会ったことのない叔母の五十回忌

さてお盆の時期であります。
このタイミングで享年21歳という若さで亡くなった叔母(父の妹2)の五十回忌でございまして。
今回お集まりいただけた方々との関係や当時の状況等話を聞くだけ聞くなどして省みるに感慨深い節目だったんだろうなと思い書いておくだけおこうと思うなど。
私が生まれる6年前。実姉は1歳半。もうひとりの叔母1(今回の叔母の姉、父の妹1)のお腹には従兄弟(現在福岡在住、二児の父)がおり、忙しなくて情緒の乱気流が大変な数年間だったと各々各位から何度も聞いている。様々な立場(特に母、絶対に多くは語らない人である)を想像するだに恐ろしい。しかし、どこのご家庭にもいろんな修羅場というのはある。うちの母は繊細だが本当に強いとつくづく思う修羅場のうちの一つだ。悲しいことにご家庭の修羅場はひとつではない。私にだってあったけれどもという話はここでは置いといて。
出席した親族は我が家と叔母1夫妻(従兄弟たちは県外在住だし建前上叔母は嫁に出た立場なので的な)(時期はずれるけど改めて会う機会はある)、父の従姉妹、そして親族外から亡くなった叔母の親友という人がお二人。本当はもうひとり、叔母と四人で仲良しで、叔母が亡くなってなお五十年とお付き合いがある本当に稀有な方々。私自身も大変にお世話になっている。私は叔母に会ったことすらないのに。

叔母は、体調を崩してから一年足らず、入院一ヶ月少しで亡くなった。原因不明の高熱数日間のち、リウマチから神経症をいくつも併発し、最期は腎不全だったという。若かったから進行も早かったのかもしれない。
医療の連携システムや技術的なものとかがもっとよければ治ったかも、もっとよくなれたかもと祖母はずーっと叔母が入院していた某病院を毛嫌いしてた。一生恨むまではなくても消化しきれない、もっと手を尽くせたのではというやりきれなさを抱えていたと思う。似たような状況に遭遇すればどんな人でも思うことなのかもしれないが。晩年、娘のもとへようやく逝けるんだろうなと口にしていたし。〝夫のもとへ〟でなかったのがミソである。
そらそうだ。成人式を挙げたばかりの末娘が、臥せったと思ったらみるみる悪くなってあっという間に亡くなったのだ。長男が結婚し息子夫婦と同居、孫娘が生まれ、長女も結婚して家を出て妊娠、その矢先である。この娘にもこれからいよいよ家庭を持つ幸せと苦労とが押し寄せる人生があったはずでと母親が思えば多少おかしくもなるだろう。叔母が息を引き取る直前、祖母は鹿児島市(とはいっても中心部から離れたまあまあ山間部の田舎)から鹿屋の神社までお百度参りしに行くんだ行かせてくれと聞かなかったらしい。祖母の葬式で聞いた話だが今日も聞いた。父は気が気じゃなかったと語り、同居嫁の立場だった母は赤ん坊だった姉と祖父の世話のすったもんだでそらもう大変だったけど…と別で聞いた。それから姉が小学生、兄が幼稚園に入る歳になり、私が生まれるのを期に父は家を建てたので、叔母が生き亡くなった家で過ごす機会も私にはなかったわけで。

五十回忌ともなると生きている親族がそもそも少ない。親世代は最近施設に入ったという父の従姉妹のお母様(私達は平川のおばさんと呼んでいた。親戚の集まりにはめっちゃでかい鍋で煮しめを大量に炊いてくだすってよくいただいていた。とてもとても美味しかった)が最高齢で御年102歳。祖母は7年前に享年98。女は長生きですよ。祖父は75だったけども。父が今その歳だ。こないだの春先は夫婦で一ヶ月かけてキャンピングカーとフェリーで大阪や愛知を経由しながら青森まで行ってましたけども。今後は北海道にも行きたいらしい。一昨年前に半フリーランスになった私に休みの調整をさせて誘いたいらしい。父とふたり旅はやや不安だ。保留にした。ほどほどに元気でありがたい限りとは思っても母は去年白内障の手術(日帰り)をしたし父もコロナかかったりヘルニアの手術したり。
さらに最近部分入れ歯になった母が歯と目と脳は大事にしなさいとずっと言っている。
法事後の昼食時、父が暑いと言って脱いだシャツの下に着ていたTシャツに「低所得」って書いてあって蕎麦が鼻から出そうになった。なんてTシャツ着てやがるんだ。あなたたちの年収に一生追いつけない世代よ我々。閑話休題。
我々孫世代なんだが他も地元にいない。うちの姉は岡崎だし兄は鬼籍、従兄弟1は福岡、従姉妹2(三児の母)は浜松。わざわざぴったりに時期を合わせて帰ってくる時代でもなく、まあ世知辛いのかもしれない。
正月の餅つきとかお盆とか、最盛期はそれぞれの一家総計30人近くが祖母宅の一画に集っていた。30年〜25年前の頃だ。広い同敷地内に三世帯が三軒家を構えていた。今はもう誰も住んでないので朽ちる一方でマズいですよ状態。管理相続の云々もそろそろ考えないとなんて話しもあったりラジバンダリ。山もあるので相続分配はともかく実務管理が唯一地元に残ってる私一人にのしかかるのは正直しんどいん。いや家庭持ってないの私だけなのでいっそ私には何もなくてもいいとすら思う。山の手入れがてらたけのこが採れるのはありがたいとはいえ採るのも下処理も体力ゴミカス独り身には過ぎるモノ。実家のメンテ然り。親は実家を引き払ってもっと都会側に移り住みたい算段はあるとは言ってたけども。

で、叔母の親友の方もよってはもう齢七十の高校生や中学生の孫がいらっしゃる。息子さんらはダイレクトに同世代なので若干私の肩身も勝手に狭くなるがまあ気にしない体で振る舞うほかない。私も上は大学生の甥がいるし。
TさんとSさんとNさんとする。今回Sさんはお体を悪くされているとのことで(同県内だけど在住も遠い)とても良いそうめんをTさんNさんに託してくだすった。
4人でいれば彼氏なんかいらなかったし楽しくて仕方なかったと、Tさんは叔母の写真を財布から取り出した。
「旦那の写真は持ち歩かないけど、クシャン(叔母のあだ名)の写真はずっと持ってるの」
4人で関西に旅行に行ったときの写真だ、と木製の電車の座席に気取って座る叔母のバストアップ。色は随分褪せて薄くなっているがきれいにラミネートしてある。
私はこの叔母によく似てるといつも言われていた。写真でしか、かつ二十歳近々の写真でしか知らないが、ほっそり色白体型の姉と真逆のぽっちゃり色黒の私は確かに叔母寄りの容姿だった。
私が高校生の頃の法事の時だったろうか、「手の形と感触が本当に一緒なの」と目を潤ませながらお三方に手をニギニギされて、それを祖母が目を細めて眺めていたこともあった。当時で20年前に亡くなった友人の手の感触や形を覚えているものだろうか。
〝親友の兄の末娘〟が彼女らの「クシャン」に似ているという思い入れだけでなんだろうかはわからないが、折々でとても気にかけてもらっていた。

Tさんはまっとうに息子さん二人を育て上げ、今は某アイドルの推し活にはげんでいらっしゃるかわいい方だ。私の2つ下の息子氏は市内でイタリアンの店をやってると、ええ、あの平田橋の、鶴丸からガソスタの、ええ、あそこの!?店主が息子さんだと今日初めて知った。行ったことあったよ。知らなかった。こんど行くときは声かけときますね。まっとうな大人だみんな。知れぬ申し訳なさがまた増す。
Nさんは自宅に窯を構える独身の陶芸作家だ。推し作家ですよろしくおねがいします。皿やカップは何回かツイッターに写り込んでいる。昔から憧れるところではあった。やめといたほうが良いと常々言ってくれたがもう私引き返せないですNさん。職も環境も違えどあなたにちょっとだけ近いライフスタイル的なポジションにいけるように精進したい。

子供の頃は折々でご挨拶しても「亡くなったおばさんの友達」ぐらいに思っていたのだけれど、その縁をずっと円満に繋げていることがいかにすごいことなのかと。お互いに、という話しなんではあるんだが、叔母の死はある種彼女らのモラトリアムの終わりでもあり終わらない楔にもなったのかしらなどと弱コミュ力値の中年は思う。
他人の細くても縁というのは侮れないのだ、と、営業やってた頃えらい叩き込まれた。何かの折に「あそこにはあの人がいるな」「建前でも名前を聞けば思い出せる、思い出してくれるあの人がいるな」それだけで何かしらの支えになるし、誰かのなにかしらの支えでいられる。老後とはそういうことなのかもと、こどおばは思った。だから暑中見舞い、年賀状、名刺の管理はとても大事なんだよと実感する機会を得たのは35超えてからだった。仕事外のことでだったし。人より遅い気付きだった。私は中年だが幼い。

私が二十歳になったとき、成人のお祝いでお三方から合同でと、真珠のネックレスをいただいた。女が大人になったら必要な宝飾のひとつとかいう。おそらくうちの親にも前もって言って贈ってくだすったんだと思う。
三十代前半の色々しんどかった頃Nさんには親に話せない話しを随分聞いてもらった。何度も言ってますがその節はすいませんでした。
今日、私は成人のときに彼女らからもらった真珠を身に付けていった。そらもう今日はこれ付けていくしかないでしょうと引っ張り出した。いや、引っ張り出すと言うほど奥まってはなかった。まあまあ手に取った20代後半、以降はぽつぽつ、これから先は活躍の場が増える傾向にある気配も感じる。
今時分必須とはなくとも必要と言われたぐらいの宝飾だから、流行り廃りがなく年齢問わず、手入れをしていれば悪くならない、要所できちんと整えてくれる。
会ったことのない叔母の親友。こんな遠い人達に私は現在進行系ではちゃめちゃにお世話になっているんだが。
私にこんな真珠を贈れる誰かといえば、多分姪とか、甥達には何を贈れるだろうか。ましてや付き合いが続いている友人の子どもたちなんて彼女らと私の係わりに比べたらもっとずっと遠いように思う。
自ら作る家庭というコミュニティを持たずに一人世帯で生きる選択を取り続けているとはいえ、一人では生きることはできないことを、歳を経るごとにつくづくと思う。一方でそれらはしがらみとも言うやつなのかもしれないけれども。今この時でさえ己は幼い、なんにも成長していない、と思いながら生きているので、せめて誰かの足かせにはなりたくはないし、ほんの少しでも頼られても大丈夫な何かであれる身の程や身の丈を保ちたくはある。
古臭い、今の時代にそぐわない、考え方や社会がそうじゃない、そんな考え方もあるかとは思うが、私もこんな歳なので、一人世帯なりの、年相応分相応な役割で在らせてくれ給へと祈り父の「低所得」Tシャツを思い返す夏の夜更け。わりとほしい。

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