小指の思い出(ラオリュウ)

リュウが上機嫌に鼻歌を歌いながら床に脱ぎ散らかした下着を身につけるのをラオははだかのまま頬杖をついて寝そべって寝台から眺めている。いつものことだ。情事のあと、まだ身体の芯に情欲の炎がくすぶっているのにリュウは終わるとすぐ飛び起きて服を身につける。リュウにそうするよう教えたのは、つまり「裸で寝るのはいけない、寝間着を着なさい」とおさない彼に言ったのは自分なのに、ラオはそのことを少しだけ不満に思う。そもそも自分は精根尽き果てるまでリュウと愛をかわし指一本持ち上げるのも億劫だというのに、リュウのこの元気はどこから出てくるのだ。こころなしか膚の色艶も明るいリュウが行儀悪く足で床のふたり分の衣服を掻き回し自分の下着を見つけるのをいつもならその無作法を咎めるのだが、今はそんな気力もない。そんなにいそいで服を着てしまわないでもう少しここにいてくれたらいいのに、と思う。もう少し寝台でふたりではだかのままで抱き合って、膚の火照りが冷めるまでまどろみながらとりとめもなく睦みあいたいのに、膚と膚をぴたりとくっつけて眠るのはとても心地よいのに。まるで生まれた時からそうしていたかのような錯覚を覚えるほど。ふたりのあいだに一枚の布が挟まるのがわずらわしい。誰がこいつにすぐ服を着ろと教えたのだ。……俺か。

 だが一方でラオはリュウが服を身につけるのを眺めるのは嫌いではなかった。正直、リュウは服を脱ぐ時より着る時の方がずっとセクシーだ、と思う。脱ぐ時のリュウはなんというか、飢えた獣と同じようなものだ。もどかしそうに、引き剥がすように、一秒だって待てないとでも言うように乱暴にあっという間に下着も服もいちどきに脱ぎ捨ててラオにしがみついてくる。その切羽詰まった情欲のほとばしりにラオもまた大いに煽られることは確かだが、リュウの服を脱ぐ仕草ははっきり言って、夏の暑い日に冷たい川に飛び込む直前の子どものそれと変わらない。情緒もなにもあったものではない。

 だけど服を着るときのリュウはとても素敵だ。火照りの残る膚を洗いざらしの布がすべる感触さえ楽しむように上機嫌で、ラオの服を蹴って足指で自分の服をつまみ上げる仕草も、みじろぎした拍子に中に出したラオのものが垂れ落ちる感触に身をすくめる仕草もすべてが好ましい。けだるい余韻に浸りながら寝台でそれを眺めるのも、悪くはない。あの鼻歌さえなければ。

 リュウのうたうその歌はリュウが歌える唯一の歌だ。ほかの歌はなにも知らない。リュウやラオが生まれる何十年も前の、古い古い流行歌。旋律は単調だが扇情的、男との情事を反芻する女を描いた歌詞はあまりにも官能的でありすぎた。リュウはこの歌しか知らない。ほかには、なにも。そしてラオはこの歌が嫌いだ。

 リュウがこれをうたうのを初めて聴いたのは出会って間もない頃だ。ラオと同じ学校に新入生として入学してきた痩せっぽちの少年が、歓迎会の場で歌ったのが。上級生に囃し立てられるがままに新入生たちが順番にひとつずつ歌を歌った、当時のヒット曲、故郷の唱歌、出身の学校の校歌をうたう者もいた。少年の番が来て、かれはためらいがちにこれを歌ったのだ。古い歌を誰も知らなかった。だが聴いているうちにその卑猥な歌詞に場は徐々に盛り上がった。新入生はわざとこの歌を選んだのだとみなが解釈したのだ。つまらない歌ばかりうたう新入生たちに一歩先んじようと生意気な新入生が不適切な歌で場を盛り上げたのだと。だけどラオはなぜかその歌が不愉快だった。気にかけていた新入生だったからだろうか。噂は聞いていた。親のない子、路上の物乞い、拾われた子。整った顔立ちをしていたが、目に暗い翳りがあった。その子が歌ったその卑猥な歌は、ラオをひどく落ち着かない気分にさせた。

「余興はおしまいだ」

 手を叩いてラオは新入生の歌を突然止めさせた。聴衆は不満げだった。せっかく盛り上がっていたのに、またお堅い生真面目な男が邪魔をした、そんなしらけた空気が座を鎮め、歓迎会はそこでお開きになった。ラオに逆らう者はあの学校にはいなかった(のちのこの新入生以外は)。生徒はみな自室に戻り、新入生とラオだけが残された。

「だって、この歌しか知らないから」

 なぜあんな歌をうたった、と問うと少年はそう答えた。不安そうに、というよりどちらかというと不満げに。なぜ自分が怒られるのかわからない、というような態度にラオは自らの不穏な予感が的中したのを悟った。胃の底に重い石を投げられた気分だった。

「知らない?ほかの歌を……なにも?」
「うん、……はい」

 上級生にははいと返事をしろと誰かに言われたのを思い出したのか少年が言い直す。ラオは自分の心が沈んでゆくのがわかる。なにも知らない、ほかの歌を、なにも。誰もこの子に歌を歌ってあげなかった。子守唄も童謡も唱歌も、どこの学校にも行かなかった、だから校歌も知らない。知っているのはこの歌だけ。

「この歌を歌えば酔っ払いが小銭を投げてくれることもあった」

 言い訳のように少年がそう言うのが余計に腹立たしかった。少年にではない、かれにこの歌を教えた者にだ。かれにこの歌を歌わせ、家を持たぬ子どもに小銭を稼がせた者、家を持たぬ子どもが意味もわからず卑猥な歌をうたうのを笑いながら小銭を投げた者たち、そのすべてにだ。誰も彼もがこの子どもに対する責任を放棄し、子どもを見捨て、庇護しなかったことへの怒りだ。その感情はラオが自分でも思ってもみなかったほど激しかった。もう歌うな、と怒りを抑えたひくい声でラオはそれだけをようやく言った。子どもは、わけがわからない、という顔をしてそれでもはい、と答えた。そんなことがあった。

 ラオはこの世界を愛している。世界は美しく、戦う価値があると。だが同時に、リュウにあの歌を歌わせたすべての人間たちのことを同じくらい憎んでいる。子どもを守る義務を怠った者たちすべてを。あの激しい怒りは生まれて初めて抱いた感情だった。リュウがラオに憎悪を教えた。ラオがリュウに愛情を教えたのと同じように。

 あんなに歌うなと祈るように願ったのに相変わらず機嫌のいい時はこの歌をうたうリュウのことを時たま恨めしく思う。こいつはなにもわかっていない、と。なぜ歌ってはいけないのですか?ときょとんとラオを見上げた子どもの頃と同じように。それは尊厳の問題だからだ。おまえには尊厳がある。何度言ってもわからない。おさない頃に損なわれたものは贖うことは永遠にできないのだろうか。胃の底に石がたまる。だけどリュウの黒ぐろとした瞳の底知れなさに比べればたいしたことはない。リュウの闇は底なしの井戸だ。石を投げても投げても、カランとも音がしない。

 ふと横顔に視線を感じてラオは顔を上げる。着替えを終えたリュウがこちらを見ている。黒ぐろとした底知れない瞳で。ラオは腕を伸ばしてリュウを呼ぶ。リュウが寝台にすべるように潜り込んでくる。ラオの腕に頭をのせ、腋窩に鼻を突っ込むのがリュウの寝るときの態勢だ。ラオの汗の匂いが好きなのだと言う。気を使ってデオドラントを使用してみたときに、「それは舐めたら苦いから嫌だ」と文句を言われた、それから使っていない。ラオの腋窩に鼻を突っ込んでリュウは言う。「考えすぎだ」と。ラオは思わず笑ってしまう。

「なにが。俺がなにを考えてたかわかるのか?」
「さあ、でもラオはいつでも考えすぎるから」

 のんしゃらんとそんなことを言うリュウが憎くて、いとしくて、ラオはリュウの唇に自分の唇をあわせる。おやすみのキスだと思ったリュウが入ってきた舌にすこし驚いた気配が伝わる。まつげが刺さるほど近くにある黒い瞳がおどろきに見開かれる。情熱の熾火を鎮めるのではなく掻き立てるキスと、間近に見えるラオの瞳にぎらつく欲望を認めたリュウの口腔に唾液があふれる。キスが激しくなると息継ぎのタイミングでリュウが聞く。

「またするのか?せっかく着たのに」
「俺が脱がせてやる」

 リュウの膚をてのひらでまさぐりながらラオは言う。俺が脱がせてやる、だから早く脱いで。邪魔な布を取り去って膚と膚をぴたりとくっつけたい。そうすれば、きっと不安はなくなる。まるで生まれたときからそうしていたかのようにしっくりする。だから早く、早く。

 あの歌が嫌いだ。リュウにあの歌を歌わせたすべての人間が嫌いだ。リュウがラオに憎悪を教えた。ラオがリュウに愛情を教えたのと、同じように。

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