【原利土1819IF】頸と心20
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二十 春よ来い
血の臭いがしていた。
黒の追手のうちの一人、年嵩の男は木の幹に背を預けて脇腹を押さえていた。浅い傷だが、血が止まらない。忍者隊の矢だ。毒が塗ってあるかもしれない。
「動けるか」
若い方が低く訊いた。
「ああ。まだ死なん」
年嵩の男は歯を食いしばって立ち上がった。足元がふらついたが、気力で堪えた。
忍者隊の包囲網が、ついに閉じようとしていた。数ヶ月の追跡。少しずつ狭められてきた逃げ道。そして今夜、最後の隙を突かれた。
「南は塞がれた。東も無理だ」
若い方が周囲を窺いながら言った。
「北は崖だ。残るは──」
「山だな」
年嵩の男は呟いた。あの若い忍が消えた山。狗がいるかもしれない山。
若い方は荷を確認した。焙烙火矢。火縄。火薬。重い荷だったが、捨てるわけにはいかなかった。最後の手段だ。
「正気か? あの山に狗がいるかどうか、確かめてもいないのに」
「いなければ、そこで野垂れ死ぬだけだ」
年嵩の男が言うのに、若い方は唇を噛んだ。これは賭けだ。あの山は一部が切り立った崖で抜けられる道が少ない。山に逃げ込んで、もし狗がいなければただの袋小路だ。忍者隊に追い詰められて終わる。
「どうせ死ぬなら──」
年嵩の男が呟く。その目には奇妙な光があった。
「忍務を果たしてから死ぬ。狗を仕留める」
若い方も頷いた。迷いはなかった。
「焙烙は?」
「ある。三つ」
年嵩の男は荷を覗き込んだ。焙烙火矢。これを使えば、狗を仕留められる。たとえ自分たちも巻き込まれたとしても。年嵩の男は覚悟を決めたように立ち上がった。少しよろめき、若い方が肩を貸す。
「行けるか」
「行くしかないだろう」
二人は廃屋を出た。足跡を消すように白い雪が降り続いていた。背後から忍者隊の気配が追ってくる。二人は走った。傷を抱えた身体を引きずりながら、山へ向かって。
これは逃げるのではない。
狩りに行くのだ、と言い聞かせた。
***
軒先から雫が落ちていた。
ぽたり、ぽたり。氷柱が痩せていく音だ。黒は縁側に腰を下ろして、その音を聞いていた。冬が崩れ始めている。
「暖かくなってきたな」
利吉が隣に座った。湯気の立つ椀を差し出す。
「最後の干し飯だ。そろそろ里に降りないといけない」
黒は椀を受け取った。干し飯を湯で戻したものに、乾燥した野草が散らしてある。粗末な食事だったが、温かかった。腹の底から身体が解けるような温さだった。
「一緒に行こうか」
黒が言うと、利吉は首を振った。
「お前は目立つ。まだ駄目だ」
「いつまで」
「もう少しだ。鼠の件が片付けば」
黒は黙って干し飯を啜った。鼠。利吉は最近その言葉を口にする。忍者隊が追っている間者。黒の追手かもしれない二人組。
「……まだ捕まらないのか」
「しぶといらしい。だが、そろそろだと聞いている」
利吉の声は平静だったが、黒には分かっていた。この男が、どれほど神経を張り詰めているか。
黒は椀を置いた。
「利吉」
「なんだ」
「|蕗の薹《ふきのとう》を見つけた」
利吉が目を丸くした。
「どこで」
「南の斜面だ。雪の下から顔を出していた」
利吉の表情が緩んだ。蕗の薹。春の使者だ。あれが顔を出せば、他の山菜も続く。長い冬が終わる。
「取ってきたのか」
「まだ小さかった。もう少し待てば、食べられる大きさになる」
「そうか」
利吉は空を見上げた。雲の切れ間から、淡い日差しが差し込んでいる。
「春だな……」
「ああ」
黒も空を見上げた。あの老爺に会ったのはいつだったか。木楡の糊を取りに行った日。足掻けば戻れる。引っかかればうまくいく。あの言葉がふとした瞬間に蘇る。振り払っても、また戻ってくる。
「どうした?」
利吉が黒の顔を覗き込んだ。
「なんでもない」
「嘘だな」
「……お前はいつもそれだ」
苦笑が零れた。この男は黒の嘘を見抜く。どんなに巧く繕っても。
「考え事をしていた」
「何を」
「春のことを」
嘘ではなかった。春のことを考えていた。ただ、その春の向こうに何があるのかが見えなかった。利吉もそれ以上追及しない。代わりに黒の手を取った。
「冷えてるな」
「外にいたからだ」
「中に入れ」
「お前は母親か」
「母親ならこうはしない」
利吉は黒の手を自分の懐に入れた。着物の下、肌との間。心臓の鼓動が掌に伝わってくる。
「……何をしている」
「温めている」
「なぜ懐なんだ」
「一番温かい」
平然と言った。黒は呆れた。だが手を引く気にはなれなかった。利吉の体温が掌から腕を伝い、胸の奥まで届いていく。
二人はしばらくそのままでいた。氷柱の雫だけが、時を刻んでいた。
「……クロ」
利吉が呼んだ。
「なんだ」
「春になったら、山を降りよう」
黒は利吉を見た。
「私の家に行く。父と母に会わせる。それから──」
「それから?」
「考えてないが、まあ、なんとかなるだろう」
黒は笑った。この男らしい。完璧な計画を立てるくせに、肝心なところは「なんとかなる」で済ませる。
「意外と楽観的だな」
「お前といると、そうなる」
利吉の手が、黒の手に重なった。冷たい手だ。けれどもその奥にぬくもりがある。黒はその熱が好きだった。
「約束だ」
利吉が言った。声が低く、静かで、だからこそ重い。
「春になったら、一緒に山を降りる」
黒は頷いた。嬉しいはずだった。けれども胸の奥には澱のようなものが沈んでいる。春──あと少しで春が来る。雪が溶け、花が咲き、山が緑に染まる。その時自分はまだここにいるだろうか。利吉の傍にいられるだろうか。
足掻けば戻れる。
黒は目を閉じた。ここにいたい。この男と、この山で、春を迎えたい。でも、もし──。
「どうした」
利吉が訊いた。
「なんでもない」
黒は目を開けた。利吉の顔を見た。この顔を覚えておこうと思った。この声を、この温もりを、この全てを。
「……利吉」
「なんだ」
「お前の家には、庭はあるか」
「ああ、あるな。広くはないが」
「花はあるか」
「母が植えている。春には梅が咲く。それから山吹。沈丁花。桜は……近くの山にある」
黒は目を閉じた。梅。山吹。沈丁花に山桜。春の花だ。この男と一緒に、春の花を見る。
「見たいのか?」
「……ああ」
「それなら、一緒に見よう。母も喜ぶ」
利吉の声が少し華やいだ。
「母は花が好きなんだ。毎年、春になると他のことを放って忙しそうに世話をしている。父も文句は言わない」
「仲がいいんだな」
「仲がいいというか……強いんだ、母が。父は敵わない」
黒は笑った。利吉が誰かに敵わないと言うのは初めてだった。
「お母上に適わないのはお前もか?」
「ああ。私もだ」
利吉も笑った。その笑顔が黒の胸を温める。
春が来る。この男と一緒に、春を迎える。それだけでいい。
黒は利吉の肩にもたれかかった。利吉の腕が黒の肩に回される。
軒先から雫が落ちていた。ぽたり、ぽたり。春を告げる音が、静かに響いていた。
夜半。黒は目を覚ました。
隣で利吉が眠っている。規則正しい寝息だ。鹿の革の上掛けの下で、利吉の横顔が囲炉裏の残り火に照らされている。黒は静かに起き上がった。利吉を起こさないように囲炉裏の傍へ移動する。火は消えかけていたが、灰の中にまだ熱が残っていた。
窓の外を見た。月が出ている。雪が月光を反射して青白く光っている。美しい夜だ。
けれども黒の心は凪いでいなかった。
忍者隊が追っているという二人組の鼠。利吉が雇い主から聞いた話。自分の追手かもしれない。
黒は自分の手を見た。この手で崖の上で二人仕留めた。けれどもあと二人いた。その二人が、まだどこかにいる。黒と一緒に時を跳んだのか。時を跳ぶ条件は分からないが、もしも鼠が追手なのであればそうなのだろう。
逃げるべきか。
黒は一瞬、そう思った。けれどもすぐに打ち消す。逃げれば利吉が追ってくる。探して、命を懸けて追う。あの男はそう言った。本気だった。であればここにいるしかない。
黒は拳を握った。
──足掻けば戻れる。引っかかればうまくいく。
老爺の言葉が、また蘇った。足掻く。何に。引っかかる。何に。分からない。分からないが、今の自分にできることは一つだ。
利吉を守る。この男と一緒にいる。それだけだ。
黒は利吉の傍に戻った。革の敷物に潜り込み、利吉の背中に額を押しつけた。肩甲骨の間、薄い肌の下で心臓が脈打っている。
「……クロ?」
「起こしたか。すまん」
「どこに行ってたんだ」
「どこにも。……少し、考え事をしていた」
利吉は寝返りを打った。暗闇の中で目が光っている。何も訊かずに、黒を抱き寄せた。
「明日、山菜を採りに行こう。春の芽が出始めてる」
「……そうだな」
「蕗の薹があれば、味噌和えにする」
「それは楽しみだ」
利吉の腕の中で、黒は目を閉じた。この心臓の音を覚えておこう。この体温を、この腕の力を、この声を。
春が来る。その前に何が起こるか分からない。だが今夜は、この温もりの中で眠ろう。
黒はそう思った。利吉の心臓の音を聞きながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。
***
山の空気が変わり始めていた。
黒は利吉の後について斜面を登りながら、肌を撫でる風の温さに目を細めた。まだ冷たさは残っているが真冬のそれとは違う。生き物が動き出す気配がある。黒は利吉から貰った首巻きを結び直しながら言った。
「この辺りに蕗の薹があったんだ」
黒が指差した先を、利吉が覗き込んだ。雪の下から薄緑の芽がいくつも顔を出している。
「もう少し大きくなれば食べ頃だ」
「あと数日といったところか」
二人は並んで歩いた。雪解け水が斜面を細い筋になって流れ、小さな沢を作っている。その水音が山全体に響いていた。冬の間、凍りついていた山が、少しずつ声を取り戻していく。
やがて視界が開けた。黒は足を止めた。
切り立った断崖が目下に聳えていた。高さは二十丈はあるだろうか。下を覗くと、岩と灌木が折り重なって見えた。風が吹き上げてきて、黒の髪を乱した。
「どうした」
利吉が振り返った。
「いや……」
黒は崖の縁を見つめていた。似ている──と思った。あの日、追手から逃げて身を投げた崖に。あの轟音とともに意識が途切れ、気がついたら数年先の世界にいた。この崖から落ちたらどうなるのだろう。元の時代に戻れるのか。それとも、ただ死ぬだけか。
「クロ?」
利吉の声で、黒は我に返った。
「なんでもない。少し、昔のことを思い出しただけだ」
利吉は何も訊かなかった。踵を返して崖から離れる方向へ歩き出す。黒も後に続いた。
「手分けしよう。私は東の沢沿いを探す。|独活《うど》が出ているかもしれない。お前は南の斜面を頼む」
「分かった」
「日が傾く前に、さっきの蕗の薹のところで落ち合おう」
黒は頷いて、利吉と別れた。黒は南の斜面を登り、利吉は東の谷へ降りていった。
雪解けの水が、斜面を細い筋になって流れている。黒はそれを避けながら登った。足元は泥濘んでいたが歩けないほどではない。冬の間に鈍った身体が少しずつ温まっていくのを感じた。南の斜面は日当たりが良く、雪解けが早い。黒は地面を見ながら歩いた。コゴミの渦巻いた芽を探して、落ち葉を払う。いくつか見つけたが、まだ小さい。もう少し待った方がいいだろう。
ふと、黒は足を止めた。
風の匂いが変わった。微かだが確かに血の匂いがする。
黒は身を低くした。周囲を窺う。木々の間に動くものはない。だが気配がある。人の気配だ。一人ではない。二人。
黒は息を殺した。木の陰から人影が現れる。年嵩の男だった。頬に古い刀傷がある。押さえてた脇腹から血が滲んでいる。その後ろから若い男が続いた。二十を少し過ぎた程度だろう。だがその目には年齢に似合わぬ冷たさがあった。
黒は凍りついた。
追手だ。組織から送り込まれた追手。逃走経路を抑える役目をしていたはずの残りの二人。
勘が鈍っていた。黒は見すぎてしまった。年嵩の男と目が合い、一瞬の沈黙の後、男の目が見開かれる。
「——狗」
その声は、掠れていた。疲弊と歓喜と、殺意が混じった声。
「ずいぶん探した」
若い方が一歩前に出た。その手には苦無が握られている。
「組織はお前を許さない。分かっているな」
黒は後退った。逃げなければ。利吉に知らせなければ。この二人がここにいるということは、忍者隊の包囲を突破したということだ。とはいえ忍者隊もそれで諦めはしないだろう。すぐ近くまで来ている。戦闘になるかもしれない。
「子供を殺せなかった軟弱者が」
年嵩の男が嗤った。
「あの時、素直に死んでいれば楽だったものを」
黒は答えなかった。答える必要がなかった。この男たちとは、もう言葉を交わす関係ではない。狩る者と狩られる者。それが変わることはない。
「逃がさん」
若い方が跳んだ。苦無が黒の喉を狙う。黒は身を捻って躱し、斜面を駆け下りた。背後から足音が追ってくる。二人とも疲弊している。とはいえ執念はある。忍務を果たすという執念が疲れた身体を動かしている。
黒は走った。利吉のいる方向とは逆へ。この二人を、利吉から遠ざけなければ。
木々の間を縫って走る。枝が顔を叩く。足元の雪が崩れる。それでも黒は走り続けた。
──利吉。
心の中で、その名を呼んだ。
逃げなければ。生き延びなければ。あの男のところへ戻らなければ。
春が来るのだ。約束した。一緒に山を降りると。
黒は歯を食いしばって、走り続けた。
独活はまだ早かった。
利吉は谷底の日陰を探したが、芽を出しているものは見当たらなかった。あと十日もすればこの辺りは山菜で溢れるだろう。|蕨《わらび》、ゼンマイ、山独活。黒と二人で採って、塩漬けにして春の味を楽しむ。そんな未来を思い描きながら利吉は谷を登り始めた。
異変に気づいたのは、尾根に差し掛かった時だった。
人の気配。それも複数だ。利吉は咄嗟に木陰に身を潜めた。気配を殺し、音を聞く。足音と息遣い。訓練された者たちの動きだ。
木々の間から、見覚えのある装束が見えた。
忍者隊だ。
利吉は眉を顰めた。なぜここに。この辺りは道もなく、理由がなければ分け入る必要のない山だ。まさか鼠絡みだろうか。
「山田」
名を呼ばれた。利吉は観念して木陰から出た。忍者隊の隊長は四十絡みの男で、利吉も何度か仕事を共にしたことがある。腕は立つが、融通が利かない。しかし話はできる男だ。
「何の用だ」
利吉は些かの警戒を隠さずに訊いた。この山に利吉がいることは報告してある。隊長は短く答えた。
「二人組の鼠だ。昨夜、包囲網を破られた。逃げ込んだ先がここだ」
利吉の背筋に冷たいものが走った。
「この山に……」
「ああ。忍犬が見つけた。間違いない」
隊長は周囲を見回した。
「お前も手を貸せ。この山のことはお前の方が詳しいだろう」
利吉は頷きながら、頭の中で必死に計算していた。鼠。二人組の間者。黒の追手かもしれない。昨夜包囲を突破した。この山に逃げ込んだ。
黒が危ない。
今、黒は南の斜面にいる。一人だ。もし追手と鉢合わせたら──。
「山田?」
隊長が怪訝そうに利吉を見た。
「どうした。顔色が悪いぞ」
「……いや」
利吉は平静を装った。けれども心臓は早鐘を打っていた。今すぐ戻らなければ。だが、忍者隊の前で不審な動きは見せられない。利吉は表情を取り繕った。焦るな。ここで不審な動きを見せれば全てが終わる。黒のことが露見すれば、黒も自分も処断される。
「分かった。手を貸そう。だがこの山は広い。手分けした方がいい」
「そうだな」
「私は西側を探る。東はお前たちに任せる」
「東か。いいだろう」
隊長は頷いた。疑っている様子はない。利吉がこの山域に詳しいことを彼らは知っている。だからこそ利吉の判断を尊重するし、わざわざ声をかけてきたのだ。
「鼠を見つけたら合図を送れ。深追いはするな」
「分かっている」
走り出そうとした時、隊長の声が背中にかかった。
「──山田」
「なんだ」
「鼠は火器を持っている。焙烙火矢だ。気をつけろ」
「……分かった」
利吉は振り返らずに答えた。木々の間に姿が消えた瞬間、利吉は走り出した。西へ向かうふりをして、すぐに南へ転じる。焙烙火矢。もしあれが黒に向けられたら。
走りながら、状況を整理する。追手が二人この山に入った。忍者隊が追っている。黒は南の斜面に一人でいる。最悪の組み合わせだ。
隠れ家はもう使えない。忍者隊がこの山を捜索すればいずれ見つかる。黒を連れて山を出るしかない。行き先は──実家だ。氷ノ山。父が傷を負ってからあの家には幾重もの仕掛けと罠が張り巡らされている。あそこであればしばらくは身を隠せる。
問題は、黒を見つけられるかどうかだ。
利吉は斜面を駆け下りた。落ち合う約束をした蕗の薹の場所へ向かう。まだ日は高い。黒がそこにいてくれれば──。
しかし、その場所に黒はいなかった。
利吉は周囲を見回した。黒の姿はない。けれども足跡があった。複数だ。黒のものと、それを追う二人分。南へ向かっている。
──クロ。
心の中で、名を叫んだ。
利吉は南の斜面へ向かって、全速力で駆けた。
***
黒は岩陰に身を潜めていた。
息が荒い。全力で走り続けて、肺が悲鳴を上げている。追手の気配は、まだ近い。撒いたと思ってもすぐに追いついてくる。疲弊しているはずなのに執念だけで動いている。当たり前だ。抜け忍を追うには、そういう者が選ばれる。
どうする。このまま逃げ続けてもいずれ捕まる。戦うか。だが相手は二人だ。一人なら何とかなるかもしれないが、二人同時は武器がなければ厳しい。
不意に、背後から腕が伸びてきた。黒は反射的に身を捻ろうとしたが、聞き慣れた声が耳元で囁いた。
「私だ」
──利吉。
黒は振り返った。利吉の顔は蒼白だったが、目だけが鋭く光っている。利吉も今の状況を分かっているようだった。黒は声を潜めた。
「追手だ」
「知っている。忍者隊に聞いた」
「忍者隊?」
「この山に入ってきた。追手を探してる。逃げるぞ」
利吉が黒の手を掴んだ。
「どこに逃げる気だ」
「私の実家だ。あそこなら隠れられる」
黒は頷いた。今は利吉に従うしかない。この山のことは、利吉の方がよく知っている。
二人は岩陰を離れ、西へ向かって走り出した。
雪解け水が斜面を流れ、足元を濡らしていた。
黒は利吉の背中を追いながら、必死に足を動かした。地面がぬかるんでいる。踏み込むたびに足首まで沈む。
「こっちだ」
利吉が方向を変えた。獣道だ。細いがそちらの方が地面が固い。利吉はこの山の道を全て把握している。どこが歩きやすく、どこが危険か。その知識だけが今の二人の武器だった。
背後から、足音が聞こえた。
一人だ。追手の一人が追いついてきている。もう一人は——どこだ。
「利吉」
黒が囁いた。
「追手が一人しかいない」
「ああ」
利吉も気づいていた。二人組のはずだ。それなのに追ってきているのは一人だけ。もう一人はどこへ行った。
嫌な予感がした。
利吉は周囲を見回した。この辺りは岩場だ。切り立った崖と、むき出しの岩が連なる地帯。見通しが良く、隠れる場所が少ない。けれども、別の使い方もできる。
利吉の背筋が凍った。隊長が言っていた言葉が蘇る。
──焙烙火矢。
この地形。壁のように迫る岩。逃げ場のない回廊。一人が獲物を追い立て、もう一人が口を塞ぐ。追い込み猟だ。自分たちは鹿で、この岩場が殺し間だ。
忍者隊に追い詰められ、包囲を食い破ってきた連中だ。もう帰る場所がない。死ぬ気でいる。自分が巻き込まれることなど、計算の外に置いている。
その時──岩陰から弧を描いて飛来するものがあった。
先端で火花を散らす導火線。宙を切りながら回転し、二人の頭上に落ちてくる。
「伏せろっ!!」
利吉は叫んだ。考えるより先に、身体だけが動いた。黒の胸を突き飛ばし、倒れ込む身体に覆い被さって背中を空に晒した。
黒の顔が眼下にあった。見開かれた目。何が起きたか理解する前の、剥き出しの瞳。
──ああ。
白が裂けた。
音ではなかった。音になる前の、空気そのものが破裂する衝撃だった。鼓膜が潰れ、世界から音が消えた。代わりに熱が来た。背中を焼く熱。肉を裂く岩片。衝撃波が二人の身体を地面に叩きつけ、砂利が顔を打った。
利吉は黒を抱いたまま転がった。腕だけは緩めなかった。背中が燃えている。皮膚の下で何かが裂けている。痛みは遅れてやってきた。最初は熱さだけだった。それから、鉄の杭を打ち込まれたような鋭い痛みが脊椎を走り、視界が明滅した。
息ができない。肺が潰れたのか、煙を吸ったのか。腕の中で、黒が叫んでいた。声は聞こえない。口が動いているのが見える。利吉、と。何度も、利吉、と。
煙が渦を巻いていた。粉塵が陽光を遮り、灰色の帳が二人を包んでいる。その向こうで何かが崩れる振動が地面を通して伝わってきた。岩壁の一部が崩落したのだろう。あるいは火矢を投げた男自身が爆発に呑まれたのかもしれない。
利吉は黒の顔を見下ろした。泥と血に塗れた顔。誰の血だろう。ああ、自分の血だ。黒は怪我をしていない。よかった、と思った。
──父上。
薄れていく意識の底で、利吉は思った。
あの日。十二の自分を庇って、敵の刃を受けた父。その背に刻まれた傷を利吉は忘れたことがなかった。忘れることを自分に許さなかった。あの傷は自分の罪だった。子供であったことの罪。弱かったことの罪。
それなのに自分は今、父と同じことをしている。同じ立場になって、ようやく分かる。
庇うとは、選ぶことだった。ただこの頸を失いたくないと、身体が叫んだだけだ。理屈ではない。損得でもない。大切なものを選び取っただけのことだ。
黒の手が利吉の頬に触れた。熱い手だった。震える手だった。利吉は笑おうとした。口角が上がったかどうかは分からない。
闇が、静かに降りてきていた。
後
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