願う相手なら

 七夕というものらしい。
 恋人に会うためにやって来たらサニー号の芝生の上に二、三本の笹が刺さって居たので、とうとうこの船は密林を目指しているのかと訝しんでしまったが、どうやらロボ屋と鼻屋が本物そっくりに造った人口樹木らしい。なぜ?と首を傾げたらトニー屋が「七夕なんだ!」とにこやかに答えた。その手には折り紙らしい色鮮やかな紙があり、なにやら作成中だったらしく折り目が付けられていた。よくよく見ればトニー屋だけではない、それこそ鼻屋やロボ屋、骨屋や海峡屋すらも何やら紙を手にしてはチマチマと折りたたんだり切ったりとしている。
 で。

「タナバタとは、なんだ?」
「えっとな……なんだっけ」

 こてんと首を傾げる小さなトナカイの姿は愛らしい。大きな帽子から角を突き出させて、つぶらな瞳がきゅるりと輝く。だがこの小動物が愛らしい姿だけでは無いことを知っている。船医として、つまりは医者として一目置く程に優秀であり、そして戦闘員としても優れているという事を。侮り下に見れば足元を掬われるだろう。元々、下に見るつもりもなく考えたことも無いが、たまにこの幼い姿についつい愛玩動物にでも向けるような眼差しをしてしまいそうになる。
 なんだっけとつぶやく姿にほわっとした気持ちを覚えかけて、こほんと咳払いをして気を引き締め、視線を巡らせればニコ屋が様子に気付いたようで近付いてきた。手にはやはり、なにやらチマチマと工作をしていたらしい紙がある。だが折り紙とはどこか少し違うようだ。長細い、長方形の薄い紙。大きさとしては男の掌よりも少しばかり長いようで、長辺の片側の真ん中辺りには穴が空いていた。そこに紐を通す作業をしていたらしい。

「来てたのね、ゾロなら今は展望台よ」
「ありがとう。それより、トニー屋がタナバタと言っていたが、タナバタとお前らのその……訳の分からん作業は一体何だ」
「あら、あなたでも知らない事あるのね」
「お前よりものは知らない方だな」
「ふふ、謙遜も行き過ぎると嫌味よ?」

 事実なんだがな。だが気分を害してしまっただろうかと恐る恐る女を見たが、言葉に反してニコ屋はくすくすと笑っていて楽しんでいる様子に、からかわれたのだと気付いた。寧ろこちらのほうが気分を害しそうだと思っていると、聡い女はすぐに軽い謝罪を向けてきた。

「ごめんなさい。七夕よね、トラ男は天の川を知ってる?」
「あまのがわ?」
「夜空を横切るようにして流れる星の輝き、雲状に連なる光の帯の事よ」
「ああ、ミルキーウェイか」

 よく晴れた夜空でたまに見られるという星空の事だ。人口の明かりが無い海では星灯りも良く見えて、そのたまに現れる星々は実際に見たこともあった。
 さして珍しいものではないが、それを天の川という表現をする事は知らなかった。だが、それだけだ。珍しくもないその星空と、まるで今からお祭りをするかのような騒ぎを起こしている麦わら屋達の行動がどう関係しているのか意味がわからず、話を続けろと言うようにニコ屋を見つめる。すぐに了承したというように彼女は頷いた。

「ミルキーウェイ、私もそう呼んでたわね。もちろんその星空に関しては私達も何度か見てきたし、珍しくはないわよね」

 綺麗だと、その度に騒いではいるけれど、と楽しそうと言うよりも、嬉しそうに呟く。

「でも今夜の星空はひと味違うのよ。この海域だといっとう近くに見えて、それはそれは綺麗らしいの。星々は遠すぎてその一つひとつは普通私たち人間には見えないでしょう?でもこの海域ではいっとうはっきりと美しく見えるらしいの」
「ふぅん?」
「そして日付」
「日付?今日は……七の月の、七日目くらいだったか?」

 正直日付なんてのは、海を自由に渡っていると気にもしなくなる。必要も無いし、さほど意味を持たないからだ。なんとなくそれくらいだったはずだと思って答えるとニコ屋は頷いて、それが重要だったのだという。

「ゾロがね」
「ゾロ屋?」
「七夕かぁって、呟いて、まぁ私もそれで古い文献を思い出したのだけど」

 文献と、あの男の名前が同時に出ることに違和感を覚えながらもニコ屋の話を聞く。
 聞いてみればそれは遥か昔の御伽噺であるようだ。神話、とも言うのか。
 その神話ではとあるお姫様が牛飼いの男と夫婦になったが、二人での生活が楽しくてしかたなかったらしく、お互いに勤めがあったにもかかわらずサボりまくってしまったそうだ。あまりにも怠慢な態度にはお姫様側の父親が激怒してしまい、二人の間に川を作り、夫婦を別々の離れ離れにしたそうだ。だが年に一度だけはその川を渡る事を許したらしい。その川が天の川だ。
 自業自得だな、と呆れて呟けばそれはそうだとニコ屋も笑った。

「そして、そのお姫様がね、機織のお仕事をしていたのよ。その機織の上達を願うという風習があってね、それが由来で七夕の日には笹に願いを掛けて書いた、これ」

 これ、と言って掲げたのは手にしていた長細い紙だった。

「短冊っていうんだけど、短冊を吊るすのだそうよ」
「それを、祭りみてぇに楽しんでんだな、お前ら」
「だって楽しそうじゃない。それにロマンティックだわ、星夜に願いをかけるなんて」

 くだらねぇと一蹴してもよかったが、足元で祭りの飾り付けらしいものを必死に作っているトニー屋の存在を思い出して飲み込む。

「それを、ゾロ屋も知っていると」
「なんでもゾロの村では毎年行われる祭りだったらしいの。もしかしたら私が読んだ文献も、ゾロの故郷……もっと言えばワノ国から流れ出たものだったのかもしれないわね。そういう意味でも興味がそそられるわ」

 嫋やかに微笑む彼女は、もしかしたら興味云々も本当だとしても、仲間と祭りを楽しむことそのものにも喜びを見出しているのかもしれない。過去に何があったかなんてのは朧気にしかわからないが、今を楽しむという表情にはどこか、放っては置けないものを感じた。純粋によかったな、なんて思いが込み上げるのを抑えて、それで、とさらにニコ屋が話を続けようとした時、騒がしい声が近付いて来るのを感じてげんなりとしてしまう。当たり前といえば当たり前だが、あの男がおれの来訪に気づかないはずがないし、放っておくはずもなかった。

「トラ男ー!久しぶりだな!」

 飾り付けを作っていたのか、それとも飾られる側にでも立つつもりか、細く切った折り紙を輪っかにして何個も繋げているような不思議な飾りを首に引っ掛けながらニコニコとして近付いてきた麦わら屋は、なんの、遠慮もなく飛びつこうとしてきた。いつも思うが、こいつは距離感がおかしい。
 ひらりと躱しても、麦わら屋は怒ることもなくただ「なんだよ」と唇を、尖らせた。それもすぐに引っ込めてまた笑顔になる。相変わらず、新世界の天気よりも表情がコロコロと変わるヤツだ。

「ゾロに逢いに来たんだよな、ゾロなら」
「展望台だろ、ニコ屋に聞いた」
「おう!あ、そうだ!お前らも祭りやろう!潜水艦も傍にあるんだろ?仲間もいるんだろ?な?」
「……」

 確かに一人で来た訳ではなく、潜水艦はサニー号に横付けされている。少ししたらゾロ屋を連れ込もうと思って待機させていたし、潜水艦があるから当然仲間もいる。チラリと海へと目を向ければ顔を出したポーラータング号の甲板には清掃をしている仲間の姿があり、おれや、麦わら屋の姿に気づいて手を振っていた。

「ウソップ達に頼んでもう一本笹を作ってもらうから、そっちの船でも飾ってさ、これ吊るそう!」
「願いを書いた短冊とやらをか?やめてくれ、おれの船に余計なものは入れたくない」
「えー!じゃぁ、願い事書いておれの船に吊るそう!」
「いやそもそも願い事なんざ……」
「いいじゃねぇか!やろう!」

 あ、駄目だな。
 自分の目が遠くなってしまうのを自覚してしまう。諦めるしかないと、すぐに理解してしまう程にはもう麦わら屋達のと付き合いは長い。これはどう足掻いても拒否が出来ないだろう。拒否し続けても余計に時間をかけるだけだ。何よりもう決定事項とばかりにニコ屋から細い紙、短冊の束を受け取った麦わら屋がそれを手にしてポーラータング号へと乗り移ろうとしている。ポーラータング号の甲板を掃除していたクルー達が慌てている様子を目にしてから、これみよがしに大きなため息を着いた。

「わかった、わかったから。ちょっと待ってろ。梯子の準備しておけ」
「おう!」

 仕方ない。本当に仕方ないという風を全面に押し出して態度に示しながら自分の船に戻り、その場にいたペンギンへと話をする。
 ペンギンは話を聞きながらもすでに乗り気であった。なんという裏切り者だこいつ。だが、楽しそうだなんだの、やった事がないだのなんだの、ワイワイとほかの仲間にも話を広げていく姿を見てしまうと、これ以上何かを言うのも、反発心を表に出すのもただただ彼等に水を差すだけだろう。どうせ今は特に危険が近くにあるわけでもない、騒ぎたいだけ騒がせるかと、それは諦めにも近い感情で心を決めて、サニー号から放り出されてきた縄梯子をポーラータング号へと繋ぎ止めた。これでお互いの船の乗組員は自由に行き来できるという事だ。
 やはりどうせなら笹も貰いましょうよ!なんて言ったのはシャチだった。もう好きにすればいい。おざなりに答えると嬉々としてサニー号へと向かっていくシャチと、あと何人かの仲間達。一応おれ達と麦わら屋の一味は最終ゴールを競い合う敵同士であるのだが、自覚はないのだろうか。
 いや、その敵の二番手と、恋仲となっている自分が言えた事ではないか。
 騒ぎ始める自分の仲間と、それから麦わら屋達を見届けて、ようやくおれは本来の目的である恋人に会うため、展望台へと足を向けた。



「七夕とかいうものらしいな」
「なんだ、知らなかったのか」

 展望台では仲間の騒ぎに興味もありませんという顔をしていつも通り鍛錬を繰り返している男の姿があった。上半身を晒して随分と重いだろうバーベルを片手に汗を垂らしながら上げ下げしていたゾロ屋は、おれの姿を見るなりその重りを床へと置いてソファーに置いてあったタオルで汗を拭う。
 ただよう汗臭さに、本来ならば不愉快に感じるのだろうがどうもこの男から齎されるものだと思うと寧ろ心地よく、腹の奥が空腹を訴えるような感覚を覚えてしまう。
 ソファーにはタオルの他にも、紐を括り付け終わった短冊が数枚置かれていて、押し付けられたのだろうと推測された。この男が自ら強請り書こうとしたとは思えないからだ。

「むしろお前が知っている事の方が意外だな、神話も、願いをかけるという話も」
「おれが住んでた所では普通にあった祭りだからなぁ、つい口にしちまったらあのザマだ。黙ってりゃ良かった」

 汗を拭い終わったタオルをソファーへと投げるついでとばかりに短冊へと忌々しげに目を向けるゾロ屋へと近付いて、その頬へと手を添える。すぐにゾロ屋の片目がおれを捉えて、眼差しを柔らかく細めたのを合図に口付けた。

「ふふ、汗クセーだろ」
「そうだな、そそられる」
「おかしいんじゃねぇの」

 そんなやり取りだって、いつもの事だ。汗臭いから離れろとも言わず、素肌を押し付けるように首に腕を回してきたゾロ屋に応えるようにおれも鍛え上げられた体へと腕を回して、リップ音を鳴らすような軽い口付けを繰り返した。
 いつぶりかの男の匂いに、唇に、体温に、クラクラと頭が酩酊してしまいそうになってきた頃、ゾロ屋の方から体を離してしまった為つい恨めしく思い睨みつけてしまう。

「おい、足りねぇぞ」
「長くなっちまうから、駄目だ。その前にあれ書かねぇとルフィあたりが催促しに来るだろうよ。悪ィがいくら周知の仲だろうと見せつける趣味はねぇんでな」

 不満もタラタラにボヤいたが、理由を聞けば納得な話にげんなりとして、それでも強く男を抱きしめる。往生際が悪いだのなんだのというけれど、無理に突き放さない男の優しさに少しだけ甘えてから、その身体を解放してやった。

「何を書くんだ、願い事をするようなたちでもあるまいに」
「何かは書かねぇと、うるせぇしな。ルフィだけならともかく他の奴らだって書くんだ。そうなりゃおれ一人やらねぇって訳にも行かねぇよ、五月蝿いのが更に五月蝿くなる」

 唯我独尊、我が道を行く男であるが、同時に協調性もあるゾロらしい言葉だ。特に組織と言う枠組みに属している場合はどうやらひとまずは従うという態度を取るらしい。それはかつて同盟を組みおれの船に一時的に乗船していた頃から見せていた男の姿だった。ゾロ屋の船長ではないおれの言葉にも、乗っている間だけは従おうという意志を見せていた。実際にちゃんと言うことを聞いていてかという問題に関しては、度外視するとしても。
 おれから離れたゾロ屋はソファーに座り込むと、短冊の一枚を取ってさらに傍にあったペンも手にした。麦わら屋に従うとはいえ面倒臭いという顔は隠しもせず、下唇を突き出して緑色の紙を睨みつけている。

「はぁ、願い事なんざ、お前が言う通りおれのガラじゃねぇんだがなぁ……あ、そうだ」

 座ったゾロ屋に倣うようにして紙を挟んで隣に座ると、紙を睨みつけていた男が閃いたとばかりに顔を明るくして、それからニンマリと笑った。それから徐に紙を一枚拾い上げるとひらりと差し出してくる。

「お前も書けよ、トラ男」
「麦わら屋にも言われたが、おれがか?と思うぞ。そんなもんおれが書くような男に見えるか、ゾロ屋」
「いや?全然見えねぇ。でも多分おれが言わなくてもまた書け書け言われるぜ?ルフィによ。んで、ルフィ達と騒いでるペンギン達」

 言いながら窓から外を見るので、おれも少し近寄って同じように眺めれば眼下広がったのはお互いの船を行き来している海賊共で、ペンギンやシャチはサニー号の甲板で何かを書いている様子だった。ああ、あれは短冊だろう。なんて事は考えずともわかることで、アイツ等自身が書いているとなると、なるほどと溜息をつきたくなる気持ちだ。

「アイツ等め……」
「はっはっはっ!恐らくだがアイツ等にも言われんぜ?自分達も書いたから、てな」
「……仕方ないな、適当に書けばいいんだろ」

 ゾロ屋に同意を求めたように、おれだって何か願いを何某に預けるようなたちではない。そんな事する暇があったら自分で叶える努力をするというものだ。
 そんなことは皆承知だろう。麦わら屋だってそうだ。ただ、お祭り騒ぎをしたいがための動機でしかなく、誰も彼もが願い事を本気で誰かが叶えてくれるなんて思っちゃいなかろう。
 だが、それでもなんとなく、願いを書いて、吊るすなどという行為には少し懐疑的になってしまう。くだらないと、トニー屋が居た時は出来なかった悪態が無意識に口から出てしまった。不満をこぼすをおれを、傍で見ていたゾロ屋は特に何も言わずに、ただ自分が手にする短冊を見下ろして、再び下唇を尖らせていた。

「……願い、なぁ……なんとかかんとか、なりますように、とか。なるように、とか。それっぽいこと書けばいいのか?」
「願いなんだからそうだろうな。みんなが健康に生きられますように、とかか?」
「海賊やってて健康も何もねぇだろ」
「だからこそ願うんじゃねぇのか?」
「あー、そういう感覚かぁ……だがおれ達の健康はチョッパーと……クソ腹立つがあのコックが保証してんだよなぁ」

 絶対的な信頼だ。そして責任を負わせている。いや、責任を背負うだけの力があると信じているのか。であればやはりそれは、信頼だ。腹立つだなんだのと言っている相手、黒足屋に対してですら信頼を置いていると、それを口にするとはと驚きがあったが、長いこと海賊をやって少しは丸くなったということだろうか。思って、おれとしては少しだけ悋気を抱いてしまう。ゾロ屋と同じように下唇が突き出るような気持ちになって、慌てて表情を引きしめた。

「じゃ、適当に書いておけ」
「んー……お前は?トラ男はなんて書くんだ?」
「おれか、おれも悩む……というかこれ、書いたら吊るすんだよな」
「おう、そうだぞ」
「見られるじゃねぇか、下手なこと書けねぇぞ……麦わら屋には特に見られたくねぇな。騒ぐだろ、何書いたって」

 その可能性を考えてなかったのか、ゾロ屋は目を見開いた後に苦虫を噛み潰したような顔をした。割と人の事を笑うのだ、あの麦わら帽子の男は。たまにそれが癇に障る事もあるし、腹も立つのだが付き合いが長いと、そういう奴なんだよなとそろそろ諦観してきてもいる。本当に重大な問題に関してだったら笑わないし、そもそも触れないでいてくれる程度の気遣いはしているらしいという事を知ったから、諦めもつくというものなのかもしれない。まぁ、それでも、すぐに声を大きくしてやたらと口にするところがあるのは確かなわけだ。下手なことを書いてなんやかんやと言われ、ヤンヤヤンヤと騒がれるのは勘弁だ。
 ポーラータング号に今頃飾られている笹、そちらへと隠すようにして吊るしたところであの男は「トラ男はなんて書いたんだ?」なんて言って見に来るに決まっている。いよいよ願い事とやらをなんと書くか、ゾロ屋に手渡されたオレンジ色の短冊を見下ろし悩んでいると、ゾロ屋の方は何かしら決まったようだ。スラスラとペンを動かして短冊に書き連ね始めた。

「ゾロ屋、なんだ、願い事決まったのか」
「いーや。願い事なんておれの性にはあわねぇよ。だから、ほれ」

 ニィっと歯を見せながら書いた面を向けて来たので、読んでみれば、また随分とこの男らしいもんだと呆れ半分感心半分に笑ってしまった。
 大剣豪に 俺は なる
 ゾロ屋の、少々癖が強い字で書かれているそれを見て、それは願いじゃねぇだろうと、言ってやった。

「野望だろそれは。しかも、お前の手で実現させるやつじゃねぇか」
「当たり前だ。だがまぁ他に思いつかねぇしよ。おれにはこれしかねぇし……ルフィも騒がねぇし?」
「ずりぃ」
「はっ!で、お前は?」

 未だにただ綺麗なオレンジ色を眺めて、ため息をこぼす。そうそう簡単には思いつかない。なんでもいいだろうということはわかっている。やけくそに、いっその事海賊王になるとでも書いてやろうか、と言う思いすらある。まるで麦わら屋や大剣豪になると書いたゾロ屋と張り合っているようで気が進まないが、下手に騒がれるような内容よりはずっと良かろう。
 だが、ゾロ屋からペンを借りようとした時、窓を叩く音に邪魔をされて、一文字目すら書けないまま窓へと目を向けることとなった。
 ここは展望台、甲板より遥か高い位置にあるのだ、なのに窓を叩くなど、そんな芸当を出来るのは一人くらいしかいない。

「ゾーロー!書いたかー?!吊るすぞ!」

 手だけをぐんっと伸ばして、甲板から声をかけてきた麦わら屋。窓を開けて下を確認すれば、いつの間にか笹には色とりどりの紙が吊るされ揺れていた。それはトニー屋達がチマチマと作っていた折り紙の飾りなのだろうが、それだけではなく既に短冊も吊るされているようである。緑色が目立つ人口樹木は、目に見えて鮮やかであり、お祭り騒ぎの気配が近くまで来ていると感じさせるには十分であった。
 それに、どうやら願い事を書く短冊というのは一人一枚でなくともいいらしい。ということに何となく気づく。明らかに人数よりも多い数の短冊が風に揺れているのが見えたのだ。

「おー、書いた書いた」
「よし、吊るしてやるからくれ」

 一体誰がどれだけの願いを夜の星へ届けようとしているのか、呆れつつ眺めているとチラリとゾロ屋がおれへと目を向けるのに気づいた。書いたか?という意味だと思って首をヨコに振ると、了承したとばかりに頷きが返されて自分の分だけを伸びている手へと渡す。麦わら屋はスルスルと腕を人間らしい長さに戻すと、やはりと言うかなんというかゾロ屋の短冊を眺めていた。書いてなくてよかった、書いていたらやはり、おれのも見ただろう。
 短冊を眺めていた麦わら屋は、少しすると肩を震わせ始めた。なんだどうしたとゾロ屋が様子を伺うように身を乗り出して、じっと見ていると麦わら屋はそんな心配なんぞ気付かず、大声を上げて笑いはじめた。

「アッハッハ!ゾロ、おれと一緒だなぁ」
「あん?」
「おれも書いた、ほらっ!」

 再びぐんっと腕が伸びる。おれ達の眼前にまでやって来た手には、緑色をしたゾロ屋の短冊とは違い真っ赤な短冊が握られていた。しわくちゃになってしまった短冊には、元気で大変よろしいと花丸満点をくれてやりたくなるような大きな文字が踊っていたためになんと書かれているかなんてのは、迷うこと無く読み取れてしまった。

 海賊王に 俺は なる

 ゾロ屋と同じだ。同じような言葉を麦わら屋も書いていたらしい。

「な?」

 なんて、麦わら屋はスルスルと腕を戻して笑った。その笑顔に釣られたようにしてゾロ屋が破顔するのを横目で見て、それからまた麦わら屋を見る。
 胸に渦巻くものは相も変わらず腐臭がする程に不快なもので、この一味とは、ゾロ屋とは、麦わら屋とは、長い付き合いになるというのに未だにおれはこの腐った感情に振り回されるのだ。いい加減大人になればいいとわかっているのに、どうしても、それは難しい事だった。ゾロ屋と麦わら屋の関係を見せつけられる度に渦巻いてしまうこの感情は黒足屋へと抱いたものの比ではない。年々、信頼関係が、絆が、強くなっていく事をひしひしと感じていく度におれの渦巻く感情といえば忍耐力が後退するようにして耐え症なく溢れようとする。
 なんなら短冊に書いてしまおうか、もっと大人らしく抑えられるように、大人へとなれますように、と。そんな阿呆らしい考えは麦わら屋がおれへと声をかけたことにより無事に遠くへと飛ばす事が出来た。

「トラ男ー!トラ男も早くかけよー?吊るすんだからなっ」
「あーあーわかってる、書いたら持っていくから少し……暫く待ってろ!」
「おう!」

 怒鳴りつけるような声であったと思うが、麦わら屋は気にした様子もなくおれ達から興味をなくしたように背中を向け、ニコ屋か、ナミ屋か、またはおれの仲間の誰かしらの元へと向かっていく。誰の元へ行くかなんて興味もなく、見届けるつもりなんて全くなく、窓を閉めてカーテンも勢いよく締め切ってしまった。

「偉く不機嫌じゃねぇか、ん?」

 いきなり目の前でおれが窓を閉めてカーテンまで閉めて、普通ならその失礼な行為に怒るか不愉快になるだろうに、ゾロ屋といえば密やかにも怪しげな笑みを浮かべている。わかっているのだろう。おれが急激に機嫌を落とした理由なんぞ。いやらしく目を細めて、首を傾けているのは面白がっているからだ。

「うるせぇ、お前は書いたし、渡したし、いいだろ」
「お前がまだだろ?」
「暫くしたら書いて渡してやるよ」
「クックク!少し、てのをわざわざ言い直したくらいだ。暫くかかるくらい真剣に考えて丁寧に、丁寧に書くんだろうなぁ?」

 愉快で仕方ないというような笑い声を立てる男の腕を掴んで引けば、心得ているとばかりに身を乗り出して座るおれの膝上へと乗り上げてくる。こてんと首を傾げながら、おれの首へ両腕を回してくる男の腰におれも腕を回して、黙れという意味を持って近づいた顔にくっついている唇へとおれのそれを押し当てた。先程のような戯れじみたものよりはずっと深くていやらしいものだ。

「ぁ、ふっ……」
「ふ……ん……っ……書くのも、考えるのも、全部、後だ。今は気分じゃねぇ」
「おーおー、そうかよ。じゃぁ気分になるまで、別のことしとくか」

 どうせそれがお望みなんだろう。
 分かりきっているくせにいちいち口にしてくる嫌味な男の手がおれの肩から上着を落とそうとしてくる。会う度におれとは正反対にどこか余裕を持ち始める男には少しばかり苛立ちも湧くが、だからといって強請るその手を邪魔するわけもない。協力するが如く背もたれから体を離して脱がせやすいようにして、おれもまた、ゾロ屋の服へと手をかけた。



 なんて書くつもりだったか。
 いつの間にかソファーから床へと落ちて散らばってしまった紙を拾い集めトントンと整えながら思い出す。海賊王になるだとか、そんなことを書こうと思ったのだったか。
 床へと直に座りこみ、ソファーで体を丸めて眠るゾロ屋を見ながら転がっているペンを拾った。
 下を履いて、上着は体に巻き付けただけの、目元を赤くした男は鍛錬と情交後の程よい疲労感からか浅い眠りに付いている。この程度で普段疲れたりはしない男だが、まとまった睡眠より短い睡眠を何度かに分けて寝る癖のある男だ。夜まで寝る、と言って早々に横になったのにも、特に不思議なことはない。寧ろ少しだけ都合が良かった。願いを書く、おれらしくない姿を見られなくて済む。
 海賊王、それは確かに目標だ。目的だ。夢、と言うとまた少し違うが、海賊を名乗る以上は誰だって一度は口にする未来の話だ。それは例に漏れずおれもそうで、ワンピースを目指し航海している。嘘偽りのない事実だった。
 だから、海賊王になる、と書いたところで、そしてそれを麦わら屋に見られたところで、まぁあの男のことだ。おれがなるんだだのなんだのと騒ぐだろうが、言ってしまえばそれまでの事だろう。
 面倒事を回避するには海賊王と、書いた方がいいのはわかりきっているし、書くつもりだが、それでもおれはなかなかペンを動かすことが出来ないでいた。
 すよすよと眠りにつくゾロ屋を見ていると、ゾロ屋からは顰蹙を買いそうな思いばかりが募ってくる。口には出せない願いは、だからこそどこにも漏れる事なく、おれの中にずっとあったものだった。

 こいつが無事で居ますように。
 どんな災いも降りかかりませんように。
 怪我なんてしませんように。
 無茶ばかりしませんように。
 いつまでもこの関係が続きますように。
 どうかどうか、死んだり、しませんように。

「……なーんてな」

 そんな事書いたって叶うはずがない。そもそもそんな事は願うようなもんじゃない。
 怪我なんて当たり前。麦わら屋の為なら無茶なんて承知、災なんてのはこの世界じゃ日常茶飯事で、無事でいられる保証なんてない。
 この関係は、おれが、こいつが、居たいと思い続ければこそ、何時までだって続くもので、そして、いつか人は死ぬんだ。

「願いってのは厄介だよなぁ」

 叶えて欲しい願いなんてのは、いつだって、叶わないものなんだ。

「さて、と」

 日も暮れて、薄暗い部屋の中。間接照明だけでは少しばかり手元が暗いく、電気でも付けようかと思ったのだがどうにも面倒くさくて、カンを頼りにサラサラと当初の予定通りの文言を短冊へと書き、紙とペンを放り投げる。だけど、ふと思いついてまたペンと新しい紙を拾いあげた。だが、その願いはそれこそおれが願っていいもんじゃない、自分が成すべき事だと思い直してまた放り投げる。その音が男を浅い眠りから掬い上げたのだろう。もぞりと体が身じろぐ気配を感じてソファーへと、目を向ける。

「ろー……」
「居る」
「ん……夜か……?暗い」
「ああ、そうだな。そういやさっきから外が騒がしいな」

 もう祭りやらを始めているのか。祭りというか、この一味で言わせれば宴と言えばいいのか。
 そろそろ誰かが呼びに来るかもしれない。ちゃんと着込めとゾロ屋へ言えば、お前もだ、なんて反論。確かにおれも下を履いただけで上は素肌のままタトゥーが丸見えの状態だった。少し暑いが仕方ないと、その辺に放っておいた上着に手をかけたところで、数時間前と同じように窓が軽く叩かれる音がした。

「アイツ、まさか見聞色の覇気使ってねぇだろうな……」

 タイミングの良さに舌打ちして、まさかずっとこちらの気配を伺ってたんじゃないだろうかとあらぬ疑いを掛けそうになる。それはそれで、流石に不味い話だ。だがゾロ屋曰く野生の勘だろうとの事で、釈然としないままにその言葉を信じる事としてカーテンを開けて、窓を開いた。
 そして、広がった夜空に流石のおれも目を見開く。

「ほう」
「へえ、綺麗なもんだ」

 天の川、ミルキーウェイ。それらはニコ屋が言った通り本来ならば遠すぎて星の一つひとつは見えず、白いモヤがかった一筋の光の帯となり、空を割くようにして流れる川のような天体である。だが、目の前に広がる夜空は今まで見てきた星空とは一線を画し、それはそれは、見たこともない輝きを放っていた。
 広く広がる夜の天井のそのど真ん中を突っ切るようになだらかな星の大河が、洪水のように溢れようとしている。青白い帯はひとつひとつの星が自分達で光り輝いているのだというように瞬き、手を伸ばせば触れられるのではと錯覚するほどに大きく雄大に広がっていた。きっと触れれば流水のように手を押し出そうとするだろう。いや、あの柔らかな青白さではもしかしたら絹のような触り心地となるのかもしれない。触れることなんて出来ないのに、思わず手を伸ばしてしまいたくなるほどの美しさがそこにはあった。

「素晴らしいな、これは」
「ははっ、いいもん見た。酒がありゃ更にいいんだがな」
「……一気に俗世に落とされた気分だ……」

 カラカラと笑い声見上げる男が言った言葉に、それでも男らしいと思ってつい笑ってしまう。
 そんなおれたちの目の前、窓枠に伸びやかな、言葉通りよく伸びる手が引っかかった。それから黒い髪がニョキっと下から突き出てきて、不満そうな顔が続いて現れる。

「おい!たくよー、目の前で手ぇ振ってんのに無視すんなよな」
「わり、星見てたんだよ」

 麦わら屋が不満たらたらにぶつくさと言うのをゾロ屋がいなすと、不満顔はなるほどと得心したような顔をして顔を夜空へと向けた。

「にっしし!きれーだよなー、下でもよ、もう飯とか準備して食ってんだ。ナミとロビンが空見て喜んでて、チョッパーもすげぇすげぇってよ。あ、ウソップが絵を描いてた!あいつの事だから絵にしても綺麗にしてくれるんだろうなぁ、完成したら見せてくれるってよ。それからな」
「わかったわかった。つかなんの用だよ?」
「あ!そうだった!おいトラ男、書いたか?」

 遮らなければいつまでも喋り続けていそうだった麦わら屋は、ゾロ屋の言葉を聞いてぐるんとおれへと顔を向けてくる。キラキラと星の瞬きが落とし込められたかのように期待で煌めく瞳で見られてはおれも勿体ぶる気も起きずに素直に細長い紙を差し出した。

「ほらよ」
「おう!えーっと……えええ!お前もかよ!」

 海賊王になる。そんな言葉だけの簡素な紙を見て、むすりと表情を浮かべるのは想定内だ。続いた「おれがなるんだよ!」も、これまた想定内で意外性の欠けらも無い。だがその後すぐにイタズラを思いついたガキが浮かべるような表情に変わったのは首を傾げるのには十分だった。

「ししっ、まぁいいか!そりゃそうだもんなー」
「……まぁな」
「よーし、吊るしてきてやる。でもてっぺんはおれの吊るしてるからその下な、トラ男」
「ああ?!ふざけんな!おれのが一番上だ!」
「駄目だ!一番上にしたかったらお前の船にもあるから、もう一枚書いてそっちに吊るせ!」

 イタズラ好きのガキのような顔をしたまま下へと飛び降りて行った麦わら帽子に更に言葉を投げてやろうとして、その余りのガキくささに呆れて口を閉ざした。自分でもそうなのだから、隣で様子を伺っていたゾロ屋は尚のこと呆れているのだろう。冷ややかな眼差しが横から流れてくるのを感じて目を向ける事が出来ないでいると、少しの間を置いて小さなため息が聞こえてきた。

「ガキ」
「……ついだ」
「一緒になって騒ぐんじゃねぇよ」
「うるせ。たく、人の調子を狂わせる事にかけては天才的だな。褒めてやるぜ、お前の船長様」
「嬉しくねぇ褒め言葉をどうも」

 おれだって調子を狂わされっぱなしなんだと、ゾロ屋は語る。もう少し落ち着ってもんを覚えてくれたら一皮剥けるんだろうがなぁと、ぼやいちゃいるがさほど期待もしていない様子であった。

「ふんっ、まぁいいさ。後で入れ替えてやる」
「だぁから、そういうところがガキだってんだよ」

 やかましい。腹が立つんだからしかたねぇだろう。
 頃合で紙を入れ替えてやるなんておれの能力では簡単な事だ。すぐに終わる。明日頃に麦わら屋は気付くだろうしわめぐだろうがその頃にはおれはゾロ屋を連れ込んで部屋にひきこもっている予定だ。勝手に騒いでいたらいいと、ほくそ笑みながら着込む途中だった上着へと腕を通す。
 ゾロ屋もいい加減腹が減ったのだろう。ガキだなんだの文句はそれ以上飛んでくることはなくて、素直に服を着始めた。

「そういやよ、トラ男」

 帯に刀を三振通して、準備が出来上がったゾロ屋がぽつりと呟く。また文句だろうかと、間接照明を消した、星明かりの差し込む部屋で男の顔を見れば、そうでは無いらしいと気付いた。
 文句タラタラの顔ではなく、どちらかというと随分と、それこそ落ち着いた顔をしているもんだから、下へと向かうハッチを開けようと腰を屈めていたおれは立ち上がり、ゾロ屋へと向き直る。

「なんだ」
「いや、結局、海賊王なんて書いたんだなと」
「あ?それしか書けねぇよ」

 麦わら帽子の男に見られて騒がれることを想定していたら、無難なものに落ち着くしかない。そもそも願うようなものでもなく、必ず実現してみせるものであるのだ。書けとうるさく言われたから書いただけに過ぎず、そこに深い意味はない。

「お前ならクルーの安全祈願、無病息災くらいは書くと思ったよ」
「……一瞬だけ思ったな」

 海賊王、その言葉を書き終えたあとで浮かんだのがクルーの顔であった。あいつらのこれから先の未来。無事、平穏、幸せ。願わない船長など居ない。

「だが星に願うことではない」

 星のひとつひとつに願う程に、確かに、強い願いでもある。だけれど、やはりおれは船長であった。

「おれが、願っちゃ駄目なんだよ」

 そんなもん自分が背負っていかなきゃならないもんだろう。少なくともおれは手が届きそうでも届かない星なんかにはクルーの命を預けたりしない。願ったりもしない。

「ははっ、なんだかんだで深く真面目に考えてやがる。ああいや、基本真面目な男だったなお前」
「馬鹿にしているのか」
「まさか、例え戯言でも本心をなかなか口に出来ねぇお前らしいと思ったよ」
「どういう意味だ?」

 星あかりも、全てを照らしてくれるわけではない。どんなに瞬き輝いていたとしても太陽ではないのだから部屋は夜の帳の支配下にあった。それでも、穏やかな表情を浮かべるゾロ屋の顔ははっきりと見える。見たいから、見ようとしているから見えるのだろうか。不思議なほどにしっかりとその顔を見る事ができたおれは、だからゾロ屋がスっと息を吸って背筋を伸ばしたその凛とした姿もよく見えた。

「おれだって同じだから、願いなんて書きやしねぇ。宣言を書いただけだ」
「大剣豪になるってな。お前らしいと思ったさ」
「だが、ねぇわけじゃねぇんだぜ?らしくねぇけど、思うこともあるにはあるんだよ、おれにだって。仲間の事もそうだがよ、お前に……願う事だってある」

 それは、とゾロ屋は耳に柔らかく触れる暖かな声で呟くように語る。撫でるような心地良さと共に耳から入り込んでくる言葉は、聞いたことがあるどころの話ではない言葉の数々だった。なんせそれは、おれ自身が口にせずにただ心の中だけに押しとどめていた願いでもあったからだ。

 お前が無事でいてくれりゃいいと願う。
 どんな災いも降りかからなければ安心出来るしな。
 くだらねぇ事で怪我なんてしてくれるな。
 人に言うばかりでお前だって無茶をするんだから、少しは自覚して欲しい。
 そしてどうか、どうか。

「次もまた会うために、おれの知らねぇところで消えて無くなるな……ってな」

 はく、と口が開いて、溢れたのは吐息だけだ。声を出す事を失敗した間抜けなおれを笑わずに、ゾロ屋は一歩近づいて片手を伸ばしてくる。頬に触れた温もりが、声と同じように優しかった。

「約束なんて出来やしねぇ。胸ん中に収めていたってどうしようもねぇ。星に願ったところでどうせ届かねぇ。ならば、願いを伝える相手はお前しかねぇだろ。おれだって出来ねぇ約束だ、だからお前も約束になんてしなくていい。ただ、願わせろよ」

 優しいのに酷い男だ。どうしようもなく残酷だ。約束すらさせてくれない。願うことだけしか許してくれない。そしてその願いは、叶うことは前提とされていない。いつかどっかで、願いのひとつふたつ、潰えることを理解してしまっている男の声に、くしゃりと歪みそうになる表情を抑える。眉間に変な力が入ってしまったから、どちらにしろ酷い顔をしてしまったかもしれない。それでも男は笑わずに、ただの願いだと言う。
 叶えて欲しい願いほど、叶いやしない。おれも、ゾロ屋も、わかってる。

「約束のひとつしねぇで、願いばかり。残酷な野郎だ」
「願いを叶えてくれるって誰かが約束してくれたか?しやしねぇだろ。だからこんな事は戯言でいいんだよ。お前も戯言零せよ。今夜くらいは耳を傾けてやる」

 促す言葉に、甘えたくはなかった。自分の意思で伝えたい。でもおれはその自分の意思で心の中に封じ込めることを選んでしまった。ゾロ屋は、おれのそんな臆病なところを見透かすようにして小首を傾げながら頬を撫でる。その手を掴んで、もしかしたら強すぎる程に握りしめてしまったかもしれないのに、その強い手の力を当たり前のように受け止めてくれた。

「……ゾロ屋」
「うん?」
「……死に急ぐんじゃねぇ」
「ふはっ」
「頼む……お願いだ」

 願ったところでの話だ。戯言に紛れ込ませるには重たいだろう言葉は、願ったところでというどうしようも無いものであるはずだ。
 それでもゾロ屋はこくりとひとつ、頷いて見せた。

「ああ……しかと、聞き届けた」



powered by 小説執筆ツール「arei」