名前 その2


止めるべきだったかもしれない。
兄弟子が、布団から手を伸ばして枕元をごそごそと物色している気配を感じたとき、僕は隣に敷いた布団の中で、翌日の仕事のことを考えていた。
正確には、出会った頃の三代目草若の、『算段の平兵衛』を演じていた声と、仕草を、記憶の中に探していた。
明日は朝早くに家を立って三宮のホールに出かけることになっている。昼席と夜席をこなして、戻って来るのはほとんど午前様だ。
今しがた、兄弟子である年下の男が見せた、理性を手放した顔つき、最中の熱っぽい声、腕の中に入れたときの身体の温度。そうした、目に焼き付けたばかりの甘ったるい情景を、なんとかして明日の朝までに頭の隅に追いやってしまう必要があった。
そんな中、静けさを破るようにして「なんやこれ」と言うつぶやきが聞こえ、そこで漸く、僕は兄弟子の方に顔を向けた。
「『授業参観のお知らせ』に『遠足のお知らせ』か……。お知らせの紙、えらいくしゃくしゃになってんな、これ?」
その言葉に、ああ、と僕は今思い出したような顔で呟いた。
子どもがこっそりと屑籠に捨てた紙屑を拾い上げた日のことを覚えている。
僕自身、母親がけばけばしいファッションで教室の隅に立って悪目立ちするのを嫌がる子どもだったので、まあ落語家の親がそれらしい和装をして来るだろうと思い込んで嫌がっているのだろうと思っていたが、案内に書かれた日付を見て肚落ちした。
「そこのカレンダーと日付、合わせて見ると面白いですよ。」
「なんやなんや、」と草若兄さんは顔を上げ、あ、と何かに気付いたように声を上げた。
「……おい、これのどこがおもろいんや。両方、お前の仕事の日ぃと被ってるやないか。しかも、授業参観の方はもう終わってるで。」
「そうですね。」と言うと、親がそんな他人事みたいに言うてどないすんねん、と頭を叩かれた。
「仕事のドタキャンは出来ない以上、僕が不参加の前提はどうにもできませんが、この部屋で捨てた、言うことは草若兄さんにも言うつもりがなかった、ってことでしょう。まあ、僕に甘えてるのかもしれませんが。」
「書類、紙くずにして捨てたんやろ。それで甘えてるて、なんやねんその言い草。」
反論してくる甘っちょろい兄弟子に鼻を鳴らしたいような気分で「僕は、この手の書類は学校の中か通学路で捨てて来てましたから。」と言った。
「おぉい!」
「絶対親に見つかりたくなかったら、登下校の途中で川に破って捨てて来るとか、いくらでもやりようはあるでしょう。」
僕がこうした学校行事の証拠を完璧に隠滅したい子どもだったのは、かれこれ三十年以上も前の話だ。
捨てていたのは、まあ小川と言うよりただの水路だ。かつて登下校していた道沿いにあった農業用水路は、今のようにコンクリートブロックで固められていることもなく、僕はよくそこを使っていた。
丸めて捨てて、それで終わり。
担任は母親が授業参観には決して来ないことを多少訝しんではいただろうが、当時は固定電話以外にはプリントを持ち帰るしか連絡手段もない時代だった。
そして、僕の母親は男が出来たとなると、家には寄り付かなくなり、子どもを顧みないことの方が多かったのだ。
「そういうとこ、オレも全く分からんとは言わんけどな。……それにしても、おちびのヤツ、授業参観はともかく、遠足のお知らせ捨てて、どないするつもりやったんやろ。」
「そこです。」
「弁当はともかく、リュックとかお茶とか、普通にお前に準備させなあかんのに。」
「だいたい、こういうときにあいつがどこに頼るかは決まってますけどね。」
寝返りを打って、兄弟子と顔を見合わせる。
「まさか……若狭と草々のとこか?」と言われて頷く。
そもそも、まさかも何も、今晩もあの二人のところに預かり保育を依頼しているのだ。
仕事を口実に、こうして身体を重ねる悪い大人がふたり、こうして子育てを語っている。
昔の僕は、師匠の前でこの人と隣合って座り、稽古をしたり、蟹の足や若狭鰈を取り合う、ただそれだけの仲だったのに。
「あの二人も、僕が一人で子育て出来るような器やないとちゃんと分かってますし、そのために入り用な金は、預けてありますから。この間も、遠足のリュックとかお茶とか買うのにこれだけ掛かって、これだけ余ったので、レシートと残金が戻ってきましたし。」
「喜代美ちゃん、このところ、おかみさんとしてえらいしっかりしてきたもんな。昔は、底抜けにお金あらへん、て泣いてたのに。」
若狭は底抜けは言ってないでしょう、と言うと、もののたとえや、と兄弟子は笑った。
「残った分はおやつ買って上げて、て言われたけど、草々兄さんにこれでイカ串買ってやれ、て五百円玉も一緒に渡されましたんで、明日適当にその辺に出掛けて駄菓子買ってきてください。」
「来てください、てお前……、オレにバトン投げようとすんな!そもそも、遠足のおやつ選びなんて、遠足本番より大事な行事やないか。傍から大人が口挟めるかい。」と草若兄さんは呆れたように言った。
あくまでも子ども寄りの発言には笑ってしまう。
「あいつも『草若ちゃん』と一緒の方が楽しいですよ。」
「そうかて、オレは親と違うし。」
「僕の面倒見てた昔の師匠やおかみさんと、今の草若兄さん、どこも変わらないですよ?」
遠慮はせんといてください、と言うと「お前がそない思ってんのは嬉しいけど、ちゃんとあの子の気持ちも聞いたらんと……。」と踏ん切りがつかないような顔になっている。
ここまで育児に嘴挟んで、参加もしてるのに、どうしてそこで一歩引こうとするのかが分からない。
「草若兄さんなら、ここに名前を並べて書いてもいいくらいですけどね。」
遠足の書類を仕舞いつけていた同じ紙挟みの中から、他の書類も抜き出そうとすると、一番上に、見覚えのある書類がもう一枚。月曜日には子供に持たせないとならないことを思い出した。
「……なんや?」
「いえ、」
書いたその日のうちにランドセルに入れておこうと思っていたのを、すっかり忘れていた。
もう一度内容に目を通して、FAXの機械でこれを複写しておくかどうかと考えていると、草若兄さんが隣から覗き込んだ書類を長い手を伸ばして取り上げた。
「親の同意が必要な書類か……。そういえば、お前こういう名前やったな。」
「草若兄さん、昔っから、こういうリアクションだけは素早いですね。」
「そこは感心するとことちゃうやろ。」
僕の本名が書かれた書類を見て、兄弟子は不機嫌そうに口を尖らせている。
「クラサワシノブて、ほんまに名前までカッコつけやな、お前は。」と言われて、ふ、と口元が緩むのを感じた。
「ヨシダヒトシかて、ええ名前やないですか。」
仁之助の仁に、志保の志。
僕が好きなふたりの人間から取られた名前。
「仁志、」と名を呼ぶと、兄弟子はふいと顔を逸らした。
「……もう寝る。」
そう言って、ごそごそと布団の中を移動した男は、こちらに背を向けて丸くなった。
もう長い事、深い仲になるような相手がいなかったという年下の男は、セックスを終えた後のムードというものを大切にすることがない人間だったが、よりによって、このタイミングで狸寝入りをしようとするとは。
「もう一回言いましょうか?」
身体を近づけ、耳元で「仁志。」と名を呼ぶと、薄暗がりの中で耳元が赤くなって、ぴくりと背中が震えた。
たっぷり一分も待った後で一言、兄弟子は「……オレはシノブて呼んだりせえへんからな。」と言った。
「それは構いませんけど。」と着込んだパジャマの下から手を入れる。シャワーを浴びたばかりの肌は幾分かしっとりしている。
さっきまで散々になぶった胸の辺りをまさぐると、は、と熱のこもった吐息が聞こえてきた。まるでドライオーガズムに達したかのような敏感さで、どこに触れても甘い声が返って来た。
「これ以上はあかんて、しぃ。」と小声でたしなめるような返事が返って来ても、そこに拒絶のニュアンスは感じられない。
僕は、彼の腰に昂ったモノを押し当て「もう一回だけ。」と懇願する。
「ほんまに一回だけやで。」という言葉の返事にはっきりとは答えず。僕は、彼の首筋に唇を押し当て、もう一度だけ、この人が生まれた時に名付けられた名を呼んだ。
無言で頷く気配と、衣擦れの音。
手を伸ばして、電気を消してしまうと、後はもう、彼の肌に溺れるだけだった。


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