勿怪面妖奇譚

都市伝説。それは人々に恐怖を与える象徴。
そして、心の秘める関心を煽るもの。
「ねえ知ってる? あの噂」
「化面屋さん?」
「あの面を被れば、人間ってバレずに妖世界に行けるんだって!」



勿怪面妖奇譚



深夜。住宅街ともなれば皆寝静まるもので、家から漏れる明かりの一つもない。ただ月と街灯ばかりが白々とした明かりを灯している。
三人には約束の時間が迫っていた。朝緋はアパートの廊下を歩く。新築ではないそのアパートには、廊下まわりの電気こそ通っているものの、決して明るいとは言い切れない。スマートフォンのライトをつけて、なるべく静かに階段を下っていく。
一番最後に家を出たのは麻昼だった。ガチャンと扉の閉まる音が妙に響いた気がして、麻昼は肩を強張らせる。未成年が深夜に外出するなど本来許されない行いに、少しだけ怯えていたのだ。誰よりも怖がりである麻昼はルールを破ることも怖かった。バレなければいいのは分かっている。だがバレた後、一体誰が責任を取ってくれるのか。その自身に抱えきれない重荷を背負うことが怖かった。
そもそも女が夜道を歩くこと自体が危ないだろう、と朔夜は思う。治安こそいいものの何が起こるか分からない世の中だ。朝緋は活発だから咄嗟に走って逃げることも出来るかもしれないし、大声を出すこともできるかもしれない。だが麻昼はそういうタイプじゃない。そも深夜の外出をしていることがバレてしまえばもっと面倒なことにならないか?
「朔夜!」
まあ、なんでもいいか。これから壮大な秘め事が始まるのだ。人に話せば馬鹿にされるような、それでも自分達にとっては何にも代え難い記憶となる。
──人気のない路地には、三人の子供たちの姿。
「でも、本当に現れるのかな」
「なに麻昼、不安なの?」
「そんなのじゃないよう!」
朝緋はケラケラ笑いながら麻昼の肩を叩いた。三人が合流して、いよいよ事が起ころうとしている。
化面屋。
それは近頃一部のオカルトマニアの中で話題になっている、都市伝説。古風な言い回しと飄々とした態度が特徴的で、神出鬼没。人間に妖になれる面を無料で売ってくれる男。
全てオカルト好きの朝緋がネット掲示板で見つけた情報だ。どうやら過去に面を売ってもらった人からの書き込みが数件あったようだが、信憑性は薄い。それでも朝緋が試してみたい! と声を上げ麻昼と朔夜を巻き込んだのだ。
「……で、これを鳴らせば呼び出せるって本気で思ってるんだな」
「ネットじゃ皆そう言ってるんだよ!」
朔夜はポケットから金色の小さな鐘を取り出す。その“皆”が言うには、化面屋は金色の鐘を鳴らすことで呼び出せるらしい。半信半疑のまま朝緋に手渡せば、朝緋がすぅ……と息を吸って、チンと小さく鐘を鳴らした。
「化面屋さん。化面屋さん。どうぞ私達に化面を売ってください」
期待。好奇は人を殺し得る。人間というものはどうやら、自分の信じたいことをそっくりそのまま信じてしまうようだ。
古びた街灯が一瞬、それは本当に瞬きと錯覚するほどの一瞬、チカチカと点滅する。路地を曲がったその先、一人の男が僅かに口角を上げた。
「お可哀想にね」

化面屋は目の前に現れてくれるのではなく、その周囲に現れるという。まずは化面屋を探すところから始まるのだが、朝緋達は幸運にもその手間をほとんど省くことが出来た。夜半の藍色を僅かに纏えど風変わりな佇まいは強調されるばかりだ。朝緋の手から滑り落ちた鐘が地面で音を立てた。
「さあさあ、ようこそ化面屋へ。貴方のなりたい妖は、なんでも揃って御座います」
「……嘘、本当に?」
「都市伝説なんかじゃなかったのか」
「おやおや、都市伝説を信じて私を呼んだのは貴方がたでしょう?」
白髪の男が笑う。それは到底人間とは思えない異質な存在。姿かたち、本能的に分かる種族の違いに朝緋達は確認した。この“人”はたしかに、人間ではないと。
いまだ驚きの隠しきれない人間の顔を見て化面屋は心底面白がっていた。そして同時に、自分とは違う、それも人が持ちえない力を持つ者をこんな軽率に呼び出す傲慢さにも呆れていた。人間とは所詮こういう生き物である。
「さて、皆々様はどんな化面をご所望でしょう。憧れの王道から不遇な無名まで、妖全て掌握しておりますよ」
あれよこれよと矢継ぎ早に繰り出される面の数々に感嘆の声が漏れる。それらは正しく芸術品だった。それもそのはず、これらの面は全て化面屋が手ずから作り上げたものである。元より化面屋はそれを売る立場だから面への執着など一つもないが、ただの面と形容されるには幾分か惜しい。その値打ちが分からない者へ善意で売り捌くなど、これが事業でなければ億が一にも許すことは出来ない。
「あ、あたし狐がいい!」
「成程、狐は昔から人気の妖としてその地位を確立しておりますから」
真っ先に飛びついた朝緋に化面屋は一枚の面を見せる。黒を基調とし赤を差し込んだ面は、色だけ見れば少しの大人らしさを感じさせる。
「狐でしたらこちらは如何でしょう。その名を木通」
「木通……すご、めっちゃ綺麗……」
だがこの女が被るなら、大人らしさよりやんちゃさが勝つだろう。狐はやはり王道の人気種族ではあるが、白狐より黒狐の方が面白味がある。
「お気に召されましたか、それはよう御座いました。でしたらこの面を貴方の物にするために、お嬢さん、名前をお伺いしても?」
麻昼は名前を教える朝緋を不安そうな目で見つめる。元よりオカルト好きの朝緋に連れてこられた身だから、本当に現れた化面屋の事が少し怖かったのだ。朝緋は好きなものに一直線だから、向こう見ずなところがある。今だってそうだ。そして麻昼はちらりと横にいる朔夜の顔を見て、いよいよ深く考えることをやめようと思った。
「して、お二人は如何しましょう」
「……俺は、これ、かな」
思慮深い朔夜が、今とても楽しそうに見えたのだ。
「そちらは躑躅と名を持つ、唯一無二の面でございます。潜める夜に告げる鳥の形を持つ物」
「えー、朔夜にぴったりじゃん! ね、麻昼はどれにするの?」
その空気と、楽しそうな友達。次の一呼吸でもう麻昼は完全に呑まれてしまった。最後の壁が砕かれて、微かに震える指で一つの面を指さした。もう後戻りはできない。
それは化面屋にとって、直近で作った面の中で一番気に入っていたものであり、貴い面の一つだった。
「ああ、お嬢さん。本当にお目が高い」

全員の名を聞いた後、化面屋は三枚の面に紋様を施した。面の雰囲気を損なわず、持ち主の名が分かりやすい模様。どうせこの後廃棄される面だとしても一応これも事業の一環だ。契約がある以上、金銭の関わりがある以上、化面屋にもそれなりに負うものがある。美学だ。
「箔。それは面名と買い手の名前を組み合わせた、ただ一つの印。
さて、御三方の面に彫りましたその紋様は、その面が皆々様の所有物という他でもない証拠となります。これより先は我が手を離れ、貴方がたを完全に妖とする」
面には化面屋の力が乗せられている。妖に化けられると謳われた面は彼の力無しでは機能せず、また現状彼だけが唯一その力を持っていた。いわゆる専売特許だ。それ故に人間はその面を求め、妖も気分転換や正体を隠したい時に彼の面を求めた。例えそれに多額な値札が貼られようとも。
「さあ、化けなされ。面を信じて、存分に妖を楽しむと宜しい」
三人は顔を見合わせ面を被った。するとどうだろう。あっという間に美しい髪と着物で、人間らしさが息を潜めたではないか。面影など感じさせない、妖としての身なり。朝緋はいっとう喜び、麻昼と朔夜は声を漏らした。
化面屋は笑う。面を求める客は皆同じような反応を返すのだ。とはいえそれは化面屋の力が本物である証明だから、別に化面屋にとって嫌なことではない。面は本物だ。被ることで被り手の一切は、完全に真っ新な妖へ生まれ変わる。
これにて化面屋の仕事は全て終了となる。これ以降は完全な善意だ。化面屋は壁を指さして、彼女らに告げた。
「それでは、私はこれにて失礼仕ります。皆々様はあちらの道から妖世界にお越しください」
壁を触ろうとした麻昼の手が壁をすり抜ける。
妖世界。天干。化面屋の住まう地域にて、この地域の裏側に位置する場所だ。今麻昼の手がすり抜けたその先に、彼女らの望む世界が待っている。
「わ、本当だ! さっきまで壁だったのに……」
「俺達、本当に妖になったのか」
人間ではないその感覚が、三人を更に舞い踊らせた。まるで夢物語のような、テロップに「この作品はフィクションです」と記載されていてもおかしくない現実。浮かれながらもどこか現実を信じられないような気持ちになるのも、ある意味当然と言えるだろうか。
「ありがとう、化面屋さん!」
「くれぐれもどうぞ、お気を付けて」
その言葉を最後に、三人はずるりと姿を消していく。
どうぞ、お気を付けて。壁の向こうへ消えた三人を見送った化面屋は、先程とは違う笑みを浮かべ再びそう呟いた。風が吹く。のぼり旗がバタバタと音を鳴らす。それは不吉さを纏っていた。
「行きはよいよい、帰りはこわい。帰る道などありはせぬ」
とはいえ、気を付けようもないか。そう簡単に真意を見抜かれてはたまらないが、あの阿呆っぷりだ。今回の絡繰りが見抜けるわけもない。
「……私も、戻らねば」
此度の件も早くけりをつけ、こんなことはさっさと終わらせてしまうに限る。化面屋──もとい卯木にとって、この後のことが一番面倒なのだ。


・・・ ・・・ ・・・


妖世界。
それは妖達が跋扈する、裏の世界。本来人間が干渉することは出来ないが、妖力のある物を持っていると介入することが可能になる。
──決して、人間が来てはならない世界。
「それで、いくら出してくれるんです?」
店員が置いていった水を脇に退け、白髪の男は指を組む。彼は水にも、机に置かれた料理の数々にも興味はなかった。
「いくら欲しい?」
ぶわりと煙草の煙を吐きながら、黒髪の男が笑みを浮かべた。人相の悪い顔だが、こういう妖が妖らしいとも言える。
ここは料理店。黒髪の男、御影が経営する妖世界屈指の高級料理店だ。金持ちの妖はここへ来てはたらふく腹を満たして帰っていく。卯木が知るところではないが、どうやら常連も多いらしい。
「化面屋。お前は金の亡者だが確かに有能だ。希望額そっくりそのままとはいかねェが、ある程度なら叶えてやってもいい」
「ハハ、御影様は太っ腹でいらっしゃる。……ああ、すみません。熱燗一つ追加で」
脇に控える店員に注文を通して卯木は残った熱燗を呷る。流石は高級料理店といったところか、値が張る酒の種類も豊富だ。入荷が難しい天干外の酒も何種か扱っているようだが、それも中々飲み応えのある良酒だった。
「で、これが今回の食材か。どれも新鮮な子供達だ」
紙には先程の朝緋達三名の名と面、紋様が事細かに記載されている。酒気を帯び続ける化面屋をよそに御影はひとしきり目を走らせた後、乱雑に灰皿に突っ込んだ。
「今はこの世界を楽しんでおられるでしょう。それはもう、存分に」
「今宵限りとは知らずにな。人間ってのはどいつも呑気な馬鹿ばかりだ」
「そのおかげで商売成り立っておられるでしょうに」
化面屋がククッと喉の奥で笑ってみせる。人間は皆他者を見下し上に立ったと勘違いしているが、その実人間は人間が見下す対象と大差ない。獣も人も所詮は皆一様に動物である。
「まあ、私もその恩に預かる身ですからね。こういうのは楽で宜しい」
これは密談だ。故に客層の中でも特に上位、天干の当主が招かれるような部屋に二人はいる。沢山の調度品の中、置物のように動かなかった鳥が、一声「ガア」と鳴く。部屋の中で唯一奇妙で悪趣味な化け物だと化面屋は思う。
つくづくこの男達は馬が合わないのだ。他でもない、利害関係の一致を除いては。

煌びやかな提灯の数々。昔の時代にトリップしたような和の街並みとその活気に、朝緋達三人は目を輝かせていた。
「これが妖世界……こんなに綺麗な場所、見たことない……!」
「麻昼、俺達は今妖だ。あまり迂闊なことは言わない方がいい」
「あっ、そうだよね。ごめん」
町並み保存地区だとか、そういった類の整備された和というのは朝緋達の世界でも存在する。だがそこを歩く人達はほとんど現代の恰好で、スマートフォンで写真を撮って、ゲラゲラと世間話をしているのだ。一方この妖世界は違う。皆が着物で、車も通っていなければアスファルトで舗装された道でもない。何より歩く妖の形は様々だ。
朔夜はすれ違う妖を横目で流し見る。先程は尾が生えたもの、そして今のは羽の生えたもの。今では自分も羽を持つものとして、この街を歩いている。現世では決して交わることのない生き物たち。自分達の知らない、別の世界。
「ね、麻昼! あの建物なんだろう」
朝緋が突然声を上げて指差した。それはこの大通りから良く見える、大きな建物。重厚な和風建築はこの通り全部と比べても遜色ないほど眩かった。
「見た感じ金持ち御用達って感じ。よーし、今からあたしたちあそこに向かってる金持ちってことにしよう!」
「何言ってるんだ……」
「もー、夢見てもいいでしょ!?」
三人はそんな建物を見たことがなかったから、自分の中で最大限その規模を比べられるものといえば、せいぜい城くらいなものだ。尤も、それはあくまで遠目から見た規模だけの話である。
朝緋は随分気が大きくなっていた。それに影響されているかのように、麻昼の声色も明るくなっている。朔夜も、内心では飛び上がるほどにワクワクしていた。
だからその歩みが少しずつ速まっていることに、もう誰も気が付かなかった。|建物《料理店》の最上階には、その姿を見下ろす妖がいる。

鳥が鳴く。汚らわしい声だと、御影は息を吐いた。灰皿には数十本余りの吸殻が捨てられているにも関わらず、御影は新たな煙草に火をつける。
この窓から見下ろす景色は、俗に言う幻想的な夜景だ。そんなものに価値はない。だが、今の地位を築けたこの街には感謝している。御影にとってこの街は、自身の欲を満たすものでしかないのだ。妖は等しく利己的な生き物である。
「あァ、見つけた」
髪を揺らし歩く三人の妖。つけられた面のことはよく知っている。木通。梢。躑躅。間違いない、今回の食材だ。御影は煙草を揉み消し、足元で眠る獣を蹴飛ばす。一匹がギャン! と悲鳴を上げれば、他の獣達は一斉に飛び起きて首を下げた。
「屑共、いつまで寝るつもりだ」
「モゥしわケ ゴザい マ せン」
四足歩行の獣は口を開き、下手な発音で言葉を口にした。つけられた鈴が鳴る。体に巻き付けられた包帯に描かれた瞳が、控えめに目を閉じた。
「謝罪はいい。さっさと戻れ」
「ギゃウッ」
御影に踏みつけられたその瞬間、獣は一枚の札へと変化した。床に散らばる札の数々を拾い上げ、御影はもう一度窓の外を見る。
「人間共は全員、俺の物だ」
御影が店内を歩けば、従業員は皆お辞儀をして通り過ぎるのをじっと待っている。目を付けられたくないのだ。御影は短気だし気難しい暴君だが、給金の羽振りだけはいい。料理店で働く従業員は皆金の為だけにこの職場を選んでいた。
裏口から外へ出た御影は先程の朝緋達の姿を思い出す。この料理店は外観から立派だから、何も知らずああして遊びにくる人間は多い。今までの人間がそうだったように三人も同じ表情を浮かべていた。
当主相手にしかしないような最高級のおもてなし。それが御影の出迎えだ。自発的にやってきてくれる食材に思ってもない感謝をして、御影は大通りへ繰り出した。すぐそこに目当ての妖がいる。
「やァ、随分とお楽しみのようだな」
ニヤリと笑う男に、三人の背筋が一瞬強張った。
「……へへ、これからあそこに行こうと思って」
ここまで来る間に何人かの妖に声をかけられたけれど、どれも皆こんなに含みのある笑みなど浮かべていなかった。一抹の不安が脳裏を掠めて、朝緋はそれを振り払うように笑った。
だって、化面屋は面を信じろと言ったじゃないか。
「へェ、あれが何か知ってるのか?」
「俺達、今日初めてこの街に来たんだ。だからあれがなんなのか、これから見に行こうって」
朔夜は誤魔化さずありのままを答えた。朝緋の助けて欲しそうな視線と、目の前の男をかわす方法として一番賢明な判断だった。
「成程。ならば俺が教えてやろう」
初めから人間が訪れていい場所じゃない。天干は特にそうだ。この地は、人を喰らう。
「あれはな、人間を提供する料理店だ」
男の声に三人は焦った。麻昼の足がすくんで、朝緋は思わず一歩後退りする。朔夜は浅く息を吐いた。気付かれている。どうして? たしかに化面屋は「面を信じろ」といったはずだ。それはつまり、人間と気付かれることはないのではないか。誰にも気づかれずにここまで来れたのに、どうしてこの男だけが正体に気付けるんだ?
「……あんた、誰なの」
「俺は御影。人間と提供する料理店の経営者だ」
その言葉に他の意味など含まれていない。三人は一瞬で理解した。つまり自分達は、この妖に捕まれば“食材として提供”されてしまう。麻昼は震えが止まらず、もう膝から崩れ落ちてしまいそうだった。いっそ崩れ落ちて、そのまま気絶してしまいたかった。次に目が覚めたら自室のベッドの上だと信じたかった。
全部忘れていたのだ。深夜外出の末、都市伝説と出会い妖世界へ訪れた。初めは怖かった深夜外出は二人と合流して平気になって、思慮深い朔夜までも楽しそうにしているからちょっと信用できる気がして化面屋から面を買った。意外とバレないかもしれないと、思ってしまったのだ。
「に、にげ、なきゃ……!」
「……っ、逃げよう!」
三人は震える足で走り出す。いつもより呼吸があがって、耳鳴りが止まない。街の構造も知らないまま、大通りを引き返して、その先どこへ逃げればいいか分からないまま走った。
「あれ、御影様じゃありませんか。人間はどうされたんです?」
「化面屋、仕事だ。あいつらを追え」
「ハァ?」
走った。それはもう、全力で。煌びやかな街の景色が歪んで、周りの声が全て責め立てるように突き刺さった。走り抜ける朝緋達を避けるもの、心配するもの、肩が当たって怒号を浴びせるもの。全てもう、三人には届きはしなかった。
「──吟」
「ハい」
御影は懐から数枚の札を取り出し、荒々しく投げる。それらの札は煙と共に姿を変え、あの四足歩行の獣となった。
「それ、まだ飼っておられるんですね。あの鳥といい、相変わらず悪趣味でいらっしゃる」
「黙れ。……吟、人間を探せ」
吟と呼ばれた獣は駆け出し、散り散りになる。ジャラジャラと鳴る鈴の音が少しずつ遠ざかっていく。
「それでは、私も仕事にしましょう。今回の仕事による報酬は後程、改めてゆっくりと」
化面屋はクツクツと笑いながら、大通りの人混みに消えた。たまたま居合わせただけで仕事を押し付ける御影にはうんざりするが、それで料金をかさ増し出来るなら悪いことではない。ぼったくってやろう。面を作るだけの妖が肉体労働などと、おかしな話だ。
「フゥ……」
知らない獣。包帯に描かれた目がぎょろぎょろと周囲を見渡して、また一匹走り去る。
大通りから外れると、街行く妖の数は随分少なくなった。そこから更に外れた小道で、三人は息を殺していた。この小道は大通りとは違い寂れた建物が多く閑散としている。どこかに排気口があるのだろうか、三人の鼻先には微かに麹の香りが漂っている。
「なに、あの生き物……」
「多分、俺達を探してる。でも鼻は良くないみたいだ」
「見つからなければ、大丈夫だよ、ね?」
「……多分な」
麻昼はもうすっかり涙声になって、カチカチ鳴りそうな歯をなんとか堪えるも、体の震えは一層激しさを増していた。
あの時面を買わなければ。あの時化面屋を呼び出さなければ。あの時、あの時──。

「おや、皆々様。こんなところで一体何を?」

「ヒィッ!」
張り詰めた緊張感を壊すようににこやかな顔で化面屋が現れる。化面屋の足元には動き去っていく何かがいたが、それは三人の目には映っていなかった。ただ視界いっぱいに、意識いっぱいに化面屋のことが描かれている。
「化面屋さん! なんで、どうなってるの!? この面があれば私達は──」
怯える三人に、にっこりと笑いかける化面屋。朝緋達の意識は逸らせない。だって今、命の危機が迫っているから。その元凶がこうも笑みをたたえているから。
「イた!」「いタ!」「タ!」
朝緋の狂ったような叫び声を聞き付けたのか、次第に集まる獣達。包帯の目がこちらを見ている。どれだけあるか分からないほど、無数の目が。朝緋達の一挙手一投足を監視するようにただじっと視線を向け続けている。
「化面屋、お前もグルだったのか」
「お願い、お願いだから許して、助けて! おねがい……」
「ハハ、どうしても見逃して欲しいというのなら相応の対価が必要でしょう」
喉の奥を鳴らしながら、化面屋の目が歪む。妖が捕食者ならば人間は蛙だろうか。
「貴方がたは本当に、その面が無償だと信じていたのですか?」
聞いた事のない冷酷な声が、脳を直接殴るように響いた。今朝緋達の前には研ぎ澄まされた透明な刃が突き付けられている。それは喉を裂き、腹を開き、中の臓物を引きずり出そうとしている。
「この世に|無料《タダ》より怖いものなどありませぬ」
麻昼はいよいよ泣き始めた。化面の下は涙でぐちゃぐちゃになって、もう拭うことも出来なかった。外してしまえば本当に全部がおしまいだ。もう戻れない、その言葉が本当の意味を持つ。
「化けた人間はすぐに分かる。その箔はなァ、お前達が人間であることの証明なのさ」
化面屋の背後から現れた御影の言葉で、朔夜は思わず額に触れた。その紋様はあくまで自分達の所有物という証拠でしかないと思っていたのだ。
その二人を見て、朝緋は酷く後悔した。自分のことを大馬鹿者だと心の中で罵った。どれだけ悔いても打開策となるわけではない。あまりにも遅すぎる後悔と反省だ。
「おね、がい。悪いのはあたしだから、この二人は許して。お願い……お願い、します」
「友を庇うその心意気や良し。ですが貴方一人ではその価値と釣り合わないんですよ、お嬢さん」
「あァ、可哀想にな。だがお前ら全員自業自得だ。恨むなら自分を恨め」
これ以上言っても無駄だ。彼女らは今散々自分を恨んでいるだろう。どれだけ許しを請おうが、そんなもので腹は満たされない。表面上に誠意を浮かべても所詮与えた印象は覆せない。あの時嬉々として面を受け取った時点で、もう御影達に響くことは一つもないのだ。
中途半端に残る心は早々に挫いてしまった方がいい。その方が面倒事も減るだろう。
「それに、お前らは一体どこから帰るつもりだ?」
朝緋らは息をのんだ。朔夜が後ろ手に壁をなぞってみるもその壁はなんの変化も見せない。つまり現世からは壁の道を通ったけれど、妖世界の壁は壁のままということ。道中を思い返して見れど、それらしい帰り道は一つもなかった。いよいよ朝緋達は、ここからの帰り道がどこにあるのか、一向に見当がつかなかった。
化面屋が一歩歩み寄る。三人は後ずさるも、もう逃げ場などなかった。
「さあ、皆々様」
人間はここでは家畜と大差ない。元より現世でも、実は家畜と大差ないことを正しく理解しているだろうか。答えは否であろう。皆その身に起きて初めて理解するのだ。誠意もなければ傲慢で、欲張りで、使い潰して後始末もしない。そんな中身は、|妖《私達》が正しく引きずり出してやる。
「──化けの皮は剥いでしまいましょう」



勿怪面妖奇譚



恐怖に追いやられた三人は、もはや抵抗する術など持ちえなかった。男の手によって仮初の皮膚は音もなく引き剝がされていく。変身が解けて、三人はすっかり人の姿へと戻ってしまっていた。
「怯えて声も出ないか。人ってのは本当に無様だなァ」
「これで今後御影様の元から逃げ出せたとしても、人である貴方がたは全ての妖から狙われる」
可哀想に。最後にそう付け加えたのはどちらか。上がりきった口角とぎらついた眼光は、到底人間の成せる所業ではなかった。もっとも、こんな残酷な人物が人間であっていいはずがない。
「朝緋ぃ……」
泣きじゃくりながら縋りつく麻昼を抱きしめて、朝緋は震えながら男を睨みつけた。朔夜は何も言わない。朝緋からその顔は見えないが、彼は必死に打開策を考えていると信じていた。
「こちらですか」
「後は御髄にどうぞ。ああでも、彼のことも考えてあげてください」
「勿論」
この辺りは天干の中でも辺鄙な場所だ。そこにこの地で影響力がある妖が集うのも中々珍しい。くすんだ水色の髪が通りすぎ、地面に影を落とした。
「これからあたしたち、どうなるの?」
御影と名乗った妖に捕まれば食材として提供される、それは分かり切った事実だ。それでも、朔夜の為にも、三人で逃げ出す為にも今は時間が欲しい。
なんとかしなければ。そう思った時、化面屋達の背後にゆらりと人影が現れた。
「あら、お仕事ですか?」
その声で辺りに静寂が訪れた。それはほんの一瞬だったが、まるで時が止まったようだった。
「当主様!」
「……どういうこと?」
他でもない化面屋と御影が目の前で頭を垂れている。その異様ともいえる光景に、麻昼は目をぱちくりとさせ小さく呟いた。当主様と呼ばれた女性は頭を上げるよう促した後、朝緋達を一瞥し微笑んだ。美しい女性だった。
「なるほど。吟が走っている姿が見えましたが、この子たちを追いかけていたんですね」
「屋敷の迷惑になったようでしたら謝罪します」
「いえ、とんでもない。散歩中に見かけただけですよ」
どれだけこの世界で地位を築こうと所詮こちらは商売させてもらっている側だ、管轄している当主に頭が上がるはずもない。だからあの横暴な御影も当然のように丁寧な態度で謝罪している。これはいいものが見れたなと、化面屋は内心腹を抱えて笑っていた。
「今回の子も学生さんですか」
「若い頃は興味が尽きないものですから。おかげで妖のことも簡単に信じてくださる」
すっかり泣き止んでいた麻昼が、再び朝緋の袖を握りしめる。当主と呼ばれる女性は物腰こそ柔らかく簡単に人を信用させる雰囲気を纏っているが、話している内容は御影達となにも変わらない。人間を値踏みしている、あちら側の存在。
「どうしよう、朔夜」
「当主が現れて空気感が変わってる。なんとかタイミングさえあれば……」
もしタイミングがなくとも、せめて自分だけに気を引くことが出来れば朝緋と麻昼を逃がせると朔夜は考えていた。あの時一歩前に出て庇ってくれた朝緋には感謝しているし、本当は少し怖がっていたであろう麻昼を巻き込んだことに後悔している。だから次は自分が彼女達を守れればいい。
ひそひそと話していた時、ふと当主がこちらに向き直って三人の顔をじっと見つめる。そうして一人頷いたかと思えば、御影へ告げたのだ。
「御影さん。この子たち、私に売ってくださらない?」

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