After talk:Sanctuary
まるで泥沼の中を歩いているような、そんな足取りだ。
今晩の宿泊先は既に決まっていたが、シンクは暫くウェナの潮風に当たっていたい気分だった。あてもなく彷徨っていると、見慣れた通りに出る。そういえば、あの酒場はまだ営業しているだろうか?
「お邪魔します」
建物の窓から溢れる薄明かりが見えた時は、正直ほっとした。一呼吸置き、いつもより重く感じる扉を開けると、見慣れた面子が揃っていた。
この店のマスターである『しゅーちゃん』と、その常連客のごんず。夜更けだからか、二人のウェディ以外の客と店員は既に帰ってしまったようだ。
「あらいらっしゃい。ようこそ」
「ども。お久しぶりです」
「さっ、座って座って。良い席空いてるわよ。アタシの顔がよく見える、と・こ・ろ♪」
「ははっ、そりゃあ良い席だ」
煌びやかな紫のドレスを身に纏い、笑顔で手招きするしゅーちゃん。シンクがカウンター席に腰をかけると、左端の席から声を掛けられる。
「おう兄ちゃん、俺の隣は嫌かよ?」
片手でグラスを回しながら、隣の椅子をバンバンと叩くごんず。黒いサングラスを掛けている為その表情はよく分からないが、きっと睨まれているのだろうと感じたシンクは冷や汗を浮かべる。
「やーねあなた、あんまりいじめちゃダメよ? この子意外と打たれ弱いんだから」
「しゅーちゃん……!」
虐めちゃいねえが、と小さく呟くごんず。
しかし打たれ弱いというのは事実なので、シンクは何も言い返せなかった。体裁を取り繕う間もなく俯きかけると、目の前にメニュー表が差し出される。
「ホラホラ、そんな事より何かご注文は? アタシのお店に来たからには、お金もちゃんと払って貰わなくちゃね」
「それじゃあ取り敢えず、紅茶と何かつまめるものある?」
「紅茶ね。紅茶と合うもの……それならドライフルーツがあるわよ。マンゴー!」
じゃあそれで、と答えるとしゅーちゃんは手際よく注文された品を用意する。
紅茶を淹れる片手間に差し出された小皿の中には黄色い果肉だけではなく、紫の果肉も添えられている事に気付き、思わずしゅーちゃんを見る。サービスよと言わんばかりにウィンクするしゅーちゃんに軽く会釈をすると、その様子に気付いたごんずが駄々を捏ね始めた。
「しゅ〜ちゃ〜ん、俺にも何かくれよお」
「やーねあんた、図々しい。さっきからずうっと飲んでるじゃない」
ごんずの目の前に置かれたあん肝の皿に視線を落とすしゅーちゃん。どうやら、ごんずは既にマスターからの手厚いサービスを受けた後のようだ。
そんな二人のやり取りを見て、シンクは何だかほっとした。
「ははっ、相変わらずだなあ」
「そりゃそうだ。俺みたいなのがのんびり飲める店といったら、ここくらいだぜ? まりこの面倒も見てくれるしよお」
「あんまり面倒見ずに預けっぱなしなら、アタシが貰っちゃうわよ? まりこちゃん、可愛いものね♪」
「そうして貰っても俺は構わねえけど……まりこが何て言うかな」
「当たり前よ! あんたが親としてしっかり面倒見てあげないとダメよ!」
「親?! えっ、親だったのごんずさん?!」
「親なんて立派なもんじゃねーよ。あまり気にするな」
頭をボリボリ掻きながら言葉を濁すごんず。
何度か共に魔物の討伐をこなしてきた相手の意外な一面に驚きを隠せず、思わずドライフルーツを食べる手が止まる。
「金髪の変な娘がいたら、そいつが『まりこ』だなってくらいに思ってりゃ良い」
「そ、そうか……」
「変なって、あなたねえ……あんなに可愛い子じゃない」
他人に言い難い事情があるのはシンクだって同じだ。本人が語ろうとしないのであれば、これ以上言及するのは野暮な事だろう。
「ほら紅茶が冷めちゃうわ。さ、飲んで」
「ありがとう。いただきます」
シンクが色々と考え込んでいるうちに、いつの間にか洒落た花柄のティーカップが目の前に置かれていた。
手に取ると温かい。直ぐに口を付けても火傷する事のない程良い温度の紅茶を舌へ、喉へと染み渡らせてゆく。
「うめーのかそれ? 俺はあんまりそういうシャレたやつ、飲み食いしようとは思わねーんだよな」
「ああ。別に洒落てるから飲んでるって訳じゃないけど、酒よか身体に良いぞ?」
ごんずの目の前に置かれているグラスは複数個、そのどれもが空っぽだった。一体いつから飲んでいたのだろうか。
「あなたも、もう少し落ち着いたものを食べて良いと思うわ。まりこちゃんだって、あなたと同じものばかり食べてたら将来身体を壊しちゃうわよ?」
「おう、分かってんだよそんな事。アイツは良いんだよアイツは……」
「そう……」
ウィスキーの入ったグラスを傾けるごんず。ぶっきらぼうな態度ではあるが、しゅーちゃんの言う事はやけに素直に聞くので、過度な心配は不要だろう。
二人とは長い付き合いではないが、時折ここの場所で他愛の無い話から真剣な話まで色々聞いて貰っている。語りたい事は語っても良い、語りたくない事は語らなくても良い。この酒場はそういう場所なのだ。
きっとこの人達なら、今の自分の心情を打ち明けるのも苦ではないだろう。
「そういやさ、ちょっと悩み事っていうか……相談しても良いか?」
「おーいいぜ、ごんずお兄さんが全部聞いてやる。酒が残っている間はな」
「何がお兄さんよ、面白がってるだけよね? お酒が残ってる間だけなら、アタシが継ぎ足しちゃうわよ?」
しゅーちゃんの気遣いに感謝しながら、シンクは話を続ける。
「ありがとう。あのさ、さっき出会った女の子……アイドルの子がさ。気になる事を言っていたんだ」
「あら、中々やるじゃない。女の子、しかもアイドルと一緒なんて!」
「いやいや、そういうのじゃないって!」
「アイドルと話したってお前、俺も呼べよ!」
「えっ。あっ、ゴメンナサイ……」
正直『アイドル』だなんて急に言われても、困ってしまわないだろうか……そう思っていたのだが、二人はすんなりと信じてくれたようだ。
「それで、どうしたの?」
「ああ、そうだった。それでさ」
シンクは手元のカップに視線を落とす。
淡いオレンジの水色に写る自分の顔が、なんだか情けなく見えた。
「その子は何事も、どうしても逃げたい時は逃げても良い。そう言っていたんだ」
カップの中で揺れる紅茶。小さな波がシンクの顔を歪ませ、広がり、混ざり合う。
「でも俺は、とてもそうは思えなかった。逃げてばかりじゃ、大切なものを失うばかりだから……」
シンクはあの日の出来事を思い出す。
逃げて、逃げて、逃げた先でやっと見つけた居場所を失った。勇気を出して伸ばした手が、届きそうで届かなかった自分の手が、何もかも遅かったのだと物語っていた。
その躊躇いをあと一秒でも、一瞬でも早く打ち払えたのであれば……そう思いながら今日この日まで生きてきた。
「勿論逃げっぱなしはダメだってのはその女の子も理解していたけど、何だか色々と引っ掛かってさ。話を途中で切り上げて、この場所に来ちまったんだ俺は」
あの時、あの少女の言葉。
自信が無いからこそ肯定を得たい、安心したい、価値を示したい……そのどれもが、身に覚えのある言葉だった。己の弱さから目を逸らし続けてきた自分自身の感情に、似たものを感じてしまった。
「分からないんだ、何が正しいのか。あの子は俺なんかとは全然違う世界に生きる子だってのは、ちゃんと理解している筈なのに」
逃げて良い、逃げた先で得られたもので向き合えるならそれで良い。そう主張する彼女を思い出し、言葉を詰まらせるシンク。
静まり返る酒場の空気を打ち消したのは、ごんずの気の抜けた欠伸だった。
「ふぁ〜あ」
「飽きるの早っ?!」
「酒飲む事しかやる事ねえからなあ」
「あんまり意地悪言っちゃダメよ。この子だってちゃんと悩んでるんだから」
「そんな事言ってもなあ」
ごんずは一気にグラスを傾け、残っていたウィスキーを飲み干す。
「逃げたきゃ逃げれば良い、だけどよ。それで自分が後悔するなら、そう思うなら、前を見れば良い。それだけだろ」
シンクの問いに対し真っ先に答えたのは、興味が無さげな素振りを見せていたごんずの方だった。
相変わらずその表情は分からないが、シンクの事をからかっている様子は一切無い事がその声色から窺える。
「後ろも見ずに逃げ出して、振り向いたら大事なモンを落としてました……なんて事になって後悔するなら、逃げなきゃ良い。そう思わねえか?」
「それで前を見て戦える強い子は、そんなに多く居ないと思うわ。アタシから言える事も、そう多くは無いと思うのだけれど……」
ごんずの言葉に、しゅーちゃんも続く。
「逃げても良い、とまでは言わないわ。でも、逃げるべき時ってあると思うの。立ち向かう事が強さだって戦い続けて心が折れた子、物理的に倒れた子、色々な子を見てきたわ」
常に微笑んでいる印象が強いしゅーちゃんが、こんなにも真剣な眼差しで話しているのをシンクは初めて見た。
長い年月酒場を経営している身として様々な冒険者と出会い、別れてきたからこそ分かる話なのだろうか。
「まあ、だからそうね。自分にできる事を頑張れば良い。それだけで立派よ」
「自分にできる事……」
「俺も逃げた事がない訳じゃねえ。だが、それで後悔した事だってある。結局の所何が正解かなんてのは、なってみなきゃわかんねえよ」
シンクとは全く異なる道を生きている二人の言葉には、説得力があった。
きっとこれは彼等がしっかりと向き合った上で導き出した、彼等なりの明確な『答え』なのだろう。
「だからみんな必死に生きてんだろうなあ……ってな。なんでこんな真面目な話しないといけねえんだ? 俺は美味い酒を飲みに来てるだけなんだぜ?」
「ああ、ごめん。でも二人の話を聞いていたら何だか納得できた気がする」
そうだ、答えは決して一つではない。
「逃げるか逃げないか、逃げて良いのか悪いのか……それを決めるのは自分自身で、誰かが決める事じゃないし、決められる事でもない」
シンクが彼女にかけられる言葉……正しい答えなんて、きっと何処にも存在していなかったのだ。
それでも、逃げ続けた先の景色を視てきたシンクは、彼女の出したその答えを見過ごす事ができなかった。彼女が自分のように、大切なものを失って欲しく無いと感じた。彼女の様子を気にしていた後輩の事も気がかりだった。
「だからこそ、他人に逃げる事を勧めるのも、逃げない事を強いるのもダメなんだ。もっとも俺自身が考えて、俺の意思で動かなきゃいけない……」
シンクの問題がシンク自身にしか解決できないように、彼女の問題は彼女自身にしか解決できない。
ちょっと共感できる要素が掠ったくらいで何かを解ったような気になって思わず口を出してしまったが、彼女の事を何も知らないシンクがどうにかしてやれる問題では無かったのだ。
「何だかスッキリしたよ。てかごんずさん、すっげー良い事言うじゃん。何か意外だ」
「あ? 俺が良い事言ったらおかしいのかよ?」
「おかしいわ。アタシ毒なんて入れてないわよ」
「しゅーちゃん……」
「あらやだ、冗談に決まってるじゃない!」
唖然とする二人の顔を見て、しゅーちゃんはふふっと笑う。
「あなたも、まりこちゃんと一緒にいるようになってから何かと面倒見が良くなったんじゃないかしら?」
「……気のせいだろ」
「そうかしら? じゃあそういう事にしといてあげるわ」
「ケッ」
「まあまあ、そう機嫌悪くしないでさ。話を聞いてくれたお礼に一杯奢るよ。あんま高いのは無理だけどさ」
「お! 良いねえ、分かってるねえメガネくん。んじゃ酒だ、それ以外ねえ!」
「この子お酒ばっかり飲んで……おうちに帰れるのかしら?」
「よゆうだぜ〜〜〜!」
呂律が回らなくなってきた酔っ払いに、やれやれと肩をすくめながら二人は顔を見合わせる。
シンクはティーカップの紅茶を飲み干し、ゴールドを入れた革袋を取り出した。
「んよし。紅茶も飲み終えた所だし、ちょっと多めにゴールド置いておくから、この分でごんずさんにお酒を出しておいてくれないか?」
「任せてちょうだい。でもね、このお金はお酒にはならないわ。馬車代になるの」
しゅーちゃんはパンパンと手を叩き、店仕舞いの準備を始める。
「さ、アンタも帰るのよ。まりこちゃん、きっと心配してるわ」
「ええ〜、おれかえりたくねえよ〜。しゅ〜ちゃ〜ん」
「ダメなものはダメよ、お帰り! シンクくん、この子連れ帰ってちょうだい!」
「店主がそう言いなら従うしかねえよ。ほら行くぞ」
「うを〜」
シンクはごんずの着ている黒い革ジャケットを掴む。実戦であれば力負けする相手だが、酔っ払いともなれば何とか椅子から引き摺り下ろす事ができた。
「まりこ〜、うをを〜〜、おれはかえんねえぞ〜」
「はい、今日もご利用ありがとうございました♪ 早く出ていきな!」
「うい〜またな〜」
ご馳走様でしたと言いながら酒場から出ると、見慣れぬ金髪の少女が仁王立ちしていた。
身長はおよそシンクの半分。人間の子供だが、何故かごんずと同じサングラスをかけている事からこの娘こそが話に出てきた「まりこ」である事は間違いないだろう。
まりこは無言で、地面に転がるごんずに近寄り……。
「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!!」
足を鷲掴みにし、そのまま地面を引き摺った。
「俺の髪が〜! まりこやめろ〜〜〜!」
「んじゃあな、気を付けて帰るんだよ〜」
華奢な身体で、ウェディの大人を引き摺る力が一体どこにあるのだろうか……二人の影が小さくなっていく様を、シンクは手を振り見送る事しかできなかった。
二人が見えなくなった所で、シンクは空を見上げる。空に浮かぶのは小さく瞬く星々だけで、探し求めているものは当然見つかりもしない。それでも空を見上げ、自分が後から後悔せず、自分にできる精一杯……いや、それ以上を貫く為にどうするべきかを考える。
あの時、彼女が自分にしか決められない筈の答えを他者に語った意図とは何だったのか。彼女が他者に求めていたものは一体何だったのか。今のシンクには何も分からない。でも、このままではきっと後悔する事だけは分かるのだ。
シンクの旅の目的とはまた別の、小さな物語はもう既に動き出している。
いつの日か訪れるであろう彼女との再会を目指して、シンクは踵を返し、前を向き、また一歩前へと踏み出すのであった。
─ end ─
powered by 小説執筆ツール「notes」