寝室


必要な時に使ってくださいと言いながら引き入れられた書斎は、二十畳はありそうな空間だった。
部屋の中に据え付けられた、ほとんど介護用と見て取れるベッドを見て、ほお、と徹郎は小さく呟いた。
消毒薬くさい病院のベッドから逃げて来たというのに、目の前にある、この身体を横たえるための悠々二メートル超のベッドのメーカーの名には、はっきりと見覚えがある。朝倉の息子と一緒に見回りをした病室の見学で見たはずだ。
「社割か?」と聞くと、譲介がぎくりとした顔をする。
一気に年寄りになった気分だ。ずっとリビングで寝ている方がマシだったか、とも思ったが、あの広いリビングで寝ている間、譲介が水を飲みに来るふりをしてこちらの様子を何度も見に来ていたのを知っている。
「オレが今にも死にそうに見えるか。」
要らぬ節介をしようとすんじゃねえ。一也のヤツが同じことをしたら新しい杖で脇腹をどついていたに違いないが、まあオレもこいつには大概甘い。
どうなんだ、と言って、譲介の伸びた前髪をくしゃりとかき回してねめつける。
子ども扱いの手で反撃されたのがどうやら腹に据えかねたようで、譲介はこちらにも分かるように小さく口を尖らせた。
「あなたにこんな、転ばぬ先の杖なんて口幅ったいこと、僕だって言いたくないです。でもこういうのは必要になってから用意してるようじゃ、遅いかもしれないって言われたので。」
あなたがまだまだ元気そうに見えて無理する人だってことくらい、僕だって知ってます。
そう言って、妙に拗ねた顔つきになりやがった。
余計な入れ知恵をしそうな顔がひとつやふたつ浮かんでこない訳でもないが、まあそういう理由なら、こいつになんやかや言ったところで意味がねえ。
一度増やしちまった家具を次に取っ払うとしたら、引っ越し、そうでなけりゃあ、まあ……このベッドならオレが死んだ後のことになるか。
頭に浮かんだ考えは、流石に、隣に譲介がいる今は、口に出すのをためらわれた。
「特注か?」と尋ねると、年下の男は、いいえ、と首を振る。
「注文している間にあなたが他所へ引っ越しでもしたら、悔やんでも悔やみきれないので。ただの既製品で。」
ここはアメリカなので、サイズは選び放題だと譲介は言う。「でもまさか、組み立ての作業員に来て貰う時間がこんなに掛かるとは思っていませんでした。」
このベッドが決定打で逃げたくなった、と言えば、どんな顔をするのやら。
腕を回し、嫌なら買い換えますと言わんばかりの顔をしている譲介の肩を強引に抱き寄せて「で?」と言った。
「で、とは?」
譲介は、近いです、と言って、躍起になってこちらから顔を逸らそうとする。
大学で六年、それにプラスアルファ、か。どれだけアメリカナイズされてるのかと思えば、まだ全然じゃねえか。
「おめぇはどんな寝床で寝てんだよ。」
「……え?」
ここに来てから初めて見たような間抜け面をしている。写真に収めてやろうかと思うくらいに。
「このオレを病人専用の寝床に押し込めようってくらいだ、立派なお医者の先生がどんなベッドで寝てんのか気になるだろうが。」
「――それは、ええと。」
譲介が視線をさまよわせる。
今のはどういう顔だ、と徹郎は思う。
「部屋はこっちか。」と首根っこを引っ掴んで引きずって行く。
「あ、あの、」
「どうせおめぇのこった、そこそこは片付いてんだろ。」
和久井譲介のお宅拝見ってやつだ。
オープンセサミ、と心の中で唱えるまでもなく、ノブを回せば譲介の寝室のドアは開いた。
徹郎の背中に追いすがり、五分だけ待って下さい、という哀れっぽい声を無視して中に入ると、電気も付けないでいる薄暗がりの部屋に、廊下からの明かりが入り込む。
徹郎の私室となった部屋から運び出されたであろう荷物は、丈夫なボックスに分けて入れたまま無造作に床に積み置かれており、デスクの上には読みかけの論文に付箋。木調の本棚からは本が溢れ、そして、ベッドだけが、妙にぴしりとメイクされている。
「……あ?」
分厚いカーテンはなく、空気の入れ替えが空調頼りになる寝室。
白が基調の部屋には、今引っ越して来たばかりのような無造作があり、ただ本と紙が、賽の河原の石のように積まれている。
惨状と言う訳でもないが、片付いてもいない。
明かりを付けるぞ、と断って手前のスイッチを押せば、家具同士の位置関係が良く見えた。
今はこんな部屋に暮らしているのか。
デスク、ベッド、本棚にウォークインクローゼット。
思えば、神代の診療所には頻々と顔を出していたが、あの頃の部屋が、二人暮らしをしていた最後の頃の雑然とした状態に比べて片付いているのかそうでないかは気にしないことにしていた。
一度手を離した自分の立ち位置を、変えるつもりなど毛頭なかったからだ。
少なくとも、屑籠と椅子は横倒しにはなっていないし、食べたもののゴミも散らかってはいない。
「片付け、手伝ってやろうか。」と温情を示すと、それは大丈夫です、と譲介は横でうなだれている。
見ると、妙に顔が赤らんでいて、顔を手で隠している。
何だァ?
大昔のムショのように裸の女のポスターが貼られているわけでもない。何の変哲のない部屋だ。
医者らしい私物の他には、ただ馬鹿デカいベッドがあるだけ。
一人では恐らく、持て余しそうなベッドが。
「……女にでもフラれたか?」
「違います!」
「……なら男か。」
「っ、」と譲介は言葉に詰まる。
まさか図星か?
こんな顔もいい医者の資格を持つ将来有望な男を振るなんて、そんな馬鹿な話があるかよと思ったが、それならまあ丁度いい。
「今はスペースが空いてんだろ。半分寄越せ。」
「は!?」と譲介は素っ頓狂な声を上げた。
「細けぇことは気にすんな。隅っこで丸くなっといてやるから。なんなら次のオトコが決まるまででも構わねえよ。」と言うと、譲介は何か苦いものでも飲み込んだような顔になった。
一人で決めないでください、という言葉は、そのままおめぇに返してやる、というと静かになった。
そもそも、三十も年下の男を、今更からかいたいとか、そういうことを考えていたわけではなかった。ただ、この年でコネもない場所で新しいヤサをこれから見つけるのは手間だ、と思ったし、朝倉のガキにも借りは作りたくなかった。
病院に戻るのは論外だ。
オフクロを見送った病院のベッドを思い起こさせるような光景は、ずっと苦手だったし、これからもきっとそうだろう。それは、徹郎の方の事情であって、こちらの過去に起因するこの理由を、譲介が知る必要はない。
「これなら、あっちのベッドを入れ替える必要もねえ。オレの主治医になるってんなら、そのくらいは譲っとけ。なんなら、身体で払ってやるから。」
「……え?」
「前立腺は無理だが、ピラティスとかリハビリ系のやつなら……まあ記憶は怪しいがなんとかなるだろ。」
寝る前にマッサージが必要だったら言え、と言ってベッドの上に乗せてあったいくつかの本をデスクの端に移動させる。左開きになった横文字の分厚い本の中に、二、三冊、日本から持ち込んだのだろう年季の入った医学書が混ざっている。
その下にある、ぴしりと、まるで軍隊仕様かと思えるほどにベッドメイクされたシーツと上掛け。譲介のベッドは、まるで今夜誰かと使われるのを待っているかのようだ。
ふと頭に思い浮かんだ妙な考えに、徹郎は頭を振って、ベッドの上に乗っていた二つ目の本の山を取り上げる。そうすると、部屋の入口で固まっていた譲介は、「必要ならお願いするかもしれません。」とひとこと、こちらに近づいてきた。
そうして、徹郎の手にあった本を、これはリビングに戻します、と言って取り上げると、ついでに徹郎から掠めるだけのキスを盗んだ。
頬に触れた唇を離した譲介は、妙に雄の顔をしていて。これも身体で払ってもらううちに入るんでしょうか、と言って、小さく微笑んだ。





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