「霞はおまえの季節」本文サンプル

「不躾にすみません。そのこころ、すこし見せてもらえませんか」
 買い物を終えた古書店から出てきた途端、知らない声に呼び止められた。残暑の日差しの眩しさに眼を細めながら振り返ると、自分の腰くらいの背丈の子どもがこちらを見つめていた。短い髪は黒く、両の瞳もまた黒い。
「こころ、ってこの『こころ』?」
 掲げてみせた紙袋には今しがた買ったばかりの文庫本が入っている。子どもはこくりと頷き、然様です、と古風に肯定する。
「奧付を見せていただきたいのです。なにか書かれていませんでしたか」
 さあ、と返しつつ中身を取り出す。三年前に発行されたその『こころ』は、本体のクリーム色がやや透けて見えるほど薄く白い紙がカバーに使われている。カバーには布の織り目に似た凹凸があり、夏の光の下に取り出すと麻の着物を思わせる涼やかさを放った。
「というか書かれてたらなに?」
「譲っていただきたいのです。死んだ持ち主の形見なので」
 つい子どもの顔をもう一度見る。子どもの視線は取り出された本に注がれており、見上げる瞳はぎらつく日差しを吸ってなお冷たい光を帯びている。
「きみ、どこから来た」
 子どもが指差した道の奥にはぐらぐらと陽炎が立ちこめ、どこに続いているのか判然としない。
「……きみはその、亡くなった人の家族?」
「文鎮です」
「は?」
 文鎮。文鎮? 書道に使うアレ? 
 困惑していると、子どもは懐から棒状の何かを取り出し掌に乗せて見せてきた。手首から中指の先くらいまでの長さのそれは、鉄と思われる継ぎ目のない黒い金属で出来ていた。持ち手や装飾はなく、全体がなだらかな一本の弧を描いており、その弧をあとから真ん中で曲げて折り目をつけたようなかたちをしている。
 あえて何かに例えるなら、空を飛ぶ鳥の姿を一筆書きで描け、と言われたときに誰もが描くだろうあのかたちに近い。
「鳥に似てるな」
「……よくご存じで」
 妙な答えに視線を向けるとそっぽを向かれたのでひとまず文鎮に目を戻す。硝子やプラスチックが外からの光を炯々と反射させるのとは違い、金属の文鎮は降り注ぐ日差しをいたずらに返すでもなく、自身のくろがね色の底から冴え冴えとした光を滲ませてそこに在る。つややかに、どこかひたむきな静けさを伴って。 
「鋳物屋をやっていた曾祖父さんが自分のために作り、祖父さんに譲り、持ち主に渡ったと聞いています」
「自分のことなのに伝聞形か」
「なにぶん昔のことですので」
 揶揄を含ませた問いにも涼しい顔で答える瞳は、たしかに手の上の文鎮と同じ静けさを宿している。
「ちなみに誕生日は二月九日です」
「そこは覚えてるのか」
「持ち主が決めました。その本の作者の誕生日なのです。気が利いているでしょう」
 ふふん、と得意気な息を漏らす仕草はいかにも子どもらしい。
「で、持ち主の大事な本なんかなんで売った」
「……手違いがあったのです。あなたもそんなものを買うのですからご存じでしょう。その『こころ』は毎年姿が変わります」
 当然知っていた。多種多様なジャンルから選出された文庫本が夏限定のカバーを巻かれ、喜々とした顔つきで特設コーナーに平積みされている光景は、ここ十数年ですっかり定着した夏の書店の風物詩だ。自分の買ったこの文庫本が奧付を見ずとも三年前のものと分かるのは、三年前の夏のカバーが巻かれているからに過ぎない。
「探しているのは、持ち主が自分にくれると約束した『こころ』なのです。ただ持ち主は毎年の夏の『こころ』を逐一集めていたもので」
「同じタイトルの本が何冊もあった?」
「はい。それで持ち主の家族が取り違えて、売られてしまったのです」
「どのカバーの『こころ』か分かるのか」
「見た目は白でした。奥付に印を付けておくからと、持ち主が」
 そう、と頷きつつ開いてみた奥付には何の書き込みもなかった。何もない、と広げてみせると子どもは特に表情を変えなかったが、小さな肩をほんの少し落としたように見えた。
「戻って他にないか聞いてみようか」
「結構です。持ち主の匂いがするのはこれだけですから」
 首を振った子どもが丸い指先で表紙の縁をなぞる。傷ひとつない本だが、目の前の子どもにはかつての持ち主の指の跡が見えるらしい。おそらくはその人間なりの順序に並んだ背中をかぞえ、その日の伴いを選び、引き出し、開いた指の跡が。
「本を売ったのはこの店だけ?」
「他所にも、ひとつ」
「どこ」
 子どもが挙げたのは昔から書店古書店の立ち並ぶ、地元の本好きには名の知れた通りの名前だった。現在営まれている店はごくわずかだが。
「地下鉄ですぐじゃないか」
「はい。……でも、あの。ひとりで乗る方法が分からなくて」
 子どもはひどくばつの悪い顔をして言う。
「恥を忍んでお尋ね申しますが。文鎮ひとつぶんというのはどの切符を買えばよいのでしょう」

 言うまでもないが地下鉄の切符は人間用しかない。生物と静物の区分がなければ次点の決め手は年齢だろう。持ち主の曾祖父の代生まれということは年月だけなら充分大人だが、今回は外見に合わせて小児料金の切符を買うことにする。
「だ、大丈夫ですやめて、自分で、自分でできます」
「いいから。自分のぶんのついで」
 駅の券売機の前で手首にしがみつき止めようとする子どもをどうにかなだめて(金属の塊なだけあって重かった)、紙の切符を一枚買った。
「はい。降りるまで失くすなよ」
 子どもは差し出された切符をなかなか受け取らなかった。ほら、と二度促すとようやく緩慢な動きで受け取り、眉間にぎゅうと皺を寄せ恥じ入るような顔をする。
「なにがそんなに嫌?」
「…………さ、」
 きつく結ばれた口がしばしの沈黙を経てようやく開き、落ち着いた声を発したことにほっとする。だが続いた言葉の、
「先に、他の人間からものをもらうなんて。持ち主に申し訳ない」
 などという、滑稽なほどのいじましさには頭を殴られた気分になった。その敬愛を受け取るべき唯一の人間はもうこの世にいないのだ。自分が遺していったものにこんな言葉を吐かれては持ち主とて死んでも死にきれまい。
「いやあの、あげたんじゃなくていったん携えてもらうだけだ、あそこに通して乗って、電車から降りるときはまた駅に返すことになってる。ただの手形だよ」
 改札を指しながら咄嗟に考えた言い訳を並べると疑わしげな瞳が見上げてくる。
「嘘だったら降りるとき怒ってくれていい。それか元の姿になる? なれるならポケットに入れて行くけど」
「ぜっっったいにいやです」
 なんであなたのポケットになんか。子どもはむくれた顔で零すとくるりと背を向けひとり果敢に改札へと歩き出した。閉め出されるのではないかと思いつつ後ろで見守っていると、意外にも迷いなく切符を改札の差し込み口に入れている。改札を通り抜けた先に出てきた切符もよどみなく回収し、そのままホームに繋がる階段へとまっすぐ進んでいった。
 感心してその勇姿を眺めていると、番線の標示が目に入ったので急いで改札を抜けた。小さな背中が向かったホームは乗るべき路線の反対側だ。

「気になってることがあるんだけど」
 トンネルを走り抜ける地下鉄の車窓は、地中と車内の明るさの狭間で一枚の鏡に成り果てる。ふたり並んで座席に座り、向かい側の窓に視線を向けたまま話しかけると、窓に映り込んだ黒い瞳と視線が合った。
「きみの、本体? というか。あの文鎮はどう使うものなんだ」
 文鎮とは重しとして紙の上に置く道具のはずだが、弧を折り曲げた形をしたあの鉄の塊は紙を留めるほどの平面を持たなかった気がしていた。まさか弧の真ん中、屈折した一点だけで留めるわけでもあるまい。
 服の袖口をついと引っ張られる感覚に視線を落とせば、子どもの指が胸のポケットを指してくる。そこに収めていたのはさきほど買った『こころ』で、取り出して渡すと子どもはそれを自身の膝の上に開いて置いた。続けて自身のほんとうの身体である文鎮を取り出し、真ん中の折り目がちょうど開かれた本の喉と重なるように置く。
 すると黒い文鎮は、下向きに折れ曲がった真ん中を胴体、そこから両側に伸びる弧を翼とする、一羽の鳥に見えるようになった。本の上に身を横たえた鳥が広げた翼は、開かれたページのゆるやかな曲線に寄り添い、紙上に刷り出された活字の鮮やかな黒を、そこに語られる人間の罪悪を、列車の青白い照明の下に煌々と浮かび上がらせた。
 おお、と思わず感嘆の声が出た。鳥に似ているとは思ったが、これはまさに本を唯一の止まり木と定められ生まれてきた鳥なのだ。こんなものをわざわざ作った持ち主の曾祖父とやらもなかなかの愛書家だったのだろう。そう思ったそばからふと、疑問が湧く。
「ずいぶんマメだな、きみの持ち主は。ページを読み終えるたびきみを持ち上げて、めくって、また置き直して?」
 むしろ読書の妨げになったのでは、とまでは言えなかった。だが子どもは無言の問いを聞き取ったふうにこちらを睨め上げた。内心ぎくりとするとつまらなさそうに目をそらし、視線を正面に戻す。
「そんな無駄はしませんでしたよ。そも途が違います」
「みち?」
「文鎮は文を鎮めるもの。帳簿だの、注文の台帳だの、鋳型の意匠の目録だの。長く目を注ぐべき文が逃げたりせぬよう留めるもの」
「……もとの使い途は読書じゃなくて、鋳物屋の曾祖父さんの仕事用だったってことか」
「持ち主の推察によれば。曾祖父は持ち主の生前に死んでいるので」
 納得のいく話ではある。本の喉を長く大きく開き続けると、喉の太さや綴じの手法によっては本自体を傷めてしまう。辞書や目録のようにある程度の厚みがあるか、何度もめくる想定で丈夫に綴じられた書物であれば問題ないだろうが。
 そう考えると文鎮というのは、文庫本や小説本に対してはますます無用のものに思える。
「持ち主も、律儀に本に乗せていたのは祖父さんから譲り受けた初めの頃だけでした。……あとはもう、」
 子どもは言葉を切り、本に留まっていた鳥をわし掴みにして無造作に持ち上げた。もう片方の手で本を掲げ持ち、膝の上から何もかもを取り払う。
 それからあらためて鳥を、留めるべき文もない空っぽの膝の上に置いた。鳥は無言で身体を横たえ、元から飛ぶこともできない翼を両側に投げ出した。そうして羽を休めるばかりの鉄の鳥は、もはや文鎮どころか何の役にも立っていない。何の用も為してはいない。
「ずっと、こう」
 だがそんな扱いを鳥が憎んでいないことは、己を見下ろしながら零した声の静けさで知れた。
「いつも、こうして」
 秘密を打ち明けるような、あるいは眠る横顔を見守るような、ひそやかな声でそう言って、鳥は膝に乗った黒い身体を白い指先でなぞった。黒に滲む光を穏やかに撫でる手つきは、先程までの自身の扱い方とは質が違っていて、まるで自分ではない誰かの真似をしているように見えた。
 にわかに車内に明るい光が射した。窓はすでに鏡ではない。市街地を縦断する広大な河を横切って線路を敷かれた地下鉄は、川を越える際には地下を抜け出て地上の橋を走行する。窓の外には澄みきった空の終わりのあわいからこちらに向かって広がる川が見える。秋の陽が川面に降り注ぐそばから水の流れに散らされて、金の光を撒きながら瑠璃色の揺籃に漂っている。
 眩しさに耐えかねて顔の前に手をかざすと、隣からくすぐったそうな声が聞こえた。鳥が笑うのを聞いたのは初めてだったので目をみはる。手の庇の下から垣間見た黒い身体は、翼に外からの光を受けてかすかに金色を含んでいる。
「本をしまうのはいつもここでした。明るくなるほうが呼ばれるよりも早いから」
 鳥が片手に持っていた『こころ』を閉じると、次は○○駅、と目的地を告げる車内アナウンスが聞こえてきた。

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