ストレンジャー
目を開けてはならない、と言われた。
僕はその言いつけに従って、ぎゅっと目を閉じたまま歩き続けている。右手は誰かの手に握られていて、その歩みについていっているようだ。
ようだ、というのはつまるところ、はたと気づいたときにはこの状況だったのだ。隣を歩く誰か、その誰かに手を握られついていく僕、そして目を開けてはならないという言いつけ。
言われた場面の記憶はないのに、たしかに言われたと覚えている。それに従わなくては、と思ったのも。だがそもそも、この人は誰なのだろう?
妙に冷たくて硬い手だった。こんな手は握ったことがない。不思議と恐怖心はなく、僕はそのまま足を止めなかった。
そうしていると、周囲に人の気配が増えてきたことに気づく。声や物音が増えてきた――だが、何を喋っているのかはわからない。僕の知らない言語のようだ。遠くから聞こえる音もあれば、すぐ耳元で囁くような声も聞こえてくる。僕が驚いて身をすくませると、繋いだ手の主は勇気づけるように握る力を強めた。
周囲のざわめきはどんどん大きくなる。と同時に、手を握られている腕に違和感があるのに気がついた。腕だけではない、歩く足もだ。これは単純に――とても歩きづらい。なぜなら今の僕は手を繋ぐために、めいっぱい腕を伸ばしているから。
先ほどまではこんなに腕を伸ばした状態ではなかったはずだ。僕がいつのまにか縮んでしまったか、手の主がとんでもなく大きくなったかのどちらかだろう。僕が歩くのに手間取っているのに気づいたか、その人は初めて立ち止まった。
「あー……暴れんなよ。目も開けんな」
やけに金属質な奇妙な声だった。だがやはり恐怖心はない。初めて聞いた気もしない。その人は手を離して僕の肩に触れ、それから僕を抱き上げた。
驚いて危うく目を開けそうになった視界を塞ぐように、大きな帽子が頭に被せられる。その形状はおそらくカウボーイハットと呼ばれるものだろうか。僕の頭の大きさには合わず、目元まですっぽりと隠してしまった。
その人はそのまま歩き出した。奇妙な音と声はいまだ止まない。遠くで、近くで、呼ぶように、引き留めるように、そこかしこから聞こえてくる。
そんな中、不意に意味のわかる声が聞こえた。
「×××××」
僕の。名前だ。そしてその名を呼ぶ声は、その響きは。
「イド……リラ……さま」
ごく自然に、僕の口はそう応えた。抱き上げられて自由のきかない身体を捻り、声が聞こえてきた後方へ身を乗り出す。
視界を覆う帽子を持ち上げようとした瞬間。僕の身体は強い力に引き戻され、それから目の前いっぱいに白と黒が迫っていた。
「なァ、兄弟――」
大きなカウボーイハットのつばを、その人の頭が押し上げている。鼻先がくっつくほどの近くにその人の顔がある。レティクルを収めた瞳、不機嫌そうにへの字に歪んだ口元からギザギザの歯が覗いている。――ああ、けれどやっぱり、僕は怖いとは思わないのだった。
「あんなバケモンがアンタの女神サマなわけがあるかよ。ああ、見るなよ? オレを見てろ。オレだけを見てるんだ。わかったか?」
「……はい」
「いい子だ」
帽子越しに頭を撫でられ、妙にくすぐったい気持ちになる。僕の名を呼ぶ声はまだ聞こえていたが、次第に周りの他の音と同じように、意味を理解することはできなくなっていった。
その人はしばらく歩き、ふと足を止めた。目ぇ閉じとけ、と言われるがままに再び瞼をおろすと、乗せられていた帽子が取り上げられる。
「帰るぜ、兄弟」
もう一歩を踏み出す気配がする。目を閉じていてもわかる、そちらはとても眩しい――そこへ足を踏み入れる刹那、抱き上げられたままの僕はほんのわずかに目を開けた。
その場所は暗い路地裏のような景色だった。フェンスで仕切られた街並み、遠くに見えるのは寂れた砂地。そしてそこかしこに、僕が被せられていたカウボーイハットと同じものを被った大人たちがいる。
きっと、たぶん、大人たちだ。もっと言うなら、おそらくは人間であろうと思われるものたちだ。顔がなく、背は異常に高く、かと思えばとても小さく。およそ人間には見えない何かであったが、それらはきっと人間なのだった。彼らは各々の間でひそひそと語り合っていた。それから僕を――否。
彼をここに、呼び留めようとしていたのだ。
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ブートヒルの歩みはひとときたりとも止まらず、白いゲートを通り過ぎたあとは見覚えのある景色がふたりを出迎えた。奇物が起動する前に見ていた、とある惑星の博物館の展示室だ。
「……ありがとうございます、ブートヒルさん。おかげで命拾いしました」
「ったく。やっかいなモンに引っかかりやがって。オレら以外にもコイツを見てた客はいただろ――問題なくただ飾られてた奇物が、なんだっていきなり起動すんだ?」
シンプルなドアノッカーの形をしているその展示のタイトルは、『壊れた奇物』。名前すらも失われるほど長い間、この辺境の惑星に飾られてきた――その“意味”もわからぬまま。
今回ブートヒルとアルジェンティがここに来たのは、星穹列車からの依頼……というよりむしろ、友からの“お願い”にアルジェンティが二つ返事で応えたからなのだった。その場に居合わせただけのブートヒルは完全にとばっちりである。
ただ、なぜこれが起動したのかと問われれば。
「……ンだよ兄弟」
疲れた顔で頭を掻いていたブートヒルが、怪訝そうにアルジェンティの眼差しを見返す。アルジェンティにカウボーイの知り合いは彼ひとりだけだ――すなわちあの空間にいたあれらの大多数は、ブートヒルにゆかりを持つ造形をしていたということになる。
アルジェンティは展示タイトルの下、解説の部分にちらと視線を落とした。『壊れた奇物』が起動するほどの強い願い、だったのだろうか。
「いいえ、なんでもありません。館長に話をしに行きましょうか。こうして実害が出た以上、星穹列車に委ねることは彼らにとっても悪い話ではないはずです」
「今取っていけばいいじゃねぇかよ。ガラス割りゃすぐだ」
「それでは盗人です。僕の前で悪辣な振る舞いは許しませんよ、ブートヒルさん」
うんざりとした様子で踵を返したブートヒルを横目に、最後に展示を振り返る――その刹那。
展示台の影から小さな子どもがこちらを覗き込んでいた、ような気がした。あの場所にいた異形たちとは違う、間違いなく幼い子どもだとわかる姿で。先ほどのアルジェンティと同じように、サイズの合わないカウボーイハットを被って。
“彼女”は小さく手を振って、瞬きの間に消え去った。
『壊れた奇物』
望む過去への扉を開いてくれるという奇物。大飢饉が起こった旧文明の王が使ったという伝承以来、起動した記録はない。
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