愚弟

 部活も終わり、汗の滲む肌をタオルで拭い着替えを済ませる。スンッと鼻を過ぎったのは思春期の男子高生らしい汗臭さで、それが己のものかそれとも部室に染み付いたものなのかはわからない。だが不快であるのに変わらず、ロッカーに常備している無臭のデオドラントスプレーを手にした。今どき男子高生でも汗や匂いの対策にスプレーやらシートやらを使うのは珍しくもなく、あちらこちらで同じようにスプレーを使っている姿がある。
 適度にスプレーを吹きかけて身支度を整え、ボソリと「お疲れ様」と誰に言うでもなしに呟きながら出入口へと向かえば奇跡的に耳に拾ったらしい同級生から同じ言葉を返され、それを背に受け足早に部室を後にした。
 外へ出ればもう随分と薄暗い。校門を抜けて学校から出るなり、ローは本来ならば持ち込みを禁止されているスマホをカバンから取り出して慣れた操作でメッセージアプリを立ち上げる。最後の会話は自分で終わっていた。迎えに行くから駅にいて欲しい、というものだ。その言葉に返事は無いが筆無精のきらいがある相手であるので特に問題は無い。迎えが不要ならばそうと伝えてくるし、返事がないならば了承を得たということだ。例え不要と言われても言いくるめて迎えに行くつもりではあったが。
 明日の夜に帰る、というメッセージを受け取ったのは昨日の夜だ。そして次の日は休みなのでその夜に帰ることにしたのだとも。家から出てしまってからというもの滅多に帰らなくなってしまった男の久しぶりの帰省に、ローは昨夜から今の今までずっとソワソワとしてしまっていた。それは近頃つるむようになった同級生から「何かいいことがあったのか」と指摘される程で、少々気まずい思いもしたのだけれど、沸き立つ思いは消せない。
 学校から出てすぐは歩くスピードも普通だったが、段々と踏み出す足が速くなり、駅に着く頃にはほとんど小走りに近いものとなっていた。早く早く、と。勝手に足が速くなってしまうのを止められなかったのだ。
 周りの人に気をつけて、駅にたどり着いた頃には少し息が上がってしまっていた。せっかくスプレーを吹きかけたと言うのに、また汗の匂いが漂っていたらどうしようかと、ようやくその事に気づいて腕を鼻先へと持っていく。だが、いまいちよく分からなかった。緊張が高まったせいか、少しだけ感覚が鈍くなっているのかもしれない。念の為トイレかどっかでもう一度スプレーをしてしまおうかと思ったけれどそのスプレーはロッカーの置いてきてしまったので、自分の用意の悪さに舌打ちをしながら地元へと向かう電車に乗り込んだ。自分の足とは違いずっと早いはずなのに、それでも、早く早くと、気が急いでしまう。
 一駅、二駅、と、目的地の駅くらいしか普段は気にしないというのに、今日ばかりは地元までの停車駅を数えてしまい、全く自分のことながらどれだけ会いたいのかと呆れてしまった。男と会うまでに平常心を取り戻さないと、意外にも敏い男であるから、気付かれたくない事に気づかれてしまう。目的地まであと一駅という所で深く息を吸って、そして、ゆっくりと吐いて気持ちを落ち着かせようとした。あまり効果はなかった。
 駅に辿り着いてからは意識してゆっくりと歩く。改札口を抜けたところで学校を出た時よりも更に暗くなった空を一度だけ見上げ、それからぐるりと周りを見渡した。

 あ。
 居た。

 薄手のコートにキャップを被り、二日分の着替えだけを入れているのだろうボストンバッグを肩にかけて、その男は先程のローと同じように空を見ていた。帽子を被っているせいか横顔をハッキリと見ることはできないけれど、近づいて行けば随分と整った顔立ちをしている事がわかる。彫りが深く、高い鼻が少しだけ赤らんでいて、急いだつもりだったけどもしかしたら長い時間待たせてしまったのかと、慌ててローはその男の元へと駆け寄った。

「ゾロ、屋!」

 久しぶり、と言っても二ヶ月だったか、三ヶ月だったか。顔を見るのまでそれ程でしかない期間であってもローにとっては長く感じられ、第一声が随分と情けない物になってしまった。もっとスマートに出来たら良かったのにと人知れず恥じ入る。それこそ、会っていない期間で驚いてしまう程に大人になったと言われるほどに。

「ん?おー、おかえり、ロー」

 顔を向けたゾロは帽子を少し上げて声の主を確認するなり少しだけ口角を上げて微笑みを作る。久しい声と顔が五感を通って脳内に入り込み、じんわりとした心地の良さと言葉にし難い沸き上がる感情を起こした。もしアルコールを摂取したのならばこのような酩酊感を抱くのだろうと、未成年であるが故の想像をしてしまう。

「ただいま。あと、ゾロ屋もおかえり」
「おう。元気にしてたか?」
「ああ」

 学校生活において特段困ることはなく、勉強も順調に進んでいる。医者を目指すローは私生活においても勉強尽くしの毎日ではあるが、尊敬する父と同じ道を進むと選んだ事に後悔はない。寧ろ家族は皆応援してくれている為に、やりやすさとやりがいを感じていたため気が滅入るという事もなかった。もし元気かと言う問いかけに一つだけ言うとしたならば、やはり、とっくに成人し家を出てしまったこの男に会えないことだろうか。口が裂けても言えないが。

「そりゃよかった。勉強も、部活も、順調って事だな」
「どっちも問題はない。ゾロ屋のほうはどうだ?」
「土産話なら山ほどあるぜ、言える範囲内だけどな。とにかく家に行こうぜ、帰って飯くいながらでも話してやるよ」

 交番勤務をしている警察官のゾロには当たり前のように口外できない話が多い。そうと分かっていても彼が帰省する時はどうしたって、色々な話を聞きたがってしまう。危ない目には合っていないかとか、どんな事をして何を感じたのか。私生活ではどうなのか。まだ、一人暮らしであるのか、など。
 そんなローを慣れた様子でなだめるように手を伸ばし、少しだけ身長の勝るローの頭へと、大人で、男の手がそっと乗せられた。

「っガキ扱いするなと……!」
「ははっ、悪い悪い。ついな」

 手で振り払う事は出来ず、頭を振って手から逃れる。ゾロは気を悪くした風でもなくからりと笑って、行こうかと歩き出した。
 その足が家へと向かう道とは逆であるのに気づき、相変わらず道を覚えるのは下手なままだとこっそりと笑いながらも、訂正はしない。
 家に帰れば他の家族が居るのだがら、もう少しだけ、遠回りする分だけ二人きりで居たかった。

♢◆♢◆♢◆♢◆♢

「おかえり、ゾロ。元気にしてたかい?」
「ただいま。おれはこの通りだ。お袋達こそどうだったよ?」
「それこそご覧の通りだよ。ロー君もおかえり。馬鹿のお迎えご苦労さま」
「ただいま、ラキさん。大した事じゃねぇよ」
「おいこら、二人して馬鹿ってなんだ」

 父との再婚で、ゾロとは義兄弟となった。
 今でこそ定着してしまったがローはゾロの母を「母」として呼べずに、今も名前で呼んでしまっている。しかし、ラキは一度とてその呼び名に寂しさを感じさせるような表情を浮かべたことは無かった。ローにとっての母親はただひとりである事を尊重してくれているのだ。

「ゾロ兄様!おかえりなさい!」
「っと、ラミ!危ねぇから抱きつくなって何度も言ってんだろ!」
「えへっ」

 玄関で挨拶を交わし、ゾロが靴を脱いで上がったところで妹のラミが駆け寄り勢いを付けて抱きついた。体幹を鍛えているからだろうがゾロはなんなくその細い体を抱きとめるも、しっかりと注意だけは忘れない。だが何度注意しようとも毎度毎度繰り返されるのでラミはきっと聞いていないだろう。
 年頃である実の妹が、大人となった男に抱きつく姿はどうにも落ち着かせなくさせる。それはどちらに対してもであった。抱きつくなと言いたいし、女となりつつあるその体に触れるな、とも。不満であるし、不安でもある。そんな感情からか無意識に唇が尖ってしまうのを見た訳ではないだろうが、ラキが手をパンパンと叩いてじゃれる二人を見やった。

「ほらほら、遊んでないでさっさと奥に入りな。夕食は出来てんだ、食べよう」
「ああ……親父は?」
「ん、あと少しで帰るはずだよ。今日は急患も居なかったからってさっき連絡があった」
「なら久々に会えるな」

 急患や当直など、タイミングが悪くゾロとローの父は会えない事が続いていた。会えそうだと思ってもゾロもまた、急用が出来てしまったと言って帰れなくなる時もあり、実際にゾロと義父が会えるのは二ヶ月や三ヶ月ぶりなんぞではなかった。一年か、それほどであろう。先程の連絡ということならば夕飯には間に合わないだろうがそれでも久々の再会をゾロは心から喜んでいるようであった。

「ローも着替えておいで」
「わかった」

 ラキに促されるままにローは自室のある二階へと上がっていけばゾロも着いてきた。ゾロが帰ってきて寝泊まりするのはローの隣の部屋だ。元々余っていた部屋だったのだが再婚して兄弟となったゾロの部屋として宛てがわれ、それから彼が家を出て行ってからもずっと変わらずその部屋はゾロのものだった。たまにラキが掃除をしているので埃を被ることも無くそのままの姿であるだろう。
 ゾロが部屋へと入るのを見届けて、ローもまた自分の部屋に入る。着替えながら意識してしまうのは隣の部屋から零れてくる物音だ。普段は音のない静かな部屋から今日ばかりは音がする。ローと違い荷物を置くだけのはずであるゾロだが、その荷物からどうやら何か出しているらしい。
 ごそり、ことり。
 着替え終わったローはベッドへと座り込み、壁に背を預けた。その壁の向こうには、ゾロが、いる。その証拠である物音が酷く懐かしい。

「……ゾロ屋……」

 隣の部屋であったとしても、呟かれた声が聞こえるはずもない。呼びかけたわけでもないから、構わない。ただ背中を壁に預けてその向こうにいる存在に全ての意識を集中させた。
 ゾロがまだこの家から学校なりバイトなりへと向かう時には当たり前にあった音だ。そして彼が部屋で過ごす時も変わらず物音はあった。なにをしているのかとついつい気になってしまっては耳を壁に押し当てて聞いてしまっていた時もある。そんな姿は傍目から見てもおかしいものであるというのは重々承知はしていたのではあるが、ゾロが家を出ていくまで終ぞ辞める事は出来なかった。
 話し声らしきものが聞こえた時なんぞは、一体誰と、どんな話をしているのか。学校の友人なのだろうか、それともバイト先の仲間なのか。もっと別の、自分の知らぬ繋がりのある人なのだろうか。気になって仕方なかった。そして、今であっても知ることは出来ない。誰と電話していたのか、など、問いかける訳にもいかなかった。例えはっきりと聞こえないといえ盗み聞きなどという、行為をしていたなど、知られるわけはいかなかった。なぜそのような事をしてしまうのかという事も。
 つい数年前から変わらない癖をまた行動に起こしてしまって、いけないことだと分かっているのに辞められないまま隣の部屋の音を聞いているとどうやらすべき事を終えたらしく、扉の開けられる音がした。それから部屋の前をゆったりとした足音が通り過ぎていき、階段を降りていくのを聞く。
 すぐに下から話声が聞こえてきたのを確認して、ローもまた、部屋を出て階下へと降りて行った。


 ゾロとの夕食が久しぶりであるのはローだけではなく、ラミとラキも同様だった。仕事は順調であるのかとか私生活に問題はないのだとか母親らしくラキは小言混じりに根掘り葉掘りと聞いて、ラミは好奇心のままにラキと同じようなことを聞いていたが律儀にもゾロは二人の質問に答えていた。ローもまたいくつか話を聞いたが、聞きたいことの大半をラキとラミが聞いてくれていたので自分から問いかける必要はなかった。それでも、自分が聞きたかった、という気持ちもあったのだが、まさか高校生にもなってそんな子供っぽいことも言えない。ただでさえ駅へと迎えに行った時に既に宥められていると言うのに。
 話を聞くばかりではなく、ラミは自分の話もよくした。学校ではこんな事があり、家ではこんな事があり。ロー兄様はね、なんてローの事まで言い始めた時はさすがに止めたがそれでもラミは嬉々としてゾロとの会話を楽しんでいたようだ。その姿は実に愛らしいもので、見ているだけで微笑ましくもなるが同時にこの素直さのほんの一欠片でも自分のあればと思わずにはいられない。言いたいことなら沢山あったのだ。
 例えば学校のクラスメイトとの話、ロー自身自覚していることだがあまり人付き合いを得意とはしていない。ゾロはそんなローの事をそこはかとなく心配しているようだったので、最近はよく話す友人が出来たのだと言って安心させたかった。模試の結果の話。頭の出来はそこそこいいと自負していたので全国でも上位に入るとは思っていたがこの前はようやっと十位以内に入ることが出来た。褒めてくれたらいいなと思って温めていた話だ。バイトはこの前やめた。勉強に集中したかったのだ。でもお陰で少しだけお金が溜まったのでゾロに何かプレゼントをしたいと思っていた。理由はなんでもいい、なにか、残せるものを。だから今何が欲しいのかとかそれとなく聞いてみたかった。それからゾロに憧れて始めた剣道。レギュラーに選ばれたのだ。先輩にも褒められた腕前である。もし、機会があればどこかで手合わせでもしたいと、約束を取り付けたかった。そんな程度の、話ではあるが、ローにとってはゾロと会話するための大切な話題である。どのタイミングで、どう話そうか。それだけの話題であるのに、ローは随分と悩んでしまっていた。緊張しているのだ、まだ。
 その為かすっかりとそのタイミングを逃してしまい、気付けば食事は終わり、ローの実父も帰ってきてしまった。お疲れ様と言って迎えたラキに続いてゾロもまた父親を出迎える。久しぶりの親子の再会に父は随分と嬉しげにしていた。
 まぁ、また、後で。
 明日はまだ、平日だ。つまり学校がある。ゾロが帰ってきて喜ばしいのは変わらないが、どうしたって休みが被ることが少なく、せっかく帰ってきても一緒に過ごす時間が短いのがほんの少しだけ不服だった。寝る前に話せればいい。そんな風に考え直しでもしないとまた子供っぽくも唇を尖れせてしまいそうだった。


 先に風呂へと促され、ローはさっさと入浴を済ませると、風呂が空いた事を知らせようとリビングへ向かった。父親はまだ帰ってきたばかりだし、ゾロはそんな父親と会話をしているだろう。ならばラミかと考え、もしリビングに居なかったら部屋まで呼びに行かなくてはならないなと、なんとなしに面倒臭さを感じながらリビングの扉に手をかけた時、男二人の話し声が聞こえてきた。楽しそうな父親の声に、これは少し酒が入っているなと苦笑する。父親はあまり酒を嗜まないが、ゾロが居る時は別だ、一緒に飲める家族が居るのが嬉しいのだろうか、ゾロが居る時はあまり嗜まないはずの酒をよく飲んだ。ただゾロは浴びる程に酒を飲もうと酔わないが父親はそこまで強くない。いかにゾロとの久しぶりの再会に浮かれていたとしてもあまり飲ませない方がいいだろう。少しだけ注意をしておくかと思ったところで、二人の話題が己であると気づいた。

「また少し、背が伸びたよなぁ。ローの奴」
「あの子の成長期は目を見張るものがあるよ。確かこの前はもう百九十を超えたとか言っていたかな」
「げっ、やっぱりか。駅であった時いつもより首を上げなきゃならなかった」
「すっかり追い抜かされたな」
「親父さんに似たんだろ」

 今年の身体測定では確かに随分と身長が伸びたと自分でも驚いたのを覚えている。ゾロの身長も低い方ではなく寧ろ高い方であるのだが、超えたなと思った時は嬉しく思った。その時からまた少し伸びたのかもしれない。ゾロはどうやら複雑らしい。得意げになって笑ってしまいそうだ。

「あと洒落っ気も出たな。ピアス、確か前は二つだったと記憶してるがまた増えたな。二つ」
「ゾロの真似かな」
「きょーいくにわるい兄で悪いなァ」
「自分の好きに生きる事は悪くないさ、あれももし精神的なものが関わっているのなら考えものだがそうじゃない。本当にお洒落でやってるんだろう。まぁ、どっかに引っ掛けて怪我さえしなければいいよ」
「ああ、引っ掛けるのは痛いな」

 ゾロと初めて会った時、彼は既に高校生で自分は小学生であった。その頃から既にゾロは三連のドロップピアスを付けていたのだが引っ掛けた過去でもあるのだろうか。どこか懐かしむ声色にほんの少しだけ心配になる。
 ピアスを開けたのは、確かにゾロの影響だった。そうとは知られたくなくて形状もドロップではなくフープにしているし、数も違うのだけれど、さすが父親、さすが、兄。知られていたらしい。

「まぁなんにせよ、ラミもローも、元気そうでなによりだ。元々そこまでしてない無かった心配もとうとう必要なくなってきたか」
「何を言うんだい。もっと可愛がってくれ。特にラミはまだまだ幼いところがあるし、ローなんかはゾロ、君の事がたいそう好きなようだ」

 ピアスの事を知られていた事に気恥ずかしさを感じていたところでそんな父親の言葉にドキリと体が硬直してしまう。それから、耳の奥に聞こえたのは一気に血が引いていくザァっという音だ。

「ラキさんに聞いた。昨日の夜からソワソワしていたと」
「ははっ!アイツも相変わらずだな、だがおれもアイツと久々に会えて良かったと思う。色々聞きたいが、明日もアイツは学校だからなぁ」
「今度は休日に来てくれよ」
「予定が合えばな」

 ドキドキとして、もしやとは思っていたが、どうやら大丈夫なようでゆっくりと息を吐く。大丈夫だと、自分に言い聞かせる。

「まぁもし今度、休みの時にでもこれるようならまたローとラミと出掛けるのも良いかもしれねぇな」
「そうしてあげてくれ、あの子達は君と出かけるのが好きなようだから」
「まったく、本当に可愛い弟と妹だよ。良い弟妹で……おれは嬉しい」

 そう、大丈夫だ。自分達は兄弟の枠に収まっている。
 そっと、リビングへ続く扉から離れて静かな足音で二階へと上がり、ラミの部屋をノックする。風呂が空いたから入れと開かれぬ扉越しで伝えてからローは自分の部屋へと入って行く。それから、勉強机へと向かったのだが、すぐに立ち上がりベッドへと進んで壁を背にして座り込んだ。ゾロは下に居るから隣の部屋から声は聞こえない。一階にいるゾロと父親の話し声はゆったりとしていたものだから、二階の部屋までは届かず、静かだ。今頃は、まだ自分たちの話をしているのだろうか。それとも話題を変えただろうか。

 同級生でそこそこ話が出来る人が出来た。
 模試の試験はなかなか好調。もうひと踏ん張り。
 辞めてしまったバイトのお金。何か欲しいものがあるのか聞いてみたい。
 剣道ではレギュラーに選ばれた。今度どこかで手合わせしたい。

 話したいことはもっとある。聞きたい話はそれ以上。寝る前に話せたら良いけれど、きっと時間が足りない。それにゾロは疲れているだろうから、夜遅くまで話し込んでいる訳にも行かない。きっと、あまり話せない。
 それを悔しく思う。惜しくもう。寂しいと思うし、何に対してという訳でもなく理不尽に憤りも覚える。もっと傍に居られたらいいのにと思うのと同時にそれだけは絶対にしてはいけない事だともわかっている。
 この壁一枚が、自分と義兄の正しい距離であるはずなのだから。


 ぼんやりと、座り込んで居たら扉が静かにノックされた。続いて聞こえた声に心臓が掴まれたように苦しくなる。返事をしようとして顔を上げたら視界の端に時計が見えた。長い針も短い針も、共に揃って頂点を指している。もう一度ノックがされたが、ローはそれに返事をしなかった。
 寝たと思われたのだろう。勉強をしているから邪魔をしてはいけないとも思ったのかもしれない。ノックはそれ以上続く事もなく、代わりに隣の部屋、ゾロの部屋の扉が開いて閉じる音がした。
 壁一枚の向こう側、なにやらしているようだがそのうち音が近づいてより鮮明に聞こえるようになった。ゾロのベッドは壁側にある。今ローが背中を預けている壁際にだ。それをローは知っている。
 ゴソゴソと、身じろぐ音。それからリモコンで電気が落とされる音がして、隣の部屋は静かになった。
 一分、十分、三十分。勉強もせずになのをしているのかと、呆れながら時計を見る。
 壁一枚。その向こうから完全に音が聞こえなくなったと、そう思って、ローはベッドから立ち上がって部屋を出た。一階ではまだ両親のどちらかが起きているのか階段の下から明かりがぼんやりと漏れている。ちらりとそれだけを確認してローが立ったのは隣の部屋の前だった。ノックはしない。ただ、ドアノブに手を掛けて音がしないようにゆっくりと開き体を滑り込ませる。
 ゾロは、ベッドに入ったら大人しく寝るほうだ。スマホを弄る事もなく、明かりを落としたらすぐに寝てしまう。それを知っていて、それでもローは十分に時間を取ってから勝手に部屋へと入るのだ。初めての、事では無い。
 盗み聞きを悪いことだと自覚している。
 部屋の主が居ない間に部屋に入る事だって悪い事だ。
 部屋の主が居るからといって、だからといって、寝ている間に入るなんて、異常だ。わかっている。
 それでもローは辞められなかった。

「……」

 カーテンから入り込む街明かりに目が慣れて、ベッドの中が見えるようになる。
 静かな寝息を立たせて布団にくるまる男は、とっくに成人している大人の姿であるのは確かだと言うのに、なぜだか幼げに見える。高校生の時分から変わらない。何度見たって飽きない。

「……」

 壁一枚が、正しい距離。そうとわかっているからこそ、ただひっそりとその禁忌を破る。正しくない距離はどうしたって誰にも理解されず誰も許しはしないから、誰かに咎められないようにとひっそりと破る。悪いことだと分かっていても、辞められないのはそのせいだ。
 どうせ誰も許してくれない。認めてもくれないのならば、ただひっそりと、見るだけ。

 例えば、滑らかなその頬に指先のひとつでも触れようものならば、きっとそれは最後になる。超えては行けない一線を超えてしまうとわかっている。それはきっとゾロだって許してはくれない。

 いけないことだとわかっている。寝ているからと部屋に入るなどやってはならない事だとわかっている。誰が見たってこんなこと、気味の悪い行動だとわかっている。だけれども辞められない。この先ずっと、ゾロが誰とどのような関係を築く事になろうとも、彼がこの部屋へ訪れ、壁一枚越しに彼に存在を知る自分はずっと、辞めることが出来ないまま。

「……すまない、ゾロ屋……」

 こんな弟ですまない。こんな事をしてしまう弟ですまない。弟として見てくれているのにすまない。

 すまない。良い弟のままで、いられなくて。

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