新しい年


「おい、譲介。おめぇ暇してるんなら、寿司にでも行くか?」
「……行きます!」

冷たい雨がみぞれに変わるほどに寒い冬の日。
仕事が引けたのは夜のことで、ちょっと付き合え、といつものように彼は言った。
「終電までか。」
彼はポケットからスマートフォンを出して時間を確認している。
その様子を眺めながら、譲介はくるくると高校時代から愛用しているマフラーを首に巻いた。
「まあ一時間もありゃ、一杯引っ掛けるくらいは出来るだろ。成人式の祝いもしてねえし、今日はオレのおごりだ。」
たとえ終電を逃したところでタクシーを拾って帰るだけだとしても。
譲介が成人式に参加したのが去年の一月のことだったとしても。
こういう時は、野暮なつっこみは決してしないと決めている。
それに、好きな人が好きな酒を飲む様子を見られるなら、ロケーションは問わないというのが信条だ。
即座に頷いて、行きましょう、といつものリュックを肩に掛けた彼の横を並んで歩く。まるで犬のようだなと譲介は思う。


「……ここですか。」
縮みあがるほどの寒さの中を歩いた先にあった一軒の店で、TETSUは足を止めた。目の前にそびえる、チェーン店風の看板には、見覚えがあった。
TETSUが譲介を連れて来たのは大きな劇場と美術館のある街の裏通りにある一本道で、地下鉄の駅まで、観光客がひっきりなしに使う大通りを避けるために使う道だった。記憶はないものの、何度かはこの店の前を通り過ぎていたはずだった。
譲介とTETSUがいる位置からは、年齢層の低い二十代のカップルが身を寄せる中の様子と、くるくると回る回転寿司のレーンが見える。晴れやかな喧騒の気配が、寒い空気の中にも伝わって来る。
「何か文句あんのか?」
「いえ、別に。」
ほとんど三十も年が上の仕事の大先輩から、成人式の代わりのおごりだと言われて連れて行かれた先が回る寿司だなんて、誰が想像できるだろうか。
好きに頼めと言われてもこれじゃあ、という気持ちがすっかり顔に出ていたのか、TETSUはクックックとおかしそうに笑った。
「笑いたければ好きに笑って下さい。人生で初めて、回らない寿司を食べる記念日になるのかと思ってワクワクしてたんですから。」
「そういうのは、親を連れて行くときのにでも取っとけ。」
譲介の気持ちを知らぬ年上の人は、口角を上げ「オレとはまあ、このくらいでいいだろ。」と言った。
期待しすぎる方が悪い、とこの場にはいない一也にも言われそうな言葉まで言われてしまったので、譲介は「はあ。」と幾分力の抜けたように見える相槌を打った。
親はどちらかといえば、記念日には普段食べつけないものを食べに行こう、とインスタグラムでギリシャ料理の店を調べて食べに行くようなふたりなのだけれど、それをこの人に言う必要もない。
「ご不満なら、今から新幹線に飛び乗って佐渡にでも行くか?」と人が悪く見えるいつもの笑み。こうした時のからかいの声にはいつもの抑揚が利いていて、芝居の台詞に聞こえる。
「今の時間でも終点までなら行けると思いますけど、そこから先はどうするんですか?」
凪いだドーバー海峡でもあるまいし「海を泳いで渡るならTETSUさんひとりでどうぞ。」と譲介が手ぶりを使って言うと「そういう細けえことはいいんだよ。後で考えりゃ。」と彼は言った。
釣り船があったとしても夜明けだな、と口元で笑う年上の人の、ひっそりと静かな横顔を、譲介は見つめる。
譲介がこれまでドラマの地方ロケの撮影で足を運んだ場所のことを――渡した酒の銘柄の記憶があるのかもしれないけれど――、この人は本当に良く覚えている。
本気じゃないことくらいは分かっているけど、とは言え、泊まりに行く大義名分は出来るな、と多少の胸算用をしてしまうくらいのことは許して欲しいと思う。
「あっちは雪景色ですよ、きっと。」
「まあ日本海側ならそうだろ。今ならあんこう鍋か。まあこの格好じゃ、熱燗があっても船の上は寒いな。」
隣の人が短いジャケットの襟を立てる様子を黙って見つめていると「おい、譲介。腹が減ったからさっさと中に入るぞ。」と肩を抱き込まれて店の入口にある暖簾をくぐる羽目になった。
ああもう、この人は本当に!
身体中の血が波立ち、胸が高鳴る。
促されるままに入った回転寿司の店内には、流行りのポップスが掛かっていた。
自分でも持て余すほどの当惑に身を浸す譲介をおきざりに、年上の人は店に入るなり、さっさとアウターを脱いでカウンター席に腰を落ち着けている。
やはり、初めての店ではないらしい。
とっとと隣に座れ、と手振りで促されて、譲介は無言で隣に腰を落ち着ける。
「顔赤いぞ。風邪か?」
「違います。」
手を伸ばしてくる人の指先をぼんやりと見つめながら、譲介は答える。顔色はともかく、自分でも白々しいと思うほどの落ち着きだと思う。
ずっと冷気に晒されていた頬に触れるその手の甲は、ポケットに入れていたせいで冷たすぎることもなく、ただ乾いていた。
「ここでの奢りじゃ、祝いに足りねえってんなら、次に取っといてもいいぜ。その代わり、今日はおめぇの奢りだ。」
せいぜい師匠に恩を売っとけ、と。こちらの心を知らないTETSUは、譲介に向かって朗らかに笑っている。
譲介は、そうしてもいいですよ、と答え、詰めていた息を吐いた。TETSUはひどく機嫌がいい様子で、珍しいなと思いながら上着を脱ぐ。
「あら汁ふたつと今日のおまかせで二人前。酒は後からいつものに燗付けて出してくれ。」
「はいよ。あら汁ふたつと今日のおまかせで二人前! 握りの後で〆張鶴に燗付けといて!」と男は手元のメモを読み上げて声を張り上げる。
「こないだの蕪の漬物の突き出し、今日もあるか?」
「あ~、残念。今日は蕪がなくて、大根のキムチなんですよ。まかないに作った白菜の漬けたのならありますけど。」
カウンターから中の板前らしい男に声をかける様子を見て、どうやら回ってる皿を取る訳じゃないらしい、と気付き、譲介は目を丸くした。
「あの、握って貰うんですか?」
「そりゃおめぇ、乾いたキュウリのカッパ巻きが食いてえってんなら止めはしねえがよ。……食いたいか?」
眉を寄せながらレーンの上を流れて来る小さな皿に手を伸ばそうとする師匠に、譲介は慌てて首を横に振った。
確かに、レーン上にはいくつもの寿司やデザートのイラストが描かれた小さなメニュー立てが途切れることなく流れて来るが、このカウンターから見える調理場で、視界に入るだけでも四人の男が立ち働いている。
一番近くに立ち、バナーで炙り鮨を作っている男の手元の小さくはない炎を見ながら、年上の人は、「この時期のここのあら汁は蟹の足が入ってんだよ。」と笑っている。悪くねぇぞ、という言葉が乗った上機嫌の声音は、この人にとってほとんど最大級の賛辞だ。
なるほど、どことなくいつもの飲み会よりも機嫌が良さそうな調子に見えたのは、その蟹のせいらしい。食べたい、という割には足でもいいんだな、と譲介は頭の中でメモを取った。
冬の寒いのは嫌がるくせに、魚が美味いと機嫌がいい年上の人は可愛い。
回転寿司の店という雑駁でロマンチックとは程遠いロケーションの中。譲介の頭にはシナトラの声が流れて来て、世界が美しいと歌い出す。
「よく来る店なんですか?」
「養成所の同期の家がこの近くにあってな。まあ今はもう実家のある九州に帰っちまったが、」
その話を遮って、「すいません、おしぼりです。」と板前が布巾を差し出してくる。
手にした布巾の熱さに譲介が目を白黒させていると、隣で年上の人がこちらを伺ってるのが分かる。
いつもの中華料理店でしているように、気にせず顔とか首とか拭ってくれていいのに、と思うけど、その遠慮の中には、この店があまりにも局に近いからという理由もあるのだろう。
譲介がぼんやりとおしぼりで指先を暖めているうちに、さっとテーブルに置いたTETSUは、回って来た醤油の小皿と湯呑を取ってテーブルに並べている。
しまった。
この人、手際が良すぎる。
譲介自身は基本的にはよくある一人っ子のマイペースで、今日は寒いところからいきなり暖かい場所に放り込まれたせいか、妙にリラックスしてしまった。
「TETSUさん、結婚してください。」と反射で手を握ると、年明け早々外で何やってるんだ、という顔をされた。
「……おめぇと分け合うような財布はねえぞ。」
「財布って。他にも色々あるじゃないですか。」
ベッドとか、と言おうとしたタイミングで、外から新しい客が入って来る。譲介はぱっと手を離して口をつぐみ、笑顔でTETSUを見つめる。
寒い寒いと思ったら雪だ、と奥まった席に落ち着けるサラリーマン風の男に、らっしゃい、と板前が大声で声をかけている。
「ちなみに、ここのおまかせって、いくらくらいなんですか。」
譲介がビニールでコーティングされたメニュー表にありったけの意識を集中して取り上げると、横からTETSUも覗いて来た。
回転寿司というのは回って来たものを取るだけかと思ったら、思った以上にメニューが多い。刺身の盛り合わせにカキフライにエビフライ、〆の炭水化物にうどんや焼きおにぎりもある。
「メニュー、普通の飲み屋と変わらないですね。あと、安い……かな。」
「都心にある寿司と比べりゃそうかもな。どこも高ぇからなあ。食えても飲めねえ場所の方が多い。」と言われて、譲介は時々この人に誘われて行く焼肉の店のことを思い出した。
食べるものが肉なら、希少部位は時価、というような、カード払いでないと厳しい値段の店に連れていかれることもあるのだ。TETSUさん、飲んでたよな、あの日。
譲介が選ぶのは、一也と店の事前リサーチが可能な店なので、大体はそういう店とこういう店の中間のような個室のあるレストランになる。
「貧乏学生には、ここだって、長いことさっと昼飯だけ食ってさっと帰るような場所だったぜ。」
「へえ。」
カウンター席ならいつも隣に座れるな、といういつもの下心を隠して年上の人の横顔を見つめていると「お、プリン。」などと早速寿司以外のものに手を伸ばそうとしている。
「TETSUさん、言ってることとやってること違うじゃないですか。」と笑いながら、差し出された湯呑に緑茶の粉を入れて湯を注ぐ。
あら汁遅ぇなあ、と独り言のような呟きが子どものようで、譲介は笑ってしまう。
「譲介、何か飲むか?」
選ばせてやる、と差し出された飲み物のメニューは、開けばそれなりに種類があるけれど、やはり日本酒ばかりだ。
各国料理を好む親に、色々な店に連れ回されはしたが、そのせいで日本酒の造詣は皆無に近い。譲介は、食前酒やワインの選択肢がほとんどないメニューを見てもお手上げだった。どれがいいのか分からない。一般的な良しあしも、自分の好き嫌いも。
店内の有線は、いつの間にか、譲介の知らない曲から、一也がイヤホンで待ち時間に聞いていた曲に変わっていた。SAVE ALL MEMORIES IN THIS HOUSE……。
譲介は早々に白旗を上げ「TETSUさんが、僕に何か選んでくれませんか。」と頼んだ。
二十歳を過ぎて、好きな人の前で、それほど格好を付ける必要もない、と思いながらも、こういう台詞を言わなければならないとなると内心ではかなり煩悶してしまう。
何でも吞みますから、と言うと年上の人は眉を寄せた。
「――ったく、ロシアンルーレットじゃねえんだぞ。おめぇはどっちか言うとワインとかそういうのが好きだろ。イタ飯食う時くらいの気持ちで選んでみりゃいいだろうが。」
いっそ舌打ちしてくれた方がマシな顔つきになって、「甘いのと辛いのとどっちだ。」と問われる。
セットの中に入っていくのとは違う緊張の中で「すっきりしたのをお願いします。」と言うと、TETSUは頭を掻いた。
「食前酒を梅酒にしとくから、後は適当にしろ。……次からは持ち込みにするか。」と呟いている。
「ブドウジュースでもいつもの白でも、好きなやつを買って来い。」
酒の持ち込みが出来て、フライドポテトとエビフライが食べられる回転寿司の店で、半分だけ子ども扱いをされている。嬉しいわけでは勿論ないけれど、悔しい、というのとも少し違う。
「梅酒ふたつ、お湯割りとソーダ!」
TETSUは、いつもの舞台の声を半分に抑えた声量で中の男に伝える。
「あ、今日は僕もお湯割りにします」と譲介が言うと、TETSUはこちらの顔をちらっと見て「お湯割りふたつ。」とカウンターの中の板前と顔を合わせて声を掛けた。
メニューを見て、他に食べたいものがあるか、とふたりで眺めているうちに、あら汁より先に、小さなコップに入った酒がやって来た。
オレンジ色の梅酒は、ほかほかと湯気を立てている。
ビールの金色ほど華やいだ色合いではないその色は、それでもこんな寒い日には相応しい暖かな色だ。
「飲むか。」とTETSUが言う。
「はい。」と譲介は頷く。
グラスを合わせる音。
新しい年が始まる。

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