おそようダーリン

 電子レンジの高い鳴き声、味噌汁の甘いにおい、陶器の擦れるかちゃかちゃという音。遅く起きたオフの日、いつもとすこし違った気配に満ちた朝。それらを遠くに感じながら微睡む時間が好きだった。
 ふわふわと心地よい感覚に包まれて、アイドルの本分も忘れて自堕落に、ホイップクリームのようになめらかなシーツに溶けて。
 眠たい、気持ちいい、まだこうしていたい。俺の眠りを妨げる権利など太陽にだってあるものか。
 薄い瞼越しに日射しの眩しさを感じ取り、ごろんと寝返りを打ってささやかな抵抗を。寝汚いと言われようが構わない、だって昨日は本当に遅かったのだ。昼まで寝たって罰は当たらないはず。
 HiMERUはゆるゆると掛け布団を引き寄せた。覚醒しはじめた頭でゆうべのことを思い出す。
(ええと、昨日は『HiMERU』のバースデーイベントのあと、事務所の皆さんにお祝いしていただいて。閉店後の『シナモン』でどんちゃん騒いで──いや騒いでいたのは俺ではなく天城や『2wink』や巴さんたちでしたが──深夜に差し掛かったところでようやくお開きになって。俺は寮ではなくマンションに用があって、タクシーに……)
 ぼやぼやと記憶を手繰っていると自身が転がっているマットレスの一部がぐんっと沈んだ。
「……おはようございます」
「なァにがおはようだよ、昼だ昼」
 それを言うなら〝おそよう〟っしょ、と呆れ気味に言った男は起き上がるのも億劫なHiMERUに反して元気一杯に、どすんとベッドに乗り上げてくる。
「あ〜あ〜ひでェ声だな。起きられっか?」
「……、誰の、せいだと……痛ッ」
 思い切り顔を顰めた。腰が痛すぎる。 
 手を引かれ半身を起こしかけたポーズで静止したHiMERUを、天城は「きゃはは」と一笑した。
「おめェがカワイ〜声でいっぱい鳴いてくれたのはおめェの意思。俺っちがお願いしたわけじゃねェし〜? よって強いて言えばおめェのせい」
「あんたな……」
「そんでェ〜、腰が痛くて辛ェのはおめェのオネダリに応えて燐音くんが頑張ったから。よってこれもおめェのせい」
「……。HiMERUは二度寝します。放っておいてください」
「ウソ怒った? ごめんってメルメル♡」
 吹けば飛びそうな軽〜い謝罪を聞かなかったことにして、もう一度頭から布団をかぶる。無茶苦茶な理論だがあながち間違ってもいないのがムカつくところだ。
 視界を遮断して本当に二度寝を決め込もうとしたところで、突如浮遊感に襲われた。布団ごと持ち上げられたらしい。
「う、わ、やめろ……!」
「動けねェなら俺っちが連れてってやるよ。お誕生日さま特権延長サービス♪」
「頼んでいないのですよ!」
 天城は「え〜」と不服そうな声を漏らす。こちらからは見えないが、おおかた唇を尖らせて拗ねた振りでもしているのだろう。あんたがそれやっても可愛くないぞ。
「腹減ってねェの?」
「減ってな……」
 ぐう。
 腹の虫は正直なもので、HiMERUの意志とは無関係に空腹を主張する。リビングに近付くにつれて食欲をそそるにおいが濃くなるから、尚更だ。
「……っ、減りました……」
「ぎゃはは! お利口さん」
「くそ……」
 ダイニングチェアにそうっと下ろされ、丁重な手つきで布団を剥かれる。「ドーゾ」と示されたのは旨そうな香りを放つ食卓だ。
 茶碗に控えめに盛られた米に、豆腐とわかめの味噌汁、コンビニの浅漬け、となぜかスクランブルエッグとウインナー。
「……なんでここだけ洋?」
「卵焼き、上手く巻けなかったら嫌っしょ。ちゃんと練習したら出してやるから待ってな」
「いえ、別にいいんですけど……。いただきます」
「ハイドーゾ。いただきます」
 その一言を合図にしばらく黙々と食べ進めた。あたたかい味噌汁がじんわり沁みる。献立のほとんどがインスタントではあるが、天城のつくる朝食は、美味しい。
「あなたは米派ですよね、朝ごはん」
「そりゃな。故郷で朝餉っつったら米って決まってたしなァ。パンなんかこっち来て初めて食べた」
「ああ、成程」
「パンも好きだけどな。つうかそれよりあの……十穀米? とか十六穀米? とか。あれ美味しくねェよな」
「美味しい美味しくないの問題ではないのですよ。メリットがあるから食べるのです」
 ふ〜ん、と至極どうでも良さそうに相槌をうった男の手元の食器は、いつの間にか空になっていた。ちゃんと噛んだのだろうか、と要らぬ心配をしてしまうHiMERUだった。
「なァ」
「……?」
 咀嚼中なので返事をする代わりに視線を返す。そこにいるのが当たり前かのように対面に座った彼の瞳が、じっとこちらを向いていた。
「楽しかった? 誕生日」
「……、ん。楽しかったですよ」
「そっか」
 口の中のものを飲み下してから深く考えずに返せば、碧い目はゆるやかに弧を描いた。ひどく嬉しそうに笑う。そのまなざしに何故かじわじわと照れが募り、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
「何をニヤニヤしているのです、気持ち悪い」
「ン〜? ダーリンがみんなに愛されててよかったなァって♡」
 脈絡なくそんなことを言われては困惑してしまう。と言うか、HiMERUからすればそんなのは当然だ。『HiMERU』は愛されるべきアイドルなのだから。
 「寝惚けてるんですか?」と問うと「ンなことねェですゥ〜。燐音くんのバチバチくりんくりんのお目目を見やがれよ」などとふざけたことを抜かしてきた。なんだそれ。
 天城は空いた食器を重ねたり布巾でテーブルを拭いたりしながら、こちらを見もせずに言う。
「もう何十年かはファンのみんなにくれてやるからさ。いつかアイドル辞めたら俺っちにくれよ、おめェの誕生日」
 「ご馳走さまでした」と手のひらを合わせ、食器を片付けるためにキッチンへ向かう。
 一方のHiMERUは今しがた掛けられた言葉を頭の中で反芻し、それから、猛烈に唸りながら天を仰いだ。
「〜〜〜っ、何十年一緒にいるつもりなのですか……」
「なんか言ったァ?」
「何も⁉」
 そんな何でもないみたいに言うことじゃないだろう、何年先の話をしてるんだ。「え〜何キレてンの、こえ〜」なんてケタケタ笑うそいつにとっては、本当にただの日常会話だったのだろうか。だとしたら。
「……馬鹿か……」
 そう、馬鹿みたいだ。特別な言葉として受け取って、うっかり喜んでしまった己が。
 食事を終えてキッチンへ近付くと、洗い物をしている背中が振り向いた。その凪いだ湖面のようなまなざしに思い知る。
 〝みんなに愛されててよかった〟とか言ったか。その〝みんな〟の中で、あんたの愛がいちばん大きくてずっしり重たいと、わかっているのか。わかってないだろうな。
(俺は──あんたに何を返してあげられるかな)
 天城の言う「何十年」で返しきれるのかもわからない。もし足りなかったら、更に何十年、そばにいよう。こいつに借りを作るのは癪なのだ。
「お、メルメル。ご馳走さま言ってねェっしょ」
 擽ったい気持ちをポーカーフェイスの下に隠しながら、HiMERUは心を込めた「ご馳走さまでした」と照れ隠しの蹴り一発をお見舞いした。文句は聞いてやらない。





(ワンライお題『誕生日の翌朝』)

powered by 小説執筆ツール「notes」