える。
 いつもは冬弥が右足を乗せているフットレストは、今は彰人がだらしなく伸ばした踵の置き場になっていた。冬弥とは違って、彰人は歌っていないときはたまに姿勢が悪いことがある。学生時代は勉強中に発揮されていたそれは、近頃は作曲の作業中によくするものになった。特に迷っているときには。
 いつにも増してゆっくりと押される鍵は、かたかたという音すらしない。楽器店を覗いて手慰みにピアノへ手を添えた彰人が、その重さに驚いていたのをよく覚えている。ピアノの、ことりことりと落ちるそれより軽いうえ、悩みながら弾くものだから、目を瞑っていてはキーボードを弾いていることには気づかなかっただろう。
 彰人の音が聴きたい、と思ったけれど、冬弥がまだ寝ていると思ってヘッドホンをつけている彼の優しさを、もうすこし感じていたい。時計は午前三時を指している。意識を手放す直前まで作曲に熱中していて正確ではないが、眠ってしまってから一時間と経っていないはずだ。おそらく彰人はそのまま作業を続けているのだろう。
 冬弥は紙とキーボードでほとんどの作曲を済ませてしまうが、彰人にはノートパソコンが必需品だ。鍵盤から手を離してはタッチパッドで操作して、入力と再生を繰り返す。数えきれないほどの音を切り捨て、妥協のない精製の果てにあるのが彰人の作品だ。
 テーブルに頬杖をつきながらふわふわ揺れる橙色の髪を眺める。じっと観察していて気がついたけれど、たまにがくんと前に体が倒れかけている。指に力が入っていないのも、眠りそうになっていたからだろう。
「彰人」
 声を掛けると、相棒はすぐにこちらを向いた。おきてたのか、と返してくる発音がすこしぼやけている。
「すげぇ良い曲できそう」
「それは良かった。だが、」
 にこにこと告げてくる彰人の横に立って、キーボードを弾くために爪を切り揃えられた手を掴んだ。嬉しそうなトーンに乗ってしまいたいのは山々だが。
「彰人、もう夜も遅い。今日は寝てしまおう」
「あー……。そうだな」
 ちらりと時計を見た彰人が頷く。腕を引けば大人しくついてきた。電気を消して、作業部屋を後にする。「すげぇ良い曲」は、明日のたのしみにしていよう。



♪音楽のある風景/haruka nakamura

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