文旦
バレンタインが終われば、あっという間に三月がやって来る。
節分から一か月か、とつらつら考えながら二月のカレンダーを破って、ホットカーペットの上に敷いた布団の中で寝息を立てる子どもを起こさないように明かりを消した。
外からはまだ車通りの音が聞こえて来る。
時折はクラクションも混じるこんな中で良く眠れているものだと思いながらそっと抜け出し、まだ灯りの付いている隣の部屋に顔を出した。
兄弟子は大きな黄色の柑橘の皮を剥いているところだった。最近買った刃物のついた便利グッズは柑橘の房の筋の付いた皮までがよく取れるというので面白がって蜜柑以外のものも買ってくるようになったのだ。
「四草、お前鼻が利くなあ。」と言われて、「そんなもん、朝になって食べたらええやないですか。」とちゃぶ台の向かいに座った。
去年までのように同じ方に座ってストーブを背中に当ててなくても、部屋の中はそれなりに暖かかった。
それでも、一月と二月の間はずっとこたつを出していたが、週末の晴天でこたつ布団の埃を払って乾かして、すっかり押し入れに片付けてしまったらしい。
兄弟子がここに越してから買ってきた電気ストーブは安し悪しと言うヤツで、こちらと同じ部屋で寝なくなってからも意地か何かは知らないがちっともぬくまらないそのポンコツで押し通していたが、先日のセールでやっと新しいものに買い替えたばかりだ。
「美味いですか?」と聞くと、「今からや。こないして外の皮剥いたばかりやで。」と言って兄弟子は苦笑した。
ほら、ええ匂いやろ、と言ってテーブル越しに切ったばかりの黄色い外皮を鼻先に持って来られたので、柑橘に貼られている丸くて金色の縁取りがしてある赤いシールが見えた。太陽を浴びて育ったこの黄色い柑橘は、文旦と言う名前らしい。
そういえば、おかみさんが昔、スーパーで見かけたと言って買ってきたことがあったような気がするが、大きさが違っている。
記憶にある文旦は、子どもの持つボーリングの球のようだったが、目の前のこれは、初夏になったら店頭に並んでいる甘夏とほとんど大きさが変わらない。
「お前も食うか?」
そう問われて首を振った。「兄さんも、さっき歯を磨いたばかりじゃないですか。」
「そうやけど、なんや口寂しなったんやて。もう一個貰って来たからおチビにはそっち残しといたるわ。」
貰って来た、ということはいつものようにスーパーで買ってきたのとは違うらしい。
「仏壇屋に行って来たんですか?」と言うと兄弟子はちゃうわ、と言った。
「草々のとこの弟子が実家から送ってもろたんやて。」と言われて眉を上げた。
「なんやねん。」
「……また若狭のとこですか。」
「若狭やのうて、草々のとこやて何遍も言ってあるやろ。またて何やねん、」
「また、はまたです。」
だいたい、何年一緒に寝てても、今だに寝言で聞く名前は『喜代美ちゃん』である。
あちらも子どもが幼稚園に入るようになって、そろそろこの人も妹弟子離れが出来るかと思ったら、疎遠になるどころかいつまで経っても、顔を見に行く口実にしている。自分でも子育てを出汁にしてこの人を傍に置いてる自覚はあるので、だからこそ逆に腹立たしい。
「お前はもう……どんだけひつこいねん。草々のとこに噺習いに行くて、ちゃんと言うてあるやろ。」
次の噺を覚えるとしたら、また草原兄さんの得意な噺から適当にひとつ選ぶのだろう、と思っていたので、夏に草々兄さんが好んで掛けることの多い景清をやってみたい、と言い出したのは正直意外だった。かつては、鴻池の犬みたいな人情噺、ひとつ覚えたらそれで十分やで、と言っていた人が、なんでやと思ったけど、この人にとっての、これまでの、氷山みたいな大きなわだかまりが溶けていく今がその時期なのかもしれなかった。
まあ、そうは言っても、それとこれとは別ものというやつで、草々兄さんのところに顔を出すということは、妹弟子のところに顔を出すということだ。僕にとっては浮気に近い。
「僕は口寂しいのとは違いますよ、」と前置きして、腰を落ち着けた位置から立ち上がって男の隣に移った。
ストーブに近いのでさっきまでよりはずっとぬくい。
夕方に帰って来たとき、僕の近くに寄って来たこの人は、ソースと鉄板焼きの匂いをさせていた。
「なんやまたふたりで美味いもん食べて来たのと違いますか?」と言うと、文旦の皮を剥いていた兄弟子の手が止まった。
「……おい、なんや不貞働いたみたいな目で見んなて。ふたりて言うたかてなあ、今日は草々に付き合わせて外にお好み食いに行っただけやで。あいつの弟子が見つけて来た店、客行かんと潰れてまうわ、ていうから、」と長々言い訳をするので「それ、たまたまでしょう。」と言ったら、図星を指されたような顔をしている。
「……こないだのまだ根に持ってんのか?」
「はい?」と見返すと、いや、そのな、あの先週の、と言いながら兄弟子が頬を染めた。
ただ誤魔化された方がまだマシだった。
それを言われて、はいそうですか、と素直に頷けるはずがない。
先週の出来事、というのは、つまり、僕が若狭が持っているインスタグラムのアカウントを見せられた時のことである。
この人と共有の財布に残されていたレシートの甘味屋率の高さだけが推論の根拠だったが、証拠は挙がってる、と一言言うだけでひええ、とお奉行の前に引き出されて来た町人のように白状した。つまり、妹弟子本人からの自己申告だ。
パフェです~とタイトルに書いてある写真には、明らかに兄弟子の手と思われる男の手が見えた。
短く切りそろえられた爪の形と、見覚えのあるささくれ。
頭が煮えたあの夜も、大概しつこい真似をした記憶はあるが、お前のもんやと強引に言わされたことなんか、この人はもうすっかり忘れてしまったに違いない。
「もう忘れた。」と言って笑うと「分かった、オレが悪かったて。機嫌直せや、」と言いながら兄弟子は手元で剥いた文旦の透明な身を差し出した。仕方がないので口を開けると、文旦の身が口の中に入って来た。
果肉の粒が固くて、噛めば中から果汁が出て来る。
記憶にあるよりずっと房が小さくても、味は記憶と同じだった。
「美味いやろ? 夜に甘いもん食べるとなんや悪いことしてるような気になってくるな。」と笑っている兄弟子が妙に可愛らしく見える。
「甘いばかりでもないですよ。」と僕は言って、味見しますか、と顔を近づけた。
「すっかり食べてしまったんとちゃうんか。」と笑いながら目を瞑る人に、これで許してあげます、という気持ちで口づけをすると、忘れてしまったはずのソースの匂いを思い出した。
別のものが食べたくなりました、と言って直截に身体を倒すと「しゃあないなあ、」と言う声が聞こえて、首の裏に長い腕がゆっくりと回って来た。
男の指先から放たれる食べかけの柑橘の匂いに、これで機嫌直せや、と言われたような気がした。
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