Diamond in the sky(ホラノフ/隣人)

「ぼくたちはしんだらどこへいくの?」
 幼いイリヤはその青緑色の瞳を涙できらきらと潤ませながら、たおやかな細い腕で彼を抱いてくれている母親を見上げた。
「しんだらきえてしまうの?」
 生まれながらに金色のウェーブがかった細い髪をして、薔薇色のほほのてっぺんに薄くそばかすを散らしたその女性は、くちびるに愛おしさに満ちたやさしい笑みを浮かべる。
「あら、イリューシャ。さっきのお話が怖くて泣いているのね。ごめんなさい」
 さきほど母に読んでもらった寝物語の結末がおそろしくて、イリヤはなかなか寝つけないでいた。
 だいすきなママもいつかいなくなってしまうのかもしれない。
 そんな悲しい想像が彼の小さな頭から離れないのだ。ぽろぽろとこぼれる涙の粒を白魚のような指で拭ってやりながら、彼女はイリヤの汗をかいて湿った金茶色の巻き毛にくちびるをうずめ、ちゅっと音を立ててキスを落とした。
「イリューシャ。覚えていてね。私たちは死んでも消えるわけじゃないのよ。天にのぼってお星さまになるの。お星さまになって永遠に輝くの」
 そう言うと、母はベッドルームの窓を開けてイリヤに満天の夜空を見せてくれた。ロシアの冷たい夜風がほほを撫でていったが、澄んだ空気のなかで瞬く星々があまりに綺麗でイリヤは寒さなどまるで気にならなかった。ふくふくとした手を天に向かって伸ばすイリヤの髪を撫で、母は諭すような調子でつぶやく。
「だからママもいなくならないわ。夜になればいつでも会えるもの」
 イリヤはそのときの母のはっとするほどに寂しげな横顔をいまでもよく覚えている。

 ◇
 
 ロシアでは贈る花の数に意味があると知ったのはイリヤと結婚してからだ。デートなどの際は奇数の花を贈り、葬式や墓参りのときには偶数の花を贈る。今日はイリヤの母親の命日だからと花屋に偶数本の花束を作ってもらい、シェーンは家路についていた。あまり暗くなりすぎるのも自分たちらしくないと思い、あえて鮮やかであたたかな色も入れてもらった。
 イリヤの母親——イリーナのことで、シェーンが知っていることはあまり多くない。母との想い出についても、イリヤが話したがらないなら無理に干渉して暴くような真似はしないつもりだった。
 ただとても美しい女性だったはずだとは思う。なにせあのイリヤ・ロザノフを産んだひとなんだから、と知らず惚けながらシェーンは家で彼を待つ夫を思う。
 彼女の不在がイリヤのこころのやわらかな部分を占めているのは間違いない。イリヤが肌身離さずにいるロシア正教の十字架がそれを物語っている。いまだ仔細には話せないほど、傷は癒えていないのだろう。いつかイリヤのほうから笑って話してくれたらいい、シェーンはそう願っていた。
 
 ◇
 
「ただいま」
 オタワの我が家のドアを開けながらそう声をかけると、さっそくアーニャが駆け寄ってきた。シェーンがアーニャを撫でてやりながら花束をダイニングテーブルへ置くと、奥のほうからイリヤが現れる。どうやら寝ていたらしく上半身は裸のままで、髪の毛があちらこちらへ跳ねている。
「おかえり、ホランダー」
 シェーンはふふっと笑いながら、まだむにゃむにゃ言っているイリヤのほほを手を添えて軽くキスをする。
「ただいま。寝てたの?」
「うん。悪い、メシも作れてない」
「いいよ。これからどこかに出ようか」
 ふぁ、とあくびを噛み殺しながらシェーンの腰に腕を回して首元に顔を埋めてくるイリヤはどこか子どもっぽくてかわいらしい。実は甘えたがりなイリヤがシェーンにだけ見せるこの幼さがシェーンはたまらなく愛しかった。襟足でくるんと跳ね返る巻き毛を手櫛で漉いて整えてやりながら、シェーンはただ黙って寝起きの夫のあたたかな体温に身を任せていた。
「……ママの夢を見た」
「……そう」
「うん。俺が五歳くらいの頃、寝る前になにかの本を読んでくれて……、あの本はなんだったかな……」
 またひとつ、イリヤからイリーナとの想い出を聞けたことが嬉しかった。広い背中に回した手で背筋のなだらかな稜線をゆっくりと撫でながらシェーンは言う。
「ねえ、きみのママに花を買ってきたよ」
 イリヤはおもてを上げて驚いたようにシェーンを見つめた。
「……命日、覚えていてくれたのか」
「もちろん。きみのママなら俺にとっても大事なママだろ?」
 一度イリヤから離れたシェーンはテーブルに置いていた花束をふたたび抱き上げ、言葉をなくすイリヤに渡す。瞳を瞬かせたイリヤは鼻を啜り、シェーンの指をそっと握った。機嫌よくふたりの足元にまとわりついていたアーニャも心配そうにイリヤの様子をうかがっている。この子はほんとうにイリヤによく懐いているな。シェーンは思わず目を細めた。
「……ありがとう」
「うん。俺が花瓶に生けておくから、きみは身支度してきて。今夜はどこか近くのレストランで食べよう」
 キッチンの出窓のところにあった花瓶に水を淹れながらシェーンがそう言うと、イリヤが背後からおもむろにシェーンを力強く抱きしめた。
「イリヤ?」
「ママは死んだら星になるって言ったんだ。天にのぼって、夜空で永遠に輝くって」
「……いいね、それ」
 首筋にいくたびもキスされながら、シェーンはくすぐったそうに微笑んで頷く。背中に当たるイリヤのネックレスの感触が心地よい。
「外はいい天気だから、きっと帰りには星もよく見えるよ」
「愛してる、シェーン」
「……うん。俺も愛してる」
 振り返ったシェーンの顎を持ち上げてキスをしたイリヤは、そのまま夫のしたくちびるを喰んでから軽く吸い、おのずと開いた口のなかに滑った舌を潜り込ませた。いかにも彼らしく規則正しく並んだシェーンの白い歯と歯茎のあわいを舌先でなぞりながら、鍛えられた丸い臀部を左右の掌で掴んで無遠慮に揉みはじめると、されるがままだったシェーンが喉の奥で悩ましげにうなって制止する。
「……んっ、……ヘイ、イリヤ?」
「……シェーン?」
「出かけるから着替えておいで、って言ったよな?」
「まだ晩飯には早いだろ」
「イリヤ」
 眉根を寄せたシェーンに固い声音で名前を呼ばれると、イリヤはくちびるをツンと突き出してしばらく不満そうな表情を浮かべるが、がんとして折れない夫にしぶしぶ観念したのか、名残惜しそうにシェーンのほほのそばかすをするりと一度だけ撫で、ようやくベッドルームへと歩き出した。
「あ、待ってくれ、イリヤ。きみの背中にも星がある」
「なに?」
「ほら。星座を作ってあげる」
 イリヤの背中に点在するほくろに指の腹でやわらかく触れながら、シェーンはほくろとほくろを繋ぐようになぞった。最後にほほにあるアイコニックなほくろにまでそっとくちびるを落とされては、イリヤはもはや辛抱たまらなかった。
「……よし。やっぱり一回してから行こう」
「えっ、いや、だからだめだって」
「いまのはお前が悪い」
「あはっ、ばか、どこ触ってるんだ」
「よくしてやるよ、旦那さま」
 ふたりして賑やかに笑いながらベッドルームへと縺れ込んでいくイリヤとシェーンのあとを追いかけて、犬用おもちゃを咥えたアーニャも駆け出した。静かになったダイニングには色とりどりの花がただ静かに佇んでいる。

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